「水木メディア」の「非近代性」という魔術

 一応前エントリの続きですが、話はまたも迂回します。


 あの、知人でね「オーラの泉」愛聴している人がいるんですよ。ネタでなくガチで。


 理由のひとつに、彼女がーー女ですーー「美輪様」(本人いわく)のファンだということもあるのですが、しかし。


 「江原さんって、私はけっこういいと思う」とか面と向かって言われて、どう答えればいいんですか私は。年長者が相手とはいえ、ニッコリ笑って頷いて「そうですね」と受けろと?ビジネスのクライアントでも何でもない相手に?


 まあ飲みの席だったし、宗教と政治の話題はなごやかな宴席にふさわしくないので、適当に受け流した、というかすこし見解を述べたが、途中で切り上げた。
 彼女の恋人も同席していたうえ、そもそもこの人は、自分と異なる言語の階梯や価値観の体系に対する免疫がまるでない。それでいながらこーゆーリスキーでチャレンジャブルな話題を振るのは、自分に好意(一般的な意味だ無論)を寄せてくれる相手はみな、自分と同様の価値体系を「前提として踏まえて」くれるはずだという、無意識の心理依存が働いているわけだが。
 しかし「江原いいよね」などという価値観を共有した覚えは、私には毛頭ないのだった。


 言うまでもないが、私が彼女とまるで異なる言語階梯と価値体系を所有しながらも、彼女やその恋人と付き合いを続けているのは、たまに彼らと会って話せば単に楽しいからで、それだけのことであり、しかしそれは他に換え難い一切であり、というか私のプライヴェートな人間関係は、全方位にわたって一律そのシンプルな原理の貫徹によってのみ構成され運営されている。
 しかし当然のことながら、彼女はそんな私の施政方針を、あまり理解してはおられない。


 いつだったか先般、キミに人と人との「えにし」(マジで原文に書いてあった)の尊さを知ってもらいたい、とかいうメールが来て閉口した。異性との性的交渉関係にとんと興味がない現在の私を「おもんぱかって」、男は女との関係の中で成長してオトナになる、などというヘテロセクシズム全開の無思慮無神経メールを送ってきたので抗議返信した挙句の再返信である。
 「えにし=縁」ですか。「えみし=毛人」かと思ったよ。「日出処の天子」の。頭痛がしました。彼女にわかる言葉を使って「私は個人主義者です」と返信しましたが。「個人主義者」などというダサい概念を用いてわざわざ言挙げしなければならぬ土人国家日本の現状っていったい何なのか。


 ことほどさように、彼女と私の言語階梯と価値体系は異なるのだが、しかし誤解なきよう言っておくと、彼女は新興系まで含めて、別段既存の宗教にコミットしているわけではない。むしろ逆だ。
 飲めば毎度のごとく、年配者の恋人と口吻同じくして、一神教の悪口が延々と止まらない。
 主に恋人が、聖書や宗教学にそれなりに精通しているので、自宅に布教に来た某証人の使者を「論破」しては撃退する武勇伝が度々語られる。かつての名高き輸血拒否事件がよほど腹に据えかねているらしい。むろん彼らは関係者でも何でもないし、既存宗教にコミットしていた過去があるわけでもない、が。他人事じゃないらしいのだね。


 では全宗教が彼らにとって論外の仇敵なのかというと、日本も含めて、多神教に基づくアニミズムは「合格」であるらしく「インドOK!」だそうです。別に彼らはかの国の現状を知らぬわけではあるまいが……そもそも私は、アニミズムだの輪廻論だのと接続して普及した日本仏教など、開祖の墓に唾をかける邪道だと思っているが。認識のメソッドであり方法論である「仏教」しか、私は採らない。


 つまるところ彼らが唾棄しているのは原理主義であるらしい。要するに、ヨーロッパ的なるオブセッションを拒絶して、アジア的なる地縁思想を受容する、と。それはすなわち、近代でなく前近代を価値選択する、通俗ポストコロニアリズム的な多文化主義、と受け取るしかないのだが。


 ちなみにこのふたりの立論の切り札は水木しげる先生なわけです。ま、今や誰も文句を付けられないジョーカーを引っ張り出すのだから、ヒキョーな手なわけですが。
 むろん私も水木しげるは敬愛しているが(たしかに嫌いようがない人である)、しかしあのヒトは、読んでいるに決まっているはずのレヴィ=ストロースの「神話的社会」に関する明晰な洞察を、養分としながらも自身の世界観の認識照準においては導入せず、見ない振りして素通りするお方です。
 つまり「近代」という、世界に関する認識の視座が、おそらく根本的に「欠如」しているか、あるいは所有しながらも価値選択的に排除されている。
 

 非近代的な世界観の視座に基づき前近代的事象を表象し顕在化させることによって、近代の高度消費社会における成功と栄光とを勝ち取った作家。
 それはむろん、徹底して「前近代的かつポストモダン的=非近代的ーー抑圧装置としての意味の天蓋なき世界観の所有者」である水木の「生理的身体」に由来する、徹頭徹尾「非論理的かつ非意味的かつ非形式的」なる世界観こそが、強迫的な近代社会に対するクリティカルな批評的行為となっていたことに故があり、そしてその点においてこそ、彼の奇跡的に稀有な作家性と個性がある。


 しかし、あるいは余談だが、京極夏彦を筆頭とする著名な水木フリーク達が信頼されないのは、「真正の知識人」なら一発で透徹できるはずの「水木しげる無人称のメディア」という「近代的視座に基づく作家性なき、ゼロ座標としての虚数的な作家的表象」の特異性とその圧倒的受容をめぐる構造の「非文化的」で「非水木的」な全面的側面について、知っていながらにして触れず、あまつさえ「文化的」で「水木的」なる水木受容の周縁的ファクターを特権的に言祝ぎ「高級な趣味」化するという、偏向的言説によって糊塗するためである。
 そしてたしかに面白いが実質益体もない「水木逸話」を延々と垂れ流し再生産する。


 ま、要するに「近代的認識」の射程とフレームを容易に跳び越える「徹底した前近代性とその反転としての、作家の意図せざる早すぎたポストモダニズム」=「非近代性」に対して、ただただ驚き呆然とするばかりの「近代的な認識の視座を平常的な射程とする知識人」達、という陳腐な紋切型の構図なのだが。それを本人が死ぬまで、否、きっと死んでからも延々と反復再生産するのはどうもね。


 まあこれは京極同様ミズキスト番頭格の呉智英の指摘通り、「非近代的世界観を生理的身体感覚として表象した作家」である深沢七郎をめぐる、三島由紀夫武田泰淳ら「認識的知識人」達の驚愕と畏怖と憧憬、という構図とキレイに重なるのだが、しかしこれもまた呉の指摘通り、水木は「無垢なる天然」なのに対して深沢は「露悪的なる作為性」が鼻についた、のもまた事実だ。


 推測だが、おそらく「風流夢譚事件」以降、深沢は初めて「自律的なる単独者としての自己の内部とは、異なる価値体系」によって運営されている「他律的なる複数的な外部の世界(観)」の存在を初めて認知し、あるいは「外部」「世界」に対する根深い不安と恐怖を抱いたのだろう。無理もないが。
 そして「内部」と「外部」、「自己」と「世界」を対立項としてやむなく規定し、あえて語り草となるほどに痛ましいまでの「挑発的」な振る舞いを、作品生産以外の場で「作為的」に行ったのだ。
 自身の「奇行」に関して「作為性」の自覚が、たとえば奥崎謙三のようにあったかどうかはわからない。しかし、一個人の運命として悲劇だったとは思う。


 気まぐれな寡作になったとはいえ、「人間の尊厳」という「近代において概念的に構成された意味の体系としての、生の安全装置」を暴力的に切断し脱構築して、根底から無化する稀有な作家性と、それに規定された作品の自律的な自己運動としての高水準を晩年まで維持し得たのは、彼の「排他的自閉」という過剰な防衛行動によってかろうじて護持された、ガラスケースのような「自己」と「内部」の孤立した、まさに孤独で単独的な自己運動の営為と、その結晶の成果だったのだろう。


 そして、さて水木はというと、天真爛漫な彼は「外部の世界(観)」なる他律的で複数的な意味の概念体系の存在を、いまもってなお認知し把握してはいないのでないか。
 根本的に「他者」のいない、というか人間に興味がない、ひたすらに自分の幼児的な興味と欲望しかない人だから。
 繊細な深沢七郎が「共振」したようには、「外部の世界(観)」という「他律性」を、「内部」に「自身」に対する「抑圧」「介入」「侵犯」として認識することはなかった。「外部の世界(観)」なる意味の概念体系自体、構成観念の欠落した、フラットで非近代的な花の咲く水木の脳内には未来永劫存在し得ない「絵に描いた餅」だから。


 だから深沢が悲しい矜持として堅持したような「単独者」という自己認識さえ、カケラもないだろう。
 水木にとって「外部」は存在しないし「世界」は彼が解釈したいようにしてのみーーすなわち彼の受容の都合に合わせてーー存在する。それはむろんのこと、幼児的な全能感とそれに付随する、自己と世界の境界はおろか、自他の区別すらつかない自己膨張の全面化の始末なのだ。
 つまるところ、やはり水木は強靭で「天然」な「明晰なる白痴」だね、という「頭のいい山下清」と水木を規定した呉智英の指摘と同様の着地点に帰結するのだが。


 まあ、著名ミズキスト達については、彼らが自認する通り「ファン」や「グルーピー」や「ビリーバー」が愛の対象と自身をめぐる偏愛という信仰の構図を分析し解き明かして開示しなければならないという義理は、どこにもないし、そもそも仮構された「主体」を「論じる」「分析する」「批評する」という行為と手続き自体が近代由来の作法なわけで、それを「治外法権」の「ポストモダンに通底する前近代=主体性なき非近代的白痴」に適用するのは「野暮」だしクリティカルではない、というのはわかりますが。しかし水木が受容されているのは「近代的」なる高度消費社会のはずなのだが。


 結論は何かというと、かつて散々現代思想において提示され乱用され吹聴された枠組みの通り、現代日本の高度消費社会とは、すなわちモダンの欠落したままポストモダンと近代以前のプレモダンが同居している江戸的な「白痴の楽園」のごとき状況であって、だからこそモダンな認識を導入することなく徹頭徹尾意味が捨象された、プレモダンとポストモダンメビウスの輪のように白痴的かつ楽園的に円環を描いて接続している水木しげるの「非近代的」世界観がかくも受容される、ということ。
 それは「動物的」なる現状是認の欲望(=ポストモダン)と胎内回帰的な「身体へのノスタルジー」(=プレモダン)とに駆動された反動的光景と、言えなくもないが。水木本人は決してそーゆー人ではないとしても。


 脱線しましたが、私が言いたいのは何か。
 前述の年長の恋人達のように、水木しげるを近代否定のアリバイとして「悪用」する連中は、水木しげるがその初期設定的な「非近代性」の内部において無自覚無作為かつ「天然」的に包摂している「ポストモダニズム」を一切ネグレクトしたうえで、プレモダンの正統性とその再帰的なる回復のみを主張したがっている、ということ。あまつさえ水木の「妖怪」表象をアニミズムと接続した上で引用して。
 むろん私はそんなもん「バックラッシュ=反動」として斬って捨てますが。


 水木の「妖怪」表象に関して論じ始めるとえらいことになるのでやらない。
 ただひとつだけ言うと、水木のおそるべき業績とは、「妖怪」として表象される以前の具象的な事象を規定していた前近代的な「意味の因果性」を「妖怪」というビジュアルの鋳型に填め込み記号的に表象することによって、単なる「キャラクター」「アイコン」として「無化」し「無害化」し「一般化」したうえで、メディアの全面展開に乗せ「普及」させてしまった点だった。作家は意図し得なかったとしても、結果的な受容の実相においてそうなり、その事実が現在の水木の地位を確保した。


 「意味の因果性」をビジュアルによって「愛すべきキャラクター」「ポップ・アイコン」として記号的に再構成したとき、歴史性に刻印されたその陰惨なる「意味」は無化され、ピカチュウと同様の「無垢なる白痴的な無意味」へと脱構築され変換される。
 それこそが水木の、否、水木をめぐる現在の一切合財の状況における、日本的高度消費社会と「幸福な結託」を果たし得た「プレモダンとポストモダンのモダンなき白痴的かつ楽園的な接続と円環」という「非近代性」の本丸である。
 すなわち「意味と背景すなわち歴史性が捨象された、ポップでファニーなビジュアルによる『日本的なるもの』の記号的な白痴的表象=民俗的アイコン」。


 念のために一言付け加えると、これはこれで、あるいは素晴らしいことだと、言えなくもない。
 要するに、東浩紀が「動物化するポストモダン」において大見得を切った図式に、水木しげるの大衆的受容もまた回収され得るということだが。
 時代の実相は不可逆的だ。しかしかくなる「記号化されアイコン化された、民俗的意匠を纏った日本的メディア」ーーと、分節化してしまうと身もフタもなくなり、いわゆる「萌え」に代表されるオタクメディアと区別がつかなくなる、偉大なる「水木メディア」の消費図式の状況とは、はたして進歩的なのか反動的なのか、慶賀すべきことか嘆かわしき結末かーー
 年季の入った筋金入りの真正ミズキストーー正しくは水木者ーー達は、いまどう思っているのかね?


 しかし水木の利害関係者は、こーゆー構造的図式を、むろん知っているのだろうが、公言しない。
 「水木先生の偉大なクリエーション」を謳い作家主義で押し切るのも結構だが、作家の意図をもはや離れた、水木の大衆的な受容と消費の構造についてのみ口を噤むのは、フェアではあるまい。
 「妖怪大戦争」などという、以上の「受容と消費の構造」に悪質なまでにそのまんま乗っかった映画を創り推してきた「確信犯」達が。


 それはさておき話を戻すと、「意味の因果性」を内部に導入してしまった「プレモダンの図式のみ振り回す土人的人間」が、はたして何を口走るかというと「えにし」という、永遠に死んでいてほしい死語なのでしたーーというところで次エントリに続く。「霊能者」江原某にまつわる話へ。


 「白痴」と「土人」なら、私は白痴のほうがまだ可愛げがあって好きでね。
 生物的な先天性に基づく無認識と、人工的なる環境設定によって後天的に構成された認識錯誤の、いずれを許容できるか、という話だが。
 あるいは今日覗いたら復活していた人気ブログ「ゾゾコラム」がかつて指摘していたように、私もまた、白痴という先天的なる無認識に、ひそやかな憧憬を抱いているのかもしれない。
 「白痴」と「土人」をめぐるこの段落の記述はあくまでアナロジーです。為念。