独り寝の子守唄

 今朝方書いてエラーで消えた独り言、もういっぺん書いてみる。だいぶ縮めて内容変わったが。


 昨日の更新、映画のタイトル並べた後に、いくつかの作品についてコメント付記しようと思ったのだが、記憶を頼りにズラズラとタイトル羅列している段階で嫌になり、ヤメてしまった。作品数をカウントでき、「経験」を定量換算できるのは映画くらいだ。


 本・マンガ・雑誌・ブログ・2chYouTube・美術・芝居・アニメ・TV・SEX……


 以上、もはや「体験」の起点と終点とが判然しない。チェーンスモーカーが、日々数十本単位で喫い潰す1本1本のタバコに感慨を抱くだろうか?それはスペシャルな葉巻ではない。粗悪な紙巻きを胸が悪くなるほど喫い続けるのは、日常とその延長に過ぎない。ただひたすら、喫い続けないと間が持たない。脳髄の空白、いや生理的な脊髄の刺激飢餓が。


 重度のアルカホリックに医師が尋ねた。「1日の飲酒量はどのくらいだね?」
 「どのくらい?」アル中は答える。「あればありったけですよ」
 中毒症状に関する常識的事項だ。


 爆発的な情報奔流社会。インフラは過剰なまでに整備され、暴力的で最高な情報供給をやめようとはしない。むろん、それは我々が望んだ世界だ。良貨も悪貨も、真実もデマゴギーも、王冠も糞尿も、分け隔てなく平等に等価に、莫大な情報という金貨のシャワーを我々の頭上に降らす。言語情報、視覚情報、音響情報、対人情報、性的情報。情報という快楽の悪貨は良貨を駆逐し、輝く贋金の物量攻勢は経済機構を破壊する。そのとき前提的な真贋の分別は無効化し、インフレーションは紙幣という信用手形を紙屑に変える。すなわちーー「教養」という信用手形は、情報本体の額面においては破産した。


 それは、我々が望んだ世界だ。


 私は全国に数百万人はいる、合意的価値の破産した札束という紙屑を脳内に詰め込んだ情報マニアのひとりだろう。金塊という現物は量のみがモノを言う。自分の蔵に片端から贋金貨を貯め込んでいる強欲者。むろん、オーバーフローという概念を知らないバカの蔵は底が抜けているし、そもそも混ぜ物だらけの粗悪な金塊は鉄屑同然。量を掻き集めたところで、溶かして巨大な自賛銅像というガラクタを建立するくらいにしか用立たない。その銅像という不毛な営為の結晶をこそ「無意味」という。


 破裂した莫大な情報のシャワーは、雨降らす天に選ばれし罪人たちの眼から耳から終わらぬ津波のように押し寄せ、その処理はショートした脳中枢によって「主体的」には電算されず、ただひたすら脊髄と性的身体によってのみ、電極刺激のごとき反射行為として反復され続ける。おそらく、彼らが死ぬまで永遠に。


 言語も視覚も音響も対人もそしてもちろん性も、情報はひとしなみに表層的な刺激剤と化しケミカルドラッグと化し変成剤と化しサプリメントと化した。故障した脳髄の無法の下で、脊髄においてのみ我々は自身の感覚的性的身体と和解を果たし、そして各自ハイテク全自動洗濯機のように、孤独に自足した。


 我々は、多く性的な記憶と感情の反復を往還し続ける、情操において停止したままの不完全な主体なき情報集積回路だ。あたかも「A.I.」の子供ロボットのように。そしてオスメント少年とは異なる、生物学的に規定された有限の時間に基づく身体的衰弱と意識崩壊の臨界で、あの通りの「幸福な」終末を迎える。


 私はかつて正しく病的な録画マニアだった。膨大な量のテープがいまも実家に貯蔵されている。処分した量はその数倍。暗黙に知られていたことだが、YouTubeによって全国の膨大な声なき同志の存在が立証され、録画編集マニアの超個人的資産というアーカイブは、想像もしなかったことだが「公共財」への貢献を続々と果たしたのだ(私は現役退いてるし怠惰と吝嗇ゆえ投稿はしてない)。


 かつて実家においてティーン以来の私の録画病癖は深刻な家庭内危機を引き起こしたし、むろんそれは正しく病理学的なオブセッションのなせる業だった。情報マニアの三つ子の魂とは、こういう症例を言う。そのサイコパス人格障害は形態を変え医学的見地に基づく病理性を失いつつも、現在も粛々と進行し昂進しているわけだ。


 これを情報ジャンキーというが、しかしチェーンスモーカーに面と向かって「なぜあなたは自身の健康に悪いことが明白であるにもかかわらずタバコを喫い続けるのか?」と尋ねたら、相手が小谷野敦でなくとも殴られるだろう。


 情報爆発と快楽暴走の、退屈極まる高度情報社会。情報帝国主義の鬼子にして正嗣たる情報マニア情報ジャンキー、オタクと命名された環境過剰適応種族のミニマルな満足と至福とは、現代においては淀み荒んだ醜悪な、正しい健康優良少年の、記憶と感情の混濁した明滅の反復それ自体にしか、ない。際限なき情報摂取の中毒者にして高度情報社会の輝かしい勝利者、怒涛の情報流通の只中で全開放された電極の「主体的な」精神活動とは、カラカラ回る全自動洗濯機の自足という、ただただ故障までの無問題なのだ。