帝国の陰謀

 公約通り(笑)Web日記の紋切型、ウッスい書漁記でも綴ります。たまには随筆調で。


 先日、久方振りに下北沢へ行った。もっとも私が用があるのは、古本屋とヴィレッジバンガードシネマアートン下北沢くらいのモンで、そしてその日に用があったのはシネマアートン下北沢だった。
 たしか5月4日。杉作J太郎監督の2本立て映画興行。1月の上映を見逃して以来、ようやく成就した邂逅の機会。「やっと会えたね」と辻仁成の気分。単なる確率論的蓋然を運命的必然と確信できるゴキゲンな性質こそが、作家先生を醸成する。


 シネマアートンが入るスズナリ横丁の近辺を、開場までうろつき散策する。
 名前忘れたが、スズナリに同居している、シネマアートン隣の小劇場では、本谷有希子の新作公演の上演中だった。乙一とコラボレートしているそうな。ほぼ感想はない。ただしTVで見た本谷の、ホクロの多い清廉な麗顔は、よい。


 ディスクユニオンを覗く。iPodとは何のことかいまだによくわからないリアル難聴者には、まったくもって意味不明かつ文脈不明の光景。圧縮陳列されたレコードを猛スピードで次から次へと手繰る人々の手つきが、高校時代、私鉄の駅のゴミ箱から目ぇ血走らせてマンガ雑誌を渉猟し収奪していた過去の自分を思い起こさせる。さすがに転売用ではなくて閲覧用だったけど。


 SFが一番面白いのは12歳、とはよく言ったものだが、駅売りマンガ雑誌が一番面白いのは16歳だろう。そして誰もが(アナロジーとしての)16歳を過ぎれば「マンガが面白くなくなる」に決まっているのだが、それは世代論的状況ですらない超個人的状況に過ぎず、一般化し得る普遍的状況ではまずない。
 個人的状況の一般的状況への恣意的な変換。この異なる位相を分別しない無自覚な、あるいは故意にする混同こそが、マンガ論というマイナーで周縁的な分化領域にとどまらず、国家民族規模のナショナリズムの高揚に至るまで、数多の問題の根源そして震源となっている。


 でもって「ノスタルジア」ってたしかに美しいのだけれど、この種の微妙な問題系とその「郷愁」という感情は直結していて、しかもみなその決定的な瑕疵を知ってか知らずかネグレクトしているのである。


 私は「クレヨンしんちゃん」の劇場版「オトナ帝国」にかつて落涙し感動したクチだが、アレを問題なしとしない見解の、その根拠に一定の正当性を認める。
 個人の唯一的で特権的で単独的な、もはや失われていてどこにもない「胎児の夢」としての濃密なる記憶を「人間」の普遍的な記憶の「原型」として、その特異点性まで含めて情緒的に「世界全体」に拡張する。それってロマン主義やんけ、という話である。
 で、それこそが、あの畢生のマスターピースの根本モチーフであり基調低音なのだ。


 岡田斗司夫の指摘通り、あの作品において対立しているはずの「イエスタディ・ワンスモア」も「野原家」もまた、ともに双子のように対称的に、まったく同様な上記の「ロマン主義的」構造を抱えて「対決」しているだけで、どのみち勝利するのは「ロマン主義的」なる虚妄に過ぎない。
 もちろん製作者=というか原恵一は、その「勝利」の虚妄性とそれが込め得るアイロニーを、苦い認識とともに、知り抜いている確信犯なのだが。


 しかしだからといって、たとえば世代論的な「無害」な範囲に限定して使用され得たとしても、その種の「記憶という虚妄の共同幻想の共有によって繋ぎとめられた、拡張された我々」と「その外部」という心情観念的なフレームの恣意的な設定と、その自己運動が生成する前者の結束と結託&後者の排除へと帰結する必然のメカニズム、そのような自律的システムを初期設定的に作動させる、寓話的なまでに誇張され極端化されて設計された、観念的で高踏的な問題設定の「大衆娯楽的な」前景化を目的として仕掛けられた構造的な枠組みの、その「反動的」な危険性を指摘することは、やはり必要だろう。


 古谷利裕がその日記で、大意、この映画について「懐かしい過去の人間的な匂い」と「家族の絆」が互いの存在(証明)を賭けて闘って「家族の絆」が勝利してメデタシメデタシ、ってそりゃどういうことだ、「生」におけるその他の選択肢は「捨象」されているのか、「それ以外の(価値観を抱く)人間」はまったく出てこない、映画の内部において「いない」ものとされ、ハナから排除されている、「かすかべ市」には「家族の存在を前提としない」人間はひとりもいないのか、と反発し論難していたのは、この文脈においては、まったく正しい。


 まああの作品は甚だ観念的で高踏的で「難解」な問題設定を「大衆娯楽的に」前景化させるために「そのまま」プロットとストーリーとキャラクターに「置き換え」て表象した「寓話」だから「その他の選択肢(多用なる価値観)」を監督はあえて故意に、悪意をもってまさしく「捨象」「排除」したのである。
 それに、別に実際は「家族の絆」が勝利したわけでもない。「作品世界の内部」においてさえも。
 「勝利なき世界」を監督は苦い認識で謳っているのだし、その態度を古谷のように「反動」と捉える人もいるのだろうが、そしてそれはその通りなのだが、しかし原恵一は自己の認識の「悪質な反動性」を、よく自覚している。
 そして彼は、そこにしか、つまり「うしろむきの過去(の虚妄としてのよきもの)」にしか、現在をそして未来を見据えようとしない人なのだ。「クレしん」の原恵一による最後の監督作「アッパレ!戦国大合戦」を観てもわかるが。それこそが、ノスタルジアの「病としての力」であり「病理としての可能性」でもある。 


 「個人的な絶対性としての濃密な記憶」という虚妄を「共同無意識的」な「原型」として一般化し普遍化し「我々の濃密な記憶」という美しき悪貨を共犯的に偽造し流通させること。
 個人の単独的な状況を、その敷衍と拡張の先に仮構された「我々の内部全体の状況」というフラットな構造問題に代替させて「ロジカルに」(笑)心情転移し「個人の単独的な状況」の改善のために「(『我々』という)内部全体の純化」の推進を図る、という明白なるコネクトミスとしての転倒心理。
 この種の「認識錯誤」の論理以前の文脈破綻性は、無自覚に「虚妄性」に賭けて「内部全体=我々全体の純化」に一途に邁進する、しかもそれらすべての動機が「エゴイズム」でしかないことにすら気付かない、敬虔な異端審問官のようなバカファシストロマン主義者どもを「目覚めさせ喝を入れる」ためにも、執拗に指摘されるべきではあろう。


 むろんこれは、政治や民族国家といった「古典的で旧式な『実存』と『内面』の他律的形式供給機構」の問題には限定されない、マンガ批評やそれを含むオタク言説といった、周縁的で「矮小かつ瑣末」な「超個人的趣味嗜好としての」文化問題に至るまで、あらゆる位相に及ぶことなのだ。
 つまり「非個人的な民族国家」から「超個人的な趣味嗜好」に至るまでありとあらゆる「(他律的なメソッドとしての概念枠組み)=フレームとしての表象」言い換えれば「人工装置」が個々人の「実存統制機構」「『内面』の鋳型」として機能し回転し続けているということである。


 脱線。ええと、書漁記も含めて、また続く。余談ひとつ。


 杉作の劇映画にリリー・フランキーが役者として出演していて、ノリノリのクサイ芝居(というか、監督がカントクゆえ、みなそうだが)を見せてくれるのだが、リアルリリーは20代も後半まで中央線沿線に暮らす、というか棲息していて、とある日「このままじゃいけない!こんなところにずっといたら俺は駄目になる!」と自戒と懺悔の念とともに一念発起、下北沢に引っ越す(笑)。20代後半で(泣)。
 因果律というか、その者の抱える「宿命」という星からは誰も逃れられない、と。「砂の器」みたいな話だね。


 しかし先日、50歳過ぎて独り身で下北沢でボヘミア〜ンに暮らし続けてる「絵描き」の「飲み」と「ライブ」のお祭り2本立て興行によって無限に完結し「甘い生活」のように虚しく賑やかに円環する「いかにもシモキタライフ」な「日々の記録」を単行本で(!)読んだが・・・・心底思ったよ。
 別に下北沢に暮らして「若いミュージシャンや劇団員やカメラマンの卵やライター」と夜な夜な半径200m圏内で飲み遊んでボヘミア〜ンに暮らすのは構わない、というか勝手だが、ただ、円環を閉じることだけはしてはならない。
 版元は太田出版。「クイックジャパン」の連載集成だそうな。


 やっぱり50過ぎて下北沢で「フーテン暮らし」してちゃイカンよ、人間。
 「家族の絆」の代わりに「懐かしい過去の人間的な匂い」=「オトナ帝国」でいえばまさに「ケンとチャコが暮らす夕焼けの町」の中だけでずっと、充足したまま円環が閉じて一生が終わるから。


 リリー・フランキーは現在、吉祥寺に小奇麗な事務所を構えている。
 その「絵描き」も、最後は下北沢を離れました。経済的事情で。
 別に対比しているわけじゃないが。