生存のためのミッション

 しかしね、森昌子が歌手復帰って、いったい何なのですか。
 まあ前夫のほうはともかく、こちらは全然興味もない人物だし、そもそも私が現役時代をリアルタイムで知っているはずもなく、人が何して生きていこうと御勝手なわけですが。
 穏健に分節化して言い直すと、生存のためにその当人が取り得る最善の選択肢を、たとえそれが理不尽に特権的な「既得資源」であろうが、エゴイスティックに活用し運用し、「特権的な固有の資源保有者」が「特権的権利」を享受することは、いかなるやましき行為でも恥ずべき振る舞いでもないわけです。当然のこととして。


 その点は確認しておかないと。またぞろ福祉受給者や引きこもりに対する反発と非難攻撃という、抑圧されてオブセッシブへと変容したマスのルサンチマンによる、バックラッシュの温床になりかねないフレームだからね。
 最優先されるべきは生存。そのための戦略は個々人の(有形無形正負いかなる形であれ)保有資源に拠ってケース・バイ・ケースに対応するが、しかし個別的な事例に際して当事者同士や第三者による優劣や序列の階梯は導入されるべきではない。
 だからこそ、自身の少女性・女性性という既得資源を活用して生存戦略を立てる援交学生や性労働者と、自身の学歴や社会的価値という既得資源を活用して生存戦略を立てるキャリア志向の高学歴女性とは、生存の同列なる二形態に過ぎず、優劣や、まして貴賎などあろうはずがない、と上野千鶴子は正しく喝破しているのだ。


 「未生以前の所与のものとしての確率論的相続的な、限定性としての自明な拘束的前提」(「宿命」などというHate Wardをこの文脈で使いたくない)として自己に与えられ奪われた、個別的な限られた条件と資源の、限界と可能性の中でいかに「限定された自己に合致する高配当な」生存戦略を立て得るか、その一点に「限定された知恵」を精一杯絞ることは全女性、否、あらゆる人間にとって最優先されるべきミッション・インポッシブルであり、そのミッションの残酷な=所詮限定的な個別性に対して抽象的・社会構造的な序列を導入するべきではない。無惨だ。


 極端な例だが、佐川一政がメディアに露出して生計を立てることを非難できるほど、御立派な生存のミッションを自ら遂行していると確信し得る人間っていったい何なのか。
 堀江貴文に「額に汗して」と宣う「経営者諸君」か。不埒な若者に「心の教育」を説く与党政治家か。少子化をことさら嘆いて見せる論客か。
 斎藤環がイヤミったらしく揶揄してますよ。連中は驚くべきことに、他人を教え導き「正しい生き方」を説くことができると考えている、いったいいかなる修行を積んだら、そのような境地に到達できるのか、とね。
 こーゆー手合いに「労働生産性の虚妄」とか「ポストモダンの原理」とか「ジェンダー概念の理論的文脈」とか説いたところで、ハムスターに語学教育するようなものである。


 槙原敬之の逮捕報道に対して、他人様のSEXをあーのこーのと突つき回して嘲笑できる連中って、御自分はどんな立派な「正しい」SEXしてらっしゃるんだ?と怒っていたのは「まんがバカ一代」という元有名テキストサイトの書き手だったが、弱小ライターがメディアにペラペラ「人食いさん」として「顔見世興行」するのも、弱小営業がクライアントにヘコヘコ頭下げて仕事もらうのも、同じっちゃあ同じなんである。弱小営業経験者として言うならば。同じくらい情けないし、同じくらい崇高だ。


 もちろん「生存のためのミッション」は、同時に他者の「生存」と「そのためのミッション」を阻害・侵犯・剥奪しない範囲で遂行されなければならないーー絵空事としての理念・本来においては。
 その理念こそが「公共概念」というーーエゴイズムの拡張範囲を規定し制御する他律的で定言命令的な「限界設定値」であり、その実際的な運用形態として現実の法体系は、ある。
 しかし佐川に関しても、拙文で述べているのは「事後」の彼自身の生活運営の話である。
 変態の人殺しに「生活設計」などありえない、そう仰りたい方はどーぞ御随意に。別に私は彼のシンパじゃないが「欲望」で人殺す輩は多いわけです。「金銭欲」や「正しい性欲」で人殺す奴はまだ「理解共感可能」であるからマシだと?よもやラスコリニコフ(的殺人者)は「特別枠」じゃないですよね。
 別に私は人殺しを殊更肯定はしていない。ただ「行為」に対する「人倫的」な二重基準が存在し、歴史的に個々の判例に至るまでそれが反映しているのなら、その二重性には自覚的であれ、というだけの話。


 そもそも私は、カニバルタブーのタブー性が根底的な根拠を問うまでもなく自明な前提としてあるものだなどと、ちっとも思ってないですが。
 深く突っ込むと面倒な話になるからしませんが、まず佐川のケースは戦場等における文字通りの「生物的生存」の危機を動機とした食人ではない。
 「性倒錯」とかオブセッションって、文明人の文明人たる所以であり宿阿であり尊厳でありレゾン・デートルだと思いますがね。
 以上の2点を最低限押さえてから、この件については応用問題に進むべきでしょう。いまは進まないけれども。


 自分が「正しく公共的で高邁な」仕事=金儲けをしている「正しく公共的で高邁な」人間だ、と思い込める「主観的社会的成功者」としての「御立派さん」が何を口走るかというと、前述の「額に汗して」だの「心の教育」だの「母親の愛」だのという「教育的善意」に満ちた通俗的絵空事なのである。
 あの「マネーの虎」の「虎」達が、カタギの「上場企業のエライさん」だったら、と想定すると、これはもう寂莫たる「入社役員面接風景」だろう。


 「狂」なき通俗儒教のような、人間社会の中心的な価値観を無検討のまま愚直にディシプリンとして内面化した「正しく、そして正しいことを他律的に認定された人」の説教くらいつまらないものはない。
 一般的に、人間はエラくなればなるほど公的には「面白いこと」「リスキーなこと」を口にしなくなり「正しいこと」「妥当なこと」しか言わなくなるものだ。わからないでもない。
 権力運用者どもが揃いも揃って小泉純一郎やブッシュのような、無鉄砲でフリーキーな「逸脱的症例」ばかりだと、マジで世界が終わるんで。


(眠くて気絶寸前なので中断。森昌子フェミニズムにわずかにリンクする話は続く)