ザッパイズムの与太

 昨日のトピック、睡魔に耐えかねて最後のほうテキトーかつズサンに締めてしまい、誤解を招きかねない表現になっていたので、訂正&補足。


 私は別に、リリー・フランキーは「経済的社会的に成功」したけれども、当の、長年住み慣れた下北沢を去らざるを得なくなった「50代の業界的には高名な絵描き」は敗残者で水に落ちた犬で結局零落しちまいました、という浅薄で即物的な皮肉を言ったわけではない。


 そもそも、リリーは自分を「成功者」だなどと夢にも思っていまいし、そのコミュニカティブな「絵描き」とて友人知人には多く恵まれ、ヘイトワードを援用するなら「にぎやかでハッピーな清貧」をポリシーとして、軽薄で人間愛に満ちた寂寥たる浮き草人生を貫いている。
 友人の無人別荘に好意を受けて無償で転がり込む。それが(日録刊行時の)彼の現在のなかなか優雅な住処だ。ひなびた別荘地ではあるが。
 というか、当然の前提として、幸不幸など判定も概念の厳密なる分別もできないし、する必要があるかどうか甚だ疑問であり、その手の「ヒューマン」で残酷な内面主義とエッセンシャリズムは、私の好むところでは全然ない。「人非人」的な「脱構築」「フレーム外し&ズラし」を情緒的・感情論的に抑圧し排除するからね。


 「にぎやかでハッピーな、一片の寂寥たる清貧」。すくなくとも日記の字面で見る限り、彼のそのその意志とマニフェストは貫徹されている。
 50過ぎても貫徹し、やや躁鬱的な往還とともに「ポジティブで祝祭的なボヘミア〜ンライフ」を演じきるのも、まあ立派では、ある。


 ちなみに当該日録には、彼の神らしく、フランク・ザッパの名が超頻繁に登場する。
 私もザッパのキャラクターは嫌いではないが、しかしあまりにも「わかりやすすぎる」。自己演出か、と勘繰りたくなるほどに単線的な文脈遡行をミスリードするのだが、たぶん本当に誠心誠意真心からザッパを愛してるんだろう。


 カッコよく言えばウォーホル的にプロモートされた彼の生活の、一見雑多で猥雑に見えながら、実際にはとことんフラットで貧しく(しつこく記すが、経済的・物質条件的な意味においてではない)無限反復的な(まことにウォーホル的だ)その、貧乏なフィッツジェラルド的営為に基づいた「養老の瀧」で夜な夜な繰り広げられるギャッビーの寂寥あふるる乱痴気騒ぎの、表層的な精神標準を担保するのは「ザッパ(的なるもの)」へのキリスト的なる敬虔なーーあたかも去ってしまったゼルダへのーー愛であり、その「スピリット」の文化的地政学的展開の蓋然的帰結として、正しく下北沢に顧現するべき「ザッパ的日常」なのである。


 彼はザッパのあの「ヒゲ」にやたらとこだわり、友人知人に「あのヒゲ」付けて「ザッパな彼/彼女」の写真を、さすがに趣味だが無数に撮って、誌上に「採取標本」を片端からアップしている。
 つまり!みうらじゅん田口トモロヲの「マンダ〜ム!」なヒゲとともにある教条的チャールズ・ブロンソンイズムとまったく変わらない。ザッパイズム。


 いや、ふざけているのではなくて、彼らは「(体育会系でない)文化系男子としての、男らしい憧れの英雄像」を、各々の資質と志向性に基づき「マッチョな」ブロンソンと「フェミな、というのは冗談で、でも軟弱軟派な」ザッパに、それぞれ勝手に入れ揚げ投影しているだけなのだ。
 むろん、悪いこっちゃない。


 ついでに言うと、亡き中島らもや、ちょっと種類は違うが大槻ケンヂなどもまた、この手の「文化系男子にとっての、男らしいヒーロー像」の貴重な現存版なのね。
 つまるところ「DQN」に回収されない無頼、ということ。キーワードは「喧嘩が弱い」。
 (文化系の)女子にはモテる「愛される奴ら」だが、実際は「女」なるものを「奴ら」は一向に解さないうえ意にも介そうとしない。何せ「友情」とか「絆」とか「孤高の俺」こそが「奴ら」の心の稲妻なので。


 「文化系の無頼派」=それが中島らも的な「ブロンソン型」マッチョ(=男性性)と、大槻ケンヂ的な「ザッパ型」フェミ(=女性性)とに曖昧に分岐していて、そのどちらに入れ揚げ自己像を仮託するかによって、当の「へなちょこ文化者」のライフスタイルもまた分岐する。


 簡単に言えばーー超越的かつ自己破壊的、非意味と非存在を前提として、フロイト宣うところの「死の欲動」に憑かれ、そしてそれと裏腹の唯一性中心性の非時間的な点滅的特異点を生ききる道か。
 あるいは、超越性から遺棄され排除された者として、それに憧れながらも常に「マトリックス」的な意味論のハイテク牢獄的世界を巡回してしまい、紋切的に形式反復的な「意味」の巡回路の外部に弾け出て「解放される」ことは決してかなわないが、しかし複数のーーメタ的な内部脱臼の完了した実存的位相を、プラグマティックに意味化かつ俗化し調達した上で資源としてプールする、そして「脱臼化=無害化」された複数の位相を統合的に併用しながら、相対性と周縁性と再帰性の裾野&僻地において「実存の真正なる決着」を延々と遅延させ続けることによって未来先取的に生成されてゆく持続の時間を「やり過ごして」生き延び、生き続けていくのか。


 言い換えれば、果敢で前進的で刺激的な「死の哲学」に与し追随するのか、軟弱で退却的で退屈な「生の哲学」を志向するのか、というクリティカルな問いに行き着く、ということだ。
 まあ一般論としていずれのケースにおいても大概は、単なる感覚的な書式&口吻模倣に過ぎず、真正の破滅家も筋金入りの軟派も、実際そうはいないだろうが。


 ちなみにらも先生が愛顧されていた大麻は、酒がそうであるように、文化系無頼の超個人的趣味的な嗜みであり定番アイテムです。
 でも「超個人的趣味」なんだから、実存賭けたり世界を謳ったりするのは、江戸前ではありません。言い換えれば、脳細胞の化学的人工調節主義者の唯物論的哲学がない。「自己中」の中島らもは決してその手の「大義」を口にはしなかった。
 健康と脳細胞と人生に対する設計思想そのものを賭けてる、というか投げてるのだから、それだけでも立派に反時代的蛮勇だと思いますよ。
 もちろん反時代的に現代の自明なる価値体系をブン投げてネグレクトするのもまた、ひとつの選択であり価値表明である。見識としては意匠&形式面での一貫した弛緩性が瑕だが、大麻ってそーゆーもんだし、ドラッグカルチャー&ドラッグスタディーズって当然のごとくアンチモダニズムだからなあ。


 「DQN」こそがSPEEDをやるとよろし。正し。しかし「文化系無頼」などという「目を腫らした仔兎のような、かよわきイディオット」がシャブなんぞ打ったら、マジで精神の病気に罹ると思う。
 大宰も安悟も織田作もいわばヒロポンで死んだけれど、マキノ雅弘は80過ぎまでピンピンしてたじゃない。「ポン中マキノ」って、古川ロッパが日記の中で散々ディスってますよ。
 だからクサ育ててるような温厚な「DQN」は、萌えオタクのように「安全かつ人畜無害な」惰弱の輩なのです。やはりクールでダンディなワイズガイは、右手に注射器、心にぺドファイル、そして背中に血塗れの花束でしょう。真っ赤な花びら〜。


 しかしコレ完っ全に与太だよな。(眠い・・・・オチる。この項続く)