敵がいなけりゃはじまらない


タイトルはB'zの名曲から。


はてなブックマーク - はてな


議論をすることと喧嘩を売ることは違います。そして両方を要する問題意識が存在する。「喧嘩を売る」は私的行為なので、つまりコミュニケーションorディスコミュニケーションなので、ディスコミュニケーションとして帰結することは致し方ないとして、その私的行為が「ブックマーク」というインターフェイスを介することの意味を知らないはずもなし。擬似的な抗争の様相を呈することの意味についても。問題は、知的な対立と同時に擬似的な抗争が要請されること。存在する「政治」を敵対性において可視化させるために。


今回削除要請された人たちが議論をしていたことは疑いえない。議論が相互的な対話として成立しなかったのは「喧嘩を売ってきた」ことが理由ではない。「喧嘩を売ってきたから議論を断念した」と削除申立の当事者が説明していることは、主観の問題であって経緯の説明として妥当しないと私は思う。しかし、いま問われているのは「喧嘩を売る」ことの問題だろう。


「喧嘩を売る」ことをシュミットを引いて正当と見なすこと。fuku33さんの『ケーキ』がそうであったように、任意の言説に対して、それも一定の支持を得た言説に対して、その言説に内在する問題とその意図されない政治性を指摘すること。それはまったく妥当な行為であって、私もやる。しかし。


たとえば「私は左翼である。そして貴方は自称中立である」はまったく前後が繋がらない話で「私の問題意識においては、貴方の言説には政治性が内在する。貴方は気が付いておられないかも知れないが」と指摘すればよい、と私は思うときがあり、自分はできるだけそうしてきたつもりだ。「北風と太陽」という話ではない。


「貴方は自称中立である」と指摘すること。21世紀を迎えていっそう政治的な人間世界において政治性が存在しないかのように振舞うことが政治的に抑圧された存在に対する権力として機能し権力を裏書する。特定性的嗜好に対する嫌悪を公言する人は大抵それを政治的言説とは毛頭思わないでナチュラルに言っている。「あのー、それ、普通に差別なんですが」と指摘することは必要。もちろんそれは他人を差別主義者と糾弾することではない。


「かわいそう」という言葉がボタンの掛け違えだった、と私はいま思う。「普通にかわいそうなんですが」という指摘は感情論でも何でもなかったのだが。


「貴方は○○である」は露骨に政治的言説で、その正当を説くためにシュミットを引くと、本当にナチスの轍であり、つまりシュミットの本意ではあるまい。人間世界を敵対性において分析したのがシュミットで、「貴方は○○である」と他から名指されることを私たちは逃れえないとき、特定他者を「経営学者様」と名指して政治的なる世界に位置付ける行為は、「女子学生」の「ナイーブ」を位置付ける政治的言説とその無自覚に対して「貴方は○○である」と名指す行為のカウンターである限りにおいて、両義的だ。「貴方は○○である」と名指す類の政治的言説を貴方は自覚なく提示しており、そのことを指摘するために私もあなたの存在を○○と名指す、と。


人格批判とかブコメでの罵倒とかそんな話ではない。「貴方は○○である」と名指す行為が敵対性概念において規定されるとき、「喧嘩を売る」行為は敵対性概念に対して両義的である。両義的でないなら、つまり「喧嘩を売る」ことをシュミットを引いて正当と見なすなら私は両義性の欠如においてそのことに同意できない。しかし問題はそれ以前であって、敵対性概念に対して両義的な言行が「喧嘩を売る」行為それ自体に一切還元されるなら、それは個人の欲望やパーソナリティーの問題と見なされて終了だろう。


言説の問題を存在の問題へと還元する議論を首肯しうるか。端折って結論を書くが、言説の問題を発言者の存在の問題へと還元することは、ナチでもポルポトでもなく、そのことが「喧嘩を売る」ことの意味としてある。しかし「喧嘩を売る」行為は往々にして行為それ自体の問題と見なされ当事者の欲望やパーソナリティーへと還元される。

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シュミットを引いて政治的敵対性の舞台に論者を引っ張り上げることは、ましてマルクス階級闘争概念が加わるなら、アウトプットが糾弾に見えて致し方なし、と私は思う。むろん「舞台に引っ張り上げている」つもりはないんだろう。話は逆で、ブルジョア的な「紳士の議論」という舞台から政治的敵対性の(ひいては階級間闘争の)存在する人間世界へと引きずりおろしている、つもりのはずだ。


「紳士の議論」に「女子の感情論」は含まれない。議論をすることが一切ではない、議論をすることと同時に喧嘩を売ることが、人間世界に対する問題意識としてある。しかし私の目には「シュミットを引いて政治的敵対性の舞台に論者を引っ張り上げている」ようにしか見えないときがある。私の目にさえそう見えるときがあるのだから、そう見えている人は多いだろう。


で、その「シュミットを引いて説かれる政治的敵対性」ははてな村ブログ論壇に用意された舞台であり、プロレスのリングに過ぎないのではないか。もちろん「観客席」はない。場外乱闘はプロレスの醍醐味なので。


人間世界の政治的敵対性の縮図がプロレスリングという四角いジャングルに存在する、とはあまりに梶原一騎な世界観で私は素晴らしいと思うが、紳士の議論の最中にプロレスの舞台に引っ張り上げられてこれが人間世界の政治的敵対性の縮図ナリと覆面レスラーに力説されるなら真っ平御免と思って普通だろう。まさに四角いジャングルは地獄。


議論をすることと同時に喧嘩を売ることに意味があると信じるなら、つまり「人間世界の政治的敵対性の縮図がプロレスリングという四角いジャングルに存在する」と一騎者として言っているのでないなら、政治的敵対性を舞台として設定することは両義的だ。舞台として設定してなどいない、と言うだろうか。


「喧嘩を売る」行為が「ブックマーク」というインターフェイスを介するとき容易に擬似化する。人間世界の政治的敵対性が否応なく個人の欲望やパーソナリティーの問題へと還元される。むろんそれは誤った還元で、「福耳は最悪←結論」という結論は個人の欲望やパーソナリティーへと還元された結論だろう。Romanceさんの憤りの真を私は知っているけれど、その結論は間違っていると思う。


本当に、否応なく政治的敵対性の存在する人間世界へと「紳士の議論」という舞台から論者を引きずりおろそうとしていたのなら、その結論は誤っている。誤った結論へと導いたのは「ブックマーク」というインターフェイスを介して擬似化した「人間世界の政治的敵対性」という画餅だろう。


今回削除要請された人たちは「否応なく政治的敵対性の存在する人間世界」に対して真摯な問題意識を持ち合わせて議論を重ねていた人たちだった。「人間世界の政治的敵対性の縮図」を言説の舞台として設定しその権力を行使していると見なされたとき「完璧な計算で造られた楽園」としての政治的敵対性を想定している、と揶揄され、論点先取による言説の権力性を批判される。


むろんその揶揄は間違っている。「完璧な計算で造られた楽園」としての政治的敵対性などないから、議論をすることと同時に「喧嘩を売る」ことには意味がある。「喧嘩を売る」ことを個人の欲望やパーソナリティーの問題へと還元してしまうなら「喧嘩を売る」ことの意味は一切消え失せる。つまり、以下のような話になる。

正直、罵倒タグとか、罵倒コメントとかをつける人が社会の不正義に非寛容なのはどうにも釈然としない。自らの正義のためなら敵から見て悪者になるのも厭わないというのはかっこよさげですが、他の人の客観からですらどう見ても単なる悪者です、となりがち。

ひどいブックマークコメントの話 - novtan別館


NOV1975さんの言っておられることは正しいと私は思う。それは誤解とも思うからこうして書いている。

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plummet .( ̄− ̄), ブログ  このエントリと直接関係ないが、このところの「ブログ上での議論」が、本来あるべきテーマではなく、そのテーマで議論するための前提(共通認識)をどうするのか、ということだけで燃え上がっているように見える。

はてなブックマーク - 「隠喩としてのガザ」 - 地を這う難破船


「議論するための前提(共通認識)」についての議論、とは要するに「舞台」の在処についての議論、ということ。舞台は「紳士の議論」か「人間世界の政治的敵対性」かそもそも舞台は設定されるべきか、舞台が設定されないままに議論は可能か。結論を言うと、舞台が設定されなければ議論は不可能で、上がる舞台を同じくすることを「共通認識」と言う。


むろん「上がる舞台を同じくする」ことは究極的には不可能で、よって概ね議論は究極的には不可能で、しかし「上がる舞台を同じくするべく目指す」ことは大前提として議論を目指すなら合意されなければならない。「対話」とはそのために為されるし肯定される。端から舞台を限定してその舞台に上がってこない相手を貶めるなら、それはお仲間と議論してください、ということになる。その舞台が「紳士の議論」であれ「人間世界の政治的敵対性」であれ、アカデミズムの仲間なり左翼仲間なりと。


インターネットがカジュアルに喧嘩を売れるシステムであることの意味は果たしてどこにあるか。先日「ブックマーク」というインターフェイスについて言及したところ「利用者が個人として責任を負わない」と解釈した人があったが、むろんそうではなくて、警察当局が判断するように、システムの介在と個人の行為の責任所在に関係はない。


問題は、STAND ALONE COMPLEXがまさにそうであったように、システムの介在という変数と個人の行為責任の連関であり、そしてそれは容易に演算できないし、いずれにせよ人ひとりが負える責任は一人分だ。命さえひとつしかなく、アイヒマンを百万回吊るせるわけではない。特定他者に対する攻撃的な言動の後でそれが傍から問題視されて「私の言動の正当性」を当事者以外に対して自ら説明、という流れは何度目ですかという話。言動の正当性なんてのは自ら他に対して説明するものではない。だから私がこうして書く。


私は、相互TBを前提する個人ブログの理念と「ブックマーク」というインターフェイスの介在は原理的に対立すると思っている。対立するから面白い。ただ、インターフェイスの介在についてネグって個人言論の理念を説くなら自己弁護かカマトトか悪の凡庸でしかない。理念の在処とインターフェイスの工学的介在が対立するから、いわゆる「はてな村民」はアイロニカルに振舞わざるをえない。自覚されたアイロニカルな振舞いがプロレスリングの設定へと帰結することは、まったく筋の通った話であるだろう。


「人間世界の政治的敵対性」もまた舞台に過ぎない。しかし縮図としての舞台なくして「人間世界の政治的敵対性」はそのことについて無自覚な者に対して指し示しえない。「喧嘩を売ること」において設定される舞台がある。その舞台が「ブックマーク」というインターフェイスを介して個人の欲望とパーソナリティーへと還元されるなら、一切は元の黙阿弥だろう。「人間世界の政治的敵対性」をそのものとして指し示すことは、つまりネットで上手に喧嘩を売ることは、難しい。まさにリテラシーの問題と思うが、このようなリテラシー、誰に対して要求しうるだろう。


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