公正泥棒


http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061030#p1


成城トランスカレッジ経由で知った。コメント欄、なにやらデジャビュが……むろん用意も覚悟もなしに絡んだ人間が悪い、論駁者達の見識はまったく正しい、というかこの水準の議論すら噛んで含めるように説かねばならぬほど周知がなされていないのか、と呆れたが、しかしボコボコサンドバッグはSugarなファイトプレーではないなと、個人的には思ってしまう。正しい理屈で論破しても相手の心を動かせない以上勝ったことにはならない、というクリシェこそ正しい屁理屈に過ぎないので、それは用いない。しかしもうちっとこう、手を差し伸べ合う余地はないのかね。おっしゃる通り殺伐とした御時勢なのだから、ブログくらい気持ちよくやりましょう。結果的には、法律論の連打で威嚇し打ちのめしてしまっている。一切の落ち度が突撃者にあることは明白だと、念の為もう一度記しておくが、度々起こるこの種の事態の本質はそこにはない。


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かつて国鉄労組は規則遵守ストという戦法を用いた。国鉄が定める業務規則を職員が条文通り厳正に遵守することを徹底したとたん、ストと同じ効果が発生するというもの。まことに旧ソ連的な官僚組織笑話であるが、違法行為の検挙と処罰の執行を「条文に準じて公正かつ厳正」に徹底すればかかるスターリン的でカフカ的な不条理笑話に陥ることは間違いなく、すなわち国家を構成する法のリテラルな自律によって国家機能が麻痺に至る。そもそも物理的に不可能なことだ。


ネズミ捕りに代表される軽微な違法行為の被摘発者が口にする「何で俺だけが」という文句は多く一笑に付されるが、条文のリテラルな解釈とその実際的かつヒューマンな運用という法の二重性の根幹に触れる指摘では、ある。だからその種の「常識」を今更レクチャーする必要があるのか、という話なのだが。法律知識以前に、この国で日々生活を営んでいれば嫌でも認識し了解せざるを得ないことだろう。本音と建前とか日本は法治国家として未成熟であるとかいう指摘以前に、現代社会における公正概念への一般的な同意の困難さと、それに基づく現実的な状況における公正実現の不可能性として。なお我が身の至らなさを因として警察署にお泊りさせられた経験のある身として付け加えれば、生活のある人間が10日間勾留されるということがどういうことか、その点も普通は了解するだろうこの国で堅気として生活していれば。


法は条文化された公正の執行命令であるが、運用するのはそれに合意した人間達である。リテラルに条文に準じて法の公正を貫徹させることが無理筋である以上、公正の執行は合意者達の判断に委ねられる。その点にこそ常なる問題が所在する。言葉遊びではなく、公正の執行の公正に国民的に合意する枠組もその手順も方法論も、また合意自体の公正への合意すらも、存在しないのだから。故に慣例というものが存在し、公正の執行は合意者の代理人とされる一部の実際的な執行者の手中に簒奪される。執行者が全合意者の代理人であることの正統性の認定は、まさにリテラルな条文と歴史的慣例にのみ拠る。かくて公正は一部執行者が行使する最強にして最悪の権力となる。警察権力司法権力の源泉とは、国民から委任(本当は委託)された公正の執行における、恣意的な操作の拿捕と掌握に基づく。だから時に公正泥棒とDisられたりもする。


法として国民の合意を経た正統なる公正の執行の運用段階において、必然的に人為的な操作と調整が介在する以上、操作権調整権を結果的に委任された(本当は委託した)選ばれし存在に恣意性を許してはならないし、彼らはその聖職性を自覚して自らを慎み戒めねばならない。法の執行者が必然的に国家を代理するのであればなおのこと。法治国家の最低線の原則ではある。そして巷間言われる国民の民度とは、公正を体現するべき執行者の恣意性を許さない態度の徹底と、公正執行の運用面における公共的な公正性への合意を経た代案を示す態度によって、計られる。ネズミ捕りのようにランダムであれば公正というものではない。またランダムの数値設定において、数値目標を前提とした恣意的な操作と調整が行われていることは周知の事実である。


通常緩めている縄は必要に応じて自在に締め得る。締め所の操縦は縄を委託された者の恣意に拠る。その恣意的な操縦が公正という正義(「公正としての正義」ではない)の御旗に保証されている。民主国家における警察と司法の最強の権力とは、かかる構造的なシステムの幣に拠る。「どこかに悪者がいる」というような話ではない。合意のもとに法という契約書に記された公正という正義を恣意的な権力とする構造こそが、職務自体に悪の可能性を必然的に胚胎させる。民主国家におけるその発芽と開花の阻止はただ契約者達の意志にのみ委ねられていて、それをこそ民度と言い、その至らない民主国家はいまだ近代の途上にある。


条文に準じたリテラルな法の自律が貫徹できない以上、法の自律は人の手に委ねられる。法の自律の代表者と代理人が、履行者と執行者に名を換え分岐したとき、執行者は法の自律の代行という法治国家における最強の権力を掌握し法の代紋を背負って「法の番人」「国家の番人」と自らを名乗る。法の自律の(委任ではなく)委託相手が信頼に足る存在かどうか、審査と監視を怠らないことが代表者たる国民の債務。彼らは代表者から無前提に委任状を受け取っていると、歴史的に誤解しあるいは故意に取り違えている。下手すりゃ譲渡されたとすら思っている。譲渡どころか私達は決して彼らに委任したのではなく委託したに過ぎない。法の自律を代理する執行権の委託相手に対する常なる監査は、契約者自身の、合意された至高概念たる公正に対する債務だ。


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で、かかる恣意性の発動を市民運動家に対しては是認するというのは、これはもう本質は縷々綴ってきた一切とはまったく別所にあるということ。こんな原則論以前に。ま、明々白々ですが。わかりきったことなのだから法律論で吊るし上げるよりももうちょっと、後味のよい話の持っていきようがあったのではないか。法治国家云々という土俵を無自覚に率先して設定したのも、まぎれもなく突撃者本人であることは承知しているけれども。なぜ市民運動家を無条件で嫌悪するのか、叩く以前に素で訊いてみたくはならないのだろうか。現在の左陣営が批判者と面付き合わせて闊達に討議すべきは何よりもその点でしょう。私も不愉快な「運動家」にずいぶん対面で出くわした。おまえが自衛隊を軽蔑しているのはわかったから少し黙れ、と言いたくなったことがある。自衛官の官舎にイラク反戦ビラ投函した人達は、断じて法的に断罪されるべきではないが、根本的に想像力とそれに基づく礼節に欠けていると思うよ私は。もっともそれは「右」の方達もいくらかは同じことで。しかし右と左の衝突がかまびすしい。以前の行きがかりから、左翼的なアクティヴィストのブログをずいぶんと巡回しての私の感想はそれに尽きたりする。とまれ、硬いこと書いたら肩が凝りました。