JAM


本当に文学的想像力があるならば - モジモジ君のブログ。みたいな。


大変丁寧で真摯な応答、ありがとうございます。早速。

文学的想像力について

(前略)「自由と自律の剥奪を描くことは、特定の政治的に抑圧された人々を描くことではない」。ええ、そのとおりです。特定の政治的題材を扱うにせよ、フィクションの世界を使うにせよ、なにを題材とするかは、この際、問題ではありません。そして、そこにもたらされるのは、もちろん、自由と自律の剥奪に対する文学的想像力でしょう。ただし。

グローバルに存在するスノッブな文明人は、パレスチナという固有の場所と固有の政治的に抑圧された人々には特段の用ないかもしれないが、個人における自由と自律の剥奪という問題意識には用がある。……


 これはチョット待ってくださいよ、と思います。「個人における自由と自律の剥奪という問題意識に用がある」と「パレスチナという固有の場所と固有の政治的に抑圧された人々には特段の用ない」が同居すること自体、奇妙奇天烈です。


「奇妙奇天烈」と思いますか。私は全然そう思いません。たぶん、ジュネもサイードも「奇妙奇天烈」と言うと思います。「スノッブな文明人」の在り方と行動様式そしてその問題意識を彼らは的にしてきたからです。

 問題意識は「固有の場所に規定されない」、もちろん、そうでしょう。ただし、それはつまり、あそこもここもそこもどこも、あらゆる場所によって規定される、ということだと思います。「固有の場所に規定されない」とは、いかなる場所にも規定されないのではなく、すべての場所によって規定される、ということでしょう。


 「自由と自律の剥奪」についての文学的想像力とは、パレスチナに限らず、チェチェンであれ、ダルフールであれ、チベットであれ、他の何についてであれ、それについて知ったときには、それがまさに「自由と自律の剥奪」の問題系の一部であるということを、明瞭に了解する、そういう力のことだと思います。一つの具体例について、「それは○○である」と了解する力が、○○についての文学的想像力である。「個人における自由と自律の剥奪という問題意識に用がある」なら、「パレスチナという固有の場所と固有の政治的に抑圧された人々」にも用があって当たり前、ということです。違うのでしょうか?違うらしい人がいるのは知っています。その上で聞きますが、違うのでしょうか?


お答えしますが、違います。村上春樹パレスチナの両方に用がある私にとっても違います。村上春樹パレスチナの両方に用がある、とは、文学と政治の両方に用があるということです。三島由紀夫天皇に用があったように。たぶん「文学的想像力」に対する考え方が私とmojimojiさんとではまったく違う。


最初に書いておくと、そもそもソンタグ村上春樹の文学とその文学的想像力のグローバルな受容について、留保なく肯定的な評価を決して下さないでしょう。ソンタグの考える「文学」は村上春樹のグローバルな受容を想定しない概念だからです。「文学」がグローバルであることに対してソンタグはまったく肯定的ではありませんでした。「グローバル」とは資本主義の別名でしかなく、そして資本主義の対立概念として「文学」はソンタグにとってはあったからです。それは――たぶんmojimojiさんが違和感を覚える点とも思いますが――とても反動的な考え方です。彼女は、20世紀後半、資本主義の頂点に君臨したNYにおいてその反動を「正しい」と信じていた。「敢えてする反動」ではありません。それが、ソンタグという批評家です。


「違います」とお答えしました。「一つの具体例について、「それは○○である」と了解する力が、○○についての文学的想像力である。「個人における自由と自律の剥奪という問題意識に用がある」なら、「パレスチナという固有の場所と固有の政治的に抑圧された人々」にも用があって当たり前、ということです。」というmojimojiさんの見解に、皮肉でなく、私は少し驚きました。文学に用がある者のひとりとして申し上げますが、文学はそんなに万能ではありません。世界に対して万能ではなく、まして世界の搾取構造や政治的抑圧に対する処方箋ではありえません、残念ながら現在にあっては、ということです。


世界に対する文学の無力を、文学に用ある者は了解せずにはおれないのが、この資本主義社会ということであり(三島由紀夫はそのことに対する先見の明ゆえに割腹しました)、そのことを知らぬままに、あるいはカマトトぶっこいて、文学への用を喧伝する文化人的振舞いをこそ、資本主義に支えられたシニシズムソンタグは唾棄しました。mojimojiさんらの言葉で言うなら「船上パーティー」ということです。それはまったく反動的なスタンスですが、しかしそれを「正しい」と信じたソンタグを、私も正しいと思います。


つまり、世界に対して文学は無力であるからこそ、私たちは政治的な意見を持ちそれを然るべきときに表明しなければならない。空気として存在する政治を「政治」として顕在化させなければ、「固有の政治的に抑圧された人々」を、たとえばイスラエルという権力と暴力から守ることはできない。言うまでもなく「空気として存在する政治を「政治」として顕在化させること」は歴史的にも原理的にも文学の使命ではありません。シュミットに拠るなら、政治の使命です。

■■■


先の記事で書いたことですが。「飢えた子の前で文学は可能か」という問いに対して、かつて渋谷陽一はこう返答しました「自殺を考えている人間の前で山盛りの饅頭は可能か」と。つまり、飢えた子の前で文学は不可能、しかし自殺を考えている人間の前で可能、それでなにか問題でも? ということです。


彼がそう言ったのは70年代のことですが、その割り切った信念は資本主義社会において勝利し、ゆえに彼は転向とも無縁です。飢えた子の前で文学が不可能であることは自明であり、しかしそのことが文学にとって何の問題であるか。資本主義に支えられた表現のグローバルな流通の可能性を信じた音楽誌編集長は、そう言い切ったのです。文学は飢えた子に応える筋合がないし飢えた子の存在は文学の問題ではない。そして四半世紀、渋谷陽一は後期資本主義の消費社会において見事に言行一致しました。毀誉褒貶喧しい功罪と共に。


それは「資本主義に支えられたシニシズム」ではない。しかし渋谷陽一ソンタグのような両義性について割り切ったし、だから彼は音楽評論家であるよりもロックジャーナリズムの経営者だった。言い換えるなら、資本主義社会における人間の在り方と行動様式について、反権力的な政治的発言に旺盛な『SIGHT』の編集長は自覚的に肯定してきたということです。要するに、新左翼ということですが。


「それでなにか問題でも?」とソンタグなら言わないでしょうが、しかし「飢えた子の前で文学は不可能、しかし自殺を考えている人間の前で可能」という認識は文学に用がある者にとって最低限の前提であるでしょう。「飢えた子の前で文学は不可能」はシニシズムではありません。それは単なる資本主義に対する事実認識です。


「飢えた子の前で文学は不可能」という資本主義に対する事実認識を欠いて「自殺を考えている人間の前で可能」と文学の価値を掲げるナイーブかカマトトを、シニシズムとしてソンタグは唾棄しました。付け加えると、文学の価値と同じものとして個人の自由と自律の価値を掲げるナイーブかカマトトについても。

■■■


「飢えた子の前で文学は不可能、しかし自殺を考えている人間の前で可能」という認識を措いて資本主義社会における文学を論じることは、ナイーブかカマトトの部類と私は思います。資本主義社会における文学とは、搾取構造と政治的抑圧と個人の文学的営為の三題話について解くことです。搾取構造と政治的抑圧という世界の凸凹を凸凹として表象することが20世紀前半において時に文学的営為でした。「文学」とは時にそのような営為として定義されたということです。


ソンタグが登場した20世紀後半以降、資本主義の勝利と共にその定義の不可能が明らかになり、バルトの登場以降、三題話のFAは「搾取構造と政治的抑圧の存在を契機とする言語的営為は必ずしも文学の問題ではない」です。言い換えるなら、搾取構造と政治的抑圧の存在をアリバイとしない場所で、文学は何によって定義され「すぐれて政治的な状況」からその自律を守るか、という問題が文学に用ある者において共有されました。ラシュディの一件は私たちにとって未だ記憶に新しい。少なくともソンタグはそう考えていたでしょう。そして村上春樹の文学はすぐれて資本主義に守られている。それが文学の自律的価値であるか、私もまたソンタグに同意して「否」。


搾取構造と政治的抑圧に基づいて成立する資本主義社会を背景に「飢えた子の前で文学は不可能、しかし自殺を考えている人間の前で可能」という事実認識から「文学の自律的価値」は規定されている。つまり「文学の自律的価値」は資本主義に対する批判的視座を要請する政治的発言以外の何物でもなく、飢えた子の前での不可能をネグって「自殺を考えている人間の前で可能」として掲げられはしない。だから、資本主義において自律している村上春樹が「文学の自律的価値」という概念において擁護さるべきか、私はわかりません。


むろん、以上は政治的な話であって、ひとりの作家が書き、ひとりの読者が村上春樹を読み、心揺さぶられることとは無関係です。ただ「文学の自律的価値」は政治的闘争において勝ち取られる概念、ということです。ソンタグエルサレムに飛んでまで守ろうとしたものです。


ゆえに「文学の自律的価値」に拠らずとも資本主義においてその自律を守られている村上春樹エルサレム賞授与に際してソンタグのようには振舞わないだろうと、私は考えています。つまり、資本主義においてその文学の自律を守られている作家村上春樹ソンタグのように受賞式に出向いてスピーチで「文学の自律的価値」を主張する筋合も必要もない。「資本主義においてその文学の自律を守られている」ことを作家が知らないはずもない。


なので。mojimojiさんが最初、イスラエル支援企業の不買運動に言及したことは文脈的に妥当と私は思います。「資本主義においてその文学の自律を守られている」ことが疚しいこととか罪悪に値するとか私はまったく思いません。すべての仕事は売春である、と40年前に言ったのはJLGですが、自覚した娼婦としての彼の映画は概ね素晴らしい。


文学の質の問題は措き、村上春樹が自身の文学の自律性についてどう考えているか、その政治的な意味について、ひいては娼婦の自覚についても、私は関心があります。ただ村上春樹はそう問われたときほぼ常に、自身の文学の自律性についてたとえば文体の問題として述べるそうで、韜晦か本当にそう考えているのかはわかりかねますが、その意味でエルサレム賞授与という「踏み絵」は確かに私にとっても興味深くはあります。「show the flag」などという単純な話でなく。

■■■

 違うのであれば、その文学的想像力とやらは、一体なんなのでしょうか、ということを疑問に思います。空っぽでないならば、それ以外の何なのでしょうか?パレスチナという具体的問題が提示されてなお、それが問題系の一部であるのかないのかも自律的に判断できない文学的想像力とは、何なのでしょうか?僕が問うているのは、まさに、この点です。


「他者」と他者が存在する世界に対する断念から発する文学的想像力、ということでしょう。世界の凸凹を「やれやれ」という個人の主観的な断念において均してしまう文学的想像力ということでしょう。搾取構造や政治的抑圧という世界の凸凹を個人の主観的な剥奪感において塗り潰してしまう文学的想像力ということでしょう。搾取構造や政治的抑圧という世界の凸凹が個人の主観的な剥奪感へとパラフレーズされ「個人における自由と自律の剥奪」として普遍的に指し示される文学的想像力のことでしょう。


つまり、「他者」と他者が存在する世界に対する断念を前提に、個人の主観的な剥奪感に訴求することにおいて搾取構造や政治的抑圧という世界の凸凹を隠蔽するべく機能する文学的想像力でさえあるでしょう。村上春樹の文学は、そのように世界を変えました。そのような文学的想像力がクソであるなら、政治的にはそうでしょう、と頷くよりほかありません。石原慎太郎を見るまでもなく、文学的想像力は時に政治的にはクソでしかないものです。

 問題意識は「固有の場所に規定されない」、もちろん、そうでしょう。ただし、それはつまり、あそこもここもそこもどこも、あらゆる場所によって規定される、ということだと思います。「固有の場所に規定されない」とは、いかなる場所にも規定されないのではなく、すべての場所によって規定される、ということでしょう。


政治的にはその通りなのですが。事実上、世界のどこにも存在しない場所を指し示すから「隠喩としての○○」なのです。それがガザであれノモンハンであれ阪神大震災であれ。だから村上春樹は神戸を描かずに「隠喩としての大震災」を描きました。もちろん、倫理的には大問題です。「固有の場所」を起点としながらも、世界のどこにも存在しない場所を指し示して「自由と自律の剥奪」を描く文学を世界の人々は求めた、ということです。なぜなら、シュミットの論理を借りれば友も敵もない世界を私たちは自らの剥奪感を贖うために想像力において求めるからです。少なくとも、それが文学の機能と村上春樹は考えています。


想像力に基づく「剥奪感の贖い」を、普通の言葉で癒しと言います。村上春樹同様世界的に読まれる吉本ばななの文学がその典型です。私も毎週『夏目友人帳』見て癒されまくっています。私たちは想像力において「他者」を求めないということです。「敵のない世界」ではありません。「友さえない世界」です。私たちはそれを癒しのために想像力において求める。国境を越えて、グローバルに、資本主義に支えられて。


それがけしからん、と仰るならこうも言いましょう。想像力において描かれる「他者」とは何であるか。表象された「他者」はせいぜいが括弧付のそれでしかない。そして凸凹と共に「他者」が存在するのが世界であり、たとえば現実のガザであり、現実のチェチェンであり、ダルフールであり、チベットです。世界の凸凹を表象して「他者」に至りうるものではないし、世界の凸凹を表象することが文学では必ずしもありません。そして村上春樹の文学は「世界の凸凹を表象して「他者」に至りうるものではない」という断念から出発した文学であり、言葉であった、ということです。


世界と他者を描くことに対する原理的な断念から発した文学。断念の原理性に対する明察が村上春樹の「凄さ」であり、そして断念の原理性ゆえにその文学はグローバルに受容されました。世界と他者を描くことに対する原理的な断念から、一切は明示的に隠喩として描かれる。「個人における自由と自律の剥奪」についても。


明示的な隠喩として描かれた「自由と自律の剥奪」は、「他者」の他人事としてでなく我が事として個々人の剥奪感を贖う。グローバル資本主義が個々人の剥奪感を育むからこそ、その剥奪感を贖う村上文学はグローバルに読まれる。意地悪く言えば、村上文学とグローバル資本主義は共犯関係にある。そのことに対する作家の認識が、村上文学の尋常でないテンションを支えている、と私は思っています。その認識がエルサレム賞授与に際して露出するかも知れないことは、少なくとも私にとっては関心事です。

■■■


「他者」が存在し友と敵が否応なく存在することが政治の前提です。搾取構造と政治的抑圧という凸凹を背景に友と敵が否応なく存在する世界で「他者」に対する応答責任を要請するのが政治的倫理です。簡単に言ってレイヤーが相違するということで、しかし文学と政治は相互に独立して存在するものではない。「児童ポルノ」規制問題を見るまでもなく、社会的に流通する想像力を守るものは政治的意見表明です。村上春樹は資本主義における勝利ゆえにその社会的に流通する想像力を守られていますが、しかしそれは実のところ「文学の自律的価値」の問題ではない。だから「文学の自律的価値」に用ある者はこの件に関心あって、私もソンタグに絡めて書いています。再度引用させていただきます。

 「自由と自律の剥奪」についての文学的想像力とは、パレスチナに限らず、チェチェンであれ、ダルフールであれ、チベットであれ、他の何についてであれ、それについて知ったときには、それがまさに「自由と自律の剥奪」の問題系の一部であるということを、明瞭に了解する、そういう力のことだと思います。


文学的想像力は隠喩としての「世界」を描きますが、世界を描いているわけではない。世界とそこに存在する他者を描きえないことに対する原理的かつ自覚的な断念から発した文学において涵養された文学的想像力とは、mojimojiさんが考えておられるようなものではありません。是非と評価は措きますが、少なくともmojimojiさんがそのような「文学的想像力」に用がないだろうことはわかります。


そして世界には他者が存在する。それは政治の問題であり、そのことを「個人における自由と自律の剥奪という問題意識に用がある」者は知っている、ということです。村上春樹に限りませんが、文学的想像力が隠喩として描く「個人における自由と自律の剥奪」は、隠喩であるがゆえに私たちは我が事としうる。そして世界に他者が存在することを私たちは知っている。養老孟司が言った通り「知っている」という話でしかないことです。


「「知っている」という話でしかないこと」を知るから、私たちは「他者」のことを容易に語りはしない。他者を語りうる言葉は、政治の言葉です。政治の言葉と文学の言葉は相違する。レイヤーが相違する。mojimojiさんは、政治の言葉と文学の言葉が相違するとは考えないのですか。隠喩であることの意味が、文学の言葉には存在します。「他者」の「自由と自律の剥奪」を「私たちの問題」と捉えうるのは、政治の言葉です。両方必要という話です。文学の言葉を政治の言葉に還元して考えておられるように、私には映ります。言うまでもなく、文学の言葉を縦横に駆使してきた世界的作家に政治の言葉を語るべく公的に要請することは、まったく問題ないどころか至極妥当です。

 僕が的にしているのは、最初から「村上春樹にも文学にも用があるが、パレスチナには用がない」人です。その人たちの眼中には、「村上春樹にも文学にも用がなく、パレスチナには用がある」という人のあり方が、さっぱりわかっていないように見えたからです。「要は、パレスチナに用がないんでしょ?」、そのとおり、そう聞いているのです。その意味で、sk-44さんは正しく読んでいるのでしょう。


 ただし、その意味合いは、sk-44さんが考えるものとは随分違っているようです。僕の認識において、個人における自由と自律の剥奪という問題意識に用がある人間であるならば、先にも述べたように、パレスチナに用があって当たり前なのです。だから、「「村上春樹を読んだこともないくせに」はアホですが「要は、パレスチナに用がないんでしょ?」もアホです」という風に、パラレルになるとは考えません。文学的想像力というのが単なる看板ではないならば、パレスチナにも用があるはずです。村上春樹に「問題意識」を届けてもらうまでもなく。


世界の凸凹を問題と考えることと、「他者」を個人に還元しうると考えることは、同じことで、それは政治の問題意識です。「文学的想像力」に頼らなければ世界の凸凹について「他者」における自由と自律の剥奪について考えることができないなら、それは政治的に物を考えることをサボっているだけのことです。隠喩の機能において規定される「文学的想像力」の問題ではない。そして「政治的に物を考えることをサボっている」人がmojimojiさんに反論した主要な人に居たか私は断言できかねますが「「村上春樹にも文学にも用がなく、パレスチナには用がある」という人のあり方が、さっぱりわかっていない」ことは、確かにサボりでしょう。さっぱりわかっていなかった人が居たか私はわかりません。


まとめると。文学の問題と政治の問題は違う、ということです。共に重要であり無関係ではありえない、ということです。「パレスチナへの無用」を的にするならそれは政治の問題です。「個人における自由と自律の剥奪という問題意識」が隠喩においてグローバルに共有される。カフカ以来、それが文学的想像力のひとつの機能です。暗示された主観的な「世界」が他者の存在する凸凹な世界でないことを承知して剥奪感は贖われるから、「個人における自由と自律の剥奪という問題意識」に用ある人は人によってはパレスチナに用がない。パレスチナには「他者」と凸凹が存在するからです。そのことを「知っている」からです。私のパレスチナへの用はまったく政治的な問題意識によるもので文学的想像力の出る幕はさしてありません。というか、文学的想像力とは概ね「悲しいけどこれ戦争なのよね」のことなので。


しかし文学的想像力が調達する関心も問題意識も用もあるだろう、ということです。ガンダムで先の戦争を学ぶ人もコードギアスパレスチナ問題について関心持つ人もいるそうだから。そんな関心や問題意識や用はノーサンキュー、ということなら政治の問題はポリティカルに考えることが妥当解でしょう。「他者」と凸凹への用を知らしめるのが政治です。「他者」と凸凹を断念して、(村上春樹的な)文学的想像力という隠喩は成立します。そして「他者」と凸凹を断念した隠喩だからこそ、それはグローバルに共有される。資本主義と親和的に。「悲しいけどこれ戦争なのよね」と。

ソンタグのスピーチについて


手短に。ソンタグが指し示し続けてきたのはいわば「スノッブの倫理的態度とは何か」でした。スノッブとは文明の欺瞞を知ってなお文明の価値に立脚する文明人のことです。その問題意識に同意しうるか、それは分岐点です。ジュネやサイードは同意しないでしょう。エルサレム賞の授賞式など「船上パーティー」以外の何物でもありません。ボイコットの要請を蹴って出席して文学の自律的価値を説くことが何を意味するか。そこには文学の現在的状況をめぐる文脈が所在します。その文脈から、私は村上春樹エルサレム賞授与に関心がありますが、それは「イスラエルに迎合しないソンタグがカッコいい」というような単純な話ではありません。ソンタグがカッコいいことなどわかりきったことで自明です。mojimojiさんにお訊ねしたのは、そのようなことは知って引用しておられたと思っていたからです。mojimojiさんは村上春樹には関心なくともソンタグには関心あると思っていたので。


立派なスノッブであったソンタグは、サラエヴォでゴドーを上演したように、エルサレムで文学の自律的価値を説いたと私は思います。最後に。

「正義を推進することが、真理のかなりの部分を抑圧することもあります」とか読むと、ちょっとため息も出ます。可謬主義的に正義を取り扱う際、正義に近づくための唯一の手がかりは真理らしさであると、僕などは考えるので。


ソンタグが言っているのはPCのことではありません。善を善と悪を悪と政治的に規定することと、善悪反転は別個の営為、ということです。日本近代に限定しても、漱石が谷崎が志賀が川端が三島が太宰がそうであったように、文学の営為は政治的な善悪の彼岸に存在します。村上春樹の文学が、その文学的想像力が、善悪の彼岸の場所に存在するように。約めて言うなら、すぐれて現代的な文学的想像力においては端から世界は世界として描かれず「他者」は存在しません。「他者」を構成する世界の凸凹について知らしめるのは、政治であるでしょう。


SO YOUNG

SO YOUNG