「隠喩としてのガザ」


エルサレムと表現 - 地を這う難破船


承前。mojimojiさんの率直な言葉に、少しレスしたく思います。


僕はパレスチナに用がある。他にどんな理由がいるんだ? - モジモジ君のブログ。みたいな。

(前略)村上春樹の自由と自律を擁護する人々に聞きたいが、あなた方が擁護する自由と自律は、そこを追われた人々の、そこで押さえつけられる人々の、当たり前の日常を暮らす自由を、踏みつけにしなければ実現できないものなのか。そうでしかありえないのならば、そんな文学など、いらない。


私が「村上春樹の自由と自律を擁護する人々」かはわかりかねますが、もちろん村上春樹の自由と自律は擁護さるべきです。ガザ地区に暮らす人々の自由と自律が擁護さるべきことと同様に。当然のことではないですか。ニッコリ(白い歯を輝かせて)。 ――こういうのを欺瞞の極みと言います。自由と自律を剥奪された人々がパレスチナに存在する。そのことを「パレスチナに用がある」人々は言っている。それは村上春樹の自由と自律と、無関係なことか。無関係と考えるか否かが、分岐点。


所謂「船上パーティー」会場における個人の自由と自律を擁護する人を、普通は文明人と言います。私が思うに、そもそもその「船上パーティー」自体が『さすらいの航海』というのが、現在の状況。そしてそのことはパーティー会場の誰もが気付いている。誰もが食肉処理場へと向かうドナドナドーナな曳かれ者。そんな21世紀初頭の資本主義社会の風景です。


さすらいの航海 [VHS]

さすらいの航海 [VHS]


村上春樹の自由と自律を擁護する人々」が「村上春樹にも文学にも用はないけれど、パレスチナには用がある」人に対して言っているのは「貴方は村上春樹空気嫁と言っているが、そもそも文学ってKYだから」ということです。それは、前記記事で引用したソンタグも言っていることで、文学とは原理的にKYであって、しかしKYをKYと指す圧力を打破するために私たちは政治的な意見を持ちそれを然るべきときには表明しなければならない。だからソンタグオルメルトの「空気嫁」に断固否を表明したのでしょう。


2009年2月にエルサレム賞を授与される、ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。


エルサレム賞受賞式において、オルメルトという政治家はソンタグの「KY」を「KY」として称えると同時にポジショントークを展開しました。それがもちろん「空気嫁」を意味することは果たして確信犯なのかそれとも気が付かないのがイスラエル仕様/オルメルト仕様なのか。そもそも政治家とはそういうもんですが。そしてソンタグは言うべきことを言った。


空気嫁」に「空気嫁」を返してどうするのか、と私は上のエントリを読んだとき思いました。要は「show the flag」という話にせよ。ソンタグが正しいのは「空気嫁」に対して「文学とは原理的にKY」と返したことです。むろんそれは政治的です。KYをKYと指す圧力を打破するために私たちは政治的な意見を持ちそれを然るべきときには表明しなければならない。それが、文学を文学として愛する者の、文学の自律性を守らんとする者の、責務と私は思います。私が驚いたのは。

 僕は、村上春樹の本など一冊も、一文字も、読んだことがない。エルサレム賞などという文学賞の存在は、つい先日初めて知った。


mojimojiさんがソンタグエルサレム賞での一件も今まで知らなかった、ということです。村上春樹エルサレム賞受賞を知ってソンタグの一件も知った、ということですか。


空気嫁」とは言っていない、とmojimojiさんは仰るでしょう。mojimojiさんにとっての政治が「空気」の対立概念である以上。つまり「show the flag」とは空気として存在する政治を「政治」として顕在化させることだから。


左翼というのを、なにか誤解してる人がいるんじゃないか - 日毎に敵と懶惰に戦う


zaikabouさんのエントリで述べられている、

左翼の人が普段から何をしているかと言うと、最終的な目標を達成する過程として、社会のあたりまえになっていること、無自覚に受け入れていること(よく言う○○の内面化とかなんとか、そういうの)に対して、おまえそれおかしいよ、って言い続けている。時には激しい罵倒表現を使って言う。『受け入れられる』とかそういう戦略ではない。中途半端に『受け入れられ』たとしても、最終的な目標の達成に役立つわけではないから、そういうことはしない。いかに多くの人間を振り向かせて、時には不快感を催させるかってのが大切なんだから、当然罵倒もする。変わったタグも使う。そういう活動を常日頃からやっている。


――とはそのことであって、またhokusyuさんの最新エントリとも関わることでしょう。


「政治」を「する」ことと「政治」で「ある」こと - 過ぎ去ろうとしない過去

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 そりゃ、エルサレム賞を受賞しようと、拒否しようと、受賞するとしてどんなスピーチをしようと、村上春樹の自由に決まっている。その自由を侵害しようとした人なんて、見渡す限り、一人もいない。自由を侵害するとは、たとえば村上の家族を害するぞと脅迫して、受賞をボイコットせよと言うような、そういうことを言うのだ。村上春樹に受賞を思いとどまるよう述べている人は、あるいは、受賞するとしてイスラエルをハッキリと批判するよう求めている人は、村上の自由を前提にして、述べている。


 どれほどたくさんの人が、受賞を思いとどまるように述べたとしても、受賞スピーチでイスラエルを批判するように求めたとしても、あるいは、そんな声に頓着する必要はないと言ったとしても、村上春樹は、自分のふるまいを、自分で決める。それは前提だ。当たり前のことだ。


仰っておられるようなことはオルメルトだって言う。「村上春樹の自由と自律を擁護する」と。ただ。

 ただし。そこにかつて住んでいて、追われて、今はいない人たちがいる。今、そこに住み、イスラエル社会の苛烈な差別と抑圧の中で暮らしている人たちがいる。エルサレムだけではない。まったく同じようにして追放され、差別され、抑圧されている人たちが、パレスチナ中にいる。エルサレムにゆかりあるそれらの人々は、彼らにとって特別なその土地の名を冠した文学賞が東洋の小説家に授与されることを、どんな気持ちで見守るのか。考えてみればいい。考えないですまされようはずもない。


 イスラエルの文学者たちには、自分たちがすばらしいと考える文学者に栄誉を贈る自由があるだろう。贈られる者は、それを受け取る自由もあるだろう。ただし、それらの自由は、その土地にゆかりのあるたくさんの人々の自由の剥奪の上にある。それが事実である。(後略)


この後段をネグるだけのことです。あるいはポジショントークを展開するだけのことです。それが政治家仕様です。政治家でもイスラエル代理人でもない者なら「パレスチナの人々の自由と自律」とその剥奪について、作家の自由と自律の擁護に言及することと同時に言及することが「然るべきとき」であり「政治的な意見を持つ」ということの意味であるでしょう。ソンタグがそうしたように。


「船上パーティー」を存分に楽しむことと、それが船上であることについて批判的な視座を持ち合わせることと、その船の行き先が食肉処理場かも知れないことを透徹することと、しかし船から下りることが死ぬまでかなわないことを知ること。その四点が両立することを、また両立させることが現代文明人の倫理的態度であることを、私は第一にソンタグから学びました。


自由と自律を剥奪された人々が存在するときに、作家の自由と自律が擁護されることが何を意味するか。文明社会の欺瞞でしかありません。欺瞞を透徹し決してシニシズムに陥ることなく「然るべきとき」に「政治的な意見」を表明すること、「然るべきとき」に、つまりすぐれて政治的な状況においてそれを表明するために政治的な意見を持つこと。それが、ソンタグにとって、欺瞞に満ちた文明社会を文明人として、つまり一人前のスノッブとしてサバイブするライフハックでした。同時に、それは、文学という毒を毒として「すぐれて政治的な状況」から守る術でした。


むろん、たとえばジュネの、あるいはサイードの、意見と立場と行動は違ったし、彼らには彼らの必然がありました。ただ私はソンタグのスタンスに一番頷いた。ソンタグは筋金入りのスノッブだったと、彼女と親交あった浅田彰は言った。私の言葉で言うなら、ソンタグは、文学を愛するがゆえに、世界に対する文学の限界と、その歴史的かつ原理的な価値を、よく知っていた。つまり、文学の自律的価値を。

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 僕は、村上春樹の本など一冊も、一文字も、読んだことがない。エルサレム賞などという文学賞の存在は、つい先日初めて知った。それでなにか問題でも?僕は本来、村上春樹にも文学にも用はないけれど、パレスチナには用がある。パレスチナに友人と呼べるような友人はいないが、そこに友人がいて胸を痛めている友人ならいる。「あってはならないこと」のいくつかが起こっていなければ、もっと違う形で暮らしていたであろう、とある少女のことを、ほんの少しだけ、知っている。その土地からやってきた人の、1時間ばかりの泣きたくなるような話を聞いて、握手をしたことがある。それで十分だろう。何の文句がある。


村上春樹にも文学にも用がない、ということは「村上春樹」という固有名詞の話をしていたのであって、文学にも村上春樹本人にもその作家性として展開されてきた固有の問題意識にも用がないしmojimojiさんにとっては関係がない、ということですね。よかった、文学と村上春樹パレスチナの自由と自律を剥奪された人々と関係なかったんだ。――んなわけないでしょう。ソンタグが聞いたら卒倒する。


私が「村上春樹にも文学にも用はないけれど、パレスチナには用がある」mojimojiさんに対して「文句」としてお伝えしたいことは、「んなわけない」ことを知っているからこそ、文学と村上春樹に用がある人は、この件についてナーバスになっている、ということです。


「んなわけない」ことを知っているとなぜ言いきれるか。村上春樹の文学は、まさに「自由と自律を剥奪された人々」を、現代文明社会を舞台にスノッブな意匠を用いて描いてきたからです。スノッブな意匠は、作家にとって必然でした。現代文明社会に生きることが「自由と自律を剥奪される」ことであることを、つまり私たちは曳かれ者であることを、作家は描いてきたからです。


だから作家がフランツ・カフカ賞の授与を光栄としたことは至極当然のことでした。それはまさにカフカが描いてきたことだからです。20世紀初頭の、チェコの抑圧されたユダヤ人がその特異な才能をもって描いたことです。


パレスチナを描かないことが、「自由と自律を剥奪された人々」を描かないことではない。それが村上春樹がアジアやロシアでも読まれるグローバルな世界文学であることの意味であり、同時に柄谷行人らが批判し『近代文学の終わり』と指摘した現象でもあります。場所の固有性に規定されるのが近代文学であるからです。


「自由と自律を剥奪された人々」を日本の現代文明を舞台に描いてパレスチナに触れないことが問題でありえるのは「近代文学」の問題設定です。自由と自律の剥奪を描くことは、特定の政治的に抑圧された人々を描くことではない。そのことが支持されたから――つまり自由と自律の剥奪を我が事として考える世界中の人々が支持したから――村上春樹はグローバルな世界文学たりえました。


そのことの是非と評価は別です、が、村上文学がパレスチナに触れない以上、それは文学という想像力の問題であって特定の政治的に抑圧された人々が現実に存在することの問題ではない。「触れない」ことの問題は文学の問題ではなく政治の問題です。


そして、文学的想像力をもって個人における自由と自律の剥奪を描いてきた作家は現実にかつ社会的に存在し、エルサレム賞を授与されました。その社会的身体はカフカ賞のときのように授賞式に出席するかも知れない。「文学的想像力をもって個人における自由と自律の剥奪を描いてきた作家が現実にかつ社会的に存在し、社会的身体を持ち合わせること」を、作家は現在よく自覚しています。


中上健次の文学はその文学的想像力においてフィクションとして素晴らしいものですが、しかし中上健次は熊野に路地に作家の社会的身体においてコミットメントしました。むろん第一義に、彼の故郷であり彼の文学を育んだ場所だったからですが、彼は中上健次としてのその行為に文学の責務を負っていたでしょう。だから現在も熊野大学は存続している。


中上健次以後の作家である村上春樹パレスチナを、つまり中上健次のように意匠としても「特定の政治的に抑圧された人々」を描きませんでした。個人における自由と自律の剥奪が固有の場所に規定されないことを、文学的想像力を駆使して描いて、村上文学はグローバルな世界文学として受容されました。


その村上春樹が、「その村上春樹が」です、『2009年2月にエルサレム賞を授与される、ということ』について、文学と村上春樹に用ある者が関心ないはずがない。ただその関心は、mojimojiさんが説明されたような関心とは相違する、ということです。


つまり「村上春樹にも文学にも用はないけれど、パレスチナには用がある」mojimojiさんとは異なる関心が、所在する。双方前提する文脈が違う、ということです。mojimojiさんに、文学と村上春樹に用ある人がなぜこの件について「村上春樹にも文学にも用はないけれど、パレスチナには用がある」人の見解に対してナーバスになるか、文学と村上春樹に用ある人にとってのこの件をめぐる関心の所在について、説明したく思いました。mojimojiさんが存じ上げないだろう文脈の所在について、説明したく思いました。


村上春樹を読んだこともないくせに」はアホですが「要は、パレスチナに用がないんでしょ?」もアホです。「パレスチナに用がない」ことを批判するために用がない文学と村上春樹に言及して、文学の自律的価値について言及するソンタグの言葉を引用することはアホです。mojimojiさんがアホでないことを私は知っています。相違する相互の文脈について知らない者同士がアホアホ言い合っても栓無いということです。


グローバルに存在するスノッブな文明人は、パレスチナという固有の場所と固有の政治的に抑圧された人々には特段の用ないかも知れないが、個人における自由と自律の剥奪という問題意識には用がある。そう読者を訓練した村上春樹という作家の功罪は問いうることです。しかし「個人における自由と自律の剥奪」――つまり「自律した自由な個人であることの不可能」という問題意識をパレスチナに架橋しうるなら、無理なことといえ文学という想像力の効能をもって架橋しうるなら。


やはり私はパレスチナにも用があるので「それでも村上さんなら……村上さんならきっとなんとかしてくれる……」と思わないでもないのです。「なんとかしてくれる」とはもちろんパレスチナ問題をなんとかしてくれるということではありませんし「show the flag」のことでもありません。文学に用ある人々に文学の問題として問題意識を届けうる、ということです。

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その初めての著作『風の歌を聴け』の冒頭部に、次のような記述があります。

 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。


 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。


 そして、それが僕だ。

しかし。

今、僕は語ろうと思う。


――「市民」に値しない、自由と自律を剥奪された者の語る歌、言葉、文学。そのマニフェストと共に、村上春樹の文学は発した。カサヴェテスがスコセッシに告げた言葉を借りるなら、彼は最初から「スペシャルな奴」だった。その出発点は、30年の変遷と深化を経て世界を変え、文学の状況を変えたが、しかし作家はその出発点を深化させこそすれ見失ってはいない。


その人が、エルサレム賞受賞に際して何を語るか、無責任な野次馬としての私はちょっとwktkしている。mojimojiさんは、いや「村上春樹にも文学にも用はないけれど、パレスチナには用がある」人は、そのことを知らないがゆえに誤解していると、村上春樹にも文学にもパレスチナにもソンタグにも用がある私は思います。

 僕にとって、エルサレム賞とは、エルサレム「賞」である前に、「エルサレム」賞である。僕が関心を寄せるパレスチナの人々にとって特別な、その土地の名を冠した賞を、贈る側と、受け取る側に、用がある。ただ、足元を見ろ、と言っておきたい。ただそれだけのことだ。


「隠喩としてのガザ」と私はタイトルに書きました。むろん、ガザが現実に存在するとき「隠喩としてのガザ」は能天気でしかない。しかし文学的想像力は「隠喩としてのガザ」を、あるいは「隠喩としてのノモンハン」を「隠喩としての阪神大震災」を、私たちにおいて涵養する。その、容易に白黒付かない資本主義社会の困難こそ、かつてソンタグが指摘し分析したことでした。知的な分析に基づく、困難に対する文明人の文明人としての倫理的態度こそ、資本主義に支えられたシニシズムを唾棄したソンタグにとっての『ラディカルな意志のスタイル』でした。


「足元を見る」ことが「資本主義に支えられたシニシズム」を自覚することなら、それは仰る通りです。ただ、ガザが隠喩でないことを認識することが「足元を見る」ことなら、その足元はスノッブな現代文明人にとって、大変覚束ないものでしょう。その覚束ない足元を想像力で補強するために、文学は存在します。村上春樹によって補強された足元を見ることが「資本主義に支えられたシニシズム」を自覚することに繋がりうるか。「うん、それ無理」。煮え切らないことを煮え切らないままに書くことが文学で、文学にも用がある私は、その無理についてソンタグのような明確な二枚腰でしか言えない。


スーザン・ソンタグから始まる/ラディカルな意志の彼方へ (アート新書アルテ)

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