言葉と沈黙

 思うところありまして、前エントリでの予告とは外れますが、関連した話題ではあるので、緊急アップ。


 ヒートするであろう議論に巻き込まれたくはないので、キーワードリンクされないよう名前は伏せるが、先日、というかまさに昨晩、あるひとりの高名な「オタクの王様」が、自らの死を宣言した。アナロジーでも何でもなく、文字通りの唯物的な意味である。彼は自らの幕を引き墓碑を打ち立て、葬送の儀式を生前に完遂した。
 Mixiでの「カウントダウン」宣言が1年前。何が起きても私は驚かないだろう。彼は自身の終幕を飾る「生前葬」を、自らの手で執り行ったのだから。
 その葬列の場には、私も同席していた。


 かつて三島由紀夫が死んだとき、小林秀雄は鎌倉から談話を発表した。
 大意を要約すればーー死を言葉で理念で情緒で観念でイデオロギーで粉飾するな、個人の孤独な死には、ただ個々人の孤独な沈黙をもってのみ応えよ。右翼だの情念だの政治的主張だのが、あの男の唯物論的で単独的なる死と、いったいいかなる関係があるのかーー


 顕在する表層においては常に禁欲的であれ。「他者」という彼岸の存在の単独的な「死」を、「他者同士」が集合的かつ共同的に共有し、分かち合ってはならない。「他者の死」とは、絶対的な孤独の只中にある個々の「生者」の内部において、ただ唯一的に観照されることにおいてのみ、決して顧現することなき潜在的な響き合いが、言葉なき無言の単独性として孤立し点在する。ーーそれをこそ「魂」と、あるいは小林は呼ぶだろう。


 晩年の小林の常套的なレトリックでは、ある。「個体の死」を集合的に言挙げることを禁じることによって、定言命令的に「死」を言語や意識の外部にある「沈黙」と「単独的な内部」と「魂」の領域に閉じ込め遺棄することによって、絶対的なる彼岸としての「個体の死」と、それと相観照する、定常的で実数的な外部世界の体系から切断された絶対彼岸の虚数としての「個体の内なる魂」を掲揚する。それは、非言語非意識への忠誠を誓う言語的意識的行為。


 むろん、言語や意識の「傲慢」に対する転倒を意図して、卓越した言語駆使者にして大意識家の小林は、覇権的抑圧を発動させているのだ。「自己」と「他者」との徹底した断絶。言語と意識に支配された近代において、歴史的托卵として産み落とされた絶対的単独者という「個人」の「沈黙の中に溶解する死」「言語と意識の外部に遺棄された魂」の、(近代的個人性に規定された)再帰的なる回復と希求を志向して、あるいは反動的と受け取られかねない態度と言説を、晩年の小林は「本居宣長」等を通じて「孤独かつ禁欲的に」=すなわち結局のところ徹底して近代人的に、示し証していく。


 徹底して近代人であることに倦み果て「近代の桎梏」を乗り越えようとした筋金入りの過剰なる近代人。言語と意識に生涯反逆し、その外部を志向し続ける、徹頭徹尾言語と意識に拘束された雄弁なる大インテリ。近代と非近代、プラトン古代ギリシャイデアとゴースト、主体と魂、言葉と響き、その本源的なる両義性に引き裂かれ、しかし決して内的に両義を均衡させることはなく、葛藤という名の作用反作用の爆発的運動を生成反復し続けた「高速回転する駒」小林秀雄。彼の忠誠は、果たして那辺にあったのか?


 話は冒頭、昨夜の某オタク王の「公開生前葬送」に戻るが「絶対的な断絶」を前提とした「他者という個人の死」に対する「個人的受容」の作法に関して、私は小林秀雄の見解を一部採用する。


 つまり「個人の死」「他者の死」に対しては「個々人」が「内なる沈黙」の虚数的なる無の只中において「超個人的」に受容するしかない、というスタンスを採る。だから、共同体的な儀礼的祭祀に基づいて集団的かつ「実数的」に「他者の死」を定義し位置付け「処理」することは、所詮「趣味」「趣向」の一興に過ぎない。


 むろんいかなる「死の受容」の作法もまた「所詮趣味」の並列的な一類型に過ぎず、定常化することも実数化することも結局不可能な以上、すべては根拠も自明性もなき「事実性によって担保された虚数」に過ぎない。だから「死」を共同的な儀式によって集合的に実数化して「定常的なるもの」として「供養=処理」するのは勝手だがーー「死の受容」を定常的なる自明な実数と嘯き、遡行すればどこにもない「根拠」を仮構した挙句、その本源的な虚妄性を隠蔽するか見ない振りするブラインド野郎の厚顔には、辟易しないでもない。


 小林秀雄は「談話」内でこうも述べている。「決起」の翌日、鎌倉の自宅に電話が掛かってきて出た。政治団体という先方いわく、このたびの三島由紀夫氏の死に関して、哀悼の意を表明する大規模な集会を開催する所存ですので、つきましては小林先生に会の発起人になっていただきたい。
 キレた小林、啖呵を切る。「あなたがたは、哀悼の意を表するのに発起人を必要とするのか、お断りします」ガチャ。
 稀代の批評家は、晩年に至ってもなお明晰で、男前だった。


 「無根拠ながらも歴史的に醸成された事実性」のメソッドを便宜的に採用して「儀式」の定常性実数性を回路として経由し、共同体や社会という「外部世界の体系」の水準における「死の受容」という「唯物的決済」を潤滑に回転させてクリアする、というプラグマティズムはわかる。「体系化された外部世界」において「死」は常に共同体的で社会的、すなわち定常的で実数的なものだから。
 しかして多くの盲目連中は、「死」とその受容を、定常的で実数的なものだと、心底信じているらしい。
 そんな、「外部世界の体系」によって要請され、便宜的に構成された砂上の楼閣を内面化する気には、私は到底なれない。


 「死の社会的受容」の円滑化に際して要請された「葬送の儀式」という「共同体的祭祀」の、便宜上試行されるべき手続きと作法の形式性に対するコミット=外面的従順は果たしても、そんな他律的な定言命令としてのみ複雑化した「個人」なき共同体的虚妄に内面的にコミットして、自己の原理的基盤としてインストールする筋合など、私にはない。
 「葬儀」の席では喪服着て沈痛な表情を「つくって」黙ってうつむいていろ、と恫喝する輩は、大概の場合において、別段「葬儀」のフィクションとしての共同的な形式的一貫性に留意しろ、と言っているのではなく、「葬儀」の自明性を疑っちゃあいないんである。「想像の共同体」は真理なんだそうだ。


 いや、ホントにさ、「他者の死」や「他者が直面しているシリアスな状況」に対して「想像しろ」とか「共感しろ」とか「思いを来たせ」とか「おもんばかれ」だのと抜かす厚顔な連中って、いったい何なのかね?
 「他者」と自分が同じだと思ってるんでしょうね。私の親が死んだら「共感」して泣いてくれるんでしょうね、私にそう「進言」した昨夜の友人は。
 「泣くこと」は尊くてシリアスなことだと思ってるんでしょうね。つい近年まで情緒不安定で泣き虫だった人間として言わせてもらえば、あんな脊髄反射的な紋切型の感情反応って、ないんだけれども。近親者等「愛する者」が死んだら泣くことは、彼らにとっては自明の「尊くシリアスな行為」なんでしょうね。そーゆーことに半畳入れる私は人非人の人でなしなんでしょう。「感情決壊」の操作性とか心的システムのフラットな構造とか、勘定に入れたことないんでしょうね。「想像力」がないのって、いったいどっちなんでしょう?
 そーいえば夏目房之介も最近、その手の鈍感な盲人どもを論難したとたんに、サーバーを攻撃されていた。不人気な考え方らしいね。思えば小林秀雄が一貫して苛立っていたのは、こーゆー「心情訓致」的な愚鈍な手合いだった。


 「共同体」や「共同性」を論理的遡行抜きで、心情的かつ情緒的に自明の前提として疑わない。自己が依拠する「心情」や「情緒」自体が、事後的に社会運営の便宜上構成された「文化的装置」だなどとは、思いもしない。浅薄な「人間主義」こそが、彼らの信仰する共同体的真理である。「想像の共同体」の想像性を「共同幻想」の幻想性を摘出し指摘することは、総スカンを食うことにしかならない。


 「人間共同体」の共同性を自明とするからこそ連中は「他者の思いを想像すること」の、近代以降における構造的欺瞞と錯誤に気付かない。だから平気でこの手の言い草を暴力的に振り回す。連中は近代の、そして「他者」の何たるかを一切知らない。不人気な言葉を重ねれば、当該の友人は柄谷行人すら一切読まず、加藤典洋の「敗戦後論」をめぐる侃々諤々の議論も東浩紀高橋哲哉によるデリダをめぐる「他者」論争についても一切知らぬままに、私に「想像力」について説いたことになる。


 この問題系統に先駆的なまでに敏感であったのが、夏目漱石小林秀雄だった。近代において個人と個人は決定的かつ絶対的に断絶している。「他者」とは決して想像力の働き得ず及び得ない彼岸の存在である。その構造的帰結として、我々は本源的に絶対の孤独の中にある。だから共同体的な「想像力」の機能など、もはや失効し死んでいる。そしてかくなる地平から我々は、初期設定において歴史的に切断された「他者」といかにして「関係」を結んでいくかーー
 およそ100年前、「後進的近代」のあらゆるファクターが奇形的に極大化した、その黎明勃興期において、現在に至る問題の始原的な極限の様相は、すでに提出されていたのだが。


 もういい加減まとめますがね、オマエが言うな、という相手に「オトナの振る舞い」だの「礼儀」だの「場の空気への配慮」だのを説かれるというのは、あまり愉快なものではない。まあ「外部世界の体系」に対する「振る舞い」と「配慮」しかない「近代的主体性」皆無の人間は、往々にしておられますが。
 そもそも「オトナ」とは「儀礼」とは「想像する」とは何か、とか問うてみても、構築された論理の階梯など何も返ってはきません。ある概念体系への内的な検討作業や再構成等を一切ネグレクトして「人間の人間的なる共同性に基づいた自明の前提」とやらを根拠にして、定義確定すらせずに倫理的語彙を乱用するのだから、要するに何も考えないで喋ってるわけだ。


 そのくせ本人は政治的にはリベラルなつもりで、宗教的原理主義ナショナリズムに対しては批判的で冷笑的だったりする。どう違うんだオマエが。そーゆー手合いに、いっぺん靖国問題について訊いてみたいのだが、たぶん何も考えていない。理路の確定をうやむやのアバウトにしたまま放置してるから、思想的にもあの問題は紛糾しているのだね。理路の確定を阻害しているのは、むろん「鎮魂」だの「死者への弔い」だの「人々の想い」だのという共同性を前提とした情緒的心情論理、否、非論理の虚妄なわけです。


 虚妄と知りながら「あえて」コミットし、フィクションの内的論理を一貫させ貫徹させるのは一向構わないのだが、虚妄を真理と思い込むのがどうもね。
(だから私はたとえば靖国における分祀案など唾棄する。虚妄を虚数的な水準において、内的な信仰的価値として事実性の担保に基づき構成し得る、フィクションとしての内的な論理的一貫性に対する、外部世界の体系によって運営され実数的に要請される政治的プラグマティズムによる、一方的な干渉であり冒涜であリ侵犯である。
 内部の超論理的な論理に対して、外部世界の体系が干渉してはならない。しかし「内部の虚数的論理」に基づいた、外部に対する「行為」「行動」は、当然「外部世界の体系」の「実数的論理」に組み込まれてしまう。総理参拝しかり遊就館しかりオウムテロしかり。
 「外部世界の実数的論理体系」に回収されず常に逸脱する「内部(=個々人の脳内や、その複数間の合意的契約によって構成される対幻想・共同幻想)の虚数的論理」を誰にも知られず単独的かつ孤独に保持する「沈黙」の自由「行動しない」自由をこそが、何よりも守られねばならない。柄谷行人もかつて似たようなことを言っていたが)


 結論。「外部世界の体系」によって他律的に要請される「社会的」「共同体的」「世俗的」価値観を、平気で内面化して「自明の前提」として振り回す連中は、そもそも「他者」の「個人」の「内面性」の何たるかを知らない反動的で通俗儒教道徳的な「江戸の町人=白痴の楽園にふさわしい住人」である。世間様のディシプリン=規律訓練に、ずいぶんと従順に調教され訓致されたようで。
 反動だのリベラルだのという概念は「政治的趣味」の左右に拠るものではない。不可逆な歴史的経緯とその文脈に規定されたシステムの変容に対する認識の視座に拠って「政治的=恣意的」に使用されるのだ。しかしそもそも歴史的視座も認識もない世俗現状肯定の輩は「反動」のレッテルにすら値しない。「立場」などない単なる日和見だから。それでいて自分が「中立」だなどと思っていやがる。政治性の何たるかすら、奴等は知らない。


 「顔で笑って心で泣いて」というのは単なる諺ではない。決して「他者」と「共有」されず「共同体」にも「社会」にも回収されない、外部と絶対的に断絶した孤島としての「内面」の不可視さと虚数性=すなわち小林秀雄的に言えば「非在としての魂」の、決して侵犯され得ない非近代的なる非言語非意識の独立性をーーその「絶対に分かち合えない個の尊厳」を、謳い示しているのだ。


 というか「顔で笑って心で泣いて」の真意も真髄もわからず実践も伴わない手合いが「葬送の儀式=葬式では神妙にしてろ」などと抜かすのは、まあ笑止ではある。葬送の鎮魂の追悼の顕彰の、本来的なる絶対的な超個人性=単独性など、「共同体的儀式への参加」によって葬送が鎮魂が追悼が顕彰が完遂されると信じる、連綿と「Y染色体」のごとく繋がる「人間共同体の共同性」に自己も、そして自己の死も接続すると妄想することによって実存がようやく補完されると考える「土人部落の酋長」にしてニーチェ的な「弱者」に説いたところで無駄かつ不毛である。人生が違うのだから。


 もちろん連中は淀川長治の大規模な葬儀に蓮實重彦が参列しなかったこととその意味や、葬式でつい笑ってしまうという蛭子能収の逸話と、それを頻繁に吹聴する根本敬の批評的真意など、知らないしわかりもしない。ひとつだけ言えば、蓮實は「みんなの淀長」の死とその顕彰になど、「個人」として、いかなる意味も認めなかったのだ。


 そろそろこの辺で。きっと冒頭の某オタク王絡みの話と思って読んだ方には意味不明だったと思います。まあ要は、超個人的な愚痴と、その愚痴に含まれる普遍的な問題系統を一般化して展開しただけのことです。
 孤独な「個」として「他者」として、単独的な決意のもとに「勝手に」死にゆく者を見送る際に、我々本源的に孤独なる生者が「前提」として各自確保すべき認識の階梯という「葬送の準備」=不可逆な歴史の帰結としての現代の構造の只中で、本質的に孤独に生き、孤独に死なざるを得ないすべての者への最低限の「儀礼」と「敬意」のことを、ね。


 勝手に死ぬこと、勝手に生きること、勝手に行動すること、勝手に行動しないこと、勝手に語ること、勝手に沈黙すること、勝手に振舞うこと、勝手に妄想すること、勝手に愛すること、勝手に愛さないこと、勝手にコミットすること、勝手にコミットしないことーー勝手にすることとは、唯一的な個であること。


 有史以来の膨大な、無意味な生と無意味な死の蓄積の果てに醸成された歴史的文脈の中で、かろうじて少数の「先進国」と「準先進国」において理念的には「万人に関して」規定された、生物的社会的=実数的な生死よりも常に大きい「個の尊厳」という虚数=決して繋がり得ないミームの価値。そして、かくあるためには本来要請されねばならない「共同体の完全切断と解散分解」という暴力的破壊の断行。
 その「理念」における尊さと、現在社会科学で議論されている「リバタリアニズム」の隆盛として帰結した「理念」の実践に伴う副作用と、社会設計における再帰的な処方箋の検討。ーーそして、以上の状況を概観し通覧したうえで、「個」としていかなる価値選択を行うのか。
 その程度の認識すらない「想像力なき」田吾作に「社会性」とかいう「土人部落の掟」について云々してほしくないね。


 最後に、岡田某氏について。
 小林秀雄の啖呵通り、他者の死には沈黙をもって応えるしかないだろう。葬送は、昨夜の某トークライブハウスによって「完了」したわけではない。
 あの「勝手な個」「ニーチェ的な強者」であり続けることを果敢に選択した果てに「自己の孤独な終末と死」を見据えた50近い男の涙を目撃した各々の「個」が「荒廃した寂しい部屋」に持ち帰って「個人」の「絶対の孤独としての言語なき内部=魂」において各自「決算」「処理」することによって、彼の人の葬送は追悼は鎮魂は顕彰は補完され完遂される。
 死せる孤独なエゴイストにして認識者の魂は、各自の生が消えるまで何十年か点滅し続ける、等間隔で無限に並置されたはかなく小さな豆電球の一群の、孤立し点在した孤独な沈黙の明滅の中へと、溶解していく。
 それをこそ、前近代的には、供養と呼び回向と言う。
 あるいはーーそれは供儀だったのかも知れない。


 オタクの王様。Thank You & Good Bye.ーーさよなら。