(仮題。執筆中)

■ここ数回のエントリと関連します。


■私がずっと気に掛けている一節がある。かつて「と学会」会長の山本弘が同会による編纂書籍の前書きで、聖書根本主義者(ファンダメンタリスト)を批判する論旨の俎上で、聖書が含む「危険な」価値体系について指摘していた。山本が参照するのは旧約聖書に記されたアブラハムによるイサク殺し。神に命じられたアブラハムは息子のイサクを自ら手にかけようとする。結局未遂に終わるが、アブラハムは神からその忠誠を称えられる。もっとも原版では「息子殺し」は遂行されている。後世の幾代目かの編纂者によって、これでも「人道的」な内容に「改竄」されたらしい、


■以上を引いて、山本会長は言う。聖書には現在の我々の日常や生活に援用し得る「よい教え」「ためになる教訓」もたくさん記されている。それは拳拳服膺して参考にすればよい。しかし!聖書にはかくなる「危険な」教えもまた、山ほど記述されているのだ。それは「日常」や「生活」を下部構造として垂直的に確立された、我々世俗的なる「後期近代社会」の側の価値観とは、決定的に異なった論理なき体系に規定されている。


啓蒙主義をエンジンとして数世紀かけ近代合理主義が根付き普遍化・一般化した現代「先進国」においては、もはや「人間の尊厳」とは背理し「非人間的にして非人文的」=「非ヒューマニズム」へと変容し帰結せざるを得ないドグマやイデオロギーを「絶対の真理」として、無意識におけるバックラッシュを深部の動機として非選択的に選択し、そして信仰者の確信に基づき反動的かつ懐古的(先祖返り的)に「宗教的真理」の社会におけるヘゲモニーの奪取(もしくは復権)と、その断固たる貫徹のために、悪罵で悪罵を濯ぎロビイングの戦線を拡大し、あげく血で血を洗う十字軍的闘争を繰り広げ続ける「科学的思考を拒絶する」ビリーバー達。


■以上のごとき、自己の再帰性すら自覚し得ない「野蛮な再帰的半近代主義者」=「原理主義者」を、キリスト教ファンダメンタリズムに限らず、上記定義に該当するような「親子の絆」すらも否定する「人道と背反する原理主義」とその信奉者に至るまで批判し、非難している。


■そして山本は決め台詞のごとく以下の言葉を書き付ける。語句の細部が精確でないかも知れないが、そのステートメントの要諦は、「と学会」会長としての高らかなる宣言は、いまでもそらで言えるくらい、はっきりと記憶している。


■「僕には娘がいる。僕は娘を愛している。誰の命令を受けようと、娘は殺さない。たとえ神の命令でもだ。」


 (睡魔によりエントリ執筆ひとまず中断。この後に続きます)