「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」


改めて、擬似科学をめぐる周辺について。お断りしておくと、長くなりました。申し訳ありません。


ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判 - よそ行きの妄想

脱魔術化の無限後退を体感してみました - よそ行きの妄想

ここで望まれるのが、模倣品の販売事業者に対する道徳的規制や、模倣品に対する真贋を可能にするノウハウの共有といった、模倣品を排除するための社会的な仕組みである*1。そしてこの仕組みをソーシャル・キャピタルと呼ぶことにしよう。*2


ソーシャル・キャピタルは道徳や倫理といった、原始的な規範として人間の行動に組み込まれたときに最も機能する。例えば盗みはダメ、詐欺はダメ、お客様は神様だからタメ口を使ってはダメ、路地裏をクルマで走り回って写真を撮り漁ってはダメという具合だ。


これら規範の違反者は、批判され、糾弾され、ソーシャル・キャピタルの枠組みから排除される。村八分と言ってもいいかもしれない。つまりは、これは道徳の経済的観察である。


日本の生産性が低いと言うのはよく言われることだが、おそらくこのソーシャル・キャピタルという無形資産を貨幣的に換算すれば、かなりいいところにいくのではないかというのは私の所感だ。

ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判 - よそ行きの妄想

こうした意図のもとに行われる疑似科学批判的な取り組み自体について、私は相当の困難性が伴うとは思うものの、その趣旨に対しては批判的な立場にはない。


ここで、私の批判の対象をもう一度引用しておく。

科学に無知なままに行われる科学的区別に基づく疑似科学批判と、科学的信仰を普遍化するようなニセ科学批判(及びその布教活動)


である。つまり、経済的な目的から離れ、科学的な区別に没入する姿勢、勢い余って科学的な区別と道徳的な区別を混同する姿勢である。つまり、「ニセ」科学的疑似科学批判とでも言うか。まして、それが科学的に無知のままに行われかつその行為に他者に対する啓蒙が含まれるのであれば、それはもはや害悪の領域である。無論、経済的に。


経済的な効率を重視すれば、科学的な区別に没入する必要性はない。<科学的>な立ち振る舞いを味わいたい場合を除いては。


信頼に値する権威に対して然るべき経済的報奨を支払い、悪意を量産するものに対しては経済的制裁を与えればよい。ソーシャル・キャピタル的には職業的倫理観の醸成に心血を注げばよいだろう。いずれにしてもそこに科学的な区別は必要ない。



ということで、もし上であげたような、私の批判対象たる姿勢が世の中にまったくないということであれば、前回前々回のエントリーは撤回させていただくがどうか。

ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判 - よそ行きの妄想

引用したエントリーにあるように、私の批判がもし「ただの疑似科学批判」だったのであれば、私は結局科学−疑似科学的な区別から抜け出せていなかったということになるわけでしょ。そこから抜け出したかったのに。


そういう話。


科学的に振る舞ってしまっていた という言い方が気に障るんでしょうね。科学を信じる方にとっては、科学的に振る舞うということはある意味目標ですものね。失礼しました。


科学−疑似科学の世界から脱しきれていなかったとかにすればいいのかな。

脱魔術化の無限後退を体感してみました - よそ行きの妄想


以下はchnpkさんのスタンスに対する批判ということではまったくないけれど――根本的な誤解があるように思いました。たまたまchnpkさんのはてなハイクを拝見して、言及の糸口がつかめたように思えたので、まとめてみます。


はてなハイク サービス終了のお知らせ

不確実性を減免するのは唯一「信仰」ではないでしょうか。


その対象はマンションでも家族でもいいと思いますが、家族のほうが信じやすいと思うのは私だけでしょうか。

はてなハイク サービス終了のお知らせ

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「根本的な誤解」とは、科学とその社会的な運用に対するそれのことです。


劇団民藝が2005年に44年ぶりに再演した『火山灰地』という久保栄の戯曲があります。一言で言うと戦前日本における社会主義リアリズム演劇の金字塔的作品です。


http://www.shinjuku-shobo.co.jp/new5-15/shohyo/%23325_Kazanbai.html

火山灰地

http://www.gekidanmingei.co.jp/kazanbaiti.html


火山灰地

火山灰地


書架の未整理ゆえ現在手元に本がないので、先日、NHK-BSで放送された、1961年の村山知義演出による上演からの聞き書きですが、滝沢修演じる事実上の主人公、農業技術者雨宮聡の台詞から下記に引用します。手短に劇中の前後の説明を。

北海道十勝平野の火山灰地にはカリ肥料がとりわけ重要だと力説する農産実験場の支場長は、義父でもあり恩師でもある農学博士にたてつき、国策にそむくことにもなる。

http://www.gekidanmingei.co.jp/kazanbaiti.html

劇中における生放送のラジオ講演において「農産実験場の支場長」=雨宮聡は「義父でもあり恩師でもある農学博士にたてつき」「国策にそむ」いてまで「北海道十勝平野の火山灰地にはカリ肥料がとりわけ重要だと力説する」――つまり国策は、主人公の義父でもあり恩師でもある農学博士らが示した判断のもと数十年に亘って北海道十勝平野の火山灰地の特殊性を認識せずカリ肥料の重要性を無視してきた、がゆえに結果として十勝平野が凶作に見舞われ農民が困窮している――中で、以下のように述べます。

雨宮であります。この支庁管内の畑を、ずっと歩いて御覧になると、赤い土のところと黒い土のところに別れていることにお気が付きますでありましょう。黒い土の方がいわゆる泥炭地でありまして、赤い土の部分がいわゆる火山灰地であります。いずれも特殊土壌でありまして、したがって、この管内における農地経営も特殊でなければならないわけであります。


N.P.Kの三要素ということを、化学肥料の方で申しますのは、御承知の通りであります。つまり、チッソ、リン、カリ、この三つのうち、どのひとつが不足いたしましても、○○(引用者注:聴取不能)が衰え収穫が低減する、段々作物が取れなくなります。したがって、地力を保つためには、この三要素を、一定の比率を持ちまして、過不足なく絶えず補給して、補っていくことが必要であります。ところが、日本の土壌はカリ分を含んでおるからして、いや、カリ分の不足に対して鈍感であるからと申すべきでしょう、特にカリ肥料を施す必要がない、ということがこれまで農学者の間に定説となっておりまして、私はこの定説が誤っておる、失礼、誤っておるのではないかと考える者であります。少なくとも火山灰地の耕作に当たりましては、カリ分の補給は絶対欠くべからざる条件のようでありまして、数年来引き続いての凶作は、ここに異を持ちうることによって大いに緩和されるのではないかと信ずる次第であります。


話は前後いたしますが、私は、農産実験場を中心に、毎日、大地と睨めくらをして暮らしている人間でありまして、我々は、いや、私はと申しましょう、人に対して嘘をつくことができる、しかしながら、この大地に向かっては、どうしても嘘がつけない。嘘は、地べたから撥ね返ってくるのでありまして、私どもの農業理論の中には、まだ、思いのほかに多く、こういう嘘(=引用者注:十勝平野の火山灰地におけるカリ肥料の重要性を見誤ってきたこと)があるのではないかと考えるのであります。私どもが、何かひとつの試験事項を農家の指導に移す場合には、最初は粒ほどの嘘であっても、ちょうどコンパスの両脚が先へ行くほど開くように、この嘘は末広がりとなって農家を誤らすのでありまして、大変、ひとつの罪悪である、まさしく罪悪である、と私固く信ずるのであります。

私が、日夜、頭を悩ましておる事柄は、最前も申し上げた、農家へ届くまでに、末広がりに広がっていく嘘、この嘘を、なんとかして絶滅したい。冷害とか、水害とか、凶作とかに悩まされて、どれほど勤勉に働いても、なおかつ窮乏のどん底から抜け出られない大多数の農家に対しまして、私、微力ながら、少しでも学問の力を利用しまして、なんとかして農家全体に、全体にであります、幸福をもたらしたい。なんとかして、私、日夜、頭を悩まし続けて――

途切れるのは、生放送のラジオ講演中熱くなった雨宮が眩暈を起こして放送が中断されたためです。

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それは、『火山灰地』という1938年に初演を迎えた社会主義リアリズム演劇の大作を貫く主題でもあるけれど――近代における科学とその社会的運用とは、そういうことです。要点を示すと。


自然科学は自然を扱う。人間を扱わない。自然科学を仕事の基礎とする者は「人に対して嘘をつくことができる、しかしながら、この大地に向かっては、どうしても嘘がつけない。嘘は、地べたから撥ね返ってくる」。自然を扱うとは、そういうことです。


にもかかわらず近代にあって自然科学が社会的に運用されるとき、つまり「何かひとつの試験事項を農家の指導に移す場合」にあって「最初は粒ほどの嘘であっても、ちょうどコンパスの両脚が先へ行くほど開くように、この嘘は末広がりとなって農家を誤らすのでありまして、大変、ひとつの罪悪である、まさしく罪悪である」――


いわゆる地球環境問題、タバコをめぐる諸問題、原子力発電所、非正統医療をめぐる問題、そして、水からの伝言。『火山灰地』における、1938年の良心的な農業技術者が「罪悪」と述べた、その現象は、そしてそのことに対する葛藤は、「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」がゆえに「この大地に向かっては、どうしても嘘がつけない」が「人に対して嘘をつくことができる」人間社会において、自然科学が社会的に運用されることの、果てなき課題として、70年を経て現在を貫いています。ポストモダニズムを越えてなお。


15年戦争の最中に発表された『火山灰地』は、また久保栄自身の左翼公式論にとどまることない作家性からも、作中においてそのことから明確に距離を置き、また疑義も呈していることを確認したうえで言うと、自然科学の社会的な運用を端的な正解――すなわち真理――と考えて、マルクス主義に基づく1938年の社会科学のひとつの発想はありました。それはきわめてモダンの発想であって、ポパーはそれをこそ批判しました。


そして来たるべきポストモダンにおいて少なくとも日本社会を席巻した発想は、自然科学の社会的な運用を端的に不正解と見なして、大きな物語を殺し、個々が記号と戯れることでした。念の為に明記しますが、そして私は著述家中沢新一は好きですが、そんなのはポパーもクーンも本意としていない。


記号論とはつまりどういうことか。自然科学の社会的な運用を端的に正解と考える類の、真理をめぐる社会科学の有効を懐疑して、事象の背景の社会科学的な分析を括弧に入れる行為と態度のことです。その態度においてethicsとしてのaestheticsが要請されることは言うまでもない。バルトは全盛期の蓮實先生は正しかったということですが。


で。大事なことは「敢えて」とか言いたかないですが「括弧に入れている」という認識であって、だから「括弧に入れている」ことの確認としてethicsとしてのaestheticsが態度において召喚されるのであって、むろん「敢えて括弧に入れている」ことと、事象の背景の社会科学的な分析を無意味/無効と断じることは違います。


後者は端的に夜郎自大であって、「真の非モテ」ではないですが真のポストモダニストは決して、事象の背景の社会科学的な分析を無意味/無効と断じたりはしません。「括弧に入れる」ことの倫理に厳格に即して、その場所から外れることの厚顔と無恥と一切の御破算をよく承知しています。


以下余談ですが、私は東浩紀を「真のポストモダニスト」と思っているので東氏は「括弧に入れる」ことの倫理に厳格に即していると考えます。そして、そうした東氏の「無責任な」態度が大塚英志に散々批判されているのが『リアルのゆくえ』で、私は大塚氏の明確な立場も当然わかるので、しかし私はバルトが蓮實先生がそうであったように「括弧に入れる」ことの倫理に責任は付随すると考えますが、というかそもそも倫理とは責任の成立しない場所において問われる概念ですけれど、つまり『リアルのゆくえ』はその明確な対立がきわめてアクチュアルかつクリティカルであるがゆえに大変面白い本なので南京大虐殺をめぐる発言について東氏はフルボッコされているようですがネットの引用で納得せずに皆さん読みましょう、ついでに久保栄の『火山灰地』も読みましょう、というのが余談。つまり、ガチのポストモダニティとガチのモダニティは現代にあってどのようにかかわるかという。


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真面目な話、南京大虐殺をめぐる東浩紀の発言とそれに対する批判については、chnpkさんの一連の問題提起と関係なきものではない。つまり、『火山灰地』の雨宮が言うところの「罪悪」は、繰り返しますが70年を経てポストモダニズムを経て、まったく死んではいない、そして殺しうるものではない。


その「罪悪」とは、モダンすなわち近代がその構造を解き明かす/説き明かす「罪悪」であって、そのような「罪悪」ある点において近代は終わっていない、マルクスらが主導し説明したところの「大きな物語」があるいは死んでなお。換言するなら。その「罪悪」を解き明かす/説き明かす機能においてモダンの理念は「罪悪」を絶滅――雨宮の言葉を借りるなら――するものとして成立しました。近代とは言うなれば、その機能において「罪悪」の存在を構造的に解き明かし/説き明かし、定義された「罪悪」を絶滅する理念的な運動として成立する、動的かつ自己言及的な強迫観念です。


要点は。「罪悪」とは単に「嘘」のことではありません。「嘘は罪悪である」という話ではないし、それはモダンの理念ではない。モダンにおける「罪悪」とは「最初は粒ほどの嘘であっても、ちょうどコンパスの両脚が先へ行くほど開くように、この嘘は末広がりとなって農家を誤らす」ことです。「粒ほどの嘘」が「コンパスの両脚が先へ行くほど開くように」「農家を誤らす」ことにあります。


絶滅すべきは単なる「嘘」ではない。「農家へ届くまでに、末広がりに広がっていく嘘」です。「粒ほどの嘘」が「コンパスの両脚が先へ行くほど開くように」「末広がりに広がって」「農家を誤らす」こと。それが、産業化された社会の全体を社会としてコントロールする近代において成立した「罪悪」の構造であり、また末広がりに広がっていく嘘とそれが農家を誤らすことを、構造として解き明かす/説き明かすモダンの機能とその運動において絶滅さるべく定義された近代社会の構造的な「罪悪」でした。


近代が抱える構造と、それを解き明かす/説き明かす近代の機能ゆえに、近代の「罪悪」は定義され、その絶滅は近代の理念として、すなわち啓蒙思想として掲示されました。むろん、そのことの是非という話ではない。事象の背景の社会科学的な分析が失効したわけでなく、自然科学の社会的な運用において正解を模索する態度は欠くべからざるものである、という話です。むろん「真のポストモダニスト」はバルトが蓮實先生がそうであったように、そんなこと承知です。単純に、自然科学の社会的な運用において正解を模索する態度はいまなお社会的責任であって、市民社会はそのことにおいて合意している、ということです。

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正解を絶えず模索することと、正解を真理のごとく提示することは、違います。おそろしく単純化して言うなら、いわゆる擬似科学批判の立場は前者であって、擬似科学とは後者です。人は、正解を真理のごとく提示されることに、よく訓練されてしまい、近代にあってなおその免疫は形成されませんでした。なぜなら、「我々は」「人に対して嘘をつくことができる、しかしながら、この大地に向かっては、どうしても嘘がつけない。嘘は、地べたから撥ね返ってくる」からです。


私たちは、私たちが「人に対して嘘をつくことができる」ことを嫌というほど知るがゆえに、そして「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを嫌というほど知るがゆえに、転倒して、「大地は嘘をつかない」と誤解します。あるいは「水は――」。


嘘は地べたから撥ね返ってくるがゆえに私たちが大地に向かってはどうしても嘘がつけないことと、大地は嘘をつかないと考えることは、決定的に違います。――まして「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」と考えることは。にもかかわらず「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」という正解を、真理として提示する詐欺が、あるいは本気でそのように他に説明する発想があります。


科学的であるとは何か。付け加えるなら唯物論とは何か。「大地は水は嘘をつかない」ことを「地べたから撥ね返ってくる」自然において絶えず検証することです。つまり「地べたから撥ね返ってくる」からこそ「大地は水は嘘をつかない」、というか、「我々は」「人に対して嘘をつくことができる、しかしながら、この大地に向かっては、どうしても嘘がつけない」。


私たちのつく嘘が、地べたからの撥ね返りにおいて検証されることこそ科学的であるということであり正解を模索するということです。それは「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」という結論ありきの結論にはまったく反転しませんし、その結論ありきの結論を「正解」として提示することを真理と言います。それが擬似科学です。


そして、人は容易に現象の正解としての反転を求める。私たちが「人に対して嘘をつくことができる」ことを嫌というほど知るがゆえに、そして「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを嫌というほど知るがゆえに。それは、たとえ「罪悪」でなくとも、正しく近代の近代的な宿痾です。

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冒頭に長く引用させていただいたchnpkさんの見解に戻ると。

信頼に値する権威に対して然るべき経済的報奨を支払い、悪意を量産するものに対しては経済的制裁を与えればよい。ソーシャル・キャピタル的には職業的倫理観の醸成に心血を注げばよいだろう。いずれにしてもそこに科学的な区別は必要ない。


ソーシャル・キャピタル的には」「そこに科学的な区別は必要ない」かもわかりませんが、フツーに市民社会的には科学的な区別は必要です。そして、自然科学を仕事の基礎とする限り「職業的倫理観の醸成」に科学的な区別は必要です。当然のことながら、ポストモダンであろうがなかろうが。


そして、フツーに市民社会的には科学的な区別は個々人の内心に及びませんし、フツーに市民社会的には「我々は」「人に対して嘘をつくことができる」がゆえに「大地に向かって」公的な嘘をついてはならないし、「人に対して嘘をつく」ために「大地に向かって」公的な嘘をつくならとんでもないことです。なぜなら「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」からです。


現在、奥歯の詰め物が盛大に取れて歯医者に行く暇というか要は勇気がなく歯痛なのですが、うろ覚えで正露丸を詰めて過ごしてみたところ、効き目はともかく仕事関係と恋愛相手から臭いと即刻苦情が出てやめました。「カフェインは中毒しない」は嘘と個人的に断言します。あと、眼鏡とゴムは合わないと覿面に頭痛が。与太は措き、大地に向かってつく公的な嘘は時に流言飛語となって社会的かつ経済的な、すなわちソーシャル・キャピタル的に悪影響を及ぼします。そのことは、chnpkさんも記しておられることと思います。


「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」か否かは個々人の「信仰」の問題、というのは、内心の問題としては正しいですが、フツーに市民社会的には「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを確認しておこうぜ、ということです。フツーに市民社会的に「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことの確認のための方法論として自然科学はあります。それは近代以来の社会的資源であって、先の記事でも書きましたが、個々人の内心の問題、chnpkさんが言われるところの「信仰」の問題と、市民社会においてフツーに並立します。


繰り返しになりますけれど。『火山灰地』の雨宮聡が「罪悪」と言っているのは「私どもが、何かひとつの試験事項を農家の指導に移す場合には、最初は粒ほどの嘘であっても、ちょうどコンパスの両脚が先へ行くほど開くように、この嘘は末広がりとなって農家を誤らす」ことです。それは、規模は措き、自然科学の社会的な運用において避け難い「罪悪」であり、だからこそ、自然科学の社会的な運用に際して「粒ほどの嘘」もついてはならないし、見逃してはならない。


なぜなら「ちょうどコンパスの両脚が先へ行くほど開くように、この嘘は末広がりとなって農家を誤らす」がゆえに「農家へ届くまでに、末広がりに広がっていく嘘、この嘘を、なんとかして絶滅したい。冷害とか、水害とか、凶作とかに悩まされて、どれほど勤勉に働いても、なおかつ窮乏のどん底から抜け出られない大多数の農家に対しまして、私、微力ながら、少しでも学問の力を利用しまして、なんとかして農家全体に、全体にであります、幸福をもたらしたい。」からです。少なくとも雨宮の考えるところでは。


それは正しくモダンを体現した理念であり、そして言うまでもなく、劇中でも幾度も言及されていますが、是非を別に、いわゆる設計主義へと行き着きうる考え方です。そのことに対して、まったく社会主義者ではない雨宮は人から指摘されて驚き自ら葛藤します。たとえば、いわゆる地球環境問題をこのモダンを体現する理念に即して考えたとき、1938年の良心的な農業技術者の言のなんと「ナイーブ」なことか、というようなことは言えます。


だから典型的に内田樹のような言説が登場します。つまり。


末広がりに広がっていく嘘を個人的に信じて私たちは個人的に生きている。それは私たちの現在の生の条件である。末広がりに広がっていく嘘を絶滅するべくコンパスの基点において「粒ほどの嘘」さえも正すことは結構なことであるけれどその営為は末広がりに広がっていく嘘を到底絶滅しうるものではない。というか、そのことにおいて絶滅しうると考えることがおこがましい。


なぜなら、コンパスの基点と末広がりの両脚を構成する、自然科学と社会のモダンな関係に基づいた社会科学は既に失効しており、ゆえに、そのようなコンパスを前提する自然科学の社会的な運用それ自体が成り立たなくなっている。


末広がりに広がっていく嘘は、コンパスの基点における「粒ほどの嘘」において生起している現象ではなく、私たちが個人的に信じたい嘘を信じることにおいて末広がりに広がっているかのように映る、個人的な嘘すなわち信でしかない。コンパスの存在を現在もなお「信じる」者にとって末広がりに広がっているかのように映る嘘は、単に、私たちが個人的に信じたい嘘を信じることにおいて生起している現象に過ぎない。


そして、私たちが個人的に信じたい嘘を信じることこそ、不確定を自明とする現代の社会と世界における、私たちの幸福であるから。だから、少なくとも、「粒ほどの嘘」を正すことと、私たちの幸福は、コンパスなき以上、いや、少なくともコンパスを信じない者にとっては、ましてアカデミシャンでもない者にとっては、関係がない。ゆえに、現代にあってなお『火山灰地』の雨宮のような考え方に基づいて全体の幸福のため「学問の力を利用」しようと考える者は、ナイーブと能天気も甚だしく、時に大きな御世話である。


――現状認識としての妥当不適当は措き、また私は個人的には無責任で倫理的な内田樹は言行の無責任が過ぎるとはいえ好きですが、こういうことを言うのは、そしてこのような公的スタンスは、ポストモダニスト気取りの厚顔無恥夜郎自大でしかないと思う。これはイクナイ。

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経済的な効率を重視すれば、科学的な区別に没入する必要性はない。<科学的>な立ち振る舞いを味わいたい場合を除いては。

科学的に振る舞ってしまっていた という言い方が気に障るんでしょうね。科学を信じる方にとっては、科学的に振る舞うということはある意味目標ですものね。失礼しました。


科学−疑似科学の世界から脱しきれていなかったとかにすればいいのかな。


「科学的に振る舞う」という言い方が私にもわかりかねるのは、これも繰り返しになりますが、自然科学において科学的であるとは「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」がゆえに「大地に向かっては、どうしても嘘がつけない」ということであって、つまり振舞いの問題ではないし、「大地は嘘をつかない」という結論ありきの結論へと反転した「正解」のことでもありません。そのことはコンパスの存在、すなわち末広がりに広がっていく嘘を絶滅するために「粒ほどの嘘」も見逃すべきでない、という公的なパースペクティブとは関係がない。


その公的なパースペクティブを、モダンにおける社会科学と言い、そして『火山灰地』の雨宮が指す「罪悪」はこのパースペクティブを前提して「農家全体」の「幸福」のためにコンパスの基点において問われます。自然科学と、その社会的な運用を前提する社会科学は、位相において相違します。


現在において問われるべきは。自然科学において科学的であることと別個に、この、1938年の良心的な農業技術者が示したパースペクティブは、すなわちコンパスの存在に基づく社会構造の解明と説明は、それによって解明され説明される「罪悪」とそれに対する「粒ほどの嘘」も見逃さない対応は、いまなお有効か否か。


私の回答は、これも繰り返しだけれど、「罪悪」がそのパースペクティブにおいて説明される「罪悪」として確かに存在するとき、やはりいまなおコンパスは存在するのであって、よってそのようなパースペクティブに即した、対応も有効です。


chnpkさんが「<科学的>な立ち振る舞い」「科学―疑似科学の世界」と言っておられるのは、このパースペクティブを未だ有効と見なして社会的に「振舞う」ことを指しておられると私は考えるけれど、つまりchnpkさんはこのパースペクティブは既に有効たりえないと考えておられるのだろうけれど。またたとえば東浩紀は「既に有効たりえない」と考えてそのことを再三言っているけれども(たとえば蓮實重彦はそうではない。蓮實先生は用心深いので「批評においては有効たりえない」という場所に表向きは留まっている)。――「未だ有効たりうる」派の私が思うに。再度引用させていただきます。

不確実性を減免するのは唯一「信仰」ではないでしょうか。


その対象はマンションでも家族でもいいと思いますが、家族のほうが信じやすいと思うのは私だけでしょうか。


私が思うに、不確実性を減免するのはやはり「唯一「信仰」」ではなく、「信仰」以外に、社会科学のパースペクティブでもあるし、そのパースペクティブにおいて市民社会に合意される自然科学の方法論でもあるのではないでしょうか。そのことに合意するのがフツーに市民社会だと思います。フツーにというのはつまり、市民社会市民社会であることの意味ということです。市民社会終了のお知らせ、の鐘を鳴らす気には未だ私はなれません。というか「バカヤロー、まだ始まってもいねぇよ」という心持です。


そして、これが微妙なところであり、かつ80年代の日本のポストモダンを経てオウム真理教事件へと行き着いたような難所でもあるけれど、「信仰」と社会科学のパースペクティブとそのパースペクティブに即した自然科学の方法論に対する合意は、市民社会市民社会であることの意味において並立するし、共存しうるものであり、またそうあるべきです。ソーシャル・キャピタル的には不確実性を「絶滅」しえないにせよ、しかし「減免」することが是であるなら。

■■■


私の言葉では、たぶんchnpkさんは、私たちの社会は個々人の認識においてブラックボックスを排することはできない、そうした見解に立っておられると思うし、そう言っておられると思う。同意します。というか、その見解については、疑似科学批判者の大半も同意するのであって、そのことに同意できない人を正しく科学教信者と言います。自然科学とその方法論は全知全能と考えているということだから。


不透明性と不確実性、それに伴う個人的な信と信に基づく個人的な賭けの社会的な全面化。それは、恋愛信仰家族信仰自分信仰の全面化に覿面なように、それこそ極端なポストモダンを経た現代日本の社会的前提です。社会の全体を見通しうる透過的な一点は、ない。アカデミックにはどうであるかわからないけれども。しかし。


自然科学とは私たちにとってのブラックボックスを分解しその機序を解明する方法論であって、社会科学のパースペクティブとは、あるいは社会科学的認識とは、私たちにとってのブラックボックスの分解とその機序の解明が私たちの幸福に資する、という考え方のことです。


ポストモダニズムとは、それが必ずしも私たちの幸福に資することはない、という考え方のことであって、むろん私たちにとってのブラックボックスの分解とその機序の解明とそのための方法論である自然科学を否定しているのでも批判しているのでもないし、そのことについての市民社会的な合意に棹差しているのでもありません。ただ、それが必ず私たちの幸福に資する、という考え方をモダンの強迫観念と見なしているということです。


むろん、必ず私たちの幸福に資する、という強迫観念を私たちの大半は抱いていない。だから、私たちの幸福に資するだろうことを市民社会において合意する、ということです。言い換えるなら、公的には社会科学の範疇においてブラックボックスブラックボックスのままに放置しないことを市民社会において合意するということです。


ブラックボックスブラックボックスのままに放置すると、人は容易に認識の虚を個人的に跳躍します。跳躍の契機としてchnpkさんが言われる(つまり個人の個人的な)「信仰」はあり、すなわちそれが現代人において「信じる」ということ。


そしてたぶん、どれほどモダンのコンパス、すなわち社会科学的な認識を推し進めたところで、早すぎた日本のポストモダニスト三島由紀夫が「認識は私に不幸をしかもたらさなかった、私の幸福は常に認識と別なる場所からもたらされた」と述べた通り、私たちの私たちにとっての幸福は私たちが個人的に「信じる」ことにおいて、すなわちchnpkさんが言われる通り、愛という「信仰」として「その対象はマンションでも家族でもいいと思いますが、家族のほうが信じやすいと思う」ものとして、もたらされるのでしょう。


「信じる」ことなくして私たちの幸福はない。そのことと、公的には社会科学の範疇においてブラックボックスブラックボックスのままに放置しないことを市民社会市民社会であることの意味において合意することは、両立する、というか同じことです。それは、ポストモダニストも承知し合意する当然のことです。半ば対抗言論であるにせよ、内田樹的な悪質な半畳は別として。


近代において成立した社会科学のパースペクティブに基づくとき無知は「罪悪」を意味しました。そのパースペクティブが世界の選択に応じて既に有効たりえないとき無知の「罪悪」もまた成立しないかも知れず、現に東氏はその成立しないことを再三言っています。そして、私たちの幸福は認識と別なる場所からやってくる。


社会科学というモダンのパースペクティブが世界の選択に応じて死ぬ、あるいは既に有効たりえないということは、私たちが知ることと私たちの幸福は一致しない、結局、私たちの幸福は私たちが信じることにしかない、ということが了解され周知されるということです。つまり、それは下手すると、いや下手しなくとも一面においてプレモダンへの回帰ですけれど。


「だからこそ」私たちの幸福において私たちが知ることと私たちが信じることが妥当に両立されるべく、市民社会はいっそう強く合意されるべきなのでしょう。なぜなら、半ば繰り返しになりますが、私たちが知ることと私たちが信じることは、時に同じことだからです。「だからこそ」社会科学のパースペクティブは公的に、またソーシャル・キャピタル的にも、要請されます。


東氏が言っていることは、認識の虚と関係なく私たちの個人的幸福は調達される、それが現在の社会である、ということです。個々人の認識においてブラックボックスは、その機序の解明は、近代の産物たる社会科学のパースペクティブを欠いてなおアーキテクチャが対応する、と。――たとえばGoogleが。その妥当不適当と是非は措きます。


ブラックボックスある限り、私たちは「信じる」という認識の虚の個人的な跳躍を避けること能わず、そしてそこにおいて私たちの個人的な幸福はある。そのようにchnpkさんが考えておられるなら、同意します。しますが――そのとき。

■■■


社会科学のパースペクティブを欠いてなおブラックボックスが私たちにおいて存在するとき、疑似科学が決定的に問題であるのは、自然科学が端的にブラックボックスを分解しその機序を解明する方法論であるがゆえに、ブラックボックスの存在が必然的に要請する「信じる」ことの跳躍を排して人の認識の虚を正解において埋めるからです。正解とは「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」という、現象の人為的な反転の部類です。


「人に対して嘘をつくことができる」ことを嫌というほど知り「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを嫌というほど知るがゆえに、私たちは自然とその現象を唯一正解と考え、不確実性を減免すると考えます。人は、認識の虚を「信じる」ことの跳躍とそこから来る幸福に賭けるのでなく、正解において埋めようとします。なぜなら、いまなお、正解こそ人の幸福だからです。


つまり、近代において成立した社会科学のパースペクティブは、人間の幸福にとっていまなお欠かせない、ということです。ポストモダニスト涙目なことに、信じるために人は正解を欲します。正解だから人は信じるのです。まことに、近代の近代であることの宿痾でありますが、つまり雑駁に言って近代は終わっていないということです。先述を再掲すると「「罪悪」がそのパースペクティブにおいて説明される「罪悪」として確かに存在するとき、やはりいまなおコンパスは存在するのであって、よってそのようなパースペクティブに即した、対応も有効です。」


申し訳ないけれど、chnpkさんのはてなハイクでのコメントを改変させていただくと。

不確実性を減免するのは唯一「自然」ではないでしょうか。


その対象は大地でも水でもいいと思いますが、水のほうが信じやすいと思うのは私だけでしょうか。


というのが、擬似科学にまつわる人間存在のいかんともしがたい心性です。いやまじで。それこそ「減免」どころか「絶滅」するために。無知を「罪悪」と考える人は、認識の虚を埋める正解において信じようとします。そして「人に対して嘘をつくことができる」ことと「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを知って「人間は嘘をつくが、大地は水は嘘をつかない」と現象を正解へと反転させて、嘘をつかない水を信じます。むろん、その反転は人為であって、すなわち脳内世界の話です。だから自然科学の問題ではない。


人間と違って決して嘘をつかない自然は正解で、人は正解だから信じるのです。そして、「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」を故意にせよ天然にせよ「自然は嘘をつかない」と人為的に反転させて正解を提示するのがいわゆる擬似科学です。つまり、今更ながら、科学ではない。そして、自然とその現象をダシにして正解ありきの「科学」だから擬似科学なのであって、それは、自然とその現象において正解を模索して間違えました、とは違います。


「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」を「自然は嘘をつかない」と人為的に反転させることのその人為的な意図が問題であって、人間は嘘をつくから、そのことを誰もが知っているから、不確実性の減免、いや絶滅において、自然とその現象が最強なのです。


合田正人であったか、宗教を指して因果性の不当な操作とはよく言ったものですが、擬似科学が広義の宗教と違うのは、そして悪質なのは、正当な因果性として自然とその現象を利用して因果性を不当に操作する点にあります。そのとき、因果性の機序(=ブラックボックス)を分解し解明せんとする自然科学が、因果性の正当という正解の証文として利用される、因果性の機序は解明されないままにその正解を「説明」される、ということです。


人は、信じるために正解とその説明を必要とします。正解なら信じる必要がないからです。そして自然とその現象はこの不確実で不透明な社会と世界における唯一の正解です。だから彼らは自分を「信者」というふうにはまったく思わない。「信じる」ということの問題とは、すなわちchnpkさんが言っておられるような「信仰」の問題としては、水からの伝言を考えていない。人は、正解において因果性の機序というブラックボックスを容易く処理して、その実信じていながら、しかし自分ではそのことに気が付いていない。


むろん「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」がゆえに、そんな処理は一切が脳内世界の話です。エア自然科学は自然科学ではない。擬似科学ということの、それが意味です。そして、社会科学のパースペクティブがもし本当に失効しているなら、個人の個人的な幸福にとっては、エア自然科学と自然科学の区別はない。そのことの是非は措き、しかし個人の個人的な幸福にとってなお、エア自然科学と自然科学は区別される。


つまり、皮肉なことに擬似科学において、私たちの幸福にとっては、エア自然科学はあくまで真正の自然科学でなければならない。信じることの不確実性を減免するために、自然科学は正解でなければならない。その、まさしくモダンの強迫観念において、私は社会科学のパースペクティブは未だ失効していない、有効たりうる、と考える。いや皮肉めかして言っている場合でなく、この逆説は深刻です。信じることの不確実性を減免するために、正解としての自然科学が要請される。そのニーズによく応えているのが擬似科学であるからこそ、これは深刻な問題なのです。社会的にも。


ポストモダニスト涙目なことに、そして、ポストモダニストにシンパシーを抱かないでもない者としては遺憾なことに、私たちの幸福は、いまなお、信じることの不確実性を社会的に減免することにおいて保証されるのです。あるいは絶滅することにおいて。それこそが、近代において社会科学のパースペクティブが要請された意味でした。そして、信じることの不確実性を絶滅するために自然とその現象が、ひいてはそのメカニズムを解き明かす自然科学が要請され、擬似科学がそれによく応える。その、互いの尻尾を食い合っている三匹の蛇のような光景とその笑って済むことでない深刻に、自然科学は一端の責任があるか、あるいは擬似科学批判者は。


むろん、少なくとも自然科学に責はない。にもかかわらず擬似科学は既に自然科学と一蓮托生の表裏としてある、信じることの不確実性を絶滅するために正解を要請する近代と近代人の宿痾において。だから、擬似科学は徹底的に批判されて然りであって、科学者が批判することも当然至極です。chnpkさんの見解に対する異論としては――どうやら私たちは、無知のままに個人的に幸福でいるには、まだまだ修行と進歩が足りないようです。皮肉や揶揄ではまったくなく、また職業差別でもまったくなく(しがらみからといえ人を差別できるような稼業では私はまったくない)、金融の現場で切った張ったしているchnpkさんのような悟達が。私の幸福の半分は、認識の場所からやってきます。

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「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを括弧に入れて獲得される個人の幸福は、また認識の虚を個人的に跳躍して獲得される幸福は、個人の御勝手とポストモダンを経た社会においては言いうるでしょう。しかし「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことにおいて「私たち」としての私たちは、すなわち市民社会を構成しそれに合意する私たちは、幸せになろうとします。私たちの幸福のため、正解を模索することを私たちは諦めるべきではない、ということです。


そしてニーズとしての正解に応えるため決して嘘をつくことのない最強のカードを切って「人に対して嘘をつく」ようにこの大地に向かって、あるいは水に向かって、嘘をつく者がある。結果「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」。もっとも水の結晶は違うらしい。――むろん、そうではない。「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」から、感謝の言葉をかけて発生した水の結晶は、嘘ではない。


「大地は水は嘘をつかない」ことを「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」自然において検証する営為として見分けが付かないから、人は科学と疑似科学を区別しない。破棄するべきは「大地は水は嘘をつかない」という正解であって、科学とは、絶えざる正解の破棄の営みとしてある。繰り返しますが「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことと「大地は水は嘘をつかない」ことは違います。後者は人間の都合です。そして要請される正解とは人間の都合であって、科学の関知するところではない。


にもかかわらず人は「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」ことを「大地は水は嘘をつかない」と反転して解します。非科学的に解するということです。そして、嘘をつかない水という非科学的前提において人間の嘘を科学的に検証します。だから、それが疑似科学です。「嘘は、地べたから撥ね返ってくる」がゆえに道徳的に接して発生した水の結晶は、正解です。それが、人間の都合に基づく、自然とその現象の正解としての反転の結果です。「大地は水は嘘をつかない」という正解において、人間が人に対してつく嘘は、ロンダリングされます。ニーズに即して。


なおその結晶が美しいなら、真善美が人ならざる存在において証明された、ということでしょう。それがニーズです。常に正解を求める人間存在は、近代において自然とその現象にそれを求めるのでしょう。一体としての真善美さえも。


その、とてもモダンな、しかし深刻な事態に対する回答は、『火山灰地』において1938年の良心的な農業技術者雨宮聡が述べており、葛藤しています。1938年のインテレクチュアル、テクノクラート、というよりエンジニアの良心は、その近代的良心は、70年を経た現在を未だ貫いている。一見ポストモダンな事象においても、近代は、その宿痾として、息付いている。宿痾の処方箋は、容易でない。


「私どもの農業理論の中には、まだ、思いのほかに多く、こういう嘘があるのではないかと考えるのであります。私どもが、何かひとつの試験事項を農家の指導に移す場合には、最初は粒ほどの嘘であっても、ちょうどコンパスの両脚が先へ行くほど開くように、この嘘は末広がりとなって農家を誤らすのでありまして、大変、ひとつの罪悪である、まさしく罪悪である、と私固く信ずるのであります。」


「私が、日夜、頭を悩ましておる事柄は、最前も申し上げた、農家へ届くまでに、末広がりに広がっていく嘘、この嘘を、なんとかして絶滅したい。冷害とか、水害とか、凶作とかに悩まされて、どれほど勤勉に働いても、なおかつ窮乏のどん底から抜け出られない大多数の農家に対しまして、私、微力ながら、少しでも学問の力を利用しまして、なんとかして農家全体に、全体にであります、幸福をもたらしたい。なんとかして、私、日夜、頭を悩まし続けて――」