ガタリ(包茎チンコはそっと出せ、さすれば衆人は耳を傾ける)


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それにエウレカ人間性が壊れてたんじゃなくてなかったんでしょ。アネモネだって薬をやってハイになってただけであり、絶望病だけどもとは普通の女の子なんじゃないの。ともかく壊れてることを本気で望んではいなかった。


昨日のエントリ『こわれた人間』にコメントを書き込んでくださったサガーさん。ども。ありがとうございます。突っ込みは感謝しますし歓迎します。対応するかは個別的ですが。銘々勝手に信じるところに拠ってやりましょう。対話が成立し関係が生まれればそれは僥倖です。


当初スルーしようかと思いましたが、上記に引用したサガーさんのコメントから、この人はホントに心底から『エウレカセブン』が好きなのだ、とわかって嬉しくなったのでレスします。ファンというのは面白いもので、同好の士にはつい勝手に親近感を抱いてしまう。然り、私もまた『エウレカ』ファンで本放送には乗り遅れましたが再放送とYoutubeを駆使して「ちゃんと」見ております。さて貴方のされた指摘は引用部に関してはすべて正しい。その観点から、ちゃんと見ていたのか、と疑われるのも無理もない。1ファンとして御指摘の点に関してはすべて承知しております。一切承知したうえで書いています。なお私はアネモネに関しては全カットを記録&記憶して連日抜いていた気違いです。勃った頃の話ですが。


当該エントリが公正で精確な作品評であるとは私自身露ほども思わず、『エウレカ』をダシにした自分語りの独り言じゃねえかと言われれば成程返す言葉もない。己の夢を懐疑的に語るなどと吹かしたら罰の稲妻をくらいますが、私は自分語りという独り言それ自体の価値と可能性を無条件に認める者なので。そしてそのためのメディアもしくはツールとして、あらゆる意味でWeb、というかブログはうってつけなのです。


矮小な日常やさえない想い出に仮託しプライベートに依拠してパブリックな事例を婉曲的に語り、読者もまたプライベートな水準でパブリックな「ネタ」を受け止める。そしてそれはタイム・ラグに遮られることなく直ちに相反響する。成程脊髄反射とも言いますが、パブリクションの超容易な、それゆえパブリクションという発表における行為と魂との懸隔に宿る抑圧の機能しない、テキストと人間との懸隔がゼロに等しい無時間な言説空間の素敵な特色を再びパブリクションの御旗のもとに抑圧して「ブロガーの皆さんは(プライベートな)表出ではなく(パブリックな)表現を志向するように心がけてください」とおっしゃる社会学者や経済学者は正しいが反動的でもある。


自分語りや独り言に込められた個人の魂を読解し、正負いずれであれ呼応する無数の個人的な魂。言語は魂を贖い得ず、魂が露出したとき饒舌にあるいは端的に尽くされる言語は魂の器量と形態を測る外縁としてしか機能しない。なんか藤原先生みたいなことを言ってはいるが、しかし、かかる際に個人の魂はパブリックな叫びとしての共鳴とその往還へと変容し新規の公共空間を構成する。共感と敵対の社会空間とでもいうべき楼閣を。


岡崎京子曰く、叫びと笑いはよく似ている。プライベートオピニオンの要諦にして論説的特徴とは個人性という非公認の刻印(=スティグマ)が徴(=サイン)として実体なき感情の公共空間を無時間的に流通する点にある。無数の愛として叫びとして憎悪として含み笑いとして悲鳴として。性的自慰としてのストリップが政治的な行為として認定される異常な世俗的空間が存在したとき、無様で滑稽で陰惨な全裸を開陳することは、是非はどうあれ感情の政治的に正しいクロソウスキーは知らねど、誠に日本的なWeb2.0とはつまりそういう世界です。


ああ大脱線しました。失礼。手前の自分語りのダシにして『エウレカ』を腐すなゴルァ、というサガーさんの怒りは正しいしわかります。自分語りのダシにエヴァを持ち出してあげく腐す不敬者に切れていた時期が俺にもありました。ただ理解していただきたいのは、私もまたハマッたのですよ『エウレカ』に。アネモネに関しては多くマンガ版を前提して語ったので、アニメ版との異同に基づき誤解を招く余地もあったようです。御存知と思いますが、マンガ版では明白に「普通の女の子」ではないのですよアネモネは。身体的に。


混同的な書き方をわざとしたのは、アニメ版とマンガ版を往還し遂にはそれを超克する「俺のアネモネ」の話をし続けていたに過ぎないからです。性的な暗喩に満ちた現実のキャラクターに触発され脳内に捏造記憶と残像として蓄積され続ける彼岸のヒロインとの同棲(同衾ではない)こそが萌えと呼ばれ、またかかる消費者による個別的な脳内補完を前提的に組み込んで商品としてのキャラクターは設計され、消費者個人の性的感情的バイアスに基づく自律的に偏向したというか歪んだ脳内補完作業をこそ正しく愛と呼ぶ。諸工程の万事にアガペーとエロスが交錯し混淆して増幅され介在すること言うまでもない。


全肯定ではなく是々非々ではあったけれども、総括すれば大恩もある私の愛するアニメでした――『エウレカセブン』は。あれほど闇鍋的に脈絡のない(=アウトオブコンテクストな)総花的に雑駁な諸要素のぶち込まれた、偏向しつつもその偏向性の特異さも含めて無茶苦茶に多方位なフックを有するアニメは珍しいし、その無造作に投入された個々のバナールなコンテクストを突っ込みつつ友と話し込む楽しみは、マイブームの幕も降りつつある今となってはなおさら格別でした。


だから諸事情を割り切ったうえでの自分語りで、また自分語りを誘発するアニメでしたよ『エウレカ』は。むろん自分語りを誘発するアニメこそがよいアニメです。自分語りとは銘々勝手なものです。作品に仮託して語られる自己の個人的感慨とはむろんフェアで精確な作品評ではありえないし、そんな似非作品評の百花繚乱は緩々のパブリクションをつい許してしまう工学的環境こそが招いた事態でもある。かかる身勝手な自分語りの大繁盛と大安売に価値を見積もり可能性を見出すか、それはその人に拠る。ただ私は、孤独な叫びを複数のあるいは無数の哄笑へと変換してのける、自分語りの自律性を最高の意味での文学的な射程の範疇に収めようとする、パブリックな独り言というタイトロープを渡り続ける人が好きなんですね、ブログにおいては。これは単なる好き嫌いでしかないけれども。だから私は「チラシの裏」という発想を最終的には支持しない。


サガーさん、適切な突っ込みと、それによってテキストの遺漏を補足していただいたこと、また個人的な追記の契機を与えてくれたことに、本心より御礼申し上げます。『エウレカセブン』を心底より大事に思う方からの愛と怒りの突っ込みは、何であれ感謝します。サガーさんが幾つの方なのかはわかりませんが、俺も10代だったら性的愛玩のファクターにのみエレクトすることもなく、作品としての『エウレカセブン』に心を鷲掴みにされていたのかも知れない。かつてのエヴァに対するように。遠い眼をしてエウレカ話も幕。