他意がないということ


http://d.hatena.ne.jp/pbh/20090214/1234585070


えーと。私も性的な軽口は叩くが、ネットでは書かない。性的な話題は書くが、軽口では書かない。そして性的な軽口は、了解ある私的に親密な相手にしか叩かない。相手の性別を問わず。性別を問わず、とは、つまり男に対しても、ということ。そして、感覚がオヤジな♀だっている。要するに男女の問題ではない。1年前に花岡というクオリティペーパーの論説委員の記事が話題になったときも「ファーストレイプ」の話から始めた人がいて「セカンドレイプ」とはそもそもそういう概念ではない、と書いた記憶がある。


性的な軽口に他意がなかった、だから性的いやがらせに該当しない、という話はありえない。問題は、他意なく性的な軽口を顔も性別も知らない他人に向かって口にする、そしてそれはいやがらせたりうる、という点にある。インターネットという準匿名の公共空間において「他意なく性的な軽口を顔も性別も知らない他人に向かって口にしうる」状況に対する異議申立として使用される概念がある。それを被害感情至上主義に基づく個人に対する社会的なラベリングと指摘することには同意しない。はてなidがekkenさんが社会的に制裁されるような状況のとば口にもないし、たぶんそのようなことは誰も望んでいない。花岡記者は健筆を振るっておられる。


「他意がないこと」と被害感情の不均衡がずっと、それこそ歴史的に存在してきたから、自由な社会の原理に即して「ハラスメント」という概念が規定され、その使命は被害加害の関係性を措定することにより「他意がないこと」の権力性と犯罪性を指摘し告発することでもあった。「他意がないこと」が被害感情の存在をインビジブルとして扱ってきたからこそ、「ハラスメント」概念においては被害感情は尊重される。


「被害感情の可視化」をひとつの目的として規定された「ハラスメント」概念に対して、可視化された被害感情を軽視することによって不可視の領域へと押し戻そうとする行為は「セカンドレイプ」と指し示しうる行為であり、そしてそれが他意のない行為なら、ekkenさんの行為とpbhさんの行為はパラレルと思う。「他意がないこと」と被害感情の不均衡に対してこそ、憤りを覚えてきた人たちがいる。それは性別を問わない。そして、被害加害の関係性を措定するために存在する概念に対して被害加害の連関をうやむやにして、可視化された被害感情の存在に対する主観的な同意/不同意の問題とするなら、そのとき加害行為の存在は不可視化される。むろん、pbhさんが意図してやっているとは思わない。だから「他意がない」ことは時に厄介なのだ、と。


「そもそもその被害感情は存在するのか。被害加害の関係性を措定する概念を利用して加害者を加害者として名指すために『可視化させられた』被害感情ではないのか」という問題意識と議論は存在する。たとえば内田樹の議論は大筋でそうなっている。しかし。だからこそ「私には被害感情が存在する」と個人として強く訴えることは必要なのであって、言うまでもなく今回の件は内田樹の議論で相殺しうるものではない。


「私には被害感情が存在する」と個人として強く訴える行為に対して、繊細を指摘し寛容と鈍感を説くなら、他意がないことはわかるけれど、正直、「セクハラ」や「セカンドレイプ」に言及することは勘弁していただきたいと思う。つまり「なぜそれをしているのか」を理解せずに「自分ならこうする」を説いても詮無いし、そしてそのことを単なる個人の感覚の相違として結論するなら、あまつさえその結論を書いてしまうなら、大間違いでありそもそも関心がないと判断せざるを得ない。関心がないから何もわかっていない、と。

(前略)マジだと。セクハラは受け手の判断のみで成立しちゃうのでこれは「セクハラ」なのであろう。しかし繊細過ぎるような。「ネット」に限らず何処でも「不利」な気がする。Brittyがタグを変えるのは無し?

はてなブックマーク - id:ekken さん、性的いやがらせはやめてください(追記アリ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

まあボクは、受け手側が寛容に/鈍感になればこの手の不幸は減るかもね、と思っちゃうんだけど。

http://d.hatena.ne.jp/pbh/20090214/1234585070


「セクハラは受け手の判断のみで成立しちゃう」というのは「被害感情の存在を可視化させる」ためにハラスメントという概念が存在するから。そしてそれは「被害感情の存在」と「他意がない行為」との甚だしい不均衡を被害加害関係の措定において社会的に是正するために存在する概念なので、個人としての被害感情を強く主張して性的いやがらせを指摘する発言に対して、「個人としての被害感情を強く主張する」行為について繊細を指摘し寛容と鈍感を説くなら、それは被害感情を主張する行為に対する抑圧に等しい。


被害加害関係の措定に対する不同意が理由なら――つまり内田樹的な問題意識に基づく指摘ならまだしも、他意なくそうしていることなら、それは「セカンドレイプ」と指し示される行為と同じことではある。「セカンドレイプ」とは、被害感情を被害当事者が主張する行為に対する抑圧として機能する言説の総称を指すので。私も立派な30男として鈍感ではあるが、問題意識に対する理解は感覚の問題ではない。


性別を問わず、つまり男同士であれ女同士であれ男女間であれ、相互に許容された、私的に親密な間柄においてしか性的な言辞を介在させたくない、という考え方はもちろんあるし、それは一般常識に準ずると思う。「特異な俺ルール」ではない、という話。「わたくしはあなたにそのようなことを言いかけられるようなお付き合いはしていないものと了解しています。」とはそのことを指すと思っていたけれど。そのことの公的な確認に対して――ekkenさんのことではないが――「言葉狩り」を云々しWebの自由を説くことは、いや有村さんがそれを言うのはわかるけれど、それは「性的いやがらせ」の問題意識が骨抜きにされている、ということではある。


自由な社会における個人間の相互的な配慮に対する横紙破りとして、そして権力関係に基づいて「他意なく」為されるものとして、ハラスメントはハラスメントと名指されている。そして現実に被害感情を主張する個人が存在する限り。ekkenさんが権力関係を行使している、ということではない。「他意なく」それができるということが、そして「他意なく」為されることが個々人の判断へと是非を還元された結果許容されることが、権力関係の存在を指し示している、ということ。それこそが「セカンドレイプ」言説と、その問題の核心。だから、被害感情を個人として主張することは必要であり、それは「闘い」でもある。被害感情を主張する個人が存在しなければ、被害感情も存在せず、ひいては被害も存在しない。加害者は加害者と名指されることもない。


蛇足ながら。当該のエントリ、ではなくそのエントリに付された大量のブックマークコメントを拝見したとき、陳腐なことに赤木リツコの言葉を思い出した。「潔癖症はね、つらいわよ。人の間で生きていくのが。」たぶん庵野秀明は「女性のメンタリティ」に仮託してそれを描いたのだろうが、当時既に、その言葉に同感する男は大変に多かった。私がそうであったかは知らんが、そういう友人は多かった。そして重要なのは、それは本人が自分で言えることであって、そう自嘲気味に言ってよいのは被害感情を抱え込んでいる本人だけであって、「鈍感な」他人が傍から言えることではない。というか、そのサジェスチョンは誰がどの立場からどの目線で言っていることなのか。pbhさんがそのへんのことを一切クリアに考えておられることは知っているが、潔癖症の辛さを他人に対して指摘する鈍感な人は、なるほど鈍感だろう。私も鈍感だが、顔も知らない人に対してそんな糞の役にも立たないうえにあらゆる意味で間違っているサジェスチョンはしない。