「妻」「母」という制度的存在

 森昌子の話、続くのかなあ。


 いやね、前項で提示した認識を一般的な「自明の」大前提としたうえで、それでも顰蹙覚悟で「ケーススタディ」として言挙げるけどさ。


 20年だかそれ以上、「一線」ですらない、現場を完全に離れていた人間が「専門的技能職」に復帰できるって、世間的標準なんですか?許容範囲に収まるの?


 年配者に言わせると、歌のうまい人だったらしいけれど、アイドルですよね?
 いや別にアイドルを蔑視しているわけじゃない、該当世代の需要もあろうし「今頃復帰」しても一向に構わないが、ということは林寛子沢田亜矢子早見優松本伊代と同じ扱いでいいわけですよね?ワイドショーやバラエティーの御座敷芸者。
 歌手活動?「女盛りゲザデレタ」って御存知ですか。説明したくないので検索してください。セカンドシングルが出たという話を、私は寡聞にして聞かないけれども。


 そもそも、たとえばいま山口百恵原節子が「復帰」したとて、センセーションこそあろうが、該当世代以外のどこに需要があるのか。それを知り抜いているのは、賢明なる当人達なわけだが。
 贔屓目の憶測だけどさ、私は、山口百恵は離婚しても「復帰」とか「告白手記」とか、絶対やらんと思う。たとえ3人の思春期の子供を抱えていても「スーパーのレジ打ち」とかで稼ぐんじゃないかしら。周りが放っておかないだろうけれど、本人の「プライド」として。
 「プライド」ってそーゆーもんでしょう。


 いや知ってるよ、森昌子が元「旦那」とペアでやってた「じゃがいもの会」とかいう「公共性に資する個人的趣味」のことは。立派なことだと皮肉でなく思うが、皇太子妃が望んだとかいう「皇室外交」と、否、白金の有閑マダムが自宅で主宰する「被災地に送るキルトのパッチワーク教室」と、さて何が違うのか。


 「チャリティーショー」で(ましてや主宰者を兼ねる)演者のスキルや芸を云々する人間はいない。かつて中野翠渋谷陽一が、その「構造的に弛緩した空間」を問題としていたが、そーゆー連中は「タニマチ的風情のない無粋なうるさがた」として黙殺処理するのがマジョリティというものです。いいじゃないですか、24時間テレビで丸山弁護士が上島竜平が杉田かおるが走ろうと。私もそのほうが退屈極まって面白いし。


 20年のブランクを経た「アイドルの歌唱力」が「現在の音楽界で商業的に要求されている水準」に達しているとは、到底思えないけれども。言いたかないが「現在の芸能界で商業的に要求されている水準」をクリアする「審美的価値」もまた。


 もちろん「歌唱力」や「メディアにおいて商業的に要請される審美性」などなかろうと「商品価値」さえあれば「芸能人」としての御座敷はかかる。前述の元アイドルしかり。
 そしてノスタルジアな該当世代以外にとっての現在の森昌子の「商品価値」って何かというとーー前述の「元アイドル」達もそうだけどさ、「森さんちの奥さん」なんだよ。
 あるいは「黒澤さんちの(元)奥さん」「ヒロミさんちの奥さん」「ウルトラスーパーゴージャス松野さんちの元奥さん」。


 で「じゃがいもの会」ってのは完全な「森さんちの奥さん」ビジネス、と言って悪ければ事業の一形態であり、他にも公には顕在化し得ない無数の「森さんちの奥さん」事業が存在したわけです。「事業」というのは比喩ですが。カネが動かなくとも、社会的価値が流通する。


 かくして離婚後も一般に流通して浸透した「森さんちの奥さん」という「属性的記号」としての「社会的価値」こそが、森昌子の築き上げた無形の、そして唯一の莫大な「特権的保有資産」となる。
 長年かけて築いたかくなる「特権的価値」の「高沸した天井値としての変動的時価」と、その「もっとも高配当をもたらし得る売り時」を、彼女も周囲の人間も認識したうえで冷静に見極め判断しており、だからこそ早々に「暴露的」な「告白手記」を書く。
 離婚した後も「森さんちの奥さん(だった人)」という唯一の「社会的価値」を活用し運用して芸能界で「歌手」という「別格」として生き抜きサバイバルしていくために。
 嫌みたいよ、前述の「元アイドル」達や杉田かおるのような「ヨゴレ」として食っていくのは。ホラ「森さんちの奥さん」としては。


 離婚しても、きっと彼女は死ぬまで「森さんちの奥さん」という「社会的価値」の看板のみを背負い続けるだろう。あるいは決して消えない烙印として。
 「森さん」と縁がなくなろうと死ぬまで「森さんちの奥さん」という「公的存在」のままであり、また、ただ唯一それでしかないのだ。
 その看板の呪縛と拘束が嫌なら「森さんちの奥さん」という「特権的保有資産」をなげうって「スーパーのレジ打ち」で3人の子供を養うしかあるまい。彼らももういい大人だ。


 「かつてのトップアイドル森昌子」は、もう20年間「森さんちの奥さん」でしかなく、つまりその帰結として20年間「専業主婦」で「妻」で「母親」でしかなかったのだから。
 もっとも、森昌子自身そんな「自己革命」の大鉈を振るう気概もまるでなかろうし、「森さん」の呪縛は私的にはともかく、「これまで築き上げ流通浸透させた固有的な属性記号」としての「公的存在」であること自体はちっとも嫌でも、別に枷でもないのでしょうね。
 だってこれまでずっとそうだったんだし、そもそも他に何かスキルとか、存在証明(=他人に証すべき自己の固有性の根拠)とかあります?


 なんだか「ものは言いよう」の中で「フェミ・コード抵触!イエローカード!」と斎藤美奈子に揶揄されそうな口跡になってきた。
 そもそも20年間「森さんちの奥さん」が務まったほどの、根っから真面目で悪気のない(だからワイドショーにもバラエティーにも向かない)「いい人」らしいし、前項で示した「大前提」通り、他人の処世をどーのこーのと言いたくはない。
 しかしね、こーゆー「特権的処世」を「母親という物語」を、看過し黙認してよいのかフェミニズムは。


 言っておく。森昌子に引退して家庭に入ることを強く望んだのも、そして20年間、公的にも私的にもただ「森さんちの奥さん」であり続けることを「強制」したのもむろん森進一だろうが、彼の示した選択を自ら受け入れ、夫となった男の志向と願望に対して従順であり続けたのは、ほかならぬ森昌子自身である。
 森進一が、その不幸な半生ゆえ「古きよき家庭」を「古きよき家父長である自分」を強迫的なまでに希求し渇望していたことくらい、部外者だってわかることだ。彼がかつて短期間で大原麗子と別れたのはいったい何ゆえか、あまりに紋切型に明瞭である。
 そんな哀しい男の絶対の願いを受諾し「大原麗子と正反対の家庭的な女」であろうとし続けることを決めたのは、森昌子自身だ。


 その献身は20年目にしてなるほど破綻したが、それはまあするだろうが、しかしその20年を「夫に奪われた20年」だなどと森昌子に言う権利はない。いや、言ってないとは思うが、一般論として。
 「恋は盲目」とはいえ、人生に関する決断とその帰結の構造的な予測くらいは付いたはずだ。「夫と3人の子供に奪われた20年」と言うのなら、まだ真正直なだけ聞く耳持つが。
 「極端な(昔気質な、あるいは前近代的な、ともいう)人生観・家族観を抱く男の家庭に入る」ことが、あるいは13階段であることくらい、当時の状況でも認識できるだろう。「結婚」も「家庭に入る」も価値選択または価値同調であり、かくなる主体的かつ同調的な価値選択の帰結もまた、いずれは来たるべき決算において示されるのだ。
 皇太子妃の現状に対して同情的なフェミニストは、あまりいない。


 森昌子が離婚して「家父長制的な近代家族の物語」を脱したところで、結局「母親という物語」を代わりに「公的に」生き、あまつさえそのことを処世の資産としていることに何ら変わりはない。
 「奥さん」から「母親」に、記号としての属性が変更されただけである。
 生物学的に「3人の男子の母親」であることは一向構わないのだが、しかし森昌子の場合「存在」自体が「母親」なのである。
 「社会的存在」「唯一の固有性」として「母親」でのみあること。
 これはむろん森昌子ひとりに帰属し得る問題ではない。
 「誰かの奥さん」「誰かの母親」であることが「社会的な唯一の固有名」であり、ただそれだけでしかないこと。これはいったいいかなる「異常」事態なのか。


 近代の家族制度とは「妻」であること「母親」であることを「社会的な最小規模の構成単位」として組織することによって成立した。
 そもそも「妻」という概念自体が「社会的に構成され組織された、近代の他律的イデオロギーとしての最小単位の制度と、その主体的な内面化」に過ぎない。


 だから一夫多妻男は別件で逮捕され処罰される。社会的に無害ならどんなバカげたカルトだろうとコミットする人間の勝手なんだから放置すりゃいいと私は思うが、しかしそれは「公序良俗」を乱す不埒な行いだから官憲がしょっぴかねばならない、というのが「近代国家」が貫徹する権力意志なのである。
 まああのタコ坊主の場合「洗脳」という問題が絡んでいるわけだが。


 しかしたとえば「母親」を「社会的存在」として概念的に規定し「制度化」すること自体は、共同体を解体してアトム化した個々人をただ国家のみに帰属させる近代の過程において「母親」という「制度」が生物学的事実性に依拠しなくなることをも意味するのだから、あるいは母系共同体的な血縁中心主義から解き放たれるよい契機でもあったわけだが、日本というかアジア全体において、実態は全然そうなってないわけである。


 血縁万々歳の二重基準でしょう。皇位継承でモメてるうえ、その勝手にしやがれ的な長子だの男系男子だの妾だのというゴッタゴタを「クオリティペーパー」が「私達みんなの議論」として報道するわけです。しまいには「神武天皇以来連綿と万世一系によって受け継がれるY染色体」などという面白すぎる論説が「クオリティマガジン」の巻頭を飾るわけです。
 あのさ、保守って共同体主義じゃなくて近代主義だよね。


 倉田真由美が書いていたが、あーゆー「前近代の家督相続」的な議論が「公共性に資するもの」として公然と語られる光景は「女」として甚だ不愉快だ、とゆーのはよくわかる。
 どうでもいいことではあるが、くらたまは現在独身で、息子を九州の両親に預けている。


 「近代的な家族制度」も「共同体的な血縁主義」もまた、くらたまやあるいは中村うさぎ岩井志麻子のような「逸脱的」存在を除外した「よき行いをする人々」という恣意的に分別され規定された基礎を前提として成立している。ーーいまやかろうじて。
 まして「近代」と「共同体」の、「家族制度」と「血縁主義」の、ヌエのようなダブルスタンダードとしてのアジア的風土においてをや。


 「逸脱者」は制度と共同体の外部に、同時に遺棄されるのである。
 そしてかくなる制度と共同体のバスに「乗り込み」安住する者だけが「既得権」を手にし、あまつさえ森昌子のように「奥さん」であることや「母親」であることを金銭的利益に換算させる=つまり「妻」や「母」を商売とすることを可能とさせる。


 「妻」や「母」という商売、それは何も森昌子らのみに許された「特権」ではない。無自覚なマジョリティにもまた、敷衍し得る問題なのだ。
 あいにく私にはさっぱり意味がわからないのですが、いったいありゃ何ですか、納税の配偶者控除だの、死後払いの生命保険だのってのは!
 「妻」や「母」であることを金銭的利益によって報いる。それこそが制度と共同体のバスに乗り込んだ者に与えられる特権という名の餌であり、制度と共同体の側が仕掛ける狡猾な訓致の本丸である。
 そして「妻」や「母」という「訓致され調教された特権享受者」は多く、そのこと自体にすら気が付かない。「当然の選択」をしたつもりに過ぎないのだ、本人的には。
 そんな、制度と共同体への順応と安住によって調達される無知無自覚の能天気こそを「既得権」と呼ぶ。


 「既得権」にすら気付かぬ能天気な彼女達の視界において、くらたま的存在や、まして中村うさぎ岩井志麻子などに代表される、はるかにインビジブルでボーダレスな世界観を生きる人々の「生のあり方」や「プライド=尊厳」など、いっさい勘定されないブラインドの領域に放置されているのだ。


 そしてマジョリティとしての「制度と共同体に守られた既得権享受者」達は「制度と共同体から疎外され遺棄された逸脱者」達をあらかじめ排除したうえで「私達のプラットフォーム」を掃き清め、なお「プラットフォーム」に残らんとする意志を示す者達に「暗黙の制度的・共同体的合意」としての「一律化された、当然の価値観・生き方・振る舞い」を、およそ無自覚に強制する。


 かくして彼女達に代表される「制度と共同体の無自覚な手駒にして尖兵」から、主として意志的に体制側に位置する「制度と共同体の自覚的な手駒にして尖兵」に至るまで、一律化された膨大な「人的インフラ」によって、制度と共同体という「独善的かつ排他的なプラットフォーム」は維持され、再生産されていくのだ。ーーラインからこぼれ落ちた「逸脱者」達もまた。


 差別ではなく区別。迫害ではなく排除。人間集団の切断的なゾーニング。母集団内における純化志向とその果ての粛清。超価値的な血統への志向ーーーー
 すべては、時代潮流としてのネオリベラリズムが招来した、必然的な逆説的帰結である。


 ニーチェが謳った、多数の弱者が支える制度と共同体によって抑圧される少数の強者って、つまりはこーゆーことかしら。


(たぶん続く)