他人と関わるということ


http://d.hatena.ne.jp/tak_f/20081118/1227008984

荻野はコンテンツとしてとても面白かった - phaの日記

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/pha/20081119/1227040596


他人と関わることと受け入れることは違う。引き受けることも違う。関わってみたけれど受け入れられなかった、引き受けきれなかった、というのは全然ありだと思う。厄介払いであったとして、『スモーク』ではないが、責めるべきこととはまったく思わない。関わってその厄介を知る相手はいる。関わらないとそのことがわからないのが他人だから、関わったのだと思う。


関わらないとわからない他人と関わってその厄介を知ることがなぜ傍から責められるか私にはわからない。他人と関わることの厄介をよく知って物心含めて最初に他人と一線引いてやっていく、あるいは関わるなら厄介づくでそうすることが「大人」というものではあって、だから大人の賢明とは厄介の査定に尽きる、そして事前に査定という名の値踏みをせず関わって知ることの何が問題であるか。大人面して事前に査定することは実に容易い。特に身銭を切る際には。


そういう手合と付き合ったり限界を見て切ったりしているとわかることだけれど、厄介者はいるし疫病神はいる。そしてその者が厄介者であることはその者が悪いとは多く言えないし、あるいは私たちが、そして私たちが生きる社会が悪いのかも知れない、ましてクズとか駄目人間とは思わない、というかそういう語彙に関心がない。


ただ厄介者ではある、社会や生活や人間関係に鑑みて厄介事を持ち込んでくれる、そして自分が入る墓穴を自分で掘っているようにしか見えない。そのことの認識がないなら馬鹿の悲劇だが、本人、認識はしている。その認識に、個人史に基づくその人がそういう人であることの根本があり、そんなもん到底変えうるものでない。


それでも愛すべき奴であるかどうか、そのことはとても大きい。厄介な女だから嬉しい、というのは陳腐な男の心理で、しかしそれは普遍でもある。そのことについて反省を他人が迫るべきではないし、結果をもって、まして水谷修氏を引き合いに出して「覚悟」を説くなどとんでもないことと思う。

■■■

本気で荻野氏のような人の社会復帰を祈っているのなら、出来ることは他のところにあるはずだ。ひたすら今の自分に与えられた仕事を邁進し、税金を沢山納め、きっちりと選挙で一票を投じることだ。余力があればしかるべき団体に寄付をするのもいい。それでいいんだよ。


水谷修さんのような覚悟がなきゃ、たとえ私生活を犠牲にしたとしても人を変えることなんて出来ないし、その資格も無いんだよ。

http://d.hatena.ne.jp/tak_f/20081118/1227008984


むろん、人を変えることは容易ならざることで、そもそもそんなことは僭越なこと。ある人がそのポリシーだかスタイルだか個性だか障碍だか病気だかのせいで社会で朽ち果て生きることを楽しむこともできないまま野垂れ死ぬことは個人としての私たちが関知するところでないし、私たちは税金を納めているし、しかるべき団体に寄付もしている。先日の図書館ホームレス論争を思い出すけれど。そしてそういう態度は正義において罵られていたものですが。


にもかかわらず、人は誰かをなんとかしたく思うことがある。むろんそれは自分の事情に基づくエゴイスティックな気まぐれに過ぎないことですが、しかし、人が自分の事情に触発されたエゴと気まぐれでなく人を助けようと思うこととは、つまりどういうことか。そんなのは自明でもなんでもない。


経緯を拝見して、率直かつ半ば差別的に言って「アフリカの夜明け」のような話と思ったことには、つまり金とインフラをただ与えただけではまるで駄目で大事なことは近代化すなわち金とインフラを実装して使いこなすための教育である、とそのような感想を手前勝手に抱きましたが、まさにNGO活動をめぐる議論にあってそれが「引き受ける」ということで、引き受けることの前提のひとつの選択肢として「受け入れる」ことはあります。つまり「私たちの仲間」と見なしそう扱うことです。条件付することなく。


そして冒頭に戻ると「しかるべき団体」でない以上「関わってみたけれど受け入れられなかった、引き受けきれなかった」は全然ありだしまったく無問題と思います。そして、引き受けることの前提の別なる選択肢に、たとえばシュバイツァーマザー・テレサがそうであったように、神のもとではどのような人もまた人であり、「人間」である、つまり「人間」として扱われるべきだ、という認識がある。端的に、それは「愛」です。そして、信仰を持ち合わせない人にとっての「愛」とは個人的に「受け入れる」ことの別名です。


「愛」とは条件付をしないことです。その人がそのような人であることを受け入れることです。自分は、あるいは自分たちは、当該の人物を個人的に愛することはできなかった、という意味で「コンテンツとしてとても面白かった」と書いたと私は受け取ったけれど、人間として接していなかったのか、と「自白」を責められていて、批判承知で書いたのだろうが、うへえと思った。私たちは、そしておそらくは当該の人物と関わった人たちの多くも、信仰を持ち合わせない。当該の人物を個人的に愛せよ、と他人に対して言っているに等しい。


結局は個人的に愛せるか否かの問題であって、そして自分は、自分たちは、個人的に愛せなかった、「引き受ける」こととそれはイコールだった、それが「引き受ける」ことの限界としてあった。そのような総括(そう私は受け取りました)に対して、品がないという指摘があったけれど、私はまったくそう思わない。書くべきと思ったから書いたのでしょう。つまり、そもそも「責任」の問題でない。私的な愛の問題とは社会的責任の問題ではない。責任を傍から問われたから、そうではなく個人的な愛の問題です、愛せませんでしたと応えた、そういうことと私は思っている。


人間として接していなかったと批判するなら、そして信仰持ち合わせるのでないなら、自分が愛するべく接するよりほかないと思う。というのは、個人的に愛する人はいるだろうから。「ヒトラーですら結婚できたのにお前らときたら」ではないが、どんな人でも個人的に愛する人はいる。むろん、愛は幸福を結果しないけれど。そして、信仰持ち合わせなくなってなお人は他人に対して人間として接するべく個人的な愛を求める。


当該の人物が、そのような意味における「愛」から遺棄されていただろうことは、一連の記事を拝見する限りあきらかで、そのゆえに、当該の人物は見ず知らずの人がその個人的な事情から愛そうとしたその努力を拒絶したし、その価値も知らなかった。「愛」から遺棄されていたことの結果がそこにはある。


確かに、こんなことは水谷修氏が散々書いているし言っている。そして私ははっきりと思うけれど、経験則としてでなく知識として他に説かれる愛は話にならない。他人の行為や認識に対して水谷氏を引き合いに出す人にそういう人は多い。そして付け加えるなら、むろん比喩だが、そしてまったく批判や揶揄を含意しないが、水谷氏はキチガイです。人が愛において生きようとするとそうなるということです。


「だから」個人的な愛でなく社会的な責任において相手と人間として接するプロに委ねるべき、というのは正しい。まったく正解。そもそも不経済であり社会的なコストの浪費に過ぎないのであって、みな税金納めているにもかかわらず自腹切って損したし、しかもそれは「もちろん見物料」でしかないらしく。その「正解」を傍から他人に言う気には私はまったくなれない。というか、言っている貴方はどの立場からそれを言っているのか。大きな御世話も甚だしい。

■■■


個人的な愛の限界と私は思うし、個人的な愛の限界と述べている人に対して社会的責任を問うてどうするのか私はわからない。貴方が個人的に愛しなさい、少なくとも愛そうとしてみなさい、としか言えない。個人的なものでしかない愛の限界を知っているから、「責任」を意識して私たちは他人と関わるとき線を引く。「責任が取れない」「責任が持てない」と。そして「責任」という概念において構成される市民社会とその理念/機能に合意する。


結果が不完全であろうと市民社会とその構成員の責務としてはそれで終了するのであって、以降は個々人の個人的な裁量問題でしかない。個々人の個人的な裁量問題に首を突っ込むなら個人的に突っ込むよりほかない。「そのような人」に対して「プロに委ねる」ことが大変であって、だからたとえば水谷修氏のような人がいる。個人的な裁量問題として首を突っ込むキチガイじみた御節介が。つまり、当たり前のことだけれど、市民社会市民社会であることの課題は個人的な裁量問題を欠いてクリアされるものではない。


市民の義務や責任は、納税や投票行動において終了する。個人的な裁量問題についてその狭量を、ことに水谷修氏を引き合いに出して非難するなら、では市民的義務は当然として貴方の個人的な裁量はどうなっているのか明細開示を、という話にしかならない。自分が好きになれない奴を愛することは、広義に宗教の問題です。そのことがわかっておられるか。愛することは人を分け隔てることと、幾度書いたらよいのか。


ただ考慮すべきは。自分が個人的に愛せなかったことの原因ないし理由について、相手に帰しうるかということで、しかしそれこそ部外者が言えることではないし、にもかかわらず言っているのはつまり正論と思っているから。むろん、愛に正論なし。


恋愛相談されたとき、その人が頭煩わせている男/女のことを直接知らないと、コメントに困ってそれこそ社会的/経済的常識に基づいた一般論で茶を濁すことになりがち。そしてこういうことについての一般論くらいサジェスチョンとして意味がないものはない。そもそもサジェスチョンなぞ要らんのだけれど。


他人と関わることについて「責任」を傍から難じることに私が賛成しかねるのは、そうした理由に基づくものです。責任とは市民社会、経済、公的セクターの問題であって、個々人の個人的な裁量問題について「責任」を言えるのは当事者としての個々人しかない。つまり、他人にダメを出すなら当事者としての個人たる自分の話をするべきです。


個人的なものでしかない愛の限界において引かれる線がある。それは、社会の枠組の外部において私たちが私的に直面する、そして私たちが個々に取りうる/取り得ない「責任」=responsibilityの閾値として確認されます。社会的責任とやらにおいて他人と関わる際に引かれるべき一線を端から画定し確認するより、その閾値の確認はずっと「個人的に」大事なことです。私的な確認と経験でしかないとしても。デリダは知ったこっちゃない。毎日新聞が正しく判断したように、現代において社会的責任とは、つまり経済の問題でしかないのだから。


経済に決定的に規定された社会的責任とやらのもと最初に線を引いておいて、他人が個人的なものでしかない愛の限界において引いた線について個人的に感慨を述べたとき「人間として接していなかったのか」と社会的責任の場所から非難する、というのはなんだろうと思います。


むろん、「とやら」でなく経済に規定された社会的責任に照らしたとき、面白半分で地雷をいじることは軽率、となる。その地雷が放置され続けていたにせよ。そして、しかるべき団体と機関とプロはその経済に規定された社会的責任ゆえに個人的裁量としての愛の問題を取り扱わないのが、市民社会の正解です。

■■■


私事を少し書くけれど。現在、仕事の行きがかりから未成年者や日本語どころか英語も不自由な外国人と縁あって(私も未だに英語不得手なのでお互い様)、自棄になっているような家出少女の対応したことも一度ならずある。みな大変と思う。むろん、経済に規定された社会における責任の問題として人と関わる、けれども、ほかのことだってある。余談ながらJLGの近作について人に訊かれると、私は私の実感からそういうものと答える。経済に規定された社会にあって、疎外された人々の関わりにおいて現れる、ほかのこと。


別に現在付き合っている相手の話ではない。経済に規定された社会的責任において端から一線を引くことは、すなわち個人的裁量を自主規制することは、自分を守るには最良で、しかしそもそも自分を守ることが最良ならそんな行きがかりからは早々に手を引く。たぶん、個人的な線は愛の限界として経験的に引かれるし、裁量の行使の帰趨について私たちはそうして学習する。社会も他者も知ったことでなく、ビジネスの行きがかりのはるか以前からの、様々な他人との私的な関わり、フェードインとアウトにおいて。


下心と好き嫌いを自ら真面目に検討することはけっこう大事で、どのような人もまた人である、という宗教に似た臨界としての個人的な愛において規定された人生の経験則が怠惰な私を動かしもするのだろう。その事情は誰しも同じでしょう。私はそれを、政治的に定義することには関心ない。かつての信仰の問題は、現代の日本においてコミュニケーションとして現れる。


先日のNHKに出演していた村上隆が似たようなことを言っていたけれど、欧米人は普遍概念としての正義とその不可能を介して他者を見出すが、私たちは普遍概念としての正義を介することなくすぐ隣の人を直接模索して他者の確認へと至る。すぐ隣の人において模索されるそれは、たぶん欧米人にとっての大文字なる「愛」ではない。大文字でないから限界はあるし本来引かれるべきでない線も引かれる。――だが、それがいい


現代中国人にとってのそれは「情」であるらしく、知識層の話でないにせよ、ジャ・ジャンクーの映画に描かれるようなそれは日本で働く彼らや彼女たちの考え方を知るとよくわかるけれど、私たちにとってのそれはそうではない。しかし。私は愛せないかも知れないが、どんな人でも個人的に愛する人はいる、それなりに他人から愛されてきたこんな私は、そう考えています。