例の件


身元バレを騒ぎ立てる神経がわからん。


たとえばfinalventさんの実名経歴は半ば公知のことだが、私がそれを書き立てないのは、氏に対するリスペクトが理由でも、「言行一致」が理由でもない。プロフィールに明記されていないこと――それが氏の意思だから。それを尊重することはネットマナー以前の問題と私は思っていたが。finalventさんのことを蛇蝎のごとく嫌っている(言い過ぎ)「はてサ」の誰が、氏の実名経歴を言挙げたろうか。以前に、氏のダイアリのコメント欄でそれを書き立てた人があったことは知られているが、それが「はてサ」に該当する人物か私は知らない。「庇う」とかそういうこと以前の問題だろう、これは。


経営者であること、「人を使う立場」にあることは、彼の人は公言していた。労働問題についても「経営者の責務」「人を使う立場にある者の責務」という観点から発言していたし、そのことを自認してもいた。敗残兵から一言 - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)のブックマークで(未だキャッシュで見られる)以下のようにコメントしていたことを私は憶えている。2008年2月のこと。

buyobuyo すごく悲しい   うちにおいでよ。残業とかあんまない仕事俺が取ってくるからさあ。

http://74.125.153.132/search?q=cache:X6YYTrXtEl8J:b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/repon/20080227%25231204119760+%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%80%80%E6%95%97%E6%AE%8B%E5%85%B5%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%80%E8%A8%80&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


――正直、傍から見て、それもまた死亡フラグではないかという気が当時したが。別に佐藤藍子を気取っているのではない、彼の人個人のことでもない、派遣業それ自体が今後厳しかろうと私がそのとき思っていたにすぎない。


自身の「経営者の責務」「人を使う立場にある者の責務」について、彼の人ははてなidがbuyobuyoとしてインターネットで説明しなければならないだろうが、そのことを理由に身元を言挙げる人々に対しては、当人が阿漕な経営者であろうとなかろうと、そもそも当人が経営者であろうとなかろうと、端から彼の人の言葉など話半分で聞いていただろうに、と思わないでもない。それもまた「死ねばいいのに」「あたまがわるい」「千の風になれ」を駆使した人の選択だったろうし、 ryankigzさんが言われるように「人を呪わばフンダララ」とも思うが、そのことは現在、身元バレを騒ぎ立てる口実とはならない。


リベラリストであった彼の人は、個人の自由に対する一切の干渉を嫌った。全体性を指向する類の社会正義を掲げることも嫌った。強権的な国家など論外だった。シンガポールの体制が大嫌いだった。個人の自律に基づく万人の自由が、彼の人の信じるところだったし、それを阻害する一切の観念と権力を彼の人は退けた。当然彼は左翼ではない。彼の人が是としたのは左派的な「公正」でなく自由主義に基づく「フェアネス」だった。社会における「フェアネス」の実現に賭けて彼の人は些かマッチョな論陣を張り続けた。経営者が悪であるのは左翼の議論でしかない。彼の人の経営する企業においてマネジメントが不在であったか私は知らない。少なくとも、憶測で云々すべき話ではない。


当然、保守反動の私も彼の人にあの調子でdisられたことがあるが、blogを書いていて誰かからdisられることなど当たり前のことだと私自身は思っている。彼の人もそう考えていただろう。しかしそのことと、身元バレを騒ぎ立てることは同じことではない。あの物言いとスタンスは、時に社会正義を掲げざるをえないことに対する彼の人の「照れ」であり、「個人」として発言するということの証左だったのだろう、と、むろんこれはあまりに好意的な見方だが、そして私自身のスタンスに引き寄せた見方でもあるが、私は思っていた。


私が搾取の問題や労働問題について彼の人のように強い調子で書かないのは、経営者でなく、そして阿漕なビジネスマンであることが自分の現実であり適性だからだが、またそのことに嫌気が差しているからだが、彼の人には彼の人のスタンスがあるだろう。彼の人のスタンスについて、はてなidがbuyobuyoとしてのその「ええかっこしい」を差っ引いて考えるなら、私としても、想像が付かないものでもない。このエントリもまた「身元バレを騒ぎ立てる」類であること、また「追悼」めいていることも承知だが、事態に呆れたので書いた。私の手前勝手な物言いと、想像の誤りについて、「ばかのみほん」と彼の人にdisられることを、私はいつまででも待つだろう。

御法度を生み出すもの


誰でも美少女戦士になりたいはずだ - 地下生活者の手遊び

なぜ僕が美少女戦士になりたかったのか? - 地下生活者の手遊び

はてなハイク サービス終了のお知らせ

異性愛というありふれたヘンタイ(再追記アリ - 地下生活者の手遊び


大島渚テーゼ」と私が勝手に呼び習わしている観念があって。「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」という。そして、愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちは、殺し合う代わりに社会を作った。現行の社会を。その秩序ある社会を、ホモソーシャルと言う。あるいは国家を。それは、男たちの都合により、愛し合うことと殺し合うことを忌避することによって成り立っている。その「都合」を、オブセッションともポスト近代な現在では言う。


別に大島監督がそういうことを説いていたわけではない。ただ「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」ことを――その代替物として構成された現行の社会の安全装置を映画を通して外してみせることによって――幾つかの大島作品は指し示し、男たちの根底的なオブセッションを暴き出した。


もちろん私は、愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちの宿命を享楽したいと考えるとてもわかりやすく社会的な男なので、愛し合う代わりに殺し合う男たちの禁欲的であることと暴力的であることの表裏一体のエロスに酔うわけだが――つまり、後述するが、現在では、愛することってむずかしく、愛し合う代わりに殺し合うこともむずかしい――それ違うだろう、と『御法度』に対してかつて突っ込んだのが浅田彰だった。


tikani_nemuru_Mさんのエントリは、その構図について指摘したものと私は傍から思っていた。「愛し合う代わりに殺し合わなければならない」男たちが殺し合う代わりに築き上げたホモソーシャルな社会秩序。そのようなものを必要としない、オブセッションから解き放たれた存在として、プリキュア的な空想の美少女が措定されているのだろう、と。つまり、愛し合う代わりに殺し合うことも殺し合う代わりに秩序ある社会を築き上げることもなくただ愛し合うことのできる存在としての、空想の美少女。


「なぜそれが空想の美少女でなければならないのか」という問いは当然ありえる。そしてそれに対する回答は「自分は異性指向の♂だから」ではない。いや、宮崎駿はそういうことを言ったが。女性にとっては辟易する話だろうとも思う。私が思うのは、「愛し合う代わりに殺し合わなければならない」男のオブセッションに辟易している♂もいるということ。tikani_nemuru_Mさんもそのひとりだろうということ。そして、オブセッションのツケを空想の美少女に回しているのが現在の「萌え」という想像力の中心的な有り様としてあるということ。


愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちが殺し合う代わりに社会を作り順応の名においてその秩序に加担することを、ある方面の専門用語では去勢と言う。斯様なオブセッションに対する忌避は、そのツケを空想の美少女に回して、そして彼女たちは殺し合う必要も秩序ある社会を作る必要もなくただ愛し合う。その「愛し合う」ことを、tikani_nemuru_Mさんは「目的とはあくまで友情そのものにある」「勝利だの目的だのに回収されにゃー関係」と表しているのだろう。そのとき性愛が回避されるのは、tikani_nemuru_Mさんがたまたま異性愛者だから――というのがtikani_nemuru_Mさん御自身による説明。


そしてそのことが反転すれば「愛し合う代わりに殺し合わなければならない美少女」が空想の存在として現れる。斎藤環がそのことを指摘したのは10年前のことだった。かくて現在、オブセッションに対する忌避のツケが現実の女性へと回されて「三次元女デバッグ」発言になる。オブセッションを忌避する男たちは、時に、現実の女性に秩序ある社会の構成物を見ている。自身が忌避するオブセッションを。現実の女性を秩序ある社会の構成物としているのは、そのオブセッションそのものなのだが。


「男にとって女がめんどくさい生き物なのは不変の事実」とTwitterでつぶやいて炎上していた人があったが、オブセッションを「宿命」と変換して涼とする私のような御都合主義な男ばかりではこの世はない、男にとって男がめんどくさい生き物であることが不変の事実であることが耐え難い♂が大勢いる。


処方箋は、言うは易しという意味では簡単で、つまりそれはテンプレートでもあるが、オブセッションに対する忌避のツケを現実には存在しない空想の美少女に回している暇があったら「♂として貴方が、殺し合う必要も秩序ある社会を作る必要もなくただ愛し合え」ということになる。そしてこの処方箋は、当然のことながら、同性愛の勧めでもホモフォビアに対する糾弾でもない。秩序あるホモソーシャルな社会が排除してきたもの、その存続のために排除し続けているものについて、それが何であるかということも含めて、考えるということ。「非モテ」というのもそういう話だと私は思ってきた。


つまり、秩序あるホモソーシャルな社会が排除してきたもの、その存続のために今なお排除し続けているものは、「♂としてただ愛し合うこと」それ自体なのだ。性的指向の如何に関わらず。


tikani_nemuru_Mさんは御自身の「ホモフォビア」について御自身で再三「確認」しておられるけれども、そういう話ではないと私は傍から思っていて、つまり「ただ愛し合うことをなぜ貴方は同性に対して忌避するのか?」ということは、異性愛/同性愛といった――それ自体が大雑把な括りであることは別として――性的指向とその「多様性」に帰されることではない。


ただ愛し合うことを忌避することの理由が「異性愛/同性愛」とそのマジョリティ/マイノリティとしての数の多寡の問題であるなら、つまるところ個人の性的指向の問題なら、愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちが殺し合う代わりに築き上げた秩序ある社会、すなわち差別的で抑圧的な社会を裏書する話でしかそれはない。「聖ジュネ様にでも御降臨願うしかないの?」とflorentineさんがブコメでつぶやいておられたけれども、そうなのだろうと私も思う。


ただ愛し合うことが「貴方」にできないのは、性的指向の多様とその衆寡の問題ではない、ただ愛し合うことを困難にしている、この秩序ある社会を形成したオブセッションと、それが排除してきたものの問題。「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」という観念は、今なおこの社会を規定し、秩序の名において「ただ愛し合うこと」の排除さえも規定している。空想の美少女を、すなわちデバッグされた「女の形」を、そして言うまでもなく現実の女性を、供犠とすることによって。


その供犠はそもそも歴史的なミスリードなのだが、そのミスリードに責を負っているのは、当然、ツケを回している側と、ツケ回しを引き起こす現行の秩序ある社会と、ツケ回しを裏書するテンプレートな言説である。


オブセッションに対する忌避の結果としてあるデバッグは、現実の女性を蚊帳の外とする。ホモソーシャル秩序という蚊帳の。この入れ子構造を考えるとき、その出口のなさについては頭が痛い。私のような、自らが男性であることについて不当に自信に満ち溢れている手合いには、何も言えないことであったりする。


だからこそ、これは皮肉な意味でも言うのだが、ジョン・レノンは『Imagine』を『Woman』を『Stand By Me』を『Happy Xmas (War Is Over) 』を歌ったし、かつて忌野清志郎が言ったように「愛することってむずかしい」。あ、佐野元春だったか。『イングロリアス・バスターズ』を堪能してきた私のアレな世界観は、誰しも愛し合う代わりに殺し合わなければならない、というもので、だから、秩序ある社会が至上命令であることには同意せざるをえない。そしてその秩序が、ヘテロセクシャリズムの別名であることは、むべなるかな。


結局のところ、多少頭のいい「アーリアン」は、誰しもクリストフ・ヴァルツ演じるランダ大佐のような意識を抱えて、「忠誠」も「名誉」も紙屑と見なし、そして結局のところ自身に付された「渾名」にさえ辟易して、己の快楽原則に従って、ランダ大佐のように処世するのが現在の日本である。その処世にツケが回るところが「多少頭のいい」「アーリアン」であった彼の認識の欠如でありありふれた錯誤であったが。


誰しもただ愛し合うことは、私においては、殺し合うことと同義であるが、その世界観が、私の性的指向に由来するものか、私は知らない。だからこそ、性的指向とその如何に関わらず、愛は行き違うものであり、また行き違うべきなのだと、私は考えているが、しかしその行き違いにおいて待っているものは、言うまでもなく、剥き出しの暴力である。ジュネはそこまで描いた。オブセッションとは、暴力の陶冶の別名でもあったから。


空想の美少女が、デバッグされた「女の形」が、そして現実の女性が、供犠とされるのは、そのような剥き出しの暴力を陶冶する秩序ある社会と国家の暴力が要請すること。つまり、出口も救いもない話ということだが。当然私はリベラリストではない。――tikani_nemuru_Mさんはこのようなことを言っているのではないか、というフォローのつもりだったが、フォローになっていない気はする。批判というより、自己批判であるだろう。こういうことについて処方箋を必要としない自分自身のアレさ加減についての。


参考リンクのようなものを置いておきます。⇒浅田彰【「御法度」をめぐる御法度】

時の過ぎゆくままに


はてなブックマーク - じかん げんしゅは ちこくする ひとに めいわくが かかるので やめて ください - やねごんの にっき

「関口君。世界中が皆同じ時間の流れの中にいると云う状態は果たして正常な状態なのだろうか?」
「何を云っている?」
「僕は――厭だ。」
「厭?」


鉄鼠の檻』 京極夏彦


三島由紀夫はたいそう時間に厳格な人だったそうな。彼においては――そういうことを絢爛な日本語でいちいち説明するのが三島という人だったが――娑婆は約束なくして回らないので。「娑婆は約束で回っている」ではなく「娑婆は約束なくして回らない」と考え言明するのが三島という人だった。そこには彼の他者と自己に対する根本的な不信がある。約束が存在するかのように振舞わなくては、私たちにおいて約束は存在しない。そのプロトコルを破棄することは人間であることを破棄する獣の行為である、と。にもかかわらず、プロトコルを破棄しておきながら自身を人間と信じ込むふしだらな輩とその盲を許す他者不在の日本社会を彼は嫌った。


彼にとって信の問題は、第一にプロトコルに対する律儀さとしてあり、そしてもちろん彼はそのことにも嫌気が差していたから晩年において東大全共闘との討論会に見参して新左翼学生に対するシンパシーを表明した。つまり、彼はそれでも人を信じたかった。人を信じることはかくも難儀なことか、と彼のようには潔癖でない俗物の私は思う。


三島由紀夫においては、時間が存在するかのように振舞わなくては、私たちにおいて時間は存在しない。彼において時間は自明でなかった。この世界はなんら寄る辺なく拠り所もなく、いかようにも変容する不定形な溶解物である。そう考え、というよりそう信じ、溶解物であることを欺瞞するリベラルな戦後社会を唾棄した人が、自身の肉体に否応なく降りかかる老いをどのように考えたか。そしてよく知られた(公言してもいた)彼の女嫌いが顔を出す。世界に対する女の無根拠な信はその肉体に時計を宿していることに由来する、と。


三島という人にとって、与信は約束それ自体にしか存在しなかった。それでも人を信じたかった人が、「男と男」という、あるいはホモソーシャルな間柄においてしかそれを見出そうとしなかったのは、彼個人のセクシャリティミソジニーに由来することでは必ずしもない。信を約束それ自体にしか与えない社会は、他者の存在に対して私たちが提出した回答である。明晰な三島はそのことを自覚していたにすぎない。


三島が唾棄した「他者不在の日本社会」はその崩壊の足音を遠くに聞いて、信を約束の履行でなく約束それ自体に置くことによって「他者」の登場に適応した。つまり、崩壊に備えた。結果、それは崩壊を先送りにした。その崩壊の先送りが、かつて構造改革と呼ばれ新自由主義と呼ばれた。良くも悪しくもドメスティックな話ではある。私は鳩山由紀夫の「口先」は嫌いではない。「口先」に信を与えはしないので票を投じはしなかったが。


信を約束の履行でなく約束それ自体に置くビジネスはあるいは「合理的」なビジネスで、そのようなビジネスを私はしていないが、結構なことと思う。信を約束の履行でなく約束それ自体に置く教育が「合理的」な教育か私は知らない。私が「合理的」な教育と考えるのは帳尻を合わせることを教えることで、なぜなら娑婆は「約束なくして回らない」かも知れないが約束で回っているのではなく帳尻合わせで回っている。それは、信を約束の履行に置くこと。エリート校は今でも概ねそうだろうし、それをかつては「一高」的であるとした。つまり、三島由紀夫は明晰だったが、あるいは明晰であるがゆえに、不器用な人だった。


しかし、彼の場合は致し方ないかも知れないが、明晰であるがゆえに不器用な人が「娑婆は約束なくして回らない」と考えることは悲しいことだと思うし、特異な作家でもない人々が揃いも揃ってそのように考える社会は、危ういとも思う。全体主義の契機とは殊更には言わないが、そのようにして成立している社会は――lever_buildingさんの言葉を借りれば――「そのような ルールに よって たもたれた 「ちつじょ」は じつは あんがい もろい ものなのかも しれません。」そして同時に、それが現在の「しはい」を贖うものであるならば。信を約束の履行に置くことは、他者を他者として諦めたうえで、関係性を築くこと。コミュニーケションとは、本来的にそのようなものだった。もちろんそれは「合理的」ではない。だから娑婆で肝要なのは帳尻を合わせること。


私の経験的な認識では、イズムとしてのグローバリズムと世界の選択としてのグローバル化は相違しており、その相違ゆえに相互補完の関係にある。浜松市を見るまでもなく、ことこの日本社会においては、グローバル化とは下部構造における「合理性」なる概念の困難という現実のことでしかないのだが、その困難に「信を約束の履行でなく約束それ自体に置く」ことにおいて対処するのがイズムとしてのグローバリズムであるだろう。それは、小泉構造改革の帰結としてあるかつての新自由主義だった。そのことは端的にはリスク管理の問題としてあるが、合理性の名においてリスク管理を「迷惑」の問題として教育するのが文明の選択なら、確かに文明社会における教育とはそういうものではあるが、欺瞞以前に、それはそもそも現実に適していない。陸軍大学の天保銭養成ならそれで結構だが。


つまり、そこに約束の主体はない。国家システムや経済システムやイデオロギーの外側で交わす約束を、つまり人と出会うことを三島由紀夫は夢見て、おそらく彼の主観においてそれは叶わなかった。明晰で潔癖で不器用な人間においてそれが叶わないことは致し方のないことでもあるが、しかしそれは悲しいことだろう。


「娑婆は約束で回っている」はそもそもなんら自明でないし、その自明でないことがはっきりしてきたからこそ人は「娑婆は約束なくして回らない」と考える。というより、そう人に「教える」「説明する」ためにそう考える。私たちが相互に、あるいはグリニッジ標準時に自らの時計を合わせるように、それこそが文明と「合理性」のマトリックスであり当然私たちはその恩恵を被っているが、任意の文明が――どのように成熟した文明であろうと――下部構造を陶冶しえないこともまたとうにあきらかになっている現在、「約束も守れない」「まともに読み書きもできない」他者に対して任意の文明とその達成をもってすることの困難あるいは無力を私たちは自覚するべきだろう――三島由紀夫が死んで40年が経とうとする現在。


信が、文明の粋でもある約束の観念それ自体に、そして「洗練」された言語に、存在しないとは言わない。いや到底言えない。しかし下部構造は、もはやそれを存在させようとはしない。「合理」と言うなら、それを知ることこそ「合理的」である。そして教育が、(あるいは任意の)文明の粋を伝えることなら、「迷惑」を説くことは、なるほどこの国の文明の粋を伝えているだろう。半世紀前に三島が身をもって生きたアイロニーは、そこには欠片もないが、丸谷才一が今なお身をもって生きているアイロニーが、そこには存在するのかも知れない。私は丸谷先生のことも好きだし尊敬しているが。そしてだからこそこのようにしか書けない。


京極堂は昭和28年の日本で「厭」と言った。半世紀後の日本においてそれを言う必要がなくなったなら、たとえば山本夏彦がそうであったように、そのことをこそ「厭」と言う人があるのだろうが、そしてそれは当然のことだけれど、安心してよいことには、必要は全然なくなっていない。長く冷戦の存続した日本社会という「明慧寺」の、すなわち「戦後」を規定し牽引した妄執によってフリーズされたタイムカプセルの「時が――流れてしもうたッ」のはつい最近のことだから。あるいはこの数ヶ月の。閣僚が「文化大革命」と口走った昨今、タイムカプセルを溶解させた張本人である小泉純一郎小沢一郎、そして安倍、福田、麻生という人々のそれぞれの妄執について思いをめぐらせつつ、そんなことを思う。


「迷惑」の問題なら、誰にも迷惑を掛けずに生きている人間などいない。だから「迷惑」とは筋合の有無の問題で、誰にも迷惑を掛けずに生きている人間などいないことと、筋合なき(と自らが考える)誰かに迷惑を掛けずに生きていくべく心掛けることは両立する。そしてそれは、自身の死活問題でないとき、他者に要請しうることではない。なぜなら、「筋合」の範疇の画定こそ、現在の社会思想の喧々諤々としてある。


「筋合」の範疇の画定をめぐる喧々諤々をすっとばし、倫理として偽装された規範の欠如を死活問題として他者としての未成年者に説くことが教育なら、野宿者がいっそうの偏見にさらされることは教育の帰結にすぎない。「筋合」の範疇を地方自治体や国家に措定する限り、財政の逼迫を盾に自他の死活問題として「迷惑」を敷衍した概念を言挙げることにおいて、福祉受給者に対する非難と、些か見世物のように現在報道されている「事業仕分け」は、区別が付かない。


そして同時に、我が国の予算編成が「自他の死活問題」であることが明瞭に可視化されたことなど、これまであったろうか。その不可視が国家の機能だった。斯様な擬制の転回が民主党政権に可能なら、「友愛」は「口先」だけではなかったことになる。とはいえ、つまりその可視化とは、革命に付き物の断頭台のことではあるのだが。


むろん私は、「自他の死活問題」であるという問題設定がミスリードであり、その可視化とはつまり断頭台の見世物でしかないと考える。そしてそのことは、不可視のための機能である擬制としての国家が私たちにおいて要請されていたことを結論する。かくて、沖縄の基地問題はずっと不可視化されてきた。民主党に票を投じなかった私が現政権をあまり批判する気になれないのは、そうした自己批判が先に立つからなのだった。


村上春樹の達者な比喩を借りるなら、「筋合」の範疇を任意の「壁」に措定する限り、私たちは「卵」と出会えないし、約束を交わすことも叶わない。他者を他者として諦めたうえで、関係性を築くことも、そう努力することも。約束を交わすことは「筋合」を越えること。それが本来的にはコミュニケーションで、その不可能を知り自他にプロトコルを説きながら、しかしそれを夢見た三島由紀夫を、ロマン主義者のアイロニーと片付けることは私は今でもできない。lever_buildingさんのエントリと繋がる話かわかりかねたので、直接リンクしませんでした。


2009年のピンボール


目的は手段を正当化しません - halt.

構造的暴力と個人の責任 - モジモジ君のブログ。みたいな。

http://d.hatena.ne.jp/sionsuzukaze/20091021/1256095792


コメント欄まで拝見したうえで――先のエントリともうひとつ前のエントリを翻すようではあるが、問題は多面的であり、改めて確認しておくべきかとは思う。トラックバックに対する私なりの大筋での応答としても。


暴力も責任も地続きなので線引きしましょう - 地下生活者の手遊び


結局のところ「他者危害」を「暴力」と言い換えるのは何のため? という話であり、それは、人権の根底にあり、またtikani_nemuru_Mさんが言われる「公権力の領域」に置かれる、他者危害禁止は「陵辱表現を脅威と感じる」ことを原理的に包括しない、というところに由来する。そのことは「純粋に技術的な」法の問題としてある、然らば――というのがmojimojiさんの見解。つまり「「(世間一般では暴力と呼ばれないところの)広義の暴力が法規制されていないのは純粋に技術的な問題」という話」をmojimojiさんはしているのでは全然ない。端的に、harutabeさんの先入見に基づく誤解と思う。


排外主義に基づくヘイトスピーチゾーニングを経た陵辱表現の商業的流通は全然違う問題である、というのが再三書いてきた私の見解であるが、mojimojiさんの議論は――いつもそうなのだけど――あたかもピンボール・マシンのように一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく。とはいえ、その「ひとつの穴」から一切を問い直すことは確かに重要で、そのとき「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由」が問われる。


それに対する反論は、hokusyuさんが言われるように「排外主義は<「殴る」という直接的暴力も、差別のような構造的暴力も、人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で>「暴力」ではないことを論証」することではなく、「暴力」を「他者危害」へと切り縮めた法理とその背景にある人権思想の妥当について論証することなのだが、それってエンドレスエイトだよなぁ、と私は思う。ヘイトスピーチ規制は社会的法益に多く由来する、とかこの期に及んで改めて言うことも。


人権思想が贖う他者危害禁止に抵触することではない、したがって理論的には規制の範疇ではそもそもない、と明記したのち、mojimojiさんが考える問題の本丸の在処を「「表現の自由」の擁護者を自称する多くの人」に対して指し示せばよいのに、と私などは思う。つまり、そこで誤解して激越な反応を示す人がいるので(念の為に書いておくと、たとえばNaokiTakahashiさんやlisagasuさんのことではもちろんない。harutabeさんのことでもない)。「激越な反応」を引き出すための挑発的な議論なら、なるほど結構なことと思うが、根性悪いなぁ、とも感嘆交じりつつ思う。


あるいはそれが「一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく」ことの意味でもあるけれど。「一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく」ことを否とする人は、言うまでもなく大変多い。私もそのひとりではある。なぜ否とするか、それは別に、hokusyuさんが言われるように「たとえばオナニーを始めようとしても俺の中のmojimojiが俺を苛んでくるのでチンコがなえるよぅ、とか、エロ小説を書こうとしても俺の中のmojimojiが俺を苛んでくるのでリピドーあふれる小説が書けないよぅ」ということではない。法の「純粋に技術的な」話をしたいわけでもない。


要請される「真剣な思考と実践」が「法と正義の隙間を埋めるため」に「一切がひとつの穴へと吸い込まれ落ちていく」ことなら、ピンボールゲームの甲斐がない。Wikipediaから借りれば――「盤面にはさまざまな障害物や得点となるターゲットがあり、多くは自動で球をはね返す。プレイヤーはフリッパーで球をはね返しながら、できるだけ長時間維持しターゲットに当て得点を重ねる」ことがジジェク流の精神分析的な「永遠の嘘」であり文化という名の欺瞞の上積みであるなら、人は「真剣な試行と実践」をやめるよりほかない。要請された「真剣な思考と実践」以外は。


つまり、それこそが1984で、これもまたいつもそうであるしmojimojiさんは百も承知でそうしているのだけど、mojimojiさんの他者に対する要請は端的にダブルバインドを意味するものなのだが、ただし、その「ひとつの穴」に「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由と、そのような表現を必要とする人たちの自由」があるなら。要請がダブルバインドであることは致し方ない、とは言える。つまり、「真剣な試行と実践」の前提としてそのように考えるなら。


なお、私は両者が両立しないとは思わない。陵辱表現を脅威と感じることは単にメンヘルの症状なのでその文面をプリントアウトして病院(ry あるいは、そのような表現を必要とすることは単にメンヘルの症状なのでその文面をプリントアウトして病院(ry ――だから、xevra先生が万事快調にプリントアウトテンプレをかましておられるこの社会にあっては「両立」するその自由は、本当に「自由」なのか、というのが「mojimojiさんが考える問題の本丸」。なお、xevra先生のことは私は嫌いではないし流石にこのことについてはxevra先生はそういうことは言っていない。はず。


「暴力」を「他者危害」へと切り縮めて達成される社会の自由は、暴力の脅威に晒されそのことに怯えることを「プリントアウトして病院(ry」へと切り縮めて達成される社会の自由でもある。そのことが、憲法理念に規定された法が達成する社会の自由の帰結としてあるとき、その自由を言祝ぐことはアイロニカルなものにならざるをえない。自由の掲揚それ自体がダブルバインドそのものとしてある。そのことをmojimojiさんは衝いている。ダブルバインドを欺瞞するな、と。佐藤亜紀氏も衝いていたが。


そして「「表現の自由」の擁護者を自称する多くの人」は誰しもアイロニカルだろうと、私などは思うが。つまり、少なくともこの国にあっては、ほかなる選択肢などない。私に言わせれば、「「表現の自由」の擁護者を自称する多くの人」を批判する多くの人は、そのことを誤解している。佐藤氏も、tikani_nemuru_Mさんも、含めて。いや、後述するが、ダブルバインドを欺瞞していることにさえ気がつかない人もいるのだろうが。


よしながふみの『大奥』の話題をはてなブックマークで拝見した。私が思うに、『大奥』は精緻に構築された(メタフィクションならぬ)メタポルノで、つまりポルノがポルノであることに対する作家の問題意識をこそ主題としている。そのような、ポルノがポルノであることに対する問題意識は、よしながふみに限らず多くのいわゆる「ボーイズラブ」作家が――おそらくは否応なく――持ち合わせるものであり、あるいは現代にあってポルノをポルノとして構築せんとする多くの作家が持ち合わせるものでもある。その点で、現在の「二次元」における陵辱表現はポルノがポルノであることに対する作家の問題意識に裏打ちされた――メタポルノでもある。レイプレイがどうかは知らん。


「表象は読み解かれなければならない」とは、現在の陵辱表現における、そのポルノがポルノであることに対するメタメッセージを受け手の側で補完することで、しかしテキストにおけるメタメッセージの補完に対して懐疑的であるだろうtikani_nemuru_Mさんと「表象は読み解かれなければならない」という命題について相互的な了解に至らなかったことはそういうことだろうと私は思っている。これは、別に批判ではない。


『大奥』はきわめて洗練されたポストモダンなポルノで、抑圧と差別と権力構造とそれに基づく個の蹂躙なくして欲情と官能が成立しないことを、作家はこれでもかこれでもかとあくどいまでに読者に示し続ける。それは、「ボーイズラブ」作家だったよしながふみの明晰で、しかし倒錯してもいる一貫した問題意識だったろうし、かくて作家はそれをそのまま主題として、すなわち私たちの欲情と官能とその一切が差別に由来することを――私たちがあまり直視したくはないだろうエロスの構造を――剔抉すると同時に腕によりを掛けたエロティックな表象として描き出してみせる。そのような作品に大賞を与えた手塚治虫文化賞の見識には敬意を表する。念の為に描いておくと、「劣情」を喚起するのがポルノであって、胸やら尻やら性器やらを出すのがポルノではない。


メタポルノとは、欲情の喚起と欲情の構造を受け手に対して同時に提出する作品のことで、かつて吾妻ひでおはそうした作品を散々描いていた。『吾妻ひでおは萌えの始祖ではない。』という増田を拝見したが、それはその通り。もっとも、それはそれで(吾妻ひでおが、あるいはよしながふみが達成したような質的水準は措き)陳腐な話ではあるが、しかし、オタク文化とは何かと問うなら、斯様な欲情(あるいは欲望)の構造についてのメタメッセージを作品の側でなく受容する側が補完し、同時に欲情(あるいは欲望)する二枚腰の文化のことなので、そのような文化を理解せずして単に陵辱表現とその商業的流通を陵辱表現とその商業的流通として論じるなら、片手落ちは免れない。


そして、欲情の喚起と欲情の構造を同時に提出することが受け手において「萎える」ことかと言えば、享楽を甘く見てはいけない、「吾妻ひでおは萌えの始祖ではない」が、吾妻ひでおが描く「少女」という文字通りの空虚な表象に性的な意味でイカレた人もその享楽的な世界観をこそ欲望した人もゴマンとあったことを私たちは知っている。


少なくとも、それこそエロゲをプレイせずともインターネットを適当にクルージングしていれば明々白々な、欲情(あるいは欲望)の構造をめぐるメタメッセージの顕在化を踏まえずして陵辱表現とその商業的流通を論じることはできないと私などは思う。tikani_nemuru_Mさんに、そしてmojimojiさんに、そのような視座はあったか。これは批判でもある。tikani_nemuru_Mさんは「文化」について言挙げておられたけれど、つまり文化とはそういうこと。表象を読み解くとは、まず第一に、受容する側でメタメッセージを補完すること。それは「挿入されて『おにいちゃん』と言ってよがる8歳児とかいねえよ」ということでもある。


欲情することと欲情の構造について承知すること、欲望することと欲望の構造について承知すること、それらは同時に可能なことであるどころか、現代人の(あるいは変態紳士の)嗜みでもあり、また私たちの欲情と欲望に否応なく伴う哀しい必然である。その「哀しい必然」を「罪」と呼び換えることはなるほど可能だが、その一切合財がたとえば私自身にとっては享楽であったりする。そして、このような認識がない者のことをDQNと言い、つまり自身の欲情の構造とそれが差別に由来することを知らないかあるいは開き直った馬鹿は現実に強姦する。こういう話。現実に強姦する馬鹿のことは、流石に『獣は檻に入れとけ』タグをもって処するよりほかない。そのことを私刑の応酬よりマシと私たちが考えるなら。


なお、欲情の構造の解体を他者に及んで試行する者のことを普通はスターリニストと言い、個々人の欲情の内実を倫理的に問うことはそれこそ非倫理的行為でありまた端的に無神経で、欲情の構造について指摘することはむろん結構だが、そんなのはこの議論に関心持ち合わせる陵辱表現愛好者にとっては自明のこと、他人をあまり侮らない方がいい――というのがかつて私がmojimojiさんに対して指摘したことだった。むろん、mojimojiさんは他人を侮っているのではない。そして、以上述べてきたような文化の二枚腰こそ、洗練され陶冶され社会化された暴力の擬制そのものではあるが。文化というのはそういうことで、しかし私は文化大革命を是としない。


暴力は擬制として社会に眠らせるに限る、それは洗練であり社会化であり陶冶である、と考える私は保守主義者だが、しかしそれはmojimojiさんに言わせれば居直りそのものだろう。暴力の洗練、暴力の社会化、暴力の陶冶。それこそが「もうひとつの江戸時代」を舞台に『大奥』が描いた、抑圧と差別と権力構造とそれに基づく個の蹂躙、ひいてはそのことにおいて起動される私たちの欲情と官能の構造そのものなのだから。そのように享楽をシステムとして現代社会は駆動する、と述べたのがフロイトだった。


そして現在、世界のあらゆる先進民主主義国で、擬制は崩壊し、終焉を迎えている。それは歴史的な移民政策の帰結と言えることでは必ずしもないし、当然日本も例外ではない。しかし結果、排外主義が火を吹き、あらゆる社会的少数者に対するヘイトが燃え上がり、「直接的暴力」と動員は公共の往来へと溢れ出る。これをして歴史の終わりと、フクヤマ先生は宣ってくれるだろうか。


つまり、斯様な状況という前提のうえに、すなわち覚束なくなった文明の足場に、自由民主主義社会を自由民主主義社会として改めて確立することを至上命令として、たとえばヘイトスピーチ規制といった欧米社会の度重なる現在の選択はある、ということなのだが。そしてそれこそが「法と正義の隙間を埋めるための、真剣な思考と実践」とその帰趨であり、幾らかは意図せざる結果だった。この日出る島国に暮らす人々の憲法理念に規定された自由民主主義社会は、いつまで暢気でいられるだろうか。あるいはとっくに。


深夜のシマネコBlog:二次元規制反対派は、アグネス・チャンの人権を守れ!


趣旨は当然至極として。かくもアグネス・チャンが的にされるのは、彼女の存在と言説が絵に描いたような「善」の表象としてあり、かつそれが官憲の現実政治に利用されている、ということに由来する。そのことをアグネス・チャンは反省せよ、とはもちろん思わない。しかし、だから「アグネスは中国の人権侵害についてはスルーですか?」といった無茶苦茶でしかもヘイトの定石としての、露悪した言説が出回る。


それは表象であって、彼女の実存のことは知らない。というより、以前も書いたが、彼女は本当に児童に対する性的搾取を世界から根絶したいと考えているのだろうし、それが偽善ならこの世界に確かなものは何もない。実際、この世界に確かなものは何もないし、それはポストモダニズムがもたらした教訓ではあったが、斯様な「この世界」に対して、たとえばレヴィ=ストロースはtikani_nemuru_Mさんが引いた文章を著した。しかし。


現在の世界にあって、政治とは偽善を為すもので、そのとき偽善と偽善は衝突する――2005年の、また2009年の総選挙ではないが。そして、2度の総選挙がそうであったように、表象としての偽善に覆い隠された下部構造で個別利害が衝突し、事態は文字通り民主主義的に決する。しかし。ポピュリズムの問題とは、民主主義がもたらした概念としての「大衆」が表象としての偽善を偽善と知りながら偽善も善と信じてしまうことで、それこそが「永遠の嘘」である。そのとき、リアリストを自称する保守主義者が偽善を為すものとしての括弧付きの「政治」を説き、下部構造で個別利害が衝突する現実の世界について露悪してみせる。そして二言目には中国が持ち出される。それが、ある種の保守における典型的な言説であることは言うまでもない(これも念の為に書いておくと、sionsuzukazeさんのことではもちろんない)。


アグネス・チャン批判とは、民主主義的に偽善を為すものである政治が善の表象を立てることによって非民主主義的に現実政治を行うことに対する批判である。それはFOXテレビオバマ政権批判テンプレと何が違う、ということではあるが、問題は、民主主義的に偽善を為すものである政治が善の表象を立てることによって非民主主義的に現実政治を行うことが、国家の増長と官憲の専横と同義であること。児童に対する性的搾取の根絶、というアグネス・チャンが主張する掛け値なしの善が、官憲と官僚と国家主義者の現実政治に動員されているということ。


これは定石でもあるし、当然、アグネス・チャン個人を批判しても詮無い。アグネス・チャンの言説を批判すべき、それは赤木氏の言われる通り。そもそも、「アグネス・チャンコロ」だの二言目には中国中国と口走っている批判者に述べてきたような認識があるのかさっぱり心許ない。ダブルバインドを欺瞞していることにさえ気が付かない人というのはいて、それはDQNなのだが。


そして――斯様な偽善と偽善の衝突する民主主義政治という「永遠の嘘」の中で遺棄されていくものがある。それは、直接/間接に性的に搾取される児童であり、「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由」であり、そして、「そのような表現を必要とする人たちの自由」である、というのが、アグネス・チャンの主張であり、mojimojiさんの主張である。いや、もちろん「そのような表現を必要とする人たちの自由」についてアグネス・チャンは主張していない。だから私たちは再三主張している。かくて話は冒頭に戻る。


「他者危害」を「暴力」と言い換えるのは何のためか。――「児童が間接的に性的に搾取されることもまた、暴力だから」。それを修辞学と私が言い切れないのは、別に私がレトリカルな文章を書くからではなく、述べてきたように、民主主義政治が偽善と偽善の衝突する永遠の嘘であることを知るからだけれど、同時に「しかし、そのことは人権思想が贖う他者危害禁止の範囲の拡大を意味しない、当然公権力の領域にも置かれない」と私が言い切るのは、別に理論的帰結からではなく、「偽善も善」という永遠の嘘が下部構造における国家主義者の現実政治を覆い隠すことを知るからでもある。


偽善と偽善の衝突する民主主義政治において掛け値なしの善の表象が立てられるとき、国家が下部構造を規定し、それと同時に高級官僚は現実政治のメシウマを狙う。それは、永遠の嘘を知り尽くした者たちの常套手段であり、だからこそ、私たちは偽善と偽善が衝突する民主主義政治に善を幻視することなく永遠の嘘を永遠の嘘として維持しなければならない。これが「かのように」ということであり、それは当然欺瞞に満ちているが、民主主義政治に善を幻視する錯誤を排するならそうするよりほかない、と考えるのは私が保守主義者だからだろう。浅田彰が最初に言ったことと思うが「偽善」対「露悪」とよく言う。政治的に両者は結託した不毛な共犯関係にありマッチポンプでしかない、と。しかし実態は、もう少し込み入っている。


掛け値なしの善の表象に対して「掛け値」を指摘して回る露悪が、アグネス・チャンに対する批判非難誹謗中傷が持つ「意味」であり、だから「児童に対する性的搾取の根絶」という掛け値なしの善の「掛け値」を指摘するために、アグネス・チャン本人に対する個人攻撃が採られる。「掛け値なしの善」と私は皮肉で言っているのではまったくない。しかし、「児童に対する性的搾取の根絶」という表象としての主張に「掛け値」を指摘するべく、発言者本人のポジションという「掛け値」を言挙げる言説には、まことに事欠かない。「アグネス・チャンコロ」と言わなくとも。そしてそのような、言説における「掛け値無しの善」に対して発言者のポジションという「掛け値」を言挙げる言説は、アグネス・チャンに対するそれに限らず幾らもある。


そういう話で、それは――戦略云々以前の――駄目駄目な話と私は思うし、彼女がその実存においても児童に対する性的搾取の根絶を望んでいるだろうことは流石に察しが付く。問題は、それが永遠の嘘において国家主義者の現実政治を覆い隠すことであり、つまり問われるべきは個人とその信念に基づく行為の帰趨とそれをもたらす構造であり、要は構造的問題そのものである。それが差別というシステムそのものであることも。撃つべきは構造であり、個人やそのポジションではない、しかしそれを撃つのは、行為の帰趨について「真剣」に「思考」し「実践」する諸個人である。mojimojiさんもtikani_nemuru_Mさんも、言っておられるのはそういうこと。それはそれで、スターリニズムパターナリズムと隣接する話ではある。私の思想的立場が永遠の嘘を永遠の嘘として時に是認するように。いずれ改めて書くつもりだが、文化とは永遠の嘘の最たるもので、しかしそれは絶対に必要だから。

「尊厳」と「自由」で矛盾してるよ


by ASIAN KUNG-FU GENERATION 特に深い意味はない。


直接的暴力のみが暴力だと思ってました。 - halt.

在特会は悪くない、ということになりました。 - halt.

僕が差別と戦って、それで暴力が無くなりますか? - halt.

クズも馬鹿もお互い様 - 地下生活者の手遊び


佐藤亜紀氏が『終結宣言』で「偏見は人を殺す」と繰り返しているのを拝見したとき、この際なので「もちろん偏見は人を殺すが、偏見が人を殺すたびに表現の自由を制限していてはきりがない」とはっきり書こうかと思ったが、やめた。色々な意味で火に油だ。大惨事だ。――hokusyuさんが言われるところの<あること>とは、つまりそのように言い切ることなのだが。そしてmojimojiさんが指摘した「ご都合主義」もまた、そのことだった。

結局のところ、このような誤謬は「表現の自由」至上主義者がなんとか<あること>を回避しようとしているために起こるわけだが、そのことによって彼らがどんどんドグマの中にとらわれているのは実に皮肉といわざるをえない。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091008/p1


なぜ「きりがない」かと言えば、当然、欧州の「実例」を挙げるまでもなく、こと性差別と性犯罪については、この国にあっては、昨日も今日も明日も明後日も、100年前もそして100年後も、毎日のように偏見は人を殺しているので、偏見が人を殺すたびに表現の自由が制限されるなら、まったくもって際限がないし果てしがない。結局、人類社会の達成である表現の自由とその価値は骨抜きにされる。


いや、際限がないものでも果てしがないものでもないか。こと性差別と性犯罪について偏見が人を殺すことが問題なら、この国にあっては差別的な性表現を一律規制し、つまり差別的な性表現と差別的でない性表現を峻別のうえ(誰が峻別するのかは知らん)前者を規制し、ポルノは一切規制し、いや差別的なポルノと差別的でないポルノを峻別のうえ差別的なポルノを規制し(「差別的でないポルノ」というのは端的に語義矛盾と私は思うが)、大島渚若松孝二神代辰巳田中登も、もちろん川端も谷崎も源氏物語も国が責任持って発禁にし、結局のところ峻別は困難なので市場から性表現と性表現に類する表現を一掃すれば、昨日や今日のことはもはや取り返しがつかないが、明日明後日偏見が人を殺すことは幾許か食い止められるだろう。――んなわきゃない。


別に私は投げやりになっているわけではない。なお、念の為に明記しておくと、佐藤氏はそういう話をしていたのではもちろんない。


なぜ「んなわきゃない」かというと、偏見の醸成は表象とその商業的流通をのみもってされるものではない。野宿者に対する差別的な表現ならびに表象はこの国の市場では事実上自粛されている。少なくともそのような表現ならびに表象はbroadcastした際に社会的な非難は免れない。にもかかわらず、昨日も今日も明日も明後日も、野宿者は襲撃され時に殺される。青少年に偏見を植え付けているのは、親であり、社会であり、級友であり、この国の政治であり、ひいては経団連である――とまで言うと亀井静香と同類になるが。


そして、自粛と自重の結果、野宿者という表象が商業的に流通する表現から一掃される。差別的な表現に対する社会の非難の結果表象から消えた野宿者は、しかし現実に存在し、そして今日も明日も明後日も襲撃され時に殺される。それが社会の含意であり、いつだって社会はそのような二枚腰としてある。社会が要請する表象におけるスポイルと、下部構造において社会が維持する差別は、同じことの裏表であり、結託する「永遠の嘘」でもある。


「偏見は人を殺す」という命題がレトリックとは私は思わない。つまり、それは差別の何であるかを指し示す記述である。ただし「偏見は人を殺すから表現規制致し方なし」という文字列は無理筋と言うほかない。法理においても、現実問題としても。しかし、「偏見は人を殺す」という命題がレトリックとは私は思わない。フォークナーの『八月の光』ではないが、差別とは、殺された人がいるとき、特定個人を下手人として裁くことのできない現象のことを指し示す概念であるから。『サンクチュアリ』然り、フォークナーが描き出したその現象は修辞を駆使して文学として切り取られた一枚の美しい画ではたしてあったか。フォークナーにおいてはそうであったかも知れないが――私はここで中上健次のことを思い出す。


佐藤氏が引いた欧州の例では、また野宿者襲撃についても、人を殺した下手人があって、彼らは法に則り裁かれる。しかし、彼らに野宿者を、あるいはムスリム女性を殺させた偏見がどのように醸成されたか、それは社会が社会を名乗る限り、社会の課題としてある。文学の問題ではない。しかし、少数者の小さき声でもある文学は私たちにその在処を指し示してみせる。文学にはそのような機能もある。


人の死に際して、特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象を、そのように規定するのは、あくまで現在の日本国の法である。そのような現在の法規定にまがりなりにも合意することは、その法規定が及ぶことのない、人の死に際して特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象を、どのように処置するか――ということでもある。言い換えるなら、特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象による人の死を、法理の外側で、社会はいかに贖うかということ。


法規定においてそれを贖うなら、欧米のように、ヘイトクライムを厳罰化したり、ヘイトスピーチを規制することになる。しかし、人類社会の達成である表現の自由とその価値を守らんとする私たちは、法理の外側でそれを贖うことを選択した。そして、特定個人を下手人として裁くことのできない差別という現象による人の死は、スルーと無視と不可視化によって贖われた。「そのような問題は公共の課題ではない」と。すなわち、現在の日本国における法規定とその範疇の確認である。


あるいは「その死は本当に差別という現象がもたらした死なのか?」「偏見は人を殺すという命題はレトリックではないか」「この文章をプリントアウトして病院へ行くと楽になると思います。差別されて死ぬのは単にメンヘルの症状なので長く続けると人生を毀損します。まずはカウンセリングを受けてみてください。楽になり、人生豊かになりますよ」という際限なきダメ出しである。


挙句の果てに、昨日も今日も明日も明後日も100年前も100年後も偏見が人を殺すだろう「現実」の確認である。かくて「偏見は人を殺す」という命題は骨抜きにされ、人を殺す偏見の存在と偏見を醸成する無数のファクターに対する批判的認識もまた、骨抜きにされる。少なくとも、公共の課題とはされない。


公共が課題としてあるとき、法規定の及ぶところと及ばないところの線引きは社会合意の要としてある。すなわち、法規定の範疇の画定それ自体が、市民合意された社会を盾とした、法という暴力ひいてはその執行者との取引とその結果としてある。むろん、その取引は常に暫定的である。線引きは常に揺れ動き、恣意的であり、現実の力学に容易く左右される。「例外状態」をその極限として、シュミットは論じた。


市民合意を前提とした社会の概念は、法という暴力とその執行者が手にする「秩序」という正統性の矛に対して、法規定の範疇の線引きをめぐって取引するための正統性の盾としてある。――思想的に、リバタリアンならそのようには考えないだろうと思う。しかし、当然これは自己批判を込めて言うが、自業自得というか、自らが目を切ってきたものから復讐されるというか、このインターネットにおける規制論の台頭とはそういうことでもある。


harutabeさんのエントリでブックマークコメントが引用されているKIM625さんは、以前、私のエントリに対して次のようにコメントしていた。

KIM625  問題はいつまでたっても是正されない差別があること。だから強い言葉で勧告もされる。/たぶん、まだまだ続くお話。/そろそろsk-44氏の解決案も読んでみたい。まさか現状維持ではすまんだろう。/分割線入れた。

はてなブックマーク - 「個人の尊厳」の贖い - 地を這う難破船


「解決案」ね。そうですね、「現状維持ではすまん」のであるからして、日本中の男性が私のようにポルノを一切必要とせず、ウクライナ21と屠殺解体映像とプラネットアースをズリネタに用いるようになればいいのではないですか。日本中の男性がウクライナ21と食肉処理場の資料映像でマスターベーションするようになれば、女性も男性の欲望に対して「なにそれこわい」と恐怖を覚えることはなくなるだろうし、そもそもズリネタとしてポルノが要請されることもなくなり、需要の壊滅的激減の結果公的に流通することもなくなるでしょう。牛や豚の人権を云々する人も流石にいないだろうし。繰り返すが私は投げやりになっているのではない。


要するに「解決案」などないということ。東京都青少年問題協議会という電波の巣窟ではそのようなものが想定されそれについて「建設的な」議論が交わされているようですが。「解決案」というのは官僚ひいては官憲の発想です。この期に及んで「解決案」ですか、と私が些か呆れたことは事実です。


なぜ呆れたかといえば、「解決案」などないというのはこういうこと。日本中の男性がウクライナ21と屠殺解体とプラネットアースで抜くようになった暁には、それらはポルノと措定され、プラネットアースはこのうえなく猥褻な視聴者の劣情を刺激する有害番組に認定され、ウクライナ21は素人のハメ撮り動画と同程度に規制され、屠殺解体される牛や豚に対する性的視線と共に食肉産業従事者はいっそう差別されることになる。


プラネットアースをポルノとして規制し、ウクライナ21を素人のハメ撮り動画として規制し、食肉産業をいっそう「世間様」から峻別するのは、当然、お国の官憲です。別に出来の悪いSFを述べているわけではない。ズリネタはズリネタとして公に認知された以上ポルノとして有害映像としてお上に規制されるものです。「秩序」の矛を振りかざす法という暴力は、ひいてはその執行者は、その正統性においてポルノの「有害」を根拠に規制する。それがズリネタとして共有される以上、プラネットアースも食肉処理場の資料映像も「ポルノ」です。お上においては。


対して、市民合意を前提とした社会の概念が、法規定の恣意を掣肘する常なる線引きをめぐる取引のための正統性の盾として掲げられる。しかし。


斯様に理論的にも循環し現実にもいたちごっこである以上、そのグルグル回る暴力と暴力の円環を――『ちびくろサンボ』ではないが――バターになってしまう前に断ち切り、切断するのは、「私」の主体的な判断であり、なればこそ「われわれは個々の暴力について、「不断の思考と実践」をおいていくしかない」というのが、たとえばhokusyuさんの言っておられることです。要するに、それが個別利害ゆえのことであれ正義の問題と考えてのことであれ、理論的な循環と現実におけるいたちごっこに棹差したいなら、私たちには必然的に「決断」を伴う判断が要請されるということ。


むろん、それは下手をすれば「例外状態」を容易く召喚してシュミットになりかねないし、私自身は「神的暴力」などそもそも信じない。暴力は常にこの社会において法と秩序という擬制を纏う。その擬制を剥ぎ取ることが暴力それ自体に可能か、と問うなら、私は新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』を思い出して涼とする。いたちごっこに棹差そうとしたところで、「私」の「決断」を伴う主体的な判断は、暴力と暴力の円環に飲み込まれてバターとなるだけのこと。そしてそのような断念の場所から「不断の思考と実践」は問われる、という話ではある。


別の言い方をするなら。自らがバターの一部でしかないことを認識しそこから抜け出したいと願ったとき、グルグル回る暴力と暴力の円環に棹差し断ち切る「私」の主体的な「決断」を伴う判断と、それに伴う「不断の思考と実践」が要請されるということ。それもまた、果てなきバターの流れの只中で心というか人間の自覚らしきものを持った不幸なバターの一部としてあえなくもがいた挙句――バターから抜け出すことなどそもそも不可能である以上――いずれ溺死する顛末にすぎないかも知れないが、その「もがく」ことに価値を見出さないで何に価値を見出すのかと私は思う。要するに、端からバターな私はいいかげん現在の商売から足を洗いたいと考えているというのが個人的な事情だが。どこにも出口はないし、誰の願いもかなわないにせよ。


斯様に「不断の思考と実践」とは、「決断」を伴う「貴方」に対する主体的な判断の要請ではあるが、「私のするように決断し判断せよ」ということでは当然ない。「私は、そして貴方はバターのままでよいのか」という問いかけと呼びかけが、根底にある。tikani_nemuru_Mさんが言われるところの「個人の尊厳」というのもそういうことなのだが。


暴力と暴力の円環というグルグル回るバターから「人間」の姿形を掘り出したのは、かつて神だった。神は死んだので、「私」の主体的な「決断」を伴う判断とそれに伴う「不断の思考と実践」が取って代わった。たとえばMidasさんが指摘するように――ここに決定的なエラーがある、というのはその通りだが、しかし、主体的な「決断」を伴う判断と「不断の思考と実践」なくして、私たちは暴力と暴力の円環というグルグル回るバターから「人間」の姿形を掘り出すことはできない。掘り出す必要はない、ということならそれで結構だし、そもそも掘り出すことはできない、というのもその通りとは思うが。


そしてそれは、グルグル回るバターのとめどなき流れから、自らを「人間」として掘り出し自他と区別せんとする常に暫定的な営為さえかなわない、ということでもある。その営為の「人間」性を、20世紀の欧州の思想家たちは延々と言挙げ肯定的に位置付けんとしてきた。シュミットもハイデッガーも、だが。


暴力と暴力の円環というグルグル回るバターから、常に暫定的に、自らを「人間」として掘り出し自他と区別するための鑿として「不断の思考と実践」はあり、その鑿は「私」が「私」という「人間」であるために、主体的な「決断」を伴う判断を下す際に振るわれる。――もちろん以上は、シュミットやハイデッガーの議論でもあり、つまるところ彼らの歴史的な轍を踏まないよう注意、ということではあるが。そして、歴史的な轍を踏まないことは、グルグル回るバターから「人間」の姿形を掘り出すことの不可能をよく承知することかも知れないが。私たちをその一部として包括し馴致する「グルグル回るバター」を「神話的暴力」とベンヤミンは定義した。


「主体的に参加せよ」というメッセージの矛盾について指摘していたのはid:z0racさんだったと思うが、サルトルにおいては主体性は「参加」によってしか贖われないので。だから私はサルトル好かんのだが、とはいえ「私は、そして貴方はバターのままでよいのか」という問いかけと呼びかけが「大きなお世話」であるなら、暴力と暴力の円環というグルグル回るバターのとめどなき流れの中で、常に暫定的に、自らを「人間」として掘り出し自他と区別せんとする誰かの営為の足を引っ張ることもまた「大きなお世話」ではある。z0racさんがそうしているということではもちろんない。


畢竟それがもがいているだけのことにすぎないとしても、そのもがく姿を傍から指して笑うなら、あるいは引いてみせるなら、私たちは「人間」であろうとすることをいいかげん諦めてバターの一部としてグルグル回る暴力と暴力の円環を律儀に構成すればよい。心など要らないし要請されない。私は、佐藤氏も、またtikani_nemuru_Mさんも、このような問題意識と思ってきたし、だから5ヶ月に亘り延々とやってきた。


なお、「決断」を伴う判断の問題とはmojimojiさんは考えておられない、ので、hokusyuさん自身も強調されているように、mojimojiさんの見解はまた違う。その「決断」を伴う判断は、たとえば昨日も今日も明日も明後日も偏見が人を殺しているとき、法規定の範疇の線引きをめぐって取引した結果として、私たちの手元に残されている、パンドラの箱でもある。パンドラの箱を開けたときに最後に残るもの。それは全権委任法の成立かも知れないし、私の頭には『ザ・ワールド・イズ・マイン』のあの終幕が、どうしても浮かぶ。いずれにせよ、「決断」を伴う判断から「解決案」という発想はもっとも遠い。その「解決案」という発想こそ官僚主義の最たるものです。正直、KIM625さんが何をどこまで考えておられるのか私にはわからない。


さて。欧州の「実例」を挙げるまでもなく、こと性差別と性犯罪については、この国にあっては、昨日も今日も明日も明後日も、100年前もそして100年後も、毎日のように偏見は人を殺しているので、偏見が人を殺すたびに表現の自由が制限されるなら、まったくもって際限がないし果てしがない。そして、暴力を憎む人が偏見を憎まないことの理由は私はわからない。


私は三島由紀夫ではないが「生まれてから一度も暴力に反対したことがない」し、三島由紀夫が論じたように、結局のところ問題は暴力の正統性であってその正統性を国家が体現し独占しているから刑法175がある。そのことに棹差すなら「決断」を伴う判断を私たちは免れないし、『さまよう刃』ではないが、個別の自力救済に対しても「決断」を伴う判断に際して「不断の思考と実践」を免れはしない。――「殺す」ことを私たちが選ばないなら。「殺すってのは倫理じゃねえ……覚悟だ」というのは『ザ・ワールド・イズ・マイン』で色々な意味で天晴れな死に様を遂げる警察官僚が切った啖呵でしたが。つまり、殺すなら考える必要はない。不断の思考も実践も要らない。


そして、近代市民社会は公共における偏見のbroadcastを否として合意され、その合意において法とその執行者は公正を旨とし市民によって使役されている、すなわちその暴力の正統性が贖われている、という建前になっている。この建前において、ヘイトスピーチ規制は法規定の範疇の線引き次第であり、線引きをめぐる「決断」を伴う判断を市民は免れない。


むろん、この国に限らず、歴史的にも警察機構とはそういうものではない。だから憲法理念の再三の確認は肝要だが、しかし、法の執行者における不公正は暴力の正統性について私たちに「不断の思考と実践」を喚起する契機でもある。それは、法規定の範疇の線引きをめぐる取引のため要請される「決断」を伴う判断を私たちにおいて涵養するプロセスでもある。


昨日も今日も明日も明後日も偏見が人を殺していることについて貴方はどう考えるか、という問いを、表現の自由について論じる際に持ち出されたとき、私はこう答えるだろう。人類社会の達成であるその価値ゆえに、表現の自由を「偏見が人を殺す」ことにおいて法規定しないなら、それは社会の課題である、社会合意において法規定の範疇をそのように線引きした社会の、と。それもまた「決断」を伴う判断ではある。そしてもちろん「偏見が人を殺す」ことに対する「不断の思考と実践」を伴う判断でもある。


「決断」を伴う判断を下すのは、合意された社会の構成員である貴方であり、私である。社会の課題であることに対する絶望ゆえに法規定の範疇にそれを含める――「決断」を伴う判断が既にあったことを私たちは知っている。なれば、私たちはその絶望を雪ぐような「決断」を伴う判断に否応なく迫られる。「不断の思考と実践」の結果、法規定の範疇に「偏見は人を殺す」という命題を含めないとするなら。それは、単なる日本国における法規定とその範疇の確認をもってされることではない。つまり、必ずしも法理に限定された問題ではない。


つい先日気が付いたのだが。

ブログで性犯罪被害者が声をあげたエントリのコメント欄に涌きだした連中*1の反応を思い起こしてみるに、「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対して腰がめっぽう重い親方日の丸と、コメント欄に涌いて出た連中は共犯関係にあるのではにゃーかと思ったんでにゃ。

おサルの世間の真正性 - 地下生活者の手遊び


とtikani_nemuru_Mさんが言われるところの「ブログで性犯罪被害者が声をあげたエントリ」のブログ主氏が私のエントリにコメントを付していた。

manysided  めんどくさ 表現の自由はもともと民主主義達成の為につくられた。それが逆ベクトルに働いているなら無意味だということに気付かない人に何言ってもムダ。ムダムダムダ。好きにすれば。巻き込まないでくださいね。

はてなブックマーク - 生き延びるためのペテン - 地を這う難破船


表現の自由はもともと民主主義達成の為につくられた。それが逆ベクトルに働いているなら無意味」という話は措き(というか散々書いた)、一読して思ったことは、「巻き込まないでください」も何も、そちらのブログのことは佐藤氏が言挙げなければ私は徹頭徹尾スルーするつもりだったのだが、ということだった。「性犯罪被害者が声をあげた」ことは問題ではないし「コメント欄に涌きだした連中の反応」もまた問題ではない、問題として存在しない、と。「好きにする」というのはそういうこと。「声」の存在を、またその「声」が封じられようとすることを、一切合財ひっくるめて、無視黙殺すること。かくて社会はつつがなく運行する。グルグル回るバターは磐石。あるいはその回転の速度をいっそう増して、改めて壮大な惨事を引き起こすだろう。


「徹頭徹尾スルー」して論じられる人類社会の達成である表現の自由とその価値。ひいては自由民主主義とその価値。その「ご都合主義」に気が付くことは殊更「不断の思考と実践」を必要とすることではない。問題は、それを問題と考えない人、あるいは考えたくない人にとっては存在しない。それを問題と考えないための目隠しに知的存在である人間は事欠かない。ジジェク先生もそんなことを言っていたような言っていなかったような。

「法に逆らうな、売春婦」


――出典はクリント・イーストウッドの映画『チェンジリング』。映画館でこの台詞を聞いたとき、まことにイーストウッドだなと思った。脚本を彼が書いていないことはもちろん知っている。


排外主義それ自体が暴力です、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。


つまり、そういうことなのだが。そして、そういうことであることがわからない人は、どれだけ説明してもわからないのかも知れないとは思う。以下、mojimojiさんに対する批判ではない。


イーストウッドの映画には、毎度のごとく、法の側、秩序の側に立つ者であることを利用して、他者を抑圧し、服従させて、そのことに快楽を覚える、自身の所持する権力を自身の所持する「男」としての力と混同するサディストが登場する。あるいは偏見を公然と詳らかにする、自らを法を遵守する市民と規定する者が登場する。その、カテゴリーの意図的な反転はイーストウッド監督作の面白さであり、それはあたかも『ダーティーハリー』において彼自身が被った非難に対する30年を掛けたアンサーのようでもある。


前者の典型が『許されざる者』における、あるいは『目撃』におけるジーン・ハックマンであり、そして『チェンジリング』におけるジェフリー・ドノヴァン演じるロサンゼルス市警察の警部であり、コルム・フィオール演じる市警本部長であり、そしてロサンゼルス市長であり、またジェイソン・バトラー・ハーナー演じる連続少年誘拐殺人犯、であり、エイミー・ライアン演じる「売春婦」に向かってタイトルの台詞を吐く精神病院の医師である。彼の役目は、警部の意を受けて、警察組織にとって都合の悪い――「従順」でない――「女」を「責任能力」「告訴能力」無しとして「精神病院」に監禁虐待し服従させること。


そのような「男たちの健全な社会」の犬である、権力に組み込まれた泥人形の彼は、法と精神医学を背負い理性的な顔をして、「責任能力」「告訴能力」の「付与」を意味する退院を条件に、アンジェリーナ・ジョリー演じるクリスティンに対して服従を意味する法的書類への署名を強要し、病院内で「反抗」する「売春婦」だった女に対して「法に逆らうな」と宣う。


電話交換手の職を持ち女手ひとつで息子を育てる「堅気」であったクリスティンは、「売春婦」であった彼女と、抑圧と服従に抗する者として「連帯」する。そしてジョン・マルコヴィッチ演じる牧師らと共に、ロサンゼルス市警察が体現する、法と秩序という正統性のもと権力を行使し「責任能力」「告訴能力」の有無において他者の口を塞ぎ「反抗」の意思を奪おうとする、健全で理性的な男たちが構成する社会の暴力と闘う。


はてなブックマーク経由で拝見した記事があった。


はてなブックマーク - 被害女性に知的障害、裁判所「告訴能力なし」 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


「告訴能力」か。法とそれに基づく秩序とは、国家の正統性において贖われる、よく訓練された暴力以外の何物でもなく、問題は、少なくとも我が国において、1920年代のロサンゼルス市警と同程度に、よく訓練された暴力の執行とリンチの執行の区別はなんら明瞭でない。国家において市民合意が欠如するなら、それは――『HERO』で木村拓哉が体現したように――執行者の意識の問題でしかない。


木村拓哉演じる久利生検事は梅沢富美男演じる刑事に言う――「俺たちは人を殺せるんだよ。ほんのちょっとの、保身や欺瞞で。そういう力を俺たちは持ってるんだよ」。それが、法の執行者であることの、すなわち秋霜烈日のバッジを身に付けることの、重い責務であると。正しくエリート意識と思うが――然らば、執行者の意識が「他者を抑圧し、服従させて、そのことに快楽を覚える、自身の所持する権力を自身の所持する「男」としての力と混同するサディスト」のそれであったなら。それは――国家における市民合意の欠如をゆえとすることだろうか。秋霜烈日の中心には、紅色の旭日があり、菊の白い花弁がある。


そもそも、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性は、ひいてはその正統性を贖うものとしてある国家は、よく訓練された暴力という最大の権力に組み込まれた泥人形を際限なく生産する装置でしか、じつのところ、ない。そこには日の丸がはためいている。だからこそ、私たちは、クリスティンがそうしたように、「法に逆らうな、売春婦」と宣う泥人形の取り澄ました顔から日の丸を奪還する必要がある。


奪還した日の丸を、焼き捨てるか、掲げ直すか、それはその後の話。まずは、権力の行使による他者への抑圧と恫喝と懲罰と服従の要求という蹂躙の快楽を社会性の行使と錯覚する、この世界にありふれた泥人形から日の丸を剥奪することが先決。クリスティンが映画の最後に口にする「hope」とはそのことであり、その言葉と、彼女の堂々たる笑顔に、かつてロサンゼルス市警で警部の部下であった、少なくともサディストではない刑事は、シャッポを脱いで敬意と共に彼女を見送る。


逮捕され法廷に引きずり出された連続少年誘拐殺人犯は、常に彼の顔に張り付いている卑屈な笑みを浮かべて、傍聴席のクリスティンに言う。警察に逆らうなんてすごいや、と。そして彼は哀れに吊るされる。法とそれに基づく秩序という、社会におけるこのうえない正統性を纏った、国家が贖うよく訓練された暴力において。


連続少年誘拐殺人犯に脅され否応なく協力させられていたいとこの少年は、自分も加担した凄惨な暴力の記憶に耐え切れなくなって刑事に告白し、かつて自分が埋めた少年たちの骨を掘り返しながら泣き崩れる。前述の刑事は「もういいんだ」と慟哭する少年の頭を抑える。そして、クリスティンを精神病院へと収容させた警部は、議会の公聴会で弾劾されその地位を奪われたとき、空虚で神妙な表情を見せる。俺は何を間違えたのだろうか、俺は何か間違っていたのだろうか、と。


クリスティンに対して「母親」としての「責任」を問うてみせた法と秩序の執行者は、自身の錯誤について考えるが、わからない。彼は、それが社会における正統な行為と権力の行使を法と秩序の名においてガラガラポンしていたことの結果であったことも、自身が権力に組み込まれたありふれた泥人形であることも、気が付いていないし、たぶん警察を追われてなお死ぬまで気が付かない。


それが、理性的な男たちが構成する社会で健全に生きるということであり、権力の行使による他者への抑圧と恫喝と懲罰と服従の要求という蹂躙の快楽を社会性の行使と錯覚するこの世界で人が文字通り公私混同して生きるということでもある。警察組織で生きるということは、かつて概ねそういうことでもあった。現在進行形かも知れないが。


泥人形にも心はあるのだが、それは連続少年誘拐殺人犯の卑屈な笑顔と同様、彼の顔に常に張り付いている歪で、そして空虚な表情が表すものでしかない。ジェフリー・ドノヴァンの巧さは言うまでもなく、よく知られた早撮りによって、この歪な、しかし空虚で未決定な表情を捉えるのが、カメラの背後に回った練達イーストウッドである。


イーストウッドの映画はいつもそうなのだが――ここに描かれるのは、法と秩序の側に立つ者も、法と秩序において裁かれる連続少年誘拐殺人犯も、コインの裏表の同じ救われない泥人形であるということ。そして、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性は、ひいてはその正統性を贖うものとしてある国家は、よく訓練された暴力という最大の権力に組み込まれた泥人形を際限なく生産する装置でしかないということ。


芥川の箴言ではないが――「わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。」映画における連続少年誘拐殺人犯の哀れな死は、そのことを指し示している。「無数の種子を宿している、大きい地面」の存在を。「一本の木の枯れることはきわめて区々たる問題に過ぎない」。その大きい地面を、蹂躙の構造と呼ぶ。 


権力を自明とし服従と従順を是とする彼らは「反抗」など思いもしないし、自身の所持する権力による他者への抑圧と恫喝と懲罰の快楽を、社会性の現れと錯覚している。いや、それは錯覚ではない。「大きい地面」としての蹂躙の構造があるとき、蹂躙の快楽は、社会的な快楽としてある。あるいは蹂躙の享楽は、社会的な享楽としてある。そこに「無数の種子」が宿る。まことに「一本の木の枯れることはきわめて区々たる問題に過ぎない」。21世紀の我が国の法と秩序の執行者は、1920年代のロサンゼルス市警のことを云々できたものではさしてない。


この世界は、国家の正統性において贖われたよく訓練された暴力という最大の権力に組み込まれた泥人形たちによって、殺し殺され、支配し支配され、抑圧し抑圧され、恫喝し恫喝され、懲罰を加え加えられ、服従を迫り迫られ、蹂躙し蹂躙される、そしてそのことを社会的な快楽として涵養する、暴力の円環そのものとしてある。暴力の円環から生じた泥人形はやがて哀れに吊るされ、暴力の円環という無へと飲み込まれていく。


この世界はリンチという文化――剥き出しの暴力を陶冶する擬制によって成り立っている。人は、暴力の円環から生じて、暴力の天秤の中で生き、暴力の天秤の傾きにおいて時に殺し殺され蹂躙し蹂躙され、その社会的な快楽を大なり小なり我が物とし、暴力の円環という無へと飲み込まれていく。そこに救いはない。個人としての救いも、人格も、尊厳も。私は蹂躙を享楽とする理性的な男なので言うが――そのような健全なる社会を作ったのは、理性的な男たちだろう。


斯様な暴力の円環から脱出する道はあるか。それを体現するのが、監督イーストウッドの映画における俳優イーストウッド自身であり、『チェンジリング』におけるアンジェリーナ・ジョリーであり、エイミー・ライアン演じる「法に逆らう」「売春婦」であり、そして何よりも、おそらくはこのまま個人としての救いも人格も尊厳もなく暴力の円環へと回収されるだろう連続少年誘拐殺人の「共犯」の哀れな少年の慟哭に対して、束の間刑事が差し出した掌だろう。


むろん――映画の結部においてアンジェリーナ・ジョリーの「希望」という言葉にシャッポを脱いで敬意を表する刑事が、慟哭する少年の頭に添える掌と、かつて暴力の天秤の傾きにおいて否応なく自分が埋めた少年たちの骨を掘り返し、そしてまた暴力の天秤の傾きにおいて刑務所へと送られる救われない少年の泣き崩れる姿は、紙一重でしかない。


その紙一重において、ヒトが人間であること、人間が人間としてあること、個人が個人として尊厳を持ち人格的に自律することを、暴力の円環という「わたしを造り出した」「無数の種子を宿している、大きい地面」に対する否として、人間の意思の問題として、すなわち蹂躙の構造に基づく社会的な快楽に耽溺しないこととして、過酷なまでに問うのが、監督イーストウッドである。そしてそのくせ尊厳を剥奪された「犠牲者」という表象に萌えているのもまた監督イーストウッドなのだが。


つまり、剥奪された尊厳の贖いという等価交換とその不可能が、イーストウッドの認識の根底にはあり、彼の映画は「等価交換とその不可能」がもたらす人間の悲しい宿命を多く結末とする。なぜか。「蹂躙の構造に基づく社会的な快楽に耽溺すること」もまた「等価交換とその不可能」がもたらす人間の必然であるから。だからこそ意思が問われる。過酷なまでに。


暴力の円環においてあらかじめ剥奪された尊厳は、別のもので贖われる。その「別のもの」が、暴力の天秤を揺り動かし、そして結局は暴力の円環を補完する。概ね人は死ぬが、そして概ねその死に救いも人格も尊厳もないが、一切は「わたしを造り出した」暴力の円環という無に回収されるということでしかない。「大きい地面」へと。そして種は撒かれる。決して均衡することのない暴力の天秤がまた揺り動かされる。


その死に救いや人格のようなものがあるのなら、それこそが個人の尊厳であり、その顛末を『センチメンタル・アドベンチャー』や『マディソン郡の橋』や『ミリオンダラー・ベイビー』や『グラン・トリノ』や硫黄島二部作で彼は描く。しかしそれは享楽だろうと、サディストの私は思うが。


つまり、問題はそういうことなのだが。「法を遵守する市民」という概念の政治性というのも、そういうこと。貴方が法を遵守する市民であることは、同時に「法に逆らうな、売春婦」という、法とそれに基づく秩序の執行者による確信犯的なリンチを尻押ししていることでもある。これは構造的問題。そしてこの国での現在進行形での問題。蹂躙の問題とは、そういう問題。そもそも、法とそれに基づく秩序の執行者においてカテゴリー措定がリンチの格好の口実であり彼らがそれを確信犯的に利用していることの問題です。


ガザ侵攻の際に、国際法の条文を云々する議論があったので、「立件されない暴力は犯罪ではない」というのは何も言っていない、と書いた。撤回し訂正する。「立件されない暴力は犯罪ではない」という言明は「何も言っていない」のではない。「いじめ」やリンチやそれを引き起こす蹂躙の構造に対する価値中立を偽装した相対化の方便を言っている。ひいては国家とその原理的問題を相対化している。かくて話は無限後退する。無限後退の結果、「法に逆らうな、売春婦」というリンチの口実は前進する。思えば、そうしてパレスチナも国際社会の非難を浴びたのだった。「法に逆らうな、テロリスト」と。


そもそも――「暴力」とは価値中立な言葉ではない。そして「犯罪」が立件の問題なら形式論にも程がある。ま、『ミスティック・リバー』ではないが、立件されない暴力は犯罪ではないので、暴力とその帰結は一切合切川に沈めるに限る。生者はその円環に蓋した鍵を手に「法を遵守する市民」として生きる。いずれ暴力の天秤に復讐されるだろうが、そのときはそれもまた川に沈めてしまえばよい。すべては法の外側で。


殴られたのはネットで有名な日本人だった - キリンが逆立ちしたピアス


私が「はてなサヨク」にカテゴライズされていた。「反日シナ人」と言われた気分(´・ω・`)。したがって「はてサ上等」と言うべきところ。しかし、私が「保守主義者」と再三名乗って言わんとしたことは「そういうことではない」ということです。以下、font-daさんに対する批判ではない。


反日」を措定する者がいる。措定の背景には「日本」という想像の共同体がある。だから、そのような想像の共同体を脱構築する。その理路はあります。しかし、排外主義の問題は、想像の共同体を脱構築することによって掣肘されるものではない。なぜなら、つまり問題は上に述べてきたようなことなので。よく訓練された暴力という擬制としてのリンチがこの国にあって法を措定することの問題です。そのとき、「国民」「非国民」とカテゴリー措定して「非国民」を物理的に排除しようとする人々があることは、とんでもなく問題。


「非国民」というカテゴリー措定がされるとき、日の丸を手にした者たちのリンチが引き起こされる。そのとき尊厳などという観念は木の葉のごとく吹っ飛ぶ。そもそも尊厳の観念は木の葉のようなもので、だから私たちはその木の葉を平気で踏む。木の葉を踏み踏まれることをして社会性の涵養と私たちの社会では呼んでいる。「蹂躙の構造に基づく社会的な快楽に耽溺すること」がそのようなことであるとき、木の葉を丁重に扱うことが、この社会にあっては、どのように担保されるか。


日の丸がレイシストの尻押しをしていること、法とそれに基づく秩序の観念がレイシストの尻押しをしていること。有形力の行使を伴うリンチを背景にそのことが問われているとき、日の丸の政治性を括弧入れすることや、法治の価値を説くことは、尻押しの問題を棚上げするためにされる物言いでしかない。――私は保守主義者ですが。


nationの脱構築は、もちろん結構なことですが、排外主義の掣肘のためにされることではない。効き目もない。法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家に対する負のカテゴリーを措定すること――それ自体がリンチそのもので、集団での有形力の行使のトリガーたりうる。だから、そのような「負のカテゴリー」を引き受けることに「覚悟」が問われる。そのこと自体がひっくるめて問題。


nationを脱構築して「法に逆らうな、売春婦」という物言いは減るか、あるいは「脱構築」されるか。否、です。在特会にあっては、排外主義の問題と言うよりも、「法に逆らうな、売春婦」という、蹂躙の構造に基づく社会的な快楽の帰結と私は思っている。その社会的な快楽を、文明は数千年かけて洗練させてきた。結果、法を遵守する市民は政治概念たりえなくなる。ユートピアなのか、びっくりするほどディストピアなのか。保守主義者としては慶賀すべきことか、頭が痛いことか。「後衛の位置から」という話はないものではないですが。


「覚悟」が問われることそれ自体が問題。そのとき、レイシストが、あるいは法を遵守する市民が措定する「負のカテゴリー」を引き受けること。その「覚悟」は、何に対して、また誰に対して捧げられるべきものか。――そのような話をfont-daさんはしておられたのだろうと私は思っている。だから、問題は、「ウヨ」「サヨ」を措定する法を遵守する市民としての貴方。そして私。


「暴力反対」と「反日上等」は全然違う。日の丸を手にしているのは、そして国家の法に逆らう者をカテゴリー措定した挙句眼前の暴力に対して「どっちもどっち」と鼻をつまんでいるのは、市民たる私であり、貴方。「法に逆らうな、売春婦」「法に逆らうな、テロリスト」「法に逆らうな、不法入国者」「法に逆らうな、反日シナ人」「法に逆らうな、サヨクとウヨク」という社会的な快楽の行使そのものとしての物言いを尻押ししているのは、法を遵守する市民と自らを規定し、斯様な自己規定を他者に対して「法に逆らうな」と強要し、そしてそのことの露骨な政治性を臆面もなく否定し、挙句日本人として日の丸に敬意を払い天皇を敬愛することの正統性を説く、そんな私であり、貴方。


建前は建前として(たとえば刑法175条を擁する――この国を法治国家と本気で思っている人はまさかいないと思うが)、法治国家の建前に同意することはむろん構わない。猥褻物の頒布は違法だから検挙された側にも同情できない、とかわざわざ口にする人があったら私は自主的な公安シンパと判断するが、そしてそれが「法を遵守する市民」と自らを規定していたなら笑うが、そして畢竟市民とはそういうもので、法を遵守する市民であることにおいて平気で他人や身内を密告するものだが。だからショーン・ペンは罪を川に沈める。


しかし、それが、「国民」「非国民」とカテゴリー措定して「非国民」を物理的に排除しようとする人々の剥き出しの暴力に対して「暴力反対不法入国反対日本の法は守るべき」なら、そんなのは結果的にレイシストの尻押しでしかないし、悪党の最後の砦を守ってやっているにすぎない。むろん、そのようにして、悪党の砦は法を遵守する市民によって十重二重に取り巻かれて守られているのだが、砦に籠る悪党にその意識があって市民の側にその意識がないなら困る。それでは「善良な市民」そのものではないか。


これは、よく訓練された暴力という擬制としてのリンチがこの国にあって法を措定することの問題。nationの脱構築の問題では第一義的にはないし、そもそも憲法理念が歴史的な法の措定と整合していないことの問題。よって、自由民主主義政体の日本にあって、国家の正統性は事実性の問題でしかない。国家の正統性を歴史伝統に拠るのが保守、とは私は言いたくない。


日の丸を手にしているのは、そして自覚なきままその柄で誰かに懲罰を加えているのは、匿名性に基づく多数者の暴力を潜在的に行使しているのは、ひいてはそれらが顕在化した姿としてのリンチ上等の現在の在特会をあらしめているのは、私であり、貴方。よく訓練された暴力という擬制としてのリンチが法を措定する「先進民主主義国」にあって、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家において、レイシストのリンチを止揚しようとする――法治国家の建前を言祝ぐとはそういうことで、そのような無限後退の理路に事欠かないのも、自由と寛容を自称する社会の姿です。等身大の。


他人事を自分事にすることは、法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家に対する措定された負のカテゴリーを脱構築することではなく、また引き受けることでもなく、カテゴリーを撤廃しようとすること。カテゴリーを撤廃して残るのが個人ということ。個人に依拠するということ。「反日上等」ってのはそういうこと。もちろんそれが難しいから私は保守反動だけれど。当然、それは「国民国家の解体」と要約してしまえる話ではない。


日の丸や天皇を中心とする権力のカテゴリー措定とカテゴリー間の差別に基づく分割統治と収奪によって、かつても今もこの国は成り立ち敗戦を経験してさえ繁栄してきた。この国に限らず、国家とはそういうもの。だからこそ、他人事を自分事にすることの限界についてフェミニズムは問題にしてきたと私は考えているし、それは私も同意する。しかし、他人事を自分事にすることとその限界値は、「ネットで有名な日本人」であることや、面識の有無や友情の有無や「はてなサヨク」であることの有無、つまり、カテゴリー措定の問題ではないと私は思っているし、そういうことを先のエントリで書きました。


最後に突然綺麗事を言うと。法とそれに基づく秩序という社会におけるこのうえない正統性を贖うものとしてある国家に対する措定された負のカテゴリーを撤廃することが、人類の21世紀の100年の課題だと私は思っているし、オバマの大統領就任は、そして大統領としての彼の一連の「口先」は、イスラエルアフガンetcは措き、そうしたものだった。そして何よりも、それこそが、個人に依拠するということ。それが難しい、ということを私はmojimojiさんに対して散々言ってきた気もするけれど。

リンチ上等と反日上等


絶句したので書く。


はてなブックマーク - 【左翼ボコボコ】9・27外国人参政権断固反対!東京デモ

はてなブックマーク - YouTube - 在特会・東京デモを侮辱する反日シナ人が即撃沈される!(21年9 27)

はてなブックマーク - http://news.2ch.at/news/s/news2ch24160.jpg

id:hisamatomoki これはひどい, これはひどすぎる, デモ, 社会, 在特会, 政治, 酷使様  最悪の事態にならなかったことは不幸中の幸い。/ とにかく、こういうバカなことやる連中は右も左も淘汰されるべきだけど。これだから「自称絶対正義」は。/ 日の丸を汚してるのは間違いなくこいつら

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hisamatomoki メタブクマ  参加者のところの情報(mixi)だけど、叩いていた人の何人かは警察に引きずられていったようです/ ただ、自分から挑発しにいってるところがあるからな……。最悪なのは在特会だけど、被害者にも同情できないんだよ……

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hisamatomoki これはひどい, 在特会  これさ、韓国人少年を挑発して暴力を振るわれて英雄扱いされてる在特会の約一名と何が違うの? 在特会が最悪なのは当然としても、なんだかね

はてなブックマーク - YouTube - 在特会のみんな、排外主義やめて毎日インドフェスやろう。


動画から判ることは在特会がリンチ上等であるということですが、そしてそんなことはわかりきったことなのですが、リンチに晒された人に「同情できない」理屈がどのような理屈か伺いたいところです。この世に悪の観念があるなら、リンチというのは悪そのものと私は思いますが。「リンチ上等で挑発したのだろう」というのを下衆の勘繰りと言います。そしてそのような下衆の勘繰りに突き動かされて在特会はリンチを、すなわち匿名性に基づく多数派と称した集団の暴力を繰り返している。


在特会の人々は「敵」の身元を特定しようとする。相手の身に付けている物を奪おうとする。「敵」を散々撮影しながら、自分たちがカメラを向けられると激昂する。そして大勢で一斉に襲い掛かる。すべて、「善良な市民」という匿名性のもとに、多数派と称して、集団で少数派を威嚇するために行われている。多数派に顔はなく、「善良な市民」という匿名性に顔はない。だから彼らは、少数派を威嚇するとき、自らの顔を隠そうとする。インターネットではよくある話でした。そして、これは現実の往来での話。既に閾値は越えている。


「暴力上等」と「リンチ上等」は違います。そして現実の暴力は、概ねリンチという擬制において執行される。顔がない多数派において、「善良な市民」という匿名性において、自らの顔を隠して少数派を威嚇することが、現実の暴力の様相であるということ。これまでインターネットがそうであったように、今後は往来でそうなるでしょう。リンチ上等を隠さない連中がある限り。


そして――顔がない多数派において、「善良な市民」という匿名性において、自らの顔を隠して少数派を威嚇する現実の暴力の様相が、日本社会そのものとしてあること。そのとき、リンチ上等を隠さない連中は、嬉々として少数派を怯えさせ、暴力の行使によって口をつぐませようとするでしょう。人類史的には、この道はいつか来た道というやつですが。


「同情」とやらいう言葉に価値的な内実が仮に存在するなら(存在しないなら、つまり単なるhisamatomokiさんの感情的な放言ということなら結構)、それがどのような人でどのような行動の結果であろうとも、リンチに晒された人に対して「同情」するべきです。「自称絶対正義」ではない「正義」があるなら、リンチに晒された人に寄り添うことは「正義」の問題です。アイヒマンが吊るされることは致し方ないかも知れないがそれは「正義」の問題ではない。その錯誤の果てにイスラエルの現在がある。


そして、この日本社会は、リンチに晒された人を「同情」の問題としてしか取り扱わない。つまり「正義」などない。ま、アドルノが言ったように、社会において実現されないのが正義ですが。なぜなら、「同情」を口にする誰しもが、潜在的なリンチの加担者だからです。それが公共の往来で有形力の行使を伴って顕在化したのが現在、ということでしかない。それは、リンチ上等を隠さない連中がある限り、当然の帰結です。そして、種はインターネットに撒かれていた。


「有形力の行使<だから>ひどいんじゃなくて、もうずっと長い間在特会は人傷つけてきたからひどいし、見過ごし続けてるわたしもあなたもひどいよ。」というある人の言葉を拝見しましたが、その通りと思う。 ジョン・ダンの「誰が為に鐘は鳴る」とは、そういうことだと私は思います。リンチに晒された人があることは、人類史において連綿と存在するリンチに晒されてきた人々の苦痛と屈辱は、その鐘は、ほかでもない、現在を生きる私たちの為に鳴らされている。それもまた、歴史を学ぶということです。


自由の問題とは、そういうことなので、「Aを選ぶのは自由だよ。ただAを選んだら差別されるだけで」などという大馬鹿な詭弁にしたり顔で頷いてみせている限り、私たちはリンチ上等を隠さない善良なる愛国者を退けることはできないでしょう。顔がない多数派という匿名性において少数派を威嚇するこの日本社会のあり方を是正することも。そこに他者はない。「同情」の問題として取り扱われることのない誰かという「他者」は。そして、そのような「他者」こそ、リンチに晒されている。昔も今も。現在進行形で。


――「反日上等」とはそういうことです。わかって批判していらしたのですよね。反日上等を批判する人がリンチ上等を許容するというのはどういうことか、保守主義者における一貫性の表れという了解で宜しいのですか。私は嫌味を言っているのではない。私も保守主義者なので、そのように考えがちな自分を知っているので、自己批判を込めて言っている。「許容していない」と仰るでしょうが、なら「被害者にも同情できない」理屈について納得のいく説明を伺いたいところです。単なる感情的な放言ということでないなら。


私はその日の夕方、宮下公園で常野さんと会った。代々木公園のインドフェスで話を聞いた。怪我をしていた。自分に怪我させた相手をパクらせたくないということだった。動画に記録されているが、身を呈して常野さんを庇う警察官に対して「なんでそいつを守るんだよ」と集団で襲い掛かっている相手が言っている。「反日シナ人」と誤解されたのなら仕方ない。仕方なくねえよ。


重傷でなかったことは偶々でしかない。身を呈する警察官があってさえ、リンチに発展した。私は三鷹でのことをこの目で見ている。まったく同様だった。あのときは大勢の警察官が動員されていたが、それでも彼らは慰安婦展の会場から出てきた人々に文字通り集団で襲い掛かった。警察官に対する「なんでそいつらを守るんだよ」という罵声と共に。怪我人が出た。


「被害者にも同情できない」? ――「同情」とやらの問題ならそうなりますかね。


これも動画に記録されているが、彼らは手にした日の丸の柄で常野さんを突いてきた。日の丸のこれ以上ない正しい使用法を見た、と常野さんは言っていた。保守主義的な愛国者としても、同意せざるをえなかった。汚すも何も、そもそも日の丸とはそういうものであり、そうした場にこそふさわしい。日の丸は、その柄で「同情できない」誰かを攻撃するためにある。「日の丸を汚してるのは間違いなくこいつら」と、「イデオロギーの左右」の別なく。 そうやって、リンチに晒された人に対して「同情」すらできなくなることこそ、最大にして最悪のイデオロギーと、保守主義者としての私は思います。


反日上等」とはそもそもそういう話なので、それをイデオロギー問題へとすりかえることは問題の擬似問題化であり、そのような問題の擬似問題化を批判することもまた「反日上等」の趣旨なので、当時私はhisamatomokiさんの議論に対しては言及しなかったけれど、「他者支援の問題」と再三主張していたhisamatomokiさんがそのことをどうやら了解していなかったことには絶句しているところです。念の為に書いておくと、他者支援とは「同情」の問題ではない。


リー・ミラーのよく知られた報道写真があります。パリ解放後、占領下にドイツ将校と交際していたフランス人女性がパリ市民に髪を切られて「裏切り者」「売国奴」として公衆の前で晒し者にされている光景。トリコロールは今なおそのオブセッションを背負っている。いわんや日の丸をや。そうしたリンチと、そのリンチを生み出す一切のものを批判し退けてきたのが左翼であり、その一点においては、私は左翼に全面的に同意する。このことは「イデオロギーの左右」の問題ではない。「反日上等」とはそういうことなのですが、そのへん了解のうえで批判されていたのですよね。他者支援云々と。なお、私は下部構造的にいしけりあそびさんとは否応なく立場が対立するものの、外国人問題については訳あって「現場の人間」です。「実務的」な。


確かに「イデオロギーの左右」の問題ではない。「イデオロギーの左右」を理由に、リンチに晒された人に対して「同情」すらできなくなる、そのようなイデオロギーとその弊害の問題と思う。それをして、「妖怪どっちもどっち」と言い、「右でも左でもない」党と言い、自称中立と言う。


革命が起こったら私は常野さんに粛清されてしまうでしょうが、そんなことはどうでもよい。「イデオロギーの左右」を理由に、リンチに晒された人に対して「同情」すらできなくなることこそ、自由の敵であり、最大にして最悪のイデオロギーであり、たまにはこういうことを言いますが、人としておしまいなことだと私は思います。それが「イデオロギーの弊害」でなくして何であろうか。クリント・イーストウッド主義者としては――保守主義とはそういうことだと私は思っていますが。


「これさ、韓国人少年を挑発して暴力を振るわれて英雄扱いされてる在特会の約一名と何が違うの?」暴力上等とリンチ上等は違うので、当然違います。リンチ上等が在特会です。リンチ上等に抗する暴力上等がありうるかと問うなら、イーストウッド主義の保守主義者としては、『グラン・トリノ』に倣って、否と言いますが、保守主義を採らないならその限りではない。もちろん、動画に記録されてある通り、常野さんは有形力を行使していない。行使していれば、在特会は鬼首で動画を上げる。リンチ上等なのだから。


そして当然、それがhisamatomokiさんが表現するところの「挑発」とやらで仮にあったとして、挑発とヘイトスピーチは違います。その区別がされていないことが、hisamatomokiさんのイデオロギーとその弊害に由来するものであることは了解しました。「右でも左でもない」イデオロギーとその弊害。これは皮肉で言っているのではない。私としても、自戒するところです。