こわれた人間


眠気の都合から、乱暴かつ簡単にしか記せない。が、いま記しておくべきだろうと決めた。分節化を放棄して中間の脈絡をスキップしまくってでも。11月2日付エントリ『表象の吸血鬼』の関連。要は『交響詩篇エウレカセブン』の話でしかないが、射程はその先を見据える。ただ現在、射程の線上に位置する可能性について展開する余裕はない。なお、この件に関しては同じことなので、『エウレカ』のアニメ版とマンガ版を区別しない。


エウレカセブン』において、アネモネエウレカは「人間性の壊れた者」として現れる。否「人間性を最初から喪失した者」――これも正確でない。つまりは「人間でない者」として彼女達は登場する。人間でない者が人間性を持ち合わせないのは当然である。そして年間シリーズの50数話を費やして、彼女達は持ち合わせていなかった人間性をついに獲得する。失っていたのか奪われていたのか知らないが、美しくがらんどうな戦闘人形でしかなかった彼女達に人間性を取り戻させたor育んだのは、少女の背丈に合った恋であり相互的な愛情であり、愛し慈しみ想い想われる他者だった。かくして彼女達は不完全な戦闘人形から完全な人間へと整形され完成し、選ばれし戦闘美少女であることをやめる代わりに、ようやく真人間となって人並みの平凡な幸せを手にしたのだった。おめでとう。ぱちぱちぱち。


おいおいおい、製作スタッフよおまえらは間違っている、とブラウン管に突っ込んだのは私である。幸福の選択肢は「真人間になること」にしかないのか。人間性の壊れた不完全でがらんどうな人間は、故障を他者の愛情によって修理して「喪われた」「奪われた」人間性を回復することによってしか、幸せになり得ないのか。人間性の壊れた存在が、人間性が壊れたままで幸福になるという選択肢は、君達の人間観の中では存在しないのか。


人間様と自らを確信して規定する連中の回答は言わずもがな。幸福という共有概念自体が、近代的でハートフルな人間性の実在とそれへの信頼を前提として成立している。そして佐藤大らがその実在を信頼しすぎて困る作家であることは以前に見た通り、だからこそ『エウレカセブン』は危なっかしくもかろうじてメジャーな媒体展開に耐えセンターに位置し得た。そして私は、人間性が劇的に変容した以上幸福概念も変更を迫られるべきだと、当然のごとく思う。


人間的であることこそが人間的な幸福であるとは、トートロジーだから強固な教条ではあるが、あまりに旧態依然な幸福観である。アネモネもまたエウレカも、人間性に目覚めたところで話は終わる。一切は端緒に付いたばかりだ。人間性という牢獄、人間的であることの地獄に、ようやく人間になれたと浮かれている彼女達はまだ気付かない。その、出ることも逃走することもままならない地獄を人は恋や愛の末期によく知ることになる。むろんそれは、自己という牢獄としての地獄でしかないし、それは端的に地獄でしかない。決して出られない地獄の牢獄から解放される唯一の方法は、人間性を自ら遺棄し、あるいは他者から剥奪されることでしかない。


中島らもが死んだ後に、夏目房之介が某所で彼の言葉を引いていた。らも曰く、覚醒剤やめますか人間やめますか、という警視庁のキャンペーンは何もわかっていない、みんな人間やめたくて覚醒剤やってるんだ。そして夏目曰く、どうしてらもさんはそこまでして人間やめたいと思ったのかねぇ。成程、冗談といえ自ら血統的にモダン(=近代的)であると称する夏目さんには、わからねぇだろうな永遠に。私は夏目は贔屓だが、聞いていてそう思った。人間的であるという地獄の牢獄から降りることを、命を賭けて、そして死をもって希求する人間がいる。無数に。


もはや現代人において近代的な人間性とは常に損壊されたものとしてある、我々は皆かつて希求された「人間」としては、決定的に壊れている。個人的にはファクトと思うが論証しようもないし、殊更に概括して言い募るつもりもない。信仰告白でしかないのかも知れない。ただ人間的であることとは端的に死をもってしか解放を贖えない苦痛であり苦痛でしかないなと、酒や薬に走る甲斐性もない私は日々実感して淡々と植物的に生きている。


関係的で相互的な愛という人間性を獲得し真人間として整形(それを陶冶と公式の人間主義者は呼ぶだろう)され完成することはなんらゴールではない。関係的で相互的な愛の地獄、がらんどうではなく心(=ハート)を持つことの端的な苦痛にいずれ必然として至る道行への出発点でしかない。自分が自分であることとはいかなる場合も苦痛であり生き地獄である。美しき戦闘人形であることをやめ人間として生まれ直した彼女達はやがて知るだろう。発狂によってすら成就し得ず死をもってしか贖い得ない生の苦痛からの解放という最終解への切実とその必然性を。人非人の戦闘人形であることの換え難いIdiotな幸福を。がらんどうな戦闘人形であったからこそ、己が何よりも軽やかで美しかったということを。人間とは、翼をなくして墜落した不具のイカロスでしかない。


それでもなお、現代の日本においても、人間であり続けることは至上の尊厳であるとの合意に達し得るものなのか。愛し愛される存在であることをさらに継続して人は望むのか。現状を鑑みて、近代的な人間性こそが標準規格ソフトウェアとしての最適解であるか。逸脱者列外者の生を――人間性の壊れた存在が壊れたままに模索し獲得し享受する個々の異常な幸福を標準化する選択肢は、尊い人間理念の前に捨象され、人非人を真人間に整形(=陶冶?)する教育のみが最適解として、今後も維持され再生産されていくのだろう。人間もまたリサイクルされ廉価再生されて。


壊れた人間を真人間に整形するという発想の傲慢に、旗振り笛吹く「教育者」どもは気付かない。壊れた人間は壊れた人間なりに生きて、その(誰にとっても)限定的な生の中で壊れた幸福を手にするしかない。さもなくば壊れた不幸を手にするだけだ。公式化されざる、いかなる前提も担保も根拠もなき異形の解の個別的な顕在化と、かかる単独解の標準化を唯一模索し続けてきた営為こそが、表現様式に限定されない最良かつ至高の概念としての「文学」だった。文学が「人生」を描くものであるとは、最高の意味においてそのことであるし、文学に人を救う力があるとは非通俗的にはかかる意味に拠る。


結論はない。頭も限界なのでメモを終わる。この話はたとえば浦沢直樹の作家性を射程の線上に置くが、私はただ、アネモネエウレカが、陳腐な人間性を獲得することではなく、異形の怪物のままに幸福を手にする可能性について製作スタッフは考えて欲しかったなと、勝手極まるないものねだりといえ今更思うだけだ。所詮彼女達は、人間の真似をしている異形の怪物であることに変わりはないのだから。異形の怪物が人間に羽化して負債完済、というのは御伽噺であって断じて現実ではない。『ゲド戦記』の第2巻『こわれた腕環』でも拳拳服膺してくれ。人間としての終わりなき負債返済が、これから始まり一生続くんだよ。