修辞と客観/大義と横紙破り


2009-02-10


リアルタイムでの私の印象を書くと、「福耳は最悪」と言って回りたいのだな、とtikani_nemuru_Mさんやkajuntkさんのエントリに付されたブコメを拝見して当時思った。本名タグについても。つまり、当時自身のブログでは沈黙しながらもスター等で意思表明を行っていたfuku33さんに対して召喚魔法を唱えているか、あるいは当てこすっていると思っていた。私ですら思ったのだから、fuku33さんがそう受け取ってまったくおかしな話でない、と私は思う。


そのことの是非は措くが、また一般論ではないが、召喚魔法を唱えることも当てこすることも問題ないとは当時思った。可視的な場で行っているとはそういうこと。相手の不快に訴求するために人の嫌がることをすすんでやっていたと私は思っていたけれど。


それを今になって、削除要求に伴って自身の行為の形式的な正当性を説く。それは、主観的な修辞を客観的な事実の問題と考える世界観がRomanceさんらの行為の形式的な不当を主張しているからだが。不幸な出会いとミスマッチの必然的な結末ではあった。


Romanceさんらの行為は形式的には正当で、むろんそのことは両義性を含む。罵倒も人格批判も法廷闘争も形式的には正当だから。しかし、主観的な修辞を客観的な事実の問題と考える論者が、形式的には正当な主観的修辞を客観的事実に反するとしてその形式的な不当を主張する限り、反論として形式的な正当を主張せざるを得ない。客観的事実として主張される修辞的言動の、その甚だしい主観性についても。「自分を棚に上げて」とはそのこと。


主観に基づく修辞的言動が形式的には正当である限りにおいて、罵倒も人格批判も形式的には正当であって、つまり主観に基づく修辞的言動を相互に了解して対話しないことには、そもそも議論にならないし、主観に基づく修辞的言動を客観的事実に反するデマゴギーと捉えてそれを公言するなら、法廷以外の出口はない。むろん、それも形式的には妥当です。


問題は、私人間の係争は一義的に言論の問題ではないので、言論の形式に対する合意なくして議論を目指す対話は成立し難いこと。一般論として言うなら、言論の形式に対する合意の破棄を罵倒や人格批判に対して見出すことは不当とは言い難いだろう。そうした横紙破りをこそ問題視する見解が、fuku33さん以外にもある。「人格批判でなにか問題でも?」という意見を目にしたが、言論の形式に対する合意なくして議論を目指す対話は成立し難い、と考える見解においては、むろん問題。言論の形式に対する合意の敗北が、法廷闘争を結論する限りは。

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id:whitebread はてな, コミュニケーション  「存在する「政治」を敵対性において可視化させる」ノーリスクでやれることではない。また結果として生じた事態に対して、どこまで自己責任を果たし得るかということも重要。往々にして論敵に甘え過ぎでは? 2009/02/10

id:ROYGB  ブックマークなどが行われる「舞台」は、株式会社はてなによって提供されていて利用規約の制約下にある。削除要請なども規約に沿って行われる行為であり、注意勧告あるいは削除照会に抗弁するのも規約の範囲で可能。 2009/02/09


id:REV (1)_長  実在するのは、介在する単語の選択や、場合によっては介在したバール(のようなもの)や、拳。それを議論と呼んだり、喧嘩と呼んだり、教育と呼んだりする。山の中で柱に縛った同士を殴ることを革命と呼んだりね。 2009/02/09


id:fujipon  【人格批判とかブコメでの罵倒とかそんな話ではない】「そんな話」こそが今回問題になっているのだと思うのだが…… 2009/02/09

はてなブックマーク - 敵がいなけりゃはじまらない - 地を這う難破船


同意、のうえで私なりに御返事しますと「大義と横紙破り」の問題です。同意とは、それを横紙破りと判断することに対する同意、ということです。しかし大義が「横紙破り」を要請するとき、それを「横紙破り」と名指して批判する者は大義において抵抗勢力に過ぎない。国連に対する横紙破りをブッシュの大義が要請したように。


皮肉でブッシュを引いているのではない。大義の内実や大義に対する検討の有無はなんら問題でない。大義に対する合意や大義をめぐる百家争鳴に対して批判的な社会観が「保守」という近代以降の再帰的概念として存在する、からです。大義の如何に拠らず、横紙破りを否、と考える見解があり、かかる立場に対して大義の如何を説くとき大義画餅と化す。つまり自身の行為の形式的な正当性の主張をしか意味しないし、ゆえに主観的な修辞問題にしかならない。ブッシュが信じた大義のように。むろん私たちは権力者ではない。


大義の如何に対する否が保守の要諦であり、イデオロギーの時代であった近代における再帰的な反省として、個々人の生活利害から規定される社会観は、横紙破りをこそ諸悪の根源と措定しました。だから、横紙破りの形式的な正当の主張と闊達な相互的議論は保守の社会観においては両立しない。そして大義の如何において横紙を破ることに躊躇ないのが左翼。「横紙を破るような人間が大義の如何を説くべきではない」という批判は左翼に対してはまるで妥当しない、という話。「これ豆知識な」的な話。


大義の如何を主張して横紙を破る人間の言論には与し難い。それは見識と思います。そういうのをひっくるめて普通は「常識」と言うが、ところで小林秀雄はもうちょっと深いことを言った。近代の再帰的な反省として、「崇高な理念」の有無に関わらず横紙破りをそれ自体で否とする、個々人の生活利害から規定される社会観が存在するのであって、その社会観が再帰的概念であることをは前提されるべき事項です。


保守と名指される社会観が再帰的概念である以上、それは主観的な修辞を客観的な事実と措定する発想ではない。むしろ明示的に峻別する発想としてある。主観的な修辞を客観的な事実と紐付けすることは普通にイデオロギー的な発想であり行為なので、左翼批判としてその措定が為されるならそれは議論は無理だろうと思う。修辞の意図を問うことは可能でも。


一般論として、主観的な修辞を主観的な修辞であることにおいてその形式的な正当を説きその意図については「下司の勘繰り」と否定するなら水掛け論以外の結論はない。修辞の意図を問うことと議論は違うし、どのみち議論にはならなかった。


主観的な修辞を客観的な事実と見なすことはあまりにイデオロギー的な発想と行為であり、そしてあまりに古典的な左翼の発想と行為なので、fuku33さんの、主観的な修辞を客観的な事実と容易に措定して展開されていた左翼批判に私は少し驚いた。問題は、主観的な修辞を客観的な事実と容易に紐付けすることにある。つまり、主観的な修辞を客観的な事実と容易に紐付けする限り、相互的な議論は成立し難い。


大義の如何を主観的な修辞問題と見なして、横紙破りを客観的事実と見なす見解において、後者は措定ではない。「横紙破り」の客観的事実は、主観的な修辞問題か、「客観的事実」の問題か。たとえばREVさんが、客観的事実の問題と見なしておられることは、見識とは思います。が。少なくとも、主観的な修辞問題はそれ自体では政治問題ではない。それが客観的事実と見なされるとき、政治問題化する。ロベスピエールというキチガイの横紙破りのうえに、幕末の血で血を洗う殺し合いのうえに、現在私たちが享受する諸々の権利が成り立っている、とは呉智英の十八番だった。


攻撃計画(Plan of Attack)―ブッシュのイラク戦争

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