とある公開のシンポジウムで日本を代表する知性達の討議を聞いての与太

内容てんでウロ覚えで資料価値ゼロというか失礼千万なので名は伏せる。壮年の哲学研究者が淡々と語っていたそのごく一部分。


「ヒトの似姿」として人間の認知機能の再現を一直線に追及したテクノロジーのとどまるところを知らぬ発達は、とうとう人間の認知機能をも超越した。現在普通に売られているハイビジョンTVはもはや、人間の視覚による画像解析精度を追い抜き、どれほど高性能な眼球で眺めるよりも解像度高く美しく鮮やかな映像を再現してしまう。


それは言わば、眼球を通じて直接反映される現実の風景よりも、量販品のハイビジョンで再構成されるヴァーチャルな風景のほうがクリアで美しいということを意味する。このとき、現実と仮想はその質的精度=クオリティにおいて、あるいはクオリアにおいて位相が転倒し逆転する。スペックアップの暴走じみた累乗的な進化によって、ついには到達点であったヒトの認知能力を軽々と追い越してしまったその似姿(コピー)。そんな似姿に囲まれて暮らす、あるいは似姿と区別のつかない存在となった私達人間。その未来と混迷。


むろん、視覚のハイファイ過剰な再現はその一例に過ぎず、ありとあらゆる人間の認知と感覚において、この本質的な転倒と混乱は、私達の日常を席巻する。これこそが、加速度的に進行し続ける人間の機械化の一情景である――


それを聞いてて寝不足の頭でボンヤリと考えてたこと。ココから完全に私の与太。


いくら最新鋭のデジタルハイビジョン映像が視覚の認知限界を超えた解像度による現実以上にクリアな画像を提供したところで、それを見るのは俺のぶっ壊れまくった精度最悪のアナログ眼球なんだから意味ないよな。フィジカルに視力崩壊なら同じだろ。そして最大にして永遠の問題は、眼球はレーシックできてもそれと視神経で繋がってる脳味噌自体は決してレーシックできない、すなわちゼロクリアからリライトすることは不可能、という点なんだよな。いやロボトミー系のアイデアが御法度のままであるならばだが。


だから、テクノロジカルな進化のプロセスにおいて未来永劫つきまとうのはドメスティックなヒューマンファクターの問題であって、精緻な原理原則もハイスペックテクノロジーも、美しく模造されたヒトの似姿はすべて、機械人形を操作する生母たる、21世紀の佐吉藤吉によるドメスティックなヒューマンファクターの蓋然性に基づき、事前に設計された合理的法則性通りに運行することは、決してない。


テクニカルバグとヒューマンエラーの絶えざる連続によって、状況という永遠の交通事故は独楽のようにくるくる回る。この独楽を殺ってしまって、現在進行の交通事故をあたかも事後的に法則の連続性に回収してみせこれぞ理性の狡知とか嘯くか否かに、原理の代紋が賭けられたりもした、大昔。合理性の外部に存在する佐吉藤吉に至る一切を包摂する釈迦の掌としての法則をこそ、ベルセルク的な意味での因果律と呼ぶ。似姿の美と調和を愛する人形愛好家どもは、最終審級を決定する無常への畏れと祈りが足りない。


原則論と状況論は常に相違ないし乖離し続け、状況論にはドメスティックなヒューマンファクターという事故因子がウィルスとして算入されている。そして精緻精巧な似姿は工学計算の及ばないオカンの因果計算式によって、常に翻弄される。未来のイヴも困っちゃう、である。


だから計算不可知なヒューマンファクターの、ヒューマンビーイングを生理学的に構成する要素にまで至る物理的な工学加工に基づく調整を導入するのであれば、脳味噌のレーシックもまた絵空事ではなく、めでたく私達はみな義体の幸福を享受し真に新品として電脳化する。娘たるイヴの精確な運行を阻害しないためにも、ヒューマンエラーはリジェクトするべし。これをこそ、母の発達といい、母は千歳に渡って続けた母であることを終了する。さよなら人類。


似姿の完全性こそが、母の不完全性からの欠落を証している。充分であることは対として欠落を補完しない。両者はいわば、車軸とタイヤの噛み合わない瓦礫車輪のごとく、金属の悲鳴を上げながら坂を転げ落ちていく。冷たい似姿と生臭い母の距離感と愛憎、向かい合った母子としての双子の鏡像は、不可知な落差によって互いを反射し問い返し続ける。はい愛犬に餌やるバトーが来ました。


徹底したヒューマンビーイングの理想形をプログラミングした擬似人間の観測結果から真なる人間との限界的かつ絶対的な誤差を測定することによって、自身の根源的なヒューマンビーイングとその欺瞞性虚構性までをも白骨の結晶として摘出し愛でなければ気が済まないとは、まったく屈折している。そこまで人間概念を否定し人間の内在的根拠を骨片へと純化してまで人間でいたいのですか監督。ジャコメッティか。いやむろん全肯定してます。


作品論としての比喩だけれども、精巧な似姿をわざわざ贋造してそれとの差異によってのみ自分が正しく人間であることを確認する世界的映像作家とは。このとき似姿とはまったく女で人間とは正しく男のこと。ちなみに距離と落差と差異の不可知性の超克にこそ賭けた似姿へのフェティッシュな愛といえば気障だけれども、監督の場合の距離と落差と差異の不可知性とは、イコール男と女の間の深い河のことで、監督のフェチは不可知性それ自体にしか、ない。


言うまでもなく当ウェブマスターは工学さっぱりです。これは数日前の耄碌頭が妄想した寝言なのでウェブマスターにICCな突っ込みはダメ、ゼッタイ!