プログラムバグの墓掘り人

 前エントリから続きますが、森昌子の話はもうしません。寝覚めが悪い。


 私はフェミニズムの議論に興味があって、とはいえ専門研究者でも院生でも何でもない「個人的趣味」の領域に過ぎないので、代表的論客の著作に限られるが、そこそこ読んではいる。
 そのくせ今頃という話なのだが、小倉千加子の「結婚の条件」という話題の快著を先日読了。面白かったのだがね、ことごとく私には意味不明の話だったので驚き、ついでに溜息をついた。


 この21世紀に、土人レベルのバカの処世の話と付き合う気は、到底私はしない。


 何がバカかって?男に女に限らないが、あまりにも認識が浅く甘くユルい。
 以前橋本治が人生相談で「この手」の女性相談者に対して呆れ果てて答えていたが「そんなふうに生きていけるのがうらやましくてしかたありません」という感想しか、およそ抱きようがない。
 橋本は相談者の婚約者についてそう唾棄しているのだが、もちろん相談する女も同じ穴の狢だと突き放している。20年以上前の話である。
 そして20年前から、全然何も代わってはいない。90年代に入ってからの人生相談においても、橋本治はまったく同じ口跡を繰り返している。反復せざるを得ない土人的現状に「桃尻娘」の「桃尻語訳枕草子」の「窒変源氏物語」の作者、かつて「女性に人気のオサムちゃん」だった人物は苛立ち憤りながら。


 橋本治の人生相談本は2冊(1冊は福島瑞穂との共著。つまり「女性問題」的な相談事が殊更多かった)刊行されているのだが、当該書にズラリと登場する「人生相談」の数々に目を通すと、かくも「自己検討」という内的作業を放棄してーー否、その概念すらも知らずに唯々諾々と「流されて」生きている人間が多いのかと、橋本治ならずとも苛つき暗澹たる気分になる。


 「そんなふうに」無自覚無検討に生きていった人間が後にいかなる収支決算に見舞われたか、「結婚の条件」は克明かつ冷徹に詳述しているが。


 自己の内部を常にクリアにするという均衡への意志。
 そしてクリアな内部を人工的に構築し維持するためにはいかなる知的なコストを投下し、知的な手順の階梯を踏んでいくことが肝要であるか。
 自己の内部に存在する複数の問題の、各々の位相と位置関係とを把握し、整理掌握され通覧された平面的な内的空間の各所に、知的作業によって人工的に設置された「廃棄物処理場」的なゲートのポケットに、パーソナルな複数の根深い問題をあたかもビリヤードの球のように各々適所のゲートに「収納」し「格納」して、たとえ一時的な問題回避としてであれ、ともあれ便宜的に「処理」すること(「解決」では決してない)。
 ーー以上列記したような、内的空間の独立した均衡を担うセルフメンテナンス&セルフバランスの、プラグマティックな方法論に対する切実な必要性と内的な実践スキルに至るまで、一切合財が欠如しているのだ。


 これは一種の精神分析のメソッドの、変更的な自己解釈ではある。
 精神分析的に言えば「知的な手順の階梯」としての「実践スキル」とは「言語」のことだ。
 私自身は内的には別段「言語」によっては「整理と処理」は行わない。だいぶ以前にそれを試みてえらい目に遭って懲りた。


 日本において言語とはーーつまり「日本語」は「言霊」的な呪縛を使用者に対して作動させてしまうことが多い。
 ついでに言うと、京極夏彦の「妖怪シリーズ」において京極堂が仕掛ける「憑物落とし」とは、上述のようなシステムのもとで「言語」によって自己の問題を「処理」し「隠蔽」することによって、問題の根本的な解決を無意識に回避し続ける「知的人物」が、何よりも自らに作動させている「言霊」の呪縛を、使用者と同様の体系と階梯を構成する「言語」=「言霊」を便宜的に使用することによって「更新された認識」を与え直して解除し解き放つ、というプロセスの集大成的な行為である。


 だから京極堂の「憑物落とし」の本丸的な対象は、多く言語の操作と言語による自己操作に長けた「知識人」であり、そして「言語=言霊」の二重作動によって引き起こされた彼らの「認識錯誤」を解除し矯正することによって「所詮は虚妄としての正しい認識」に引き戻す。
 「正しい認識」に引き戻されたとてそこには「正解」も「幸福」もなく、クリアに透徹した認識を貫徹させた先に見えるのは、ただ虚無だ。誰が救われるのか。すべては徒労に過ぎない。


 言語を論理を認識を自在に操作する者にとって、いかなる言語も論理も認識も、プラグマティックな「処理」「矯正」「変換」「新規更新」のために等しく交換可能な「虚妄」に過ぎない。「真理」などあろうはずがない。
 京極道が自らを「ペテン師」と呼ぶのはその故であり、そしてそこにこそ彼の悲しみがあり、「言語による認識装置」としての人間の、逃れようのない悲劇がある。


 京極作品の言語過剰は、かくなるアイロニカルな「人間の本源性」に対する「絶対的相対的認識」に由来し、そして時代設定としての昭和27年という「言語過剰・認識過剰の時代」を舞台装置とすることによって、かろうじて成立し得るものだ。
 

 「言語」が作動させる「構造的な認識錯誤」。「言語」に宿る「構造的錯誤性」。
 それは全言語のあまねく普遍的な原理でもあるが、あるいは日本語の「言語=言霊」の二重性にも規定されている。
 言語が「呪」として作動すること。そして、言うまでもなく「言語=言霊」の日本的風土に規定された二重性とは、すなわち「近代=前近代」の二重性の、上部構造から下部構造にまで至る根底的な基盤を指し示している。
 だからこそ近代的な言語の論理の認識の階梯が、前近代的な言霊の「業と因果」の縁起論宿命論の呪縛へと変換されて機能してしまうのだ。


 当事者にとっては言語的な近代性に規定されているつもりの、言霊に基づく前近代的価値観に駆動された錯誤的な「近代的」行動に対して、前近代的な言霊の呪縛性を纏った近代的言語と論理の階梯を用いて「虚妄としての正しい認識」を吹き込む作業により、当事者の言霊的な呪縛性の全景を開示し、そのうえで「真正なる言語的な近代的認識」という「虚妄の呪縛」を当事者の内部に新規に埋め込む。


 これが京極堂の「憑物落とし」の常套的な手口だが、しかし彼の手の内において「近代」も「前近代」も共に等価並列で交換可能な「虚妄」に過ぎず「言語=言霊」「近代=前近代」という二重構造を「鳥瞰的かつクリアに」見渡し掌握したうえで、状況とそれに対応する実効性次第で便宜的かつ恣意的に運用するという、いわば「知能犯的な腹芸」なのだ。


 そのとき、京極堂自身の「当事者性」は捨象され括弧に括られ、ニュートラルなーー状況の外部に位置し、「憑物落とし」において彼は「言語=言霊」「近代=前近代」のロジックと認識の、超越的な特異点にして自在な操作者となって「飛び地」から状況全体を、事実関係から認識から記憶の枠組みに至るまですべて掌握し支配し統御し得るーー机上の空論としての理論上は。


 状況と認識の外部に位置する超越者である「言霊使い」もまた、ひとりの痛みを感じる人間に過ぎず、しかし彼はそのはかない限界に至るまで、自ら括弧に括って「脱構築」してしまう。
 そして「状況と認識の超越者」として、あくまでも限定的に構築された水槽的な空間内で振舞うーー


 観測行為そのものが不確定性を内包する。これこそ京極堂が「シュレーディンガーの猫」にたとえて繰り返し語った、現代なら「ゲーデル不完全性定理」とリンクし得る、現在に至るまで本源的な問題設定である。
 

 そしてかくなる「知能犯的な腹芸」こそが「言語=言霊」「近代=前近代」という不可解な等式が成立してしまう、明治以来の鵺のような日本的風土の真髄であった。
 近代と前近代という、光と闇の混交。その明暗のコントラストがもっとも鮮明に露出した「時代の亀裂」として京極夏彦が設定した舞台装置としての時代背景こそが「昭和27年」だった。
 登場人物達の作為的な「言語過剰・認識過剰」は以上の「あるいは仮構された歴史的必然」に由来している。


(ついでに言えば、榎木津礼次郎は「無言語過剰・無認識過剰」という、作品世界の「脱構築」的な存在として、京極堂関口巽に代表される「言語過剰・認識過剰」をデフォルトとする「妖怪シリーズ」の世界観に対する、作品内を貫徹する世界観全体を相対化し無化して転倒させる「抜け」として機能している。
 だから榎木津の言動にも認識にも事実上「主体性」に要請された意味など存在しない。そして、意味の階梯を構成しない認識に基づいて徹頭徹尾意味を構成しない言葉をまくしたて無意味に振舞うという一点において、榎木津の存在は作品内の構造を支える重要部品として意味がある。
 構造的な遺漏と欠落さえも「抜け」という「あらかじめ用意された虚点」として作品内に意味付け回収することによって、作品世界の間隙なき自足した完結性を補完するために)


 余談だが、京極夏彦にとっての「妖怪」とは、宮台真司の言葉を借りれば、世界の本源的な未規定性を縮減させる「意味」の特異点としての「サイファ」の謂いである。詳述する余裕はないが、つまり宮台が京極を評価するのは以上の文脈による。


 そして前近代において機能していた「妖怪」というサイファが無効化した近代において、すなわち「神が死んだ現代」において我々は、前近代と近代の亀裂から剥き出しに露出した「世界の本源的な未規定性」にいかに対処していくのか、新たなる「意味」という「近代的な呪縛の装置」に拠ってか、それとも、独我的なコギトすらもすべて等しく虚妄と見定める「認識」のフレキシブルな舵取りに拠ってなのかーーかくなる普遍的な問題設定を極端なまでに前景化させる背景装置として、前近代と近代の、光と闇の亀裂が最大化した「昭和27年」という「思考実験の水槽」が恣意的に選定されたのだ。


 「言語過剰・認識過剰」は、近代と前近代の最大化した亀裂の、その甚だ不安定な地盤上で翻弄される「他律的ディシプリンによって統御された近代的個々人」の根源的なオブセッションと危機意識によって招来される。
 そして「言霊」として「因果論」として変換され自律的な自動作動を開始した「言語と認識」の過剰なる暴走は、当事者のオブセッションと危機意識をーーあるいは反転と瓦解としての統合失調をーーよりいっそう増幅させ肥大させるのだ。


 これはまさに、19世紀末以降におけるフロイトの革命的な認識であり図式であり、そしてかくなる状況に対して彼が実践した「精神分析」とは「自律的に暴走した誤った言語と認識の体系」に対して「外部から他律的に正しい言語と認識の体系をインストールして正常化し矯正する」という端的な再社会化の試行であり、断固たる家父長的な現実・社会還元論者の使命感に基づいて「社会逸脱者」を「再社会化」へと強行着陸させるという、まさしくオブセッシヴな信念に駆動された果敢な挑戦だった。


 むろんフロイトの考える「正しい言語と認識の体系」が、事後的に検証すれば個人的バイアスのかかりまくった問題だらけの代物であったことは、すでに周知の事実であるし、また彼は自身が導入した「正しい言語と認識の体系」の真正さを露ほども疑わず、その虚妄性など考えもしなかっただろうが。


 そして、かくなるフロイト京極堂の相違こそ、近代の認識とポストモダンの認識の相違である。


 フロイトが「矯正」し「正常化」しようとした帝政ウィーン下の「患者」達は「近代」の他律的な抑圧によって「言霊と因果論」に変換された「言語と認識」の自律的な過剰なる暴走を発動させた。
 そう、近代の覇権下においてディシプリンによって抑圧された(あるいは身体的性的な)前近代こそが「言語過剰・認識過剰」を発動させる。
 「他律的に決定された近代人」はーー「生得的かつ内発的かつ自律的」に身体に刻印された前近代という闇を懐かしみ、希求しているのか?


 そのーー「定言命令に従順な近代的個人」の実存に関わる亀裂が最大化した、フロイトにとっての帝政ウィーン、京極堂にとっての昭和27年において、彼らはもっともよき「施術者」たらんとした。
 フロイトは彼が心底からその真正さを確信する「近代的な言語と認識の体系」によって。
 京極堂は彼が毛ほどもその真正さなど信じてはいない、便宜的に選択され運用された「近代性に規定された前近代的な呪縛の物語、その新規更新・再試行・再プログラム」によって。


 かくなる相違とは、前述した通り、彼らの基盤としての価値体系における「近代主義」と「ポストモダニズム」との相違である。
 京極堂とは、昭和27年の段階における、近代と前近代の亀裂と葛藤の「第三の道」を行くポストモダニズムの認識的実践という、本来はありえない思考実験の担い手として京極夏彦が設定した「キャラクター」である。むろん昭和27年に「ポストモダン」という言葉も概念も存在しない。これがいかに困難なる作業であるか。
 娯楽的な職人とやたら自称したがる作家は、まことに迂遠な手つきで、おそろしく高踏的かつ高水準な思想的達成を成し遂げ続けている。


 東浩紀による超要約を引用すれば、ポストモダンとは自己が自明と信じる価値観を他者に通用させられずまた他者に対して適用し得ない時代状況であり、かつその認識である。
 「狂骨の夢」における、図式化したところの、京極堂フロイト精神分析理論との相克とは、つまりは上述の通り、意図的に構成された時代的文脈の相違に基づく「ポストモダニズム」と「近代」との、虚構の水準において設定された時空を超える「並置された認識間の対立」としての「思想対決」のシミュレーションなのだ。
 そしてむろん、現在の時点から再構成される「思考実験」においては、常に「あまりに早すぎた」ポストモダニズムが勝つ。
 その勝利の悲劇的な相貌を、京極堂という「近代的個人」は仮面のごとき固定した仏頂面に背負って。


 「任意の傾向的な認識体系」に自ずから規定され、かくなるシステムの自律的な自動増殖に侵食されてゆくーー「認識の錯誤(=バグ)」を内的または状況的なプログラムの根底的な基盤として初期設定において導入してしまったーー「知識人」達。
 その帰結として、彼ら彼女らは起源的に埋め込まれた「知的な認識の錯誤性」という「構造的病巣」によって、自らも把握できぬオブセッションを抱え込んだまま破綻に向けて駆動されていく。


 彼ら彼女らの内部に初期段階においてインストールされ、時間的な経過とともに自律的な増殖と暴走が進行して緩慢なる損壊活動を継続させ、最終的にはプログラムという「宿主」自体の自己分解という内破へと帰結するプログラムバグ=「認識の陥穽」あるいは文字通り「瑕」。


 かくなる「構造的病巣」の進行の末期的な最終段階においてはからずも重い腰を上げ、個々の「バグ=錯誤性」の様相に対応して「最適化されたプログラムとしての言語・論理・認識」という、いわば「ウイルスバスター」によって「母体としてのプログラム」から「プログラムバグという認識錯誤」を検出し精査したうえで撃ち、「虚妄としての正しい認識」の「新規設定」「再試行」という「再プログラム化」によって、母体に食い込み彷徨するあらゆる「バグ」を解除し虚空へと解き放つ。


 殺戮の惨劇の幕を自ら引き、「プログラムバグ」を引き起こした「さまよえる魂」=すなわち「近代的認識錯誤を招来させた前近代的因子」の墓を掘って埋め続ける男。
 「認識のプログラム」の成立過程において初期因子として胚胎していた「想いと記憶」という「バグ」を「成仏」させる墓掘り人。
 そんな「認識を近代に奪還することによって、前近代の因子を地下に葬る」葬送者の役目を心ならずも果たし続ける、言語・論理・認識という虚妄を自在に操作する、近代に生きる「言霊使い」ーーーー


 しかし「構造的なプログラムバグ」を検出して空に解き放ち「成仏」させたところで、長年にわたり「バグ」に深く侵食された「プログラムの母体」は修復不可能なまでに致命的に損壊されている。状況も、人間も。「初期化」することなど、できるはずがない。


 「解き放たれた」ところで彼ら彼女らは「救われた」わけでも「生き直せる」わけでもない。身に巣食う末期の病巣を強制摘出され致命傷を負った彼ら彼女らは、多く無惨に死に、再生不能となり、状況の致命的な損壊は、決して浄化されず、すべてが絶えた後には朽ちた廃墟が残るばかりだ。


 誰も何物も止揚されることはない。「前近代の因子」として便宜的に処理され葬られた「さまよえる魂」の奪還と救済そして鎮魂など「全能の言霊使い」にさえもーー否「全能の認識操作者たる言霊使い」だからこそ、決して為し得はしない。それこそが、近代に生きる「全能の認識操作者」の、所詮無力でしかない限界。
 すべてが回収される場所はただひとつ、どこにもない彼岸という虚無、そして生者と死者の「想い」と「記憶」に食い荒らされた、荒廃しきった墓石の残骸だ。
 あたかも村上春樹が翻訳したマイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて(Shot in the Heart)」のように。


 以上の「構造的帰結」を、頭脳明晰で所詮無力な「ペテン師」「言霊使い」は、その初めから知り抜いている。
 「問題」を切除し摘出したところで、誰も救われない。ならば自分が関与することに、いったいいかなる意味があるのか。しかし、それができるのは自分しかいない。
 誰かが自分に乞い願う。「傍観者」であり続けるしかない自分に。
 

 誰も救われなくとも「問題」を切除し摘出し「成仏」させることーー
 しかし「構造的なプログラムバグ」の、プログラムが作動し続ける限り無限に続く自動増殖と、それによる悲劇の再生産に終焉の幕を降ろすためにも、誰かが「悲劇の再生産システム」としてのプログラムの息の根を止める鉈を振るい、執刀を手掛けるしかないのか。


 手術成功、患者死亡。それは執刀以前から予測し得る帰結。「想定外の快事」は、いつだって絶対に訪れない。それでも「乞い願われて」自分がメスを振るわざるを得ない。
 「墓掘り人」の役目を、為し得るただひとりの末裔として果たすためにーー


 決して彼の表情には露呈しない、近代の過渡期を生きる「陰陽師」の、底知れぬひそやかな悲しみと無念と諦念。


 あのあまりにも有名な「絡新婦の理」の冒頭、桜吹雪の下で対峙する京極堂と「憑物落としの必要などない」「蜘蛛」との雄弁なる「議論=思想対決」において提示されるきわめて重要な命題、京極堂の吐露する、あまりにも苦い覚醒した意識ーー僕の悲しみーーとは、このことなのだ。


(大脱線しました。しかしこの話はたぶん続く。ーーフェミニズムに関する本題へ向けて)