スノードームのトゥルーマン

 前項の続き。


 半睡半夢状態での与太から真面目な話に転調するとーー結局、円環を閉じてはならないし、もはやどうあっても閉じようがないものなんです。
 円環を閉じることを目的として生きてはならない。


 件のザッパイスト「50代絵描き」とて、結局円環を閉じようとする試みは失敗し、その「閉じ損ねた亀裂」から「完結した円環」という「美的生活の幻想」の外部へと、円環構築者自身が排出された。
 結局、彼は「美的生活という自足した円環の完結」の構築に破れ、掌中のささやかでつつましくも美しい「スノードーム」の薄いガラスは破れ、実は単なる紙片に過ぎない書割の模造雪とともに「スノードーム」の外に、その「美的生活」という脆弱で貧弱な、しかしそれゆえに精緻で繊細な「スノードーム」の決壊とともに追放された。
 そして精巧な細工物であった「スノードーム」もまた、ピラピラの紙切れとガラス片と、マッチ棒のカカシのような雪ダルマの陳腐でチープな残骸と成り果て、すべての幻想は虚空に雲散霧消する。


 彼が大事に抱えていた「美的生活」という「スノードーム」は、彼自身が創造、否、模造した虚構の贋物だった。そして彼は、自らの手で作り出した虚妄の美しき「スノードーム」の中で「自足してハッピーに」暮らしていたのだ。十何年も。何十年も。


 自らの生の「よりよき」環境構築として、虚構の世界を自らの手で捏造し、その「虚構の天蓋」の下で、すなわち「統御され管理された水槽」の、サーモスタットや濾過装置等によってメカニカルに定常調節された異物雑音なき「精神のネズミ王国(舞浜のアレ)」の只中において、自身の創造した「虚構の世界観」という箱庭のミニマルな構成物として「美的生活」というジグソーパズルの「最後の1ピース」として「美的生活という停止した絵画」の完成のために「よりよく」生きるということ。


 それはほとんど、現実の熱帯魚飼育ですらない、あたかも「シムシティー」「シムアース」のような「ヴァーチャルな」熱帯魚育成ゲームの様相を呈している。
 自分が住みよくするために自分が住む街を創る。自分が住みよくするために自分が住むことになる地球を創る。自分が暮らすに際して快適な「完成された世界観の箱庭」を自身の手で盆栽飼育のごとく仮構し醸成し、その「美的生活」という「概念的仮構空間」の「縮小され意味縮減された天蓋下」に自ら「縮小され縮減されて『収納』される」。


 そしてその、まるでピーター・ウィアーの「トゥルーマン・ショー」のような「意味と文脈が縮減され単純化された、機能的でシンプルにデザインされ設計された水槽的に快適な人工世界」の中で、毎度おバカなジム・キャリーのように「楽しく充実した生を」完遂すること。


 しかし「絵描き」の彼はおバカなトゥルーマンとは違って、エド・ハリス演じる、自らが生きる「よりよき人工世界」のデザイナーで設計者でもあり、そして記述者でもある。
 そして設計者と機械人形、演出家と役者、踊らせる者と踊る者、白昼の夢を創造しその夢を生きる者。二役を生き続ける確信犯のトゥルーマンの自作自演の全米中継こそが、あの「下北沢日録」なのだ。


 下北沢という「人間味の虚妄で満ちた架空の街」=「懐かしき夕焼けの町」に、屋上屋を重ねるがごとく仮想現実としての「生活感なきシモキタライフ」を上演して仮構し、さらにそれを紙切れの雪と薄ガラスの天蓋によってパッケージングしてプレゼンテーションした「人間的美的生活」という「箱庭水槽世界」。
 それこそが、もろく壊れやすい「スノードーム」としての、彼が描き出した、ひどく通俗的な幻想の下北沢だ。


 もっともあの街自体が「文化」という影のような白昼夢を食って生きている蜃気楼の獏なのだけれども。
 しかしすくなくとも彼は、その「下北沢」という文化のゆりかごにして墓場、「もののけ姫」のシシ神のような文化の生と死を司る獏の、その虚妄の共同幻想性を知っていたはずなのだが。


 だからこそ彼は、神と木偶人形の両者を演じて踊らせ踊り、下北沢という「スモールワールド」=「文化」の総合病院にしてテーマパークの、作為的な日常生活での実践と作為の上塗りとしての事象の言説化における、修正主義的な再設計を行い、それを「クイックジャパン」というお誂えの媒体でプロパガンダしたのだ。「シモキタよいとこ一度はおいで」と。
 歴史的に規定された実相においてはーー新生児室と遺体安置所しか存在しない、文化の廃遊園地でしか、ない。


 もはやかの地はーーはっきり言えば現在の「クイックジャパン(的なるもの)」も含めてーー自覚なき教条的パロディとして再帰した80年代としての「シモキタ的なるもの」の広大な廃墟でしかないのだが。1000年後のネズミ王国のように。


 以上の言挙げをすべて、もしも「自覚的に」実践しているのなら、彼の営為はまさしくウォーホル的なのだがな。
 意味をあざといまでに無意味化(「非意味化」ではない)することによって、以前の意味と位相をスライドさせた=ズラした有意味なものとする行為。


 コンセプトとコンテクストに回収され得ない、端的な事実性としての「審美的な」フォルムの強度という、決定的なファクターの欠如を除けば(酩酊主義者って形式性に対してあまりに鈍感かつ無感覚である。やはり酒飲みやドラッグマスターって人工的構築性とは疎遠なのか。しかし矢作俊彦や彼が敬愛するヘミングウェイ・チャンドラーはそうでない。私も贔屓だ。飲酒や不倫が文化なら「本音」のクダだの犬も食わねえ痴話喧嘩だのよりも、人工的な演技性、すなわち「気障」と「気取り」を貫徹して頂きたい。離婚してまで長年付き合った女に切られて「サヨナラの代わりに、メリイクリスマス」と言いきってハンケチ振って見送った石田純一は、かくなる本義をしかと会得している。いや、普通言えないぞ、それなりの地位もある50男が捨てられる際の告別で。しかも奴は、情婦との「長いお別れ」の際にたぶんマジでその台詞吐いている。ここまでペラペラな自分を「男の痩せ我慢」として徹底し貫徹するその姿は、もちろんリスペクトに値するハードボイルドである。実際、石田の自伝「マイ・ライフ」はまことに気持ちのよい「愛と平成の色男」のまったき裏表なき、私小説的な「告白」にはまるで「堕して」いない稀有な告白だ。ここまで「内面性」を素で感じさせない人間って、今日びなかなかいない。さすがロバート・ハリスの畏友・笑・「タイトルがとてつもない」と山田五郎が言っていたが、「マイ・ライフ」と自伝に命名した近年の2大巨頭はビル・クリントン石田純一。何とも素敵な対の絵のようなツーショットである。ま、「バカと誤解されるくらいにフラットな内面の希薄さ」とそれに対応する「鉄面皮振り」など、共通点は多々ありますが。凡庸と愚鈍、というか。さてどちらが「愚鈍」でしょうか。脱線)、コンセプチュアルでコンテクスチチュアルな、挑発的な価値転倒の作為としては、時代錯誤なくらいに正統的では、ある。


 「下北沢」という廃墟のテーマパークとしての「架空の文化集落」を、再帰的にノスタルジックに「懐かしき夕焼けの町」としてーー「はじめから」どこにもないものだ、ということを前提とし、そしてその「根本的な非在としてのみ意識される、先取された死(ゆえにそれは最初からの「非在」であって「死」ですらない)」という根底的な切断を確認したうえでーー表象し空転させあわよくば空無化する、というのは、それなりにアイロニカルな含意があるし、「下北沢的なるもの」の非在と空無性とがらんどうを、永遠に持続する不能のような、表層的な狂騒と戯れの記号的無限反復の徹底した無意味性(やはり「非意味」ではない)の表象を通じて、それも本人自身の日常と身体を用いた消耗的なパフォーマンスによって倒錯的に突きつけ転倒させるのであれば、これは完全にウォーホルの縮小再生産的な方法論であり、つまり時代文脈的には(意味無意味の二元論化における「無化というカウンター」「無意味化を通じた意味化」という戦略も含めて)旧懐に属するが、現在の日本「若者文化」における「意味読解的な水準においてすら甚だしい文脈意識の徹底した不在・欠如」という悩ましき現状を鑑みるならば、その「甚だ遅れてきた」アクチュアリティと有効性も、認めるにやぶさかではない。私は全然つまらんが。


 しかしね、別に自覚も意図も作為も戦略も、価値転倒の目的すらも、何もないわけです、実際現物は。だからこれは私の深読み。
 ただの自己耽溺日記ですから50男の。「マイ・ライフ」のほうがよほどマシという。こちらの批評的読解こそ空転するわけですが。しかしそれなりにマジメな話は続きます。


 彼は、「神」であり「設計者」である自分を忘却してしまったのかもしれないーーそもそもの最初から。
 「下北沢(的なるもの)」という「満州国」の、共同幻想的な事実性によって事後的に担保された、その架空契約的な虚構性など「下北沢共同体」という「夕焼けの町」と「真正の契約」を交わしたつもりの彼は、とうに失念しているのだろう。


 おそらく社会構成から排除された「流浪の民」であったろう彼は、いつの頃からか「下北沢(的なるもの)」という「満州国」を、自らの「約束の地」として思い定めてしまう。
 それは「エルサレム」という不在の表象にして非在の象徴を「実在の故郷」として恣意的に設定するばかりではなく、すべての「あえてコミットしていた」フィクションを即時的に内面化してしまうことを、意味していた。


 「あえて」演じてコミットしたはずの「われらの満州国」という槿花一朝は、彼にとって現実の帝国へと変貌していた。
 彼はいつしか「密閉されたフィクショナルなスノードーム」を「現実」と錯覚し、「スノードームの設計者」であったその必然とともにある苦く痛ましい認識を忘れ、自身が審美的に構築した「共同幻想の王国」という結界内で「快適に」「よりよく」暮らす。


 「共同幻想」を創り出した当事者達が、その「幻想性」を忘れ「共同性」の母胎に耽溺するとき「事後的に集団的な恣意によって仮構された(エルサレムを中心とする)漂流民国家のような共同体」は完結する。
 かくして「共同体」の構成員たちは、もはやどこにも痕跡すら見出せない「非存在としての記憶」という(追跡も遡行もできない)どこかの誰かの恣意によって無自覚に駆動される、正真証明のトゥルーマンへと成り果てる。
 設計者を遺棄した「人々の合意によって設計された世界」の中で。「あえて」の喪失。
 それはすでに、利己的な行動の正当性&正統性担保のために、個人レベルにおいても集団レベルにおいても恣意的に運用され貫徹される「共同体的=集団的大義」の発動システムにしてトリガーでしかない。
 もはや彼らは、誰にも踊らされてなどいないのに踊っている。起源と出所をすでに見失った、かつて自らが自らに下した定言命令、その自己増殖的作動という自動装置の亡霊による呪縛によって。


 ーーかくして「幻想の共同体」は生成されるのだ。


 そして、件のザッパイスト「絵描き」は日録の結末において、自らもまた、その空中構築と掲揚に加担し、そしてまた私的個人的に「スノードーム」としてひっそりと胸に抱いてきた「幻想の共同体」から、放逐される。

 経済的事情によって余儀なくされた田舎暮らし。
 「共同体」からは地理的に切断され、「幻想」は崩壊する。「われらの下北沢」は蜃気楼となって実体を失い幽霊のようになり「私的なスノードーム」は粉々に砕け散る。
 しかし彼は田舎の別荘地で幽霊の夢を見て、割れたスノードームの破片を拾い集めるだろう。何のために?
 ーーあるいは、もう一度円環を閉じようと試みるために。悲しいことに、それはまったくの徒労なのだが。


 円環は閉じない。それは彼の咎ではない。現代の基本前提である。
 だから意味無意味の二項対立的なフレームなどはもはや機能しない。肝要なのは「非意味」だ。
 意味無意味の対立からズレ、外的に設定された強制的な機能としての単一のフレームそのものを疑い、ズラし続けること。AorBという「宿命的な」対立構造自体を相対化し無化し、無限拡散的な複数性の位相へと開放すること。
 つまりポストモダンのドクトリンですが。もはやヘーゲルのような、あるいはマルクスのような形で、弁証法的に止揚して円環は閉じない。決して閉じない円環の亀裂にこそ、強制的なる統合性に収斂されない複数性への開放の契機が、露出している。


 そしてーー冒頭に戻れば、リリー・フランキーは根っからの「意味とフレーム」の「ズラし」の達人であり、意識においても、円環を決して閉じようとはしない人だった。
 むしろ自ら閉じない円環の亀裂を拡大させ、そこに種々多様な「雑多なもの」を、ゴミもガラクタも含めて呼び込み、それらを養分として自己とその世界を拡張していった。そもそも彼は「快適さ」を唾棄する。
 これは別に「向上心」とはあまり関係がない。「異質なもの」を一律排除せず、どれだけ自己の視界に意識的に布置していけるか、というLOVE&HATEの均衡維持機能のことだ。常に独我的な水槽化へと傾きがちな感覚と生活を作用反作用によって酷使し覚醒させ続けるための「職業病」である。


 そもそも「異質なもの」は放っておいても視界に入ってくるどころか、ときにはボディ・ランゲージさえ迫ってくるので、それらを断固排除し拒絶したいのならマイケル・ジャクソンとなってネヴァーランドにルードウィヒのごとく自己幽閉するか、視覚的には見ながら映像を記憶しないこと=感覚の一部をブラインド化させるかしか、方法は、あるまい。
 その「強制統合化」によって辛くも、現代都市の経済貧民達に辛うじて保たれ得る「美的生活」とは何であるか。
 リリー・フランキーは固有名的な審美意識の強い人だが、しかし「円環が閉じて完結した美的生活」など、彼は反吐が出るだろう。そして、そんな細胞記憶の強烈な拒絶反応のごとく口を突いて飛び出す「反吐」こそが、リリー・フランキーの「審美意識の固有性」を、証し立てているのだ。


 円環は、閉じない。