「シナ呼称問題」というスキップされたロジック
森達也氏の仕事と人柄をリスペクトするのは、私はやぶさかではない。「A」「A2」「放送禁止歌」「A撮影日誌」「スプーン」「下山事件」ーーみな楽しませてもらった。近年の「ユリイカ」で、蓮實重彦が「批評とは何ぞや」と問われて答えた通りーーおそらく蓮實は「人間存在の意義とは」と問われても同じ解を示しただろうーー「世界の水面下に潜在して眠る数多の可能性を、自らの孤独なアクションとコミットメントによって発掘して揺り起こし、地上に露出させ顕在化させ、世界の可能性を版図拡大させる営為」、それを森達也もまた果敢に実践し、し続けている。
その「現場人間」としての、行為遂行的な(パフォーマティブな)アクションとコミットメント=世界を撹拌し、その可能性の拡張を意図して、日常を構成する自明なる定常性に針穴を穿ち、常に更新される現在の、その力学に関与しようとする「政治的実践」への情熱には、敬意を払う。ドキュメンタリーがなかなか撮れない状況にあるらしく、立て続けに著書が出版されているのも、その「政治的」情熱の賜物だろう。
先日、東京堂書店での森のトークショーを見物してきたが、目がえびすになる笑顔が素敵な、宮台真司の評通り「脱力系」の、50歳とは思えない、また意識もしていないであろう若々しくフランクなタフガイだった。仕事上の利害対立者は別として、人柄を嫌える人はあまりいないだろうと思う。言葉にすると陳腐だが、つまりおそらく体質的に「寛容」と「包容力」と「人間に対する無偏見」の人で、また持続的にそうであろうと意志する有言実行の人なのだ。つまり自分自身の更新に対してもまた、意志的である。
頑固者の50男は「知識人」にもあまりに多く、「知識人」気取りの、テメエではリベラルでフランクだと思っている、自己更新をサボりつづけたあげくテメエの有効期限切れにすら気付かない、時間の止まったガラクタ50歳を身近に知っているので、なおのこと森の「人間的魅力」に敬意を払うこと、繰り返すがやぶさかではない。
(余談。森はかつて立教大の映画研究会に所属していて、そこには同世代で黒沢清や塩田明彦、万田邦敏、やや後輩で青山真治など、錚々たる面々が揃っていて、そして彼らはみな、宮台真司もコミットしていたという伝説の、立教大蓮實重彦映画ゼミにいかれていたのだが、さて森はと言うと「同輩連中はこの作品のこのシーンがアラン・レネの引用だナンだと、口角泡飛ばして熱論していたが、僕は麻雀しに大学行ってたので、蓮實?誰そいつ?という状態で、現在もそうです!」とのこと。そしてえびす目の笑顔。素敵な話で、やはり人柄は愛してしまう)
さて、しかし、である。森の御高見御高説には、とイヤミな書き方をせずとも、彼の一貫した主張自体に対しては、私は異論なしとはしない。いや大有りである。大有りな人間が他にも大勢いることは「諸君」などめくれば瞭然なわけだが、そしてこの手のメディアやネット町内で叩かれがちな太田光や香山リカなども含めて、彼らの主張、あるいは「体質的傾向」について、共通する弊というか盲点というか欠落があると思うので、その摘出のためにも森達也の「言語表現に拠る主張」についてちょっと。
発端は、唐沢俊一の最近の日記だった。最近岩波から刊行された、森が「グレート東郷とプロレスとナショナリズム」の三大噺について綴った新書の、その終章に関して唐沢が論難していた。その中で、森氏は「中国を故意にシナと呼び続ける保守派の論客」を批判しているが、それは誰のことか(並べて批判される都知事とは別の人物らしい)、たとえば呉智英を「保守派の論客」と言い切るのは無茶だろう、と述べている個所を目にして、ホントかおいおいと思って、書店で当該書を一読した。ホントであった。
いつものことながら、題材は興味深い。素材を料理する記述の手付きも、不器用で無骨なようで、巧い。「下山事件」など「てんで未解決でトラブル続きでプロジェクト空中分解しました」という顛末でしか、あるいはないのだが、その過程を実にスリリングに、感情操作を行使して読ませるのだ。
しかし巧いということは、結論への誘導が巧みだということでもある。読者への情緒的な感情操作の才は、本来は感傷小説作家が発揮し駆使すべきものではある(森は自伝的小説も書いているが)。自覚して確信犯的に使用しているのなら、また別なのだが。
そして、情緒的な感情操作によって巧みに誘導される結論が、あたかも初めから用意されていたもののように見えるのは、それが毎度のごとく判で押したように同様のうえ、論理の飛躍を情緒的感情操作によってスキップしているからだ。丸山真男はそーゆー、ありもしない「人間の自然感情」とやらを当て込んだ、公共性(=一般的合意)なき恣意的な手続きのショートカットを「心情論理」と呼びました。
唐沢俊一もそうであったのだろうが、スキップされたロジックが目に付いて気になる人間もいるということです。ショートカットされた手続きのピースを補完してみるとホラ、案外、念頭にあった結論に到着し損ねたりするかもしれないからね。
結局のところ、当該グレート東郷伝の終章には森達也の悪癖が集約されていた。つまり「プロレスとナショナリズム」という問題設定が前景化されていくくだりである。むろん結論は「ナショナリズム批判」にあるわけだが、ここでも森は論理をスキップし手続きをショートカットしている。
そもそも、すくなくとも日本において「プロレスとナショナリズム」という二題噺が「真面目な議論」として成立すると「プロレスを愛する」森は本気で思っているのだろうか。「プロレスを通してナショナリズムを語る」という問題設定そのものが、最初から認識錯誤をはらんでいるのである。まだ時節柄サッカーでも通して語ったほうが、議論も批判もすこしは容易になるものを。
森はそのバグを強行突破によってクリアするために、近年まれにみる強引な牽強付会と感傷的きわまる嘆きで押しきっているのだが、そーゆー態度を、たとえば唐沢のようなオタクは見逃さない。「世界の可能性を広げ現在の更新に関与するために」すなわち「政治的な照準をプライオリティの最上位に据えて」恣意的に情報を操作し言説を語るということは、思わぬ足を取られる危険と背中合わせなのである。むろん私はそーゆー営為を批判しているわけじゃない。自覚があれば、だが。この点に関しては重要なので後述。
森の前提的な認識錯誤を招来したのは、彼がグレート東郷始め「プロレスラー」達の「白塗りの下のピエロの素顔」だの「自意識」だの「アイデンティティ」だのに照準を合わせ「寄り添い思い入れた」からである。むろんこれは、現在の一般的な「プロレス受容」「プロレス消費」の作法と反するが、これに関してはどうも森は確信犯のようで、一般的な「プロレスファン」や「プロレスメディア」「プロレス受容」の有り様に関しては相当批判的である。
これは、それこそ先述したような、太田光や香山リカにも共通する森の「体質的悪弊」に由来するのだが、しかしプロレスなる「野蛮な見世物」と世間の一部ではいまだに思われているような代物の経済的基盤を構成する、奇形的なまでに異常進化を遂げた現在の「プロレス受容」の構造への違和感や反感、そして民族感情に翻弄されたとかいう「ピエロ」達への思い入れを、日本社会論に接続して一般論化することの無謀、いわんや「党派的に熱狂するプロレスファン」と「9.11衆院選小泉圧勝」を繋ぎ得るとする牽強付会も甚だしき政治言語の乱用、その必然的に招来する錯誤性、言い換えれば予期される論理的非整合と文脈的破綻に、「政治的イデオローグ」たる森は一向不案内だったようである。
そもそも「プロレス受容共同体」によって言説的に構成されるフィクショナルな空間と世界観こそが、現在の「プロレス」であって、それはかつての「オタク」もまったく御同様なのだが、森の著書はこの「特異な党派的排他空間」の閉鎖的独自性すら掌握することも抽象化することも為し得ていない。したがってプロレス論としても当該書は成立していない。要するに、森御得意の日本社会批判論なのだ。それ自体は最低線の基本的な妥当性を持ち得てはいるのだが、ダシに使われ「日本的党派主義とナショナルな非寛容の典型的擬似」として遡上に挙げられ言いがかりに近い批判までされたプロレスファンやプロレスメディアはたまったものではない。
誤解があるといけない。森の記述は常に両義的で抑制的なのだが、その実「行間」において徹頭徹尾エモーショナルなうえに読者を誘導したい方向はひとつなのである。議論の動線が直線的なのでミエミエではあるが。要は口振りが曖昧なだけだ。一見すると「含みある寛容な記述」に見えるが、実際はきわめて「檄文」的で強制的である。大塚英志の手口もまったく同様で、私はこの種のパフォーマティブな口跡をひとえに「心情言語」と呼んでいる。
もっとも老獪な大塚は読者に対して言説拘束的な権力を行使するために「心情言語」を、あるいは確信犯的に使用しているのだが、さて森達也に自身の手口の「悪辣さ」への自覚はあるのか。そもそも牽強付会の自覚はあるのか。大塚にもまたそのケはあるが、自身の悪辣さを知り尽くしているぶん、「批評家」たる大塚はそこまで大胆かつ無謀に夜郎自大ではない。
そもそも明示されない文脈性への畏敬と禁欲が、大塚にはあれど森にはない。だから言説においてメタレベルが存在しない。パフォーマティブな癖にメッセージは直球である。その「盲目蛇におじず」的な外部性・異邦人性は森の武器でもあったが、弱点として「不用意」「突っ走り」という形でも現れる。
ついでに指摘しておくと、森は結論を保留しているようで、いつも言語外の領域で結論を暗に(=パフォーマティブに)示している。言語で示せ。小泉に投票した「民衆」がバカだと思うなら、そうはっきり書け。事実を再構成する際の、エモーショナルで感傷的な語り口は「エキサイティング」だし、稀有な才ではあるが「デリケートな問題をめぐるノンフィクション」においてそれを採用することの効能と副作用の予期可能性とその帰結に関して周知しているのか。「蛮勇」と口跡とエモーションで他人を「説得」ではなく「納得」させてしまう「日本的情緒共同体風土」をこそ、森は批判してきたのではなかったか。むろん日垣隆は、死んだら地獄に堕ちる自己の罪科を知る確信犯である。
繰り返すが、唐沢も指摘していたけれども、グレート東郷の生涯とプロレスをめぐる議論を、安直なナショナリズム論と日本社会論に落とし込む必然性がどこにあったのか。森自身の内部にあるだけでしょう。何ですか、あの本編最後の1行は!腹立つから引用しませんが。あのいーかげんな結語を読んで腰砕けになりついで怒り心頭に発した人間は、岩波書店にはひとりもいなかったのか。そうですか岩波にプロレスファンはいませんか。
グレート東郷ら「レスラー」達は身勝手な大衆の欲望の、生贄の仔羊だと、本気で思っているのか?その構図は現在の「レスラー」達の状況に敷衍し得るものか?私は別段プロレスファンではないが「他者への想像力」をやたらと説く、どこまでも「ベタ」な森は、どうやらプロレスファンや格闘技ファンのディープで「メタ」な愛と屈折に対して一切想像も洞察も及ばぬものらしい。
さて、ここから具体的検討に移行しましょう。唐沢も指摘していた「シナ呼称」問題から。故意か無自覚かスキップされた一片のピース。蟻の一穴。森達也はまず凄まじいことを言い切っている。「他人が嫌がる呼び名を改めるのは当たり前だ、それでも呼び続けるのは悪意が介在しているとしか思えない」「シナ呼称派の連中は、英語圏では今でもチャイナと呼んでいる、日本だけが改める必要がなぜあるのか、と呼号するが、しかし連中は決してチャイナとは呼ばない、わざわざシナと呼ぶ」
……ええと、森達也さんはひょっとして無教養、というか何も考えていらっしゃらないのでしょうか、そもそも該当議論の参照に関してただ怠惰なだけなのか。「保守派の論客」と世間で称される人物に関して「党派性から自由な」森氏がひとりでも肯定的に言及した形跡を、私は寡聞にして知らない。そもそも森は政治家ならともかく、特定論客を名を挙げて批判すること自体まずないが。
どこから言えばよいのか、そもそも日本は英語圏では「ジャパン」と呼ばれ、村上春樹が活写しているように、「ジャップ」という単語は、向こうではパーティーの席上で誰かが発しようものなら瞬時にその場が凍りつくくらいの第一級差別語です。さて「ニッポン」と呼べと日本国が英語圏に要求して通るか。まあ「日本」も「中国」と同じくらいに夜郎自大な国号ではあるが。むろんアングロサクソンは日本はおろか中国だって同等に蔑視しているわけです。何しろ阿片戦争起こした当事者ですから。で、中国が文句言ってないから「チャイナ」はよいと。
そもそも「北朝鮮」は現在全メディアにおいて略式で呼ばれてますが、あの国は嫌がってますよね?現在でも長ったらしい正式名称で呼ぶか韓国を「南朝鮮」と呼べと要求してますね。日本人による差別感情があると。そちらに関して国内メディアに是正要求を出す必要は?まあ、かの国も英語圏での呼称は「ノースコリア」なわけで、そのデンで行きますか。でも相手は嫌がってますよね?そちらだけスルーするなら、平壤政府とは何の関係もない北朝鮮人民及び「在日」への「差別」に該当しませんか。もちろん全メディアがいっせいに「北朝鮮」と呼ぶようになったのには差別が機能しているわけですよ。
「敵性国家」ならやむを得ないと?そーゆー価値観の方でしたかね森達也は。それなら現在の中国を「敵性国家」というカテゴリーに入れたがる人間がいるのは、現状を鑑みるに「やむを得ない」わけです。私はカテゴライズに拠る判断停止くらい現実政治に役立たぬものはないと思うが、別に靖国の話に限らないけれど、共産党政府による政治的干渉と判断されても「やむを得ない」事態が現実に起こっているわけ。「政治」だから当然ですが。
「北朝鮮」の旧呼称に関する総連の「メディアに対する」圧力の経緯は御存知ですね。同様のメディアに対する「言論統制」が、国家規模で、終戦直後外務省経由の「通達」という公式文書に基づき上意下達で一斉に執行されたわけです。「放送禁止歌」同様に、メディアにおいてはその是非を含めた総括すらいまだになされていません。以上の結果として、現在の「シナ」呼称問題があるわけですよ。
つまり、そういう歴史的な政治的経緯が存在したからこそ「たかが呼称」「たかが言葉」にことさらに異を立て、80年代も初頭からメディアにおいて孤立無援の闘争を続けてきた「きわめて少数」の知識人達がいるわけです。国号呼称問題は歴然とした政治問題なんですよ。「人が嫌がる呼び名を変えるのは当たり前」などという「個人的作法」の問題では全然ない。
というか、その代表的論客たる呉智英や高島俊男や小谷野敦や浅羽通明の著書を、森達也は1冊でも目を通しているのでしょうか?というか、そもそも上に挙げた彼らの誰ひとりとして「保守派の論客」の1語で済ませたら、フツー人に大笑いされて恥かきますが。つまり原典に当たっていない可能性が濃厚であるか「保守」という概念に関して無知であるか。まさかネットのコピペと石原慎太郎にムカついてただけではないよね?
しかしもしその通りで、それでかくも「微妙な問題」を「商業的公共媒体」で堂々批判したのなら、いい度胸であると言うしかない。戦時に一億玉砕を叫び、平時に反戦平和を唱えるのはいかに楽で容易であるか、と山本夏彦が昔言ってたな。
ついでに言えば、実際はやや違うわけだが世間からは「保守派」と目されている谷沢永一などは「チャイナ」と記述している。これはオーケーな訳ですね森監督!もちろん谷沢永一は断固たる反中共なわけですが、あなたよりはよほど当該問題に関して考察している。書誌学者という本職ですから。それともただの妥協迎合とみなしますかそうですか。
そもそも高島は世に知られる碩学の中国文学者で呉は私塾を開くほどの「論語」の専門家で小谷野は「水滸伝」を換骨奪胎した「八犬伝」論こそが処女著作である。別に知識が教養がどうと言いたい訳ではない。彼らのそーゆー経歴に関して御存知かと言っている。そして彼らの間でも「シナ」と書くか「支那」と記述するかで立場が別れているのは御存知か。彼らはその点に関しても各々論拠を明示している。むろんどっちだろうが中国にとっては「好ましからぬ言動」だろうし森にとっては「差別発言」なのだろう。
森の「保守派の論客」批判には「おまえら『日本人共同体』という内側(=お仲間)しか見てねえだろう」という「行間ににじみ出る不快感」が、まあモロ見えなわけだが、これはかつて「つくる会」に対して柄谷行人が吐き捨てた「それを韓国で言え」という揶揄にも繋がる。「他者と向き合え」という柄谷の論拠は理解できるが、そのデンでも呉智英は、日本に在住する中国籍の学者と国号呼称問題に関して激越に論争し火花散る論戦を著作で公開している。まあ「ホントの話」なんてマイナーな本、森は存在すら知らないだろうが。つまりそーゆー経過と事実関係をあんたは御存知か、と言っている。
上記4名の「シナ呼称派」は政治的打算も実存的怨念もなき「ガチンコ」議論野郎達であって、高島や呉はウン十年も「他国政府の意向に基づく言論統制」の中で言論レジスタンスを続けてきているわけだ。そんなのはインテリの瑣末な言葉遊びだ、とおっしゃるのは御勝手だが、それを言った瞬間、あなたは自分の立場を明示し、旗幟鮮明にしたことになる。党派性とは政治的趣味の左右によるものではない。あえて差別的なアナロジーを用いれば、お里が知れる、のである。
(ついでに余談だが、昔の「国文学」での江藤淳インタビューを呼んでいたら、江藤は武田泰淳のことを述懐する中で「武田さんは必ず『シナ』と呼んだよ、『中国』とは決して呼ばなかった」と述べている。言うまでもなく「司馬遷」を書き竹内好の薫陶を受けた武田は中国の専門家である。「左」の藤田省三に言わせれば「中国のことなら吉川幸次郎(「天皇」とまで呼ばれたかつての「支那学」の泰斗)さんより詳しかった」ほどの。もっとも「政治的党派性から自由な」森達也さんは江藤や武田が何言ってるかなど、ハナから知る気ないでしょう。
なお藤田の師で「左」の丸山真男もまた、外務省通達直後「中国」呼称の強制に反発したと言っているが、それをなだめたのは「中国」呼称やむなしとする武田の師の竹内好だった。というかこの手の話は、戦前派の知識人文化人の回想等からは山ほど出てくるわけだ、が。左右の別なく)
では、その「立場」とは「旗幟」とは「党派性」とはいかなるものか。回答。(民族)共同体「固有」の文化的な文脈を優先するか、(民族)共同体間の政治的なプラグマティズムを優先するか、問題の本質はそれに尽きる。
歴史的経緯に基づく「シナ」呼称の政治的文化的な文脈正当性は、高島俊男の名エッセイ「本が好き、悪口言うのはもっと好き」所収の「『支那』はわるいことばだろうか」という長大ガチンコ論文に一切合財の論拠が総括的に徹底して示され、およそ反証の余地なく論証され尽くしている。興味のある方は参照して頂きたい。というか森達也はこの平易な論文も読まずに岩波新書で太平楽を並べ立てたのだろうか。編集と校正は仕事しろ。よってこの観点からは議論終了、といって差し支えない。
念のために書くが、高島は決して、全メディアが明日から「シナ呼称」に切り換えろとか解禁しろとか言っているのではない。拉致被害者帰国翌日から全メディアが「北朝鮮」呼称に切り換えたように。ただ「シナ」と呼びたい者による呼称使用を禁圧するな、と言っているのである。悲痛な悲鳴のような結部であった。
なぜ彼らがかくもシリアスになるのか。何度でも繰り返すが、これは障害者や被差別民や風土病患者に対する差別的呼称の問題とは異なり、そもそもの始まりから、戦後の2国間の不均衡関係に基づく純然たる政治問題だからである。これは「放送禁止歌」のような圧力母体なきメディアの勝手な自主規制ではない。発端は全メディアに一律上意下達で執行された「外務省通達」という公文書、まごうかたなき「終戦直後、自国より圧倒的に優位な立場にあった他国政府の意向に基づく(あるいは顔色をうかがっての)、時の政府権力による言論統制」である。呉や高島が執拗にこの「発端」にこだわる理由はここにある。「在日」の問題に関してなら平気で半世紀以上遡れるくせに、この件に関して60年前の「発端」に遡行しようとしない「党派性から自由な人々」の脳味噌が、まったく理解できない。
さて、文化的文脈において正当であろうとも、コトは「民族」間政府間共同体間の政治的問題である以上、プラグマティックには、何らかの形でアジャストが企図されねばならない。これはたとえば朝日新聞がそうであるように、正しく政治的意志であり政治的判断である。
ことここにおいて「言語」という民族=共同体「固有」の文化における文脈と、民族=共同体間の政治的利害調整とが、深刻に対立し相克する。すなわち「言葉=文化」と「政治」との対立&相克。そして先述した「立場」「旗幟」「党派性」とは「言葉という文化の文脈的自立性」の側に立つか「政治という人間同士のプラグマティックな利害調整」の側に立つか、ということに尽きる。「言語」を「宗教性」に置換すれば靖国問題も、また然り。
むろん高島ら「シナ呼称派知識人」4名は「言語という文化」の側に断固として立ち旗幟を鮮明にし、またその自覚もある。かくして、森達也はどうだか知らないが、もし当該問題に関して高島らの論証に対し「知識人の瑣末な言葉遊び」という言葉を投げ付けるのであれば、あなたは自動的に「政治的人間」ということになる。もちろん私は森達也を「政治的人間」と思っているので、カントク、自覚はしましょう。
もっとも上野千鶴子も言う通り、プラグマティズムは問題を解決するのではなく、回避するための方法なわけですが。ホラ、国号呼称問題に象徴された、60年前に回避したツケが、いま回って「両国民ともに手当てされてこなかった民族感情とルサンチマン」として、一斉に噴出してきている。森達也の危惧する通りにね。
「呼称なんてどうでもいいじゃあないか、異なる人々の相互理解のほうが大事だよ」と行間で嘯いている森達也は、本人がどう自己認識していようと言説レベルにおいては政治的人間であって、「言語という文化の文脈的自立性」よりも「政治的利害調整」が優先すると言い放ち「敵対思想者」に対しては平気で言説的権力を行使し得る無知無自覚な「映画屋」は「言語という文化の文脈的自立性」を担保するプラットフォーム=「言語という文化空間の定常的なインフラ」を維持する意志も意欲も動機もないーー「言いたいことを言える現実的環境さえあればよい」−−ようなので、そしてそれが「言論の自由を守ること」のすべてだと思ってらっしゃるドアホウのようなのでーー「言語という文化」に関与して頂かなくて結構。
高島や呉や小谷野がおまえら小言幸兵衛かと思えるほど「瑣末な言葉遊び」=「細部に至る日本語の使用法」に関して小うるさく、高島や呉などそれだけで何冊も本を刊行しているということと「彼らのシナ呼称への執着」との共通的な関係性についてくらい、すこしは思い当たって頂きたい。
さて、私?「中国」「中国人」って書くし口の悪い友人とふたりきりでもそう言いますよ。なぜか。これまでの記述と矛盾するようだがそうでもなくて、そもそもエッセンシャリスト(=本質主義者)でない私は、民族「固有」の文化的文脈なるものを一切信じない。そもそも日本に限らず言挙げされた「固有性」を認めないからカギカッコで括ってるし。というか、「固有性」とは言挙げされた段階ですでに事後的であり再帰的なのです。靖国も然り。ポストモダン、というか浅田彰的なる言説を通過した立場に拠る視座として、当然のことである。
先述の4人はみな筋金入りの再帰的近代主義者です。だから「言語という文化の文脈的自立性」=「固有性」に執拗に拘泥している。高島や呉に関しても、彼らの「言葉指南」本の私はよい読者ではない。
というか「正しい日本語」「名文」指南などする輩は全員文化的反動だと決め付けている。丸谷才一は政治的にはリベラルだろうが、文化的には浅田の言う通り大反動である。何度も書くが、セクショナリズムとは政治的趣味の左右などで計量されるものではない。もちろん私は反動が悪いとはこれっぽっちも思っていない。ただ立場と視座が異なる。
私にとって言語とは便宜的方法論でしかない。それは三島由紀夫のように言語を「ファクト=現実=実数」と信じ込もうとすることができず「表象=仮象=虚数」としてしか認識できないからだろう。その意味ではーーあるいは自然科学者的に、言語使用に対してプラグマティックに指示的である。
「言語文化の歴史的文脈」にさしたる興味もない私は、言語に付随する価値判断に対して内面的にコミットすることはない。言語を価値的なるものと認識することがなくて、強いて言えば数式のように操作している。だから美文名文志向もない。
「中国」と日常であるいは公共媒体で呼べば「中国人」「共産党政府」の強制する価値観に同意したことになるなんて、ちっとも思わない。たかが国号、たかが呼び名、たかが言葉なんだから。だから個人的には「中国」だろうと「シナ」だろうと「それ」を指し示せればどっちでもよろしい。そこに価値判断が付随しない以上、摩擦係数の少ない言葉を現状において採用する。別に「シナ」と呼んだって会話が面白くなるわけでもないしね。「キチガイ」とかと違って、政治的なインパクトしかないんだよ。いまだにみんな、言葉自体が忘却の彼方だしさ。
先般の4名のように、問題提起のために摩擦係数の高い言葉を公共の媒体で採用する人達もいる。敬意に値する。ただし私とは言葉と文化に対する認識が、すなわち立場が違う。つまり、一般的に言えることと超個人的倫理は相違する、ということなのだが。