はてなダイアリー「備忘録」falcon1125さんへの応答〜「心の問題」と死刑制度に関して〜

 かつて当ブログのコメント欄を閉めた際に謳った前言を、思い切り翻すわけだが、私もまた、反省くらいはする。イロイロ勉強したんですよ。


 トラックバックを送らせてもらいました。


 http://d.hatena.ne.jp/falcon1125/20060624


 当該falcon1125さんの「備忘録」6月22日付の記事に2回「坂本」名義で鬱陶しい長文コメントを書き込んでいるのが私です。他人の「はてな」でのガチな議論にマジレスする経験自体初めてのことゆえなにぶん不慣れで、御迷惑かと思いながらつい書き込んでしまったところ、falcon1125さんが翌日にわざわざエントリ立てて丁寧に応答かつ論じてくださっているので、さすがに私も「はてな」の流儀に従って、TBのうえエントリ立ててきちんとレスポンスさせてもらう。falcon1125さんへの応答として論じるため、いつもと口調筆跡が異なる点、御了承頂きたい。


 falcon1125さん、こういう形式となりスミマセン。「はてなid」の所在を隠していたことについて他意はありません。「ふらりと立ち寄り不意に」というつもりだったのです。それと、死刑制度をめぐる議論や靖国問題、そして「はてな」界隈で議論沸騰の中絶問題等について、包括的な「議論自体をめぐる構造的問題」について当ブログでの解剖を試みようと思っていたため、コメントは一種の「周縁的テキスト」という意識があったこともまた、事実です。しかしやはり、かつての我が偉そうな前言に従って、自身の意見の責任所在について「署名」し、自身に帰させようと決めました。それと、当ブログのエントリでは著名人は原則として敬称略です。御了承を。


 では、例の広島母子殺害事件最高裁判断に関して、falcon1125さんが新たに展開された(私と違って)真摯な議論に対して応答します。


 当該判決や、あるいは靖国問題等に関して、そもそも「心の問題」を「論じる」べきではないとすら、私は考える。「百家争鳴」の「相対的な妥当性」をジャッジし得ないのが「心の問題をめぐる議論」あるいは「心の痛みについての議論」だからです。それは必ず「絶対的な正当性」に依拠した非難合戦へとエスカレートし、他者の糾弾へと帰着する。


 これはたとえばかつて柄谷行人浅田彰らが言っていたことです。差別問題等に関して「心の問題」を言うべきではない、それは必ずや自己の「立場的正当性」に固着した「糾弾」へと行き着く。そのことは「糾弾」された側の「隠蔽された差別感情」を深めることになりこそすれ、問題の構造的な解決には決して寄与しない。現実に存在する社会的な構造問題に対して、徹底的に唯物的に対処せよ。それしかない、と。もっとも柄谷らはフェミニズムに関しても同様の発言をして、「社会的制度ではなく内面化された事実性」の解体再編を目指す上野千鶴子らに批判されていますが。


 かつて宮台真司小林よしのり戦争論」を批判する長文論考で「先の戦争」の妥当性を論ずる際に「心の問題」というファクターを恣意的に導入するな、それを一切排除したうえで「国際法」に準じて議論しないことには「戦争の評価」などできようはずがない、と述べました。誤認されているのですが、宮台は「右派」だけでなく「心情左派」をもまた批判している。つまり「じっちゃんの誇り」も「戦死した英霊」も「特攻隊員の意志」も「慰安婦の叫び」も「アジアの被害感情」も「被爆者達の想い」もすべて、あえて排除し捨象しないことには「戦争の政治的状況的戦術的妥当性」そして「正統性(レジティマシー)」についての議論はできない、と。


 「心の問題」「心の痛みの問題」「死者の想い」はジョーカーです。その「正当性の切り札」を第三者が「政治的意図」をもって、あるいはそれがなくとも、恣意的に利用し「代弁」することの不当性、その点において宮台は、右派だけでなく心情左派も批判している。「戦争の評価」など相対的な妥当性に基づいてしかジャッジし得ない。「傷」や「痛み」や「死者」を持ち出すことは、繰り返しますが自身の「立場的正当性」を振りかざしての糾弾合戦、そして「私はこれだけ痛い苦しい」という痛みと苦しみの誇示合戦、その果てに絶対的な感情の対立が招来されるだけなのです。非当事者は「心の問題」を持ち出すことを禁欲せよ。踏み込んで言えば、当事者もまた。そう思います。


 小林よしのりはかつて、薬害エイズ問題の際に、僕達被害者に「同情」するのではなく「共感」して運動を闘ってほしい。と訴える川田龍平氏に対して、否、「共感」などできるわけがない、阻害なく双方向的に意図や感情が「交流」しアジャストすることなどありえない、わしはあくまで断固たる一方向的で勝手な思い入れに過ぎない「同情心」にのみ基づいてあなた達をエゴイスティックに支援する、いまはたまたま両者の勝手な「意図」が一致しているゆえ共闘できるが、意図が決定的に行き違うならば、所詮は相互に一方向的な関係性、いつでも道は分かれるであろう、それこそが、所詮血友病ですらないわしのあなた達への「礼儀」だ。ーーそう言い続けていました。そして両者が必定決別したことはよく知られています。これも「決別」したことと小林の情緒的な筆のみが知られているため誤解されていますが、私は小林が「決別」以前から公言していたこのスタンスは、あえて言えば「圧倒的に正しい」と考える。それは、小林があるいは「人生と人間の過酷さを知っていた」ということでもあります。


 私の知人で心身を病み、福祉を受給して生活している人がいます。過酷な子供時代を送ったという人です。彼女は私の前でしきりに「他人の心の痛みがわからない人々」への非難を口にします。そのことによって多くの友人知人と絶縁してきたと。私は「他人の心の痛みがわかる」から「合格」らしいです。彼女が言っているのは「自分の心の痛み」の話でしかなく、それを一般論化して語っているに過ぎないのですが、それはともかく、そもそも「アイツは心の痛みがわからない」などと、「心の痛み」というあってないようなものに基づいて他人をジャッジし断罪することが、どれほど傲慢なことか、彼女は全然わかっていない。


 まだ「アイツはカネがない」とか「アイツはツラがまずい」と言うほうが、どれほど害がないか。言ったら私も「心の痛みがわからない」連中のお仲間として断罪されそうなので、黙ってますが。定量化できない、ゆえに「なんとなく」としか他者と共有できない、そのくせ普遍性を有するかに見える、そんな心情概念に基づいた「現実の人間」の分別とラベリングは、あまりに危険で強制的で、ゆえに断じて用いてはならないメソッドなのです。「アイツは愛国心がない」「アイツは信仰心が足りない」「アイツは哀悼の誠を理解しない」という言い草の滑稽さと恐ろしさを、私達は知っているはずです。みな気付いていませんが「アイツはひとの心の痛みがわからない」「アイツは他人への思いやりが足りない」という物言いもまた、それと同様の決して本人が注ぎ得ないレッテル張りの論法なのです。現実の犯罪等に敷衍すれば「被害者の痛みがわからない」「加害者の苦しみに思いを寄せない」も、また。


 当該判決に関して言えば、たとえば日垣隆は事件発生当初から、つまりfalcon1125さんの指摘通り本村洋氏が「私が殺す」発言によって集中砲火を浴びていた頃から、断固として本村氏を言説の場で支援し、ごく初期から死刑廃止論者を批判してきたうえ、少年犯罪厳罰化の推進論者であり、刑法39条撤廃論者です。「放置されネグレクトされてきた被害者の痛みと怒り」に徹底して寄り添い、死をも含む応報刑の妥当性を主張する日垣の言説は、きわめて情緒的な側面を有し、それゆえ激しい批判と反発も受けますが、みなわかっていない。


 彼が一貫して主張していることとは「論理と非論理」というfalcon1125さんの言葉を借りれば「非論理的なる感情や憤怒の、論理的なる法的妥当性への復讐」なのです。彼が根源的に寄り添い代弁しているのは「戦後の人権社会の建前のもとで遺棄されてきた犯罪被害者の痛みや怒り」以上に「合理的な法的秩序の覇権下で遺棄されてきた不条理な感情や憤怒」そのものに対してなのです。その意味では、正しく右翼的な論者であるし、つまり彼の言論活動全体の本質は「主意主義による主知主義への復讐」にある。


 たとえば日垣は死刑制度に関して執拗に廃止論者の法律家や刑法学者を批判していますが、彼は連中の無味乾燥な法律論を批判したいのではない。法の専門家という「論理の番人」が自身の領分と分際を逸脱して「非論理的な感情」の領域にまででしゃばり侵犯してくることに対して「非論理の番人」として激怒している。反権力的な法律家が死刑廃止を呼号するのは論理の枠内においては当然。それはまあよい。しかし彼らは自らの枠を破り非論理の領域に関してまでも「論理的で合理的な」カマトトを言う。「私達は赦し合える」「被害者遺族と加害者の和解の可能性」「犯人を殺しても被害者は帰らない」だのと。そのことに対して日垣は激怒する。ふざけんな、と。非論理を感情を主意主義をナメるな、と。たかが「論理という人為的なシステムのプロ」に過ぎない法律屋風情が、システムの外部たる非論理の領域を侵犯して奇麗事を言うな、と。


 むろん日垣は死を含めた応報までも求める不条理としての憤怒を、それをも包摂する「自然感情」の絶対性とその「正しさ」を、信じています。彼に対して私はどう思うか?批判する気にはならないが、立場と考え方が異なる、としか言いようがない。何よりも社会の存続を前提とする、そしてかくなる「社会の存続」のために断固として排除されねばならない存在があるのだ、という彼の主張と活動の「妥当性」に関しては、大局的に見て認めるにやむをえない、と言うしかない。


 日垣のそれを過激な主張と思う人に私は訊きたいが、では金正日という個人の存在をどう思うのか。「最大多数の最大幸福」のために排除されねば、すなわち殺されねばならない者がいる。私は別段「社会の存続」を前提としないニヒリストだが、上記の冷徹なリアリズムを全否定できるほどの「社会非存続論者」がそう多いとは思えない。むろんこの場合の「社会」とは「私達が構成する私達のための社会」であって、そしてその際の「私達」の運用は、常に恣意的である。そしてかくなる「私達の社会の存続のために排除さるべき者がいる」という価値観と「私達」という構成範囲の恣意的な運用、この両輪によって米国的なネオコン、日本において廠蕨を極めるネオリベラリズムやそれと連動する「私達と異なる存在」へのバッシングの「正当性」は規定されている。


 そしてその延長線上に、死刑問題もまた、ある。「私達の健全なる社会の存続」のために死すべき者がいる。しかしこれを否定する者は、たとえばイラク戦争への日本の加担を、ひいては米国を中心とする南北問題的資本収奪をどう思うのか。「私達の健全なる社会の存続」のために「私達」は誰もが間接的にであれ手を汚し、誰かを生命に至るまで排除している。そのことから目を切ってはならない。あえて「勝手な思い入れ」の禁を犯すなら、すくなくとも本村氏は、自身もまた「手を汚し他者の生命までをも排除しようとしている」ことを、自覚している。自分のために死者のためにそしてあるいは「私達の社会」のために。そんな自身の想いが誰かに「共感」「理解」してもらえることなど、氏はまったく期待していない。誰が解れるというのか?他者の死を強く希うものの「不条理なる非論理」を。


 falcon1125さんが「検察の腐敗ないし暴走」や「司法制度改革」について批判的であること、そして広島の事件に関して本村氏が「「厳罰化・裁判の迅速化」のシンボル」として「本人の意に反したかたちで司法に利用されている」と「解釈」していることに関して、すこし思うところをレスします。

 
 司法官僚の暴走を食い止めたいのであれば「裁判員制度」を現行想定されている以上に「徹底して」導入するほかないですよ。これは宮台真司の最近の主張を借用すれば「私達の社会の健全かつ適正な運行」のために、言い換えればゲーム盤上でフェアなプレイができる環境を整備するために、当該「私達の社会」という「ゲーム盤の環境」すなわち「プラットフォーム」の何たるかを理解し認識し、その維持運営に関して個々人が意志的にコミットせよ、と。これこそが「国民の義務」ではなく正しく「市民の義務」である、と。


 左翼用語に限定されない広義の「市民」とは「自らが所属し利益を享受する社会のプラットフォームという基盤についてよく自覚し、変革も含めたその人為的基盤の維持運営を担うことに対して自発的かつ意志的にコミットする者」のことです。裁判員制度導入をめぐるTVの「街の声」で「裁判員を務めることで、(仕事等の支障に関して)自らが経済的な損失を被った場合、国が補填してくれるのか」という意見がありました。理念的には、まったく話が逆です。「自らが経済的な損失を被ってでも、裁判員として司法という『私達の市民社会』のプラットフォーム&インフラの運営に関与しなければならない」が「市民」として正しい。「国民の義務」ではなく「市民の義務」とは、前者と同様に「個人」であることよりも「市民」であることのほうが、より大きい。


 しかし上記意見や諸々のアンケート結果に如実なように、現在の日本においては「市民」であることよりも「個人」であることのほうが、多くの人たちにとっては大きい。「個人の利益を犠牲にしてでも優先されるべき市民の義務と、それによって保障される限定的な個人の個人たる利益」という理想的循環構造に関する認識は、ほぼない。誤解ないように書いておきますが、これは小林よしのりらが主張していた「個よりも公」という「大義=絵に描いた餅」の話ではない。「ゲーム盤の適正な環境を前提としてフェアなゲームが可能なのだから、個々人の利益追求営為としてのゲームの内容そのものよりも、利益追求のゲームのフェアネスを保障するゲーム盤という人為的市民社会のシステム設計をプライオリティの上位に置く、という共有された意志的態度」のことです。それには何よりもまず前提として「私達の社会の歴史的経緯に準拠したスタイルと、その志向するべき姿」に対する「私達自身の非明文化された認識」が共有されていなければならない。「市民社会」とは「市民としての自覚を有した個々人による意志的な合意という契約と、その時間的持続と再帰的更新」に基づいてしか成立しないのです。


 つまり当然のごとく導き出される結論は「日本は市民社会として未成熟である、というか市民社会であったことすらない、たとえ民主主義国家であろうとも」ということになります。そこから「日本に裁判員制度はなじまない」「市民による司法参加など、日本においては現実的でない」という常套句が、よりにもよって「市民」の側から弄され、そしてリアリスティックに考えれば私もそうだと思う。たとえば、もし量刑の当否に至るまで「裁判員」が判例に関する裁判官のサジェスチョンに基づき合意で決定できるという制度が適正運用されたとしても、死刑判決が果たして減るかどうか。広島の事件のようなケースに関しても、死刑判決が地裁等で下される蓋然性はさて減少するか。


 「死刑判決を自分が下すような立場になりたくない」という意見が各種アンケート中にありましたが、これも話が逆で「死刑制度の維持」に「市民社会としての私達が合意している」という前提に対する認識がある限り「死刑判決を自らが下す立場となることさえも義務として果敢に引き受けたうえで裁判員を務め上げる」が「市民社会の一員」として正しい。現に、革命後のギロチン時代のフランスがそうでした。20世紀に入っても、公開処刑やってたんです。だからこそ近年のデモに至るフランスの「理念としてのプラットフォームの維持に敏感な市民社会性」は筋金入りなんですよ。


 「死刑判決が該当しそうな裁判に関してのみ、裁判員の導入は免除してもらいたい」などという意見もアンケートにありましたが、惰弱も甚だしいうえ、そもそも「司法への市民参加」の何たるかすら理解していない。認識錯誤も極まっている。「市民社会」において死刑制度は「国家」が勝手にその存置を握っているわけではないんですよ。アムネスティが吹聴しているように、先進各国で死刑制度を存置しているのは米国と日本だけです。その理由がはっきりとあるのです。


 falkon1125さんは死刑執行人の存在についても触れていらっしゃいましたが、軍人や非常時における射殺権限を有した警察官同様に「市民社会」が要請した「公僕の職務」について情緒的に言挙げるべきではないと思います。まして彼らは「死刑囚官房の刑務官」であって、ギロチン時代のフランスのような世襲制の「専門執行人」ではなく「ほかの職につく」自由もまたあります。職業選択の自由がある以上彼らの「自発的」選択に対して云々するべきではない。彼らのような存在にとって「職業選択の自由」が理想論に過ぎず、現実にはそうでないというなら、たとえばほかにも存在する「インビジブルな仕事」同様に「市民社会」が存在を要請する職務従事者への差別は、断固として是正されねばなりませんが。


 間違えてはならない。「死刑執行人」という公務員の存在を要請しているのは、私達の「市民社会」です。彼らに「汚れ仕事」を押し付けているわけではない。私たちみなが「死刑執行」という「市民のルール」に関与し加担し、その公共性に鑑みて公務員がその「公的なる職務」を執行している。国家帰属の軍人にとって戦争が「市民社会が要請した公的なる職務」であるのと同様に。


 フランスで20世紀まで公開処刑が続けられたというのは、そういうことです。「市民社会」において、死刑執行は個々の「市民」に共有されたものであり「関係ない」振りをすることは許されなかった。falcon1125さんは執行担当刑務官の心中についておっしゃりたいのだと思いますが、前述した通り「心の話」がこの種の議論に関して建設的だと私は思わない。「市民社会によって要請された、公共性に鑑みて職務における殺人をも許容された公務員」は彼らだけではない。執行人はひとりではなく5人である。これは5人でなく、一億二千万人だということなのです。社会の選択においてなされた執行責任は、決して一個人に帰属させてはならないという、ギロチン時代以来の知恵。


 しかるに、以上私が述べたようなことは「市民社会」でない日本では、まったく共有も合意もなされていない。そこにすべての捩れがある。「市民による司法参加など現実的でない」と当の「市民」が公言する国とは何なのか。「司法」は私達にとっての重要なプラットフォームでありインフラではないのか。維持存続変革を含めてそれらを守り抜き、私達「市民」の手に簒奪する意志も気概ももはやないのか。「どうせ裁判員制度なんて、魔女裁判人民裁判になるだろ」ととある友人は言ったが、この多くの人々が頷き得る意見を総合すると「国民はバカで感情的だから司法など任せられない。やはり専門家に」となる。


 さて、かくなる「総意」で得をするのは誰か。「専門家」たる司法官僚以外にない。「国民はバカでプラットフォームという概念すらないから俺達が社会システムを設計してやろう」と高級官僚どもが跳梁跋扈するわけです。もちろん連中は「国民のため」を口実に「自分達がやりやすく内部の権益拡大と管理収奪に最適化した形でシステムを設計する」に決まっているわけだが、そのことからすらも目を切っている「バカな国民」に要請されるべきは賢明さと「市民社会」というプラットフォームへの意志ということになる。


 つまり「司法官僚の一方的な覇権拡大」をカウンターとして刺し食い止める対抗措置として「市民のアマチュアリズムに基づく既得権益としての専門性の解体と司法システムの新規設計および、個々人のそれへの意志的コミットメント」という戦術(ストラテジー)がある。そしてこの場合「非専門性」こそが最大の武器となる。事実、米国の陪審制は「市民的非専門性による、専門性に対する他律的バランサー機能」という発想が根底にある。だからおかしな判決がよく出るし、日本においてもそれが懸念されるわけだが、しかしたとえば現状のイラクに関してよく言われるように、民主主義が市民社会が個々人において内面化されるまで浸透し根付くには、途方もない長い時間が掛かる。それでも第一歩を踏み出さないことには、現状というゼロはゼロのままである。


 かくなる決断が今後の暫定的なプロセスにおいてどれほどの悲劇を生みそれを経験値とするか、未来の結果においていかなる総括がなされるか、不毛な非常時たる現状において議論をしても仕方がないと私は思う。極端に図式化して言えば「ネオコン的支配官僚の狡猾なリアリズム」と「市民社会の愚直な理想主義」との、これは食うか食われるかのヘゲモニーをめぐる闘争なのだから。連中の恣意にこのまま収奪的なるシステム設計を一任するか、賢くなった私達「市民」がプラットフォームを奪い返すか。「愚直な理想主義」である以上、ストラテジーの選択においては攻撃的でなければならないし、ストラテジーが必然的に招来する「同胞達」の犠牲なかんずく自己の損害に関しては、決断的でなければならない。どういうことか。


 EUに加盟するには、死刑制度を廃止することが条件のひとつとされる。だからEU加盟にあたって死刑制度を廃止した東欧や中東寄りの国々も多い。現状において、死刑制度の「正当性」の根拠とは遺族による報復感情の手当てしかない。つまりEU加盟国の「凶悪犯罪被害者遺族」に暗黙裡に要請され、そして理想的には彼らが合意したとされる「契約事項」とは何か。「ヨーロッパという私達の価値的なプラットフォームのために、個人的な報復感情を禁欲せよ」だ。つまり「EU市民」であることは「個人」であることよりも大きい。


 「人権宣言を最上位に掲示する市民社会たるヨーロッパという価値共同体は、合意された価値選択に基づき死刑制度の存在を禁欲した。あなた方もヨーロッパ市民達のプラットフォームに参加するならば、この価値的なる禁欲に協調し、あなた方のプラットフォームを自発的に再構成してより大いなるヨーロッパというプラットフォームに一致させ、またその一致という価値選択に関してあなた方個々人が、個々人を超えヨーロッパ共同体の一成員=市民として参加し合意せよ」この価値選択に関する要請に対して、新規加盟国の、そして当事国としての「ヨーロッパ共同体の中心」たる古参加盟国の「凶悪犯罪被害者遺族」達が(理想的な奇麗事としては、だが)「自発的に合意」したのは、彼らが「私達自身が設計してきた、私達が舵を握る人為的プラットフォーム」という自覚的認識を共有し、その「プラットフォームの設計に対する個人を超えたコミットメントと価値的合意」の重要性を、知っていたためです。ヨーロッパという人為的なプラットフォーム=価値共同体のために、個々人のエゴイスティックでドメスティックな報復感情は禁欲されるべきこそが、プラットフォームの構成員の『最大多数の最大幸福』に資すると。


 もっとも、実際にはグローバライゼーションの只中で生存戦略をかけたシビアな物理的損得勘定に基づき「経済圏共同体」に加盟した国々も多いというのが実情ですが、しかしその際にもまた「生存圏としての大いなる私達のプラットフォームのために、個人的報復感情は禁欲する」ことへの、コンテクスチュアルな合意は明示されずとも共有されている。個々人を超えナショナルであることを超えヨーロッパたることを意志的に選択する。そもそもEUの試み自体が、米国の圧倒的な覇権におけるグローバライゼーション攻勢の渦中で「再帰的なるヨーロッパというヒューマンな共同体」の経済的かつ価値的な自立を志向した「生存のストラテジー」なのです。すなわち価値共同体への合意的コミットメントこそが個々人のエゴイスティックな欲望を禁欲させる。まあ実際、あまりうまくいってはいないのですが。


 翻るに日本はどうか。「私達の人為的なプラットフォーム」という概念がない。「プラットフォームという人為的な価値共同体への合意的コミットメント」という手続き自体が誰にも共有されていない。 「市民社会という価値共同体への合意的コミットメントこそが個々人のエゴイスティックな欲望を禁欲させる」というシステム自体どこにもありはしない。「個人より大いなる、個々人の意志的合意によって成立した市民社会というプラットフォーム」が存在しないうえに「市民社会が個人に優先し、市民であることが個人であることに優先することの、個人にとっての利益」という逆説的原理に一切考えが及ばないのであれば、個人的でエゴイスティックな報復感情の噴出を止める道理はどこにもない。


 それは暴力的なる社会であって、価値的な合意事項なき社会に蔓延する暴力性の公的な唯一の決済機関として、死刑制度の一点にあらゆる「報復感情」と「殺意」のシワが寄る。凶悪犯罪と死刑制度をめぐる問題に関して「吊るせ」「殺せ」という暴力的な言説がネットに噴出し蔓延する背景には、このような日本社会の構造的な問題があるだろうと思います。個人が個人であるために存在する、個人より大きな価値母体とそれへの選択的合意および共有が存在せず、個人のエゴイスティックな報復感情を回収しその噴出を禁欲させる装置がない。だから個人のドメスティックな報復感情が何物によっても処理されず、結果的に公的機関の「処刑」という暴力によってのみ決済される。これは悲劇的な事態です。つまり、日本において「個人」とは存在し得ない。アムネスティが殊更に吹聴し日垣隆らが激怒している「死刑制度の有無はその国の民度を計るバロメーター」という言は、このような文脈的背景があってのことなのですが、報道も死刑廃止論者もそれ全部すっ飛ばすし、そもそもこんな迂遠で絶望的な話、どこからはじめたらよいのですか。


 結論。死刑制度を廃止するには「市民社会が個人に優先し、市民であることが個人であることに優先することの、個人にとっての利益」という「個人より大きい市民社会というプラットフォーム」への自覚を人々に説くことから始めるべきです。まずその段階で何年何十年かかるか知りませんが。言うまでもなく、クリアしなければならないプロセスは膨大に山積していて、道程はひたすら迂遠です。日本人の民度とは、そのレベルにあります。死刑制度の廃止など、まだまだ遥か彼方のことなのです。嫌煙問題のように強硬なる外圧でも受けなければね。感情や人権の問題で、クリアできる話では到底ないのです。


 我々の手で変革する意志があるのなら、まずその小さな小さな第一歩は裁判員制度の現行以上に徹底した導入から。「自分が死刑判決を下したくない」のなら、死刑制度を廃止すればよい、となぜ思わないのでしょうか。「自分と関係ないところで死刑は存続していてほしい」んでしょうねきっと。当事者性の欠如も甚だしい。死刑が予想される裁判に率先して「市民」たる裁判員を配置し、「市民」の眼前での公開処刑を復活せよ。そのくらいの荒療治を刊行しないと、失われた当事者性は再帰しない。そしてそれが嫌ならば、死刑制度を廃止するしかないでしょう。暴力的な社会が「骨身に染みた」私達自身の手によって。


 大長文失礼しました。falcon1125さん、このようなことばかり書いているがゆえコメント欄は閉めています。もし万一レスポンスをくださるのでしたらTBのうえ御自身のブログでしていただけると幸いです。