配線を繋ぐということ


2009-09-18

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090919/p1


またしても、駆け足かつ雑駁な議論になりますが。


一時的に倫理と道徳を弁別せずに書きますが。倫理道徳の根拠を下部構造に求める。そうした考え方はあります。一神教に発する文明は、マルクスヘーゲルの「逆立」を批判したように、またニーチェが糞味噌にこきおろしたように、倫理道徳の根拠を「上部構造」に求めてきました。結果、教会の権威は、時に科学という試行を抑圧した。


「上部構造」は、人間とサルを切り離す場所に成立しました。マルクスを継ぐ誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースも、また一神教の代替物としての天皇批判を継いだ阿部謹也も、私たちの倫理道徳の場所を、下部構造に求めた。それは、資本主義の暴虐が「社会」を超えて世界を席巻した20世紀において、彼らが持ち合わせた問題意識でした。


しかし、倫理道徳の根拠を下部構造に求めたひとつの帰結が、ナチスドイツとしてあった。第一次世界大戦の戦場を潜り抜けたヒトラーの理性的な世界観にあって、私たちが「種」の存続のために生存闘争を繰り広げることは自明な事実だったので。倫理道徳の根拠を「上部構造」に求めてきた一神教に発する文明の欺瞞に対する徹底した批判としてあるニーチェの議論を、真に受けると、そして国家が政策化すると、ナチス優生学になる。ナチスの科学主義は、倫理道徳の根拠を広い意味での下部構造に求めたその結果としてあった。それも、20世紀の、つまりレヴィ=ストロース阿部謹也が生きた世界の、問題意識です。


このことの教訓は。倫理道徳の根拠を下部構造に求めるなかれ、ひいては「上部構造」の根拠を下部構造に求めることは常にオカルトである、ということです。そのことを知っていただろう彼らは神話を「学説」としてその「科学的」な人種主義に接木する。かくて国家共同体のオカルトは成る。「国家社会主義」とはよくいったもので。


「経済学者」マルクスにとって、歴史の必然とは科学的な命題でした。下部構造による上部構造の規定を説いた彼は、上部構造それ自体を論じていたのではないし、上部構造のあるべき姿を説いていたのでもない。国家を越えた労働者の解放は彼において歴史の必然として論証された。――ここから、上部構造のあるべき姿を説くのが後の疎外論です。


ナチスを経て、疎外論批判を経たレヴィ=ストロース阿部謹也は、倫理道徳の根拠を広い意味での下部構造に求めることを、あくまで科学的な命題として追求し論じた。「べき論」を彼らは説いているのではない。tikani_nemuru_Mさんがレヴィ=ストロース阿部謹也を「曲解」して「べき論」を説いているのではないことは了解していますが、しかし。


上部構造と下部構造は重層決定される。このとき、倫理道徳の根拠を下部構造に求めることは、そのままオカルトである。レヴィ=ストロース阿部謹也が科学的な命題として追及し論じたそれは、そもそも一神教に発する文明を背景とした倫理道徳の観念と整合するものではない。当然そのことを承知していたレヴィ=ストロース阿部謹也は「一神教に発する文明を背景とした倫理道徳の観念」をこそ批判してきました。


PledgeCrewさんに対してこれを言うことは釈迦に説法と思いますが――重層決定とは、また認識論的切断とは、約めて言えば、上部構造と下部構造の配線はイデオロギーにおいて繋がれている、なぜなら「上部」と「下部」の配線はそもそも繋がれていないからだ、という「科学的な命題」のことです。マルクスの「規定」という命題のイデオロギー疑似科学性を指摘したのが「マルクスのために」と言ったアルチュセールでした。tikani_nemuru_MさんやPledgeCrewさんが科学的な命題として下部構造による上部構造の「規定」を主張しておられることは了解していますが、しかし私は重層決定と認識論的切断を採ります。


「生物学的還元論」の話をしているのでは当然ありません。tikani_nemuru_Mさんの議論がそうしたものだともまったく思っていません。私がしているのは、「上部」と「下部」の配線はそもそも繋がれていない、それを繋ぐことはイデオロギー的操作以外の何物でもない、そして斯様なイデオロギー的操作を国家が代替してきたのが人類の歴史である、そのとき科学は国家に利用された、という話です。


tikani_nemuru_Mさんが上部構造による下部構造の規定というヘーゲルまがいの「逆立」を一貫して批判しておられることは、私は了解しているつもりです。tikani_nemuru_Mさんの疑似科学批判も、そうしたものなので。tikani_nemuru_Mさんが「ペテン」と指しているのは「上部構造」のことです。下部構造から立ち上がる倫理の可能性について、ニーチェ的な道徳批判と共に、tikani_nemuru_Mさんは論じておられるのだと私は理解しています。そのことに対する私のアンサーは。――不可能です。下部構造から立ち上がる倫理の可能性はありません。下部構造とは、グローバル資本主義とそれに伴う共同体の崩壊そのものだからです。


重層決定が前提である私は、当然それは重層決定の命題に反するのですが、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に、倫理は倫理に返すことが、人権や個人の尊厳といった近代の達成である諸価値の根拠と考えます。それは、文明に接木された文化ということですが。カエサルに神を説く類を、たとえばマルクス主義者であり筋金入りの左翼であるMidasさんは徹頭徹尾批判している。私も散々ダメ出しされている。ま、私は保守なので、そして保守主義とは個人主義のことなので(もちろん在特会産経新聞保守主義ではない)、唯物論の暴虐にあって個人の尊厳をどのように贖うか――それが一切の出発点としてある以上、一神教も新憲法下の天皇靖国も要請されるし、後述しますが、規制論に与する立場もあるでしょう。私は採りませんが。



ニーチェに多く影響を受けた三島由紀夫の議論ですが――私たちは放っておくと互いを殺し合い奪い合い喰らい合うので、その歴史的教訓に学んで、檻に入って檻から出ないよう互いを監視することにした。その檻を、他者危害禁止原則に基づく個人の観念と言い、市民社会と言う。なので「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」はそもそも語義矛盾です。「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」は檻なので、檻の内と外を弁別する機能を原理的に孕んでいる。自由と寛容の名において。


そして檻の「内と外」は、容易に差別的な視線へと転じる。檻の外に対する弁別と連関して、檻の内においてさえ、「内と外」は価値合意に伴う選別として見出される。互いを殺し合い奪い合い喰らい合うような、自由と寛容に縁の遠い連中は檻の中の住人にふさわしくない、と。当然それは差別であって、そういえば、自由と寛容とその価値を守護するフランスの内務相が「アラブ移民層出身」の自国民を腐ったミカン呼ばわりしたそうですが。「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」の恒例行事です。もちろんこのことは、かつての殖民地主義政策とも相変わらずの大国根性とも連関している。


檻と思えば、倒錯した話なのですが。そして倒錯を指摘するために三島由紀夫は「檻」と表現した。価値とは、そういうものでもある。だから、たとえばアルジェリア出身のユダヤ系哲学者であるデリダは、そうした一神教に発する西欧的な価値そのものの「脱構築」を企図した。遡ればバタイユも。


だからと言って、檻を解き放つわけには行かない。その檻が、自由と寛容という欺瞞を、それを言祝ぐ「リベラルな市民社会」を、その価値さえもひっくるめて、三色旗において保証しているから。フランスは、国家主義的な警察国家です。血で血を洗ってきたヨーロッパの歴史の結果、ひいては宗教に対するオブセッションの結果、自由と寛容を保証する檻であることのために民衆が国家を強く要請しているからです。要するに、市民である私たちは自ら檻を望んでいる。


もちろん私は他人事としてフランスを腐しているのではない。その結果が「アラブ人」に対する差別なら世話ないように、その結果が「アジア人」に対する差別なら世話がない。もちろん、日本におかれては「自国民」であることさえ困難なので、移民政策の相違と相変わらずの島国根性は連関するものでしょう。とはいえその島国根性は「自由と寛容を保証する檻であることのために民衆が国家を強く要請する」発想を緩和するものでもある。国家主義者は「内と外」に対して、常に意識的です。昔、この国には優生保護法というのがありました。


このとき「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」という語義矛盾の檻に好んで閉じ込められ好んで相互を監視する私たちは、どう考えるか。まず、武田鉄矢のように、「アラブ人」は腐ったミカンではない、と確認することでしょう。つまり、個人の尊厳について、檻の中で、相互に確認することです。


「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」の基底に存する同胞愛の観念は、容易に内なる腐ったミカンを措定する。たとえば「女」という腐ったミカンを。ある種のフェミニズム批判がそうしたものであることは知られています。「女」という腐ったミカンが、その同胞愛の欠如において、「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」を毀損する、と。それは、公安が「内なる腐ったミカン」としての反体制を措定することと結託している。国家とはそういうものです。


tikani_nemuru_Mさんは、公共圏を、「上部構造」というペテンに拠ることなく唯物論的に下部構造から立ち上がりうるものと考えておられるのではないか。私は全然そう考えない。私は、公共圏とは、「自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会」を「社会」として檻から解き放つべく、たとえば「アラブ人」「女」という「内なる腐ったミカン」を他者性と措定することによって、国家の檻を揺籃とする市民の観念を国家から解き放つべく、上部構造と下部構造の配線を繋ぐイデオロギー的試行と考えています。


むろん、Midasさんのようなマルクス主義者においても、また私のような保守主義者においても、そしてNaokiTakahashiさんのようなリバタリアンにおいても、「うん、それ無理」は自明です。「上部」と「下部」の配線はそもそも繋がれていないし、配線を繋ぐことはイデオロギー的操作以外の何物でもなく、そして斯様なイデオロギー的操作を国家が代替してきたのが人類の歴史であり、あまつさえ20世紀にあってはイデオロギー的操作を国家が代替するとき科学が動員される。その反省の上に私たちの現在がある。


いずれにせよ、公共圏が上部構造に拠ることなく唯物論的に下部構造から立ち上がりうる、という考えには私はまるで同意できません。そのように考えておられないのなら結構です。なぜなら、散々書いてきた通り、現在の世界にあって「個人の尊厳」という観念は下部構造から決して立ち上がらないから。事実問題として、私たちは共同体的な社会を生きているのではない。資本主義に伴う近代の必然としてニンゲンのアトム化があるとき――つまりそれは下部構造の問題ですが――共同体的な社会を科学的な命題として主張することはバックラッシュでしかない。ましてそれが――民族国家と同様の――上部構造の捏造による道徳の主張、すなわちペテンならなおのこと。檻であることに合意するフランス社会に生きるレヴィ=ストロースバックラッシュとはまったく思いません。要するに、科学的な命題として主張されるそれは、アルチュセールが「マルクスのために」切断した、「上部」と「下部」の配線を繋げるためのイデオロギー疑似科学です。


グローバリズムに晒された結果フォーディズムが致命的に損なわれた現在の世界にあって、代替不可能性を贖う個人の尊厳が下部構造から立ち上がるなら、それは国家による経済の統制を意味します。つまり欧州的な社会民主主義のこと。それはそれで結構ですが、欧州的な社会民主主義政策とは、イデオロギーの産物であり、そして、上部構造と下部構造の配線を国家が繋げてみせる、つまりグローバル資本主義という唯物論の暴虐にあって個人の代替不可能性を国家が贖うものなので、マルクス主義者なら、そういうのは欺瞞と言うでしょう。


「上部」と「下部」の配線を――「内と外」を原理的に弁別する国家の檻へと好んで閉じ込められる市民ではなく――民衆としての「私たち」が繋ぐ取り組みが公共圏です。つまり、それこそが社会である、というのがハーバーマスの主張ですが。そしてそれもまたイデオロギーの産物です。不可能と承知で「上部」と「下部」の配線を繋ごうとするペテンは、Midasさんにあってはなべて偽善であり欺瞞であり詭弁でありエセインテリのカマトトなので、私もまたダメ出しされるのでした。「上部」と「下部」の配線を繋ぐイデオロギー疑似科学を国家が代替する、それがスターリニズムでありナチズムであり科学主義の誤謬そのものだからです。この点については、また私に対する指摘と限定しますが、Midasさんのダメ出しの趣旨に私は同意せざるをえない。


表現の自由には他者というヒモが付いている」はもっぱら理論的な話なので、そして理論的に幾らも反論しうる話なので私としても散々反論してきましたが、そのことは措き、下部構造を煎じ詰めたときに現れるのがヒモです。要するに、資源とその(分配ではなく)所有の問題。だから資源の分配が政治の問題として問われる。ニンゲンは資源の範疇ではない、という倫理合意も政治の問題として問われる。アレントを引くまでもなく――古代の都市国家では人間は人間であるがゆえに資源の範疇ではなかったが、奴隷は人間ではなかった。そして現在、ニンゲンの死体は資源の範疇であり、中国では死刑囚もまた資源の範疇です。


グローバル資本主義の暴虐に晒されようと最後まで残るのが、下部構造を煮詰めて現れるヒモであって、その「最後まで残るもの」としてのヒモを「上部構造」として捏造し国家共同体が配線を繋げようとする営為がバックラッシュです。あるいは原理主義です。たまたま拝見したハイクであったのですが。


はてなハイク サービス終了のお知らせ

日本の男の性意識だって名誉の殺人の根底にあるそれとまったくかわらないよ。(中略)日本でも名誉の殺人は起こってる。それが行われる土壌がある。イスラムこええって言ってるおまえがこわい、ってわたしはいつもおもう。日本だっておなじじゃん。ただ殺されることはすくないっていうだけ。


その通りで、要するに「ヒモの問題」「資源とその所有ひいては分配の問題」と考えている限り状況は変わらない。そしてそれは国家共同体すなわち家父長制の問題であって、「上部」と「下部」の配線を繋ぐイデオロギー的操作を国家が代替してきた人類の歴史にあって、国家は「下部」の様相に適したイデオロギー的操作を行い「上部」を捏造する。それが、国家共同体であり、家父長制です。結果、名誉殺人が発生し、容認される。もちろん宗教は関係ない。日本で「殺されることはすくない」のはこの国が敗戦以来形式的に人権思想を「上部」として言祝いでいるからに過ぎない。


このような家父長制の発想に対して、「ヒモの問題」でも「資源とその所有ひいては分配の問題」でもない、女性にも個人の尊厳がある、と主張してきたのがフェミニズムでした。いかなるニンゲンであってもニンゲンは尊厳ある個人である、「アラブ人」であっても「女」であっても「ホモ」であっても。そのように、何度でも言わなければならない。そして、そのうえで、「上部」と「下部」の配線を繋ぐイデオロギー的操作が要請される。それを国家が代替する道を選ばないなら、公共圏というイデオロギー的操作が配線を繋ぐため要請される。なぜ要請されるか。差別とそれに伴う喫緊の暴力があるからです。尊厳ある個人とは、帰属の問題でなく、他者性の問題です。


他者の観念は下部構造が規定するものではない。上部構造と下部構造の配線を繋ぐイデオロギー的操作を国家が代替する発想は、科学主義に基づく「上部構造」の捏造によって、時にスターリニズムとしてあり、現に家父長制そのものとしてある。科学主義に基づく「上部構造」の捏造が生殖を理由とする家父長制の正当化としてあることは、配線を繋ぐためのイデオロギー的操作を国家が代替することの当然の帰結です。フランスのように檻の中の市民社会を実現することもあります。


公共圏論とは、いわば、個人の尊厳を贖うべく「上部」と「下部」の配線を民衆が民衆として繋げることによって社会が真に他者性へと開かれる取り組みのことですが、MidasさんやあるいはNaokiTakahashiさんの見解立場なら言うまでもなく私の見解立場でも「うん、それ無理」と言うしかない部分がある、というのが正直なところです。民衆は、イデオロギー的操作によって「上部」と「下部」の配線を繋げた結果「市民」として誕生するのだから。当然、「市民」も、そこから遡行された「民衆」も、イデオロギー的操作の産物としてあるのだから。


個人の尊厳と下部構造は直接に連関しない。斯様な世界にあって、下部構造を煎じ詰めたときに現れるヒモを「上部構造」と連関させるべくイデオロギー的操作を国家が代替して挙句「上部」を捏造するペテンが道徳を僭称して横行するとき、個人の尊厳はいっそう損なわれる。重層決定の裏腹としてこうした状況が現在進行形としてあります。結果、個人の尊厳の贖いは下部構造それ自体において問われる。あるいは現在の世界におけるその不可能を了解する。個人の尊厳の贖いを下部構造それ自体において問うことは現在の世界にあって不可能である、と。それが、唯物論のファイナルアンサーです。そこから、個人の尊厳を脳科学によって贖おうとするクオリアミラーニューロンな発想まで半歩であるし、個人の尊厳を生殖によって贖おうとするナチス優生学まで一歩です。それもまた、現在。


「個人の尊厳の贖いは下部構造それ自体において問われる。あるいは現在の世界におけるその不可能を了解する。」それが左翼の発想で、もちろん、私はインターナショナリズムを信じない。そしてだからこそ――私はイーストウッド主義者であると同時にカサヴェテス主義者でもあるので言いますが――個人の尊厳の贖いが下部構造それ自体においてしか問われない世界に抗して、人は人を愛する。脳とも生殖ともなんら関係なく。


フェミニズムの問題意識においては「陵辱表現は女性の尊厳を貶めるものである」という主張はありえます。私に言わせれば、それは誤った命題です。もちろん男たちは女性の尊厳を貶めるために日夜リアル陵辱に明け暮れていますが、そのことは表現規制の理由にはならない。重層決定の帰結はこうしたこととしてあり、当然、問題は、男たちが女性の尊厳を貶めるために日夜リアル陵辱に明け暮れている下部構造です。そして表現規制において「上部」と「下部」の配線を繋ぐべく国家に要請する発想が登場することも、また、重層決定のもたらした皮肉な帰結です。ニーチェの道徳批判がもたらした皮肉な帰結のように。イデオロギー的操作を国家が代替するとき動員されるのは、科学でなく、科学主義です。


「人間存在は、遺伝子の産物ではなく、観念の産物です。」とは、理論的に言い直すなら以上のようなことです。還元と規定は当然相違しますが、述べてきたような文脈について、見解を伺いたいところではあります。「今の時点でわたしが地下に眠るMさんの書かれることについて関心を持っているのは、上に述べたような部分に限られます。」では済まない話ということです。私がMidasさんを擁護しているのではないように(その必要もない。このエントリにもマルクス主義者としてきっちりダメ出しすると思う)、PledgeCrewさんがtikani_nemuru_Mさんを擁護しているのではないこと、また擁護する必要もないことは百も承知です。みな自分の見解立場から議論している。


問題は、上部構造と下部構造の配線が繋がらないことです。そして「上部」と「下部」の配線が繋がらない限り、下部構造が規定する私たちの現在を「上部」と捏造するイデオロギー的操作――すなわちペテン――には事欠かない。茂木健一郎の議論のように、小泉純一郎の自己責任論のように、ナチスドイツのように。そして、女性の尊厳を貶めるセカンドレイプ言説や名誉殺人を引き起こす性差別そのもののように。その背景には、イデオロギー的操作を代替する国家がある。そして、イデオロギー操作を代替する国家と科学主義の誤謬は相性が良い。


自由主義とは、当然、イデオロギー的操作を代替する国家を退け、イデオロギー的操作を国家が代替してきた人類の歴史を批判する発想のことです。法治国家はそうして合意される。私は保守主義者ですが、男たちが女性の尊厳を貶めるために日夜リアル陵辱に明け暮れている家父長制丸出しのこの国家共同体にあっては、そのような自由主義に賛成せざるをえません。それが日本です。だから、刑法175条の撤廃が順序、話はそれからです。


そして念押しするなら、上部構造と下部構造の配線が繋がることは、原理的にも、また事実問題としても、ありえない。でもやるんだよ! 公共圏論を! インターネッツで公共圏が形成されうる「かのように」振舞うことを! というのがMidasさんが散々ダメ出しするところの私の欺瞞であり偽善であり詭弁でありカマトトです。ま、その点については、そして私については、仰る通りです。


繰り返しますが、述べてきたように、私は「生物学的還元論」の話をしているのでは当然ないし、tikani_nemuru_Mさんの議論がそうしたものだともまったく思っていません。とはいえ、議論の舵を修正する必要に思い至ったのは、PledgeCrewさんのエントリを拝見してのことです。大変丁寧なサジェスチョンに感謝申し上げます。先のエントリ、またしてもtikani_nemuru_Mさんに対して挑発的に書きすぎたとは思っています。

生き延びるためのペテン


おサルの世間の真正性 - 地下生活者の手遊び


まず、私たちはサルではないし、遺伝子の産物でもない。この大前提について確認しておきたいと思います。


自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会は、ひいては公共は、価値的な人工物です。その価値に対するコミットは問われます。コミットなくして人工物は維持されないので。その人工物を抽象的な国家が代替する発想こそスターリニズムです。「その人工物を抽象的な国家が代替する発想」をtikani_nemuru_Mさんが一貫して退けておられることは知っています。


自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会――ひいては公共――という価値的な人工物に対するコミットは共同性に対する批判を含意する。なぜなら、共同性が喚起してきた殺し合いの歴史を私たちは知るから。近代以降にあって、共同性とは政治的な動員の装置でしかない。そもそも「共同性」の観念が近代の産物なので。「自然」の観念が近代の産物であるように。スターリンを経たロシアがグローバル化する世界にあって共同性へと回帰することもむべなるかな。そのとき、共同性は国家幻想を補完する。プーチンはそのことを知っている。

レヴィ=ストロース阿部謹也が直線で結ばれるのは、ニンゲンがサルの一種であることを免れにゃーからですにゃ。多分、ニンゲンというサルの一種の帰属感は、自らの属する数百の集団に対して感じられるものではにゃーかと考えますにゃ。進化心理学的にきっちりと根拠を示すことのできる話ではにゃーけれども。


このくだり、私はまったく同意できません。「人間は本能の壊れた動物である」というテーゼは御存知ですよね。むろん毀誉褒貶は公知の事実であるし「学的にきっちりと根拠を示すことできる話ではにゃー」のですが、私はこの命題に同意です。「東洋の土人部落」とは北一輝の言葉です。土人部落の土偶としてある天皇という装置を用いた社会主義革命を目指した彼は、人間存在が遺伝子の産物ではなく観念の産物であることを知っていた。――tikani_nemuru_Mさんの言葉を借りれば「オカルト」ということですか。


もちろん「人間存在は遺伝子の産物である」という命題もオカルトであって、だからドーキンスは批判されている。そのことは彼の業績を貶めるものではもちろんない。ただ、このことは、これも公知の事実であるワトソンの問題と紙一重ではある。科学の命題を人間存在に対する命題へと敷衍したとき、それはあくまで「オカルト」の一種でしかない。「神は妄想である」と言った彼は、その修辞的な命題もまた妄想であることに、気が付いていないか、あるいは修辞と承知で言っているか。当該の本を一読したのもだいぶ以前ではあるのですが。


――これは、一連の議論を拝見してのtikani_nemuru_Mさんに対する端的な疑問なのですが、価値の根拠を問うことは進化心理学に遡行すべきことなのですか。「良いオカルト」と「悪いオカルト」の弁別はサルに遡行して問われなければならないことなのですか。私はそうではないと考える。


大昔に私が読んだサル学の研究書には、確か、サルの子殺しの話が紹介されていました。子殺しを否定することから文明は始まりました。当然、それは一神教というオカルトの産物です。人間存在を観念の産物と規定して人類は現在の文明と文化を築きました。そのようなものとしてある文明と文化に対する批判を、レヴィ=ストロース阿部謹也は展開しました。


「人間は本能の壊れた動物である」から「個人の尊厳」が取り沙汰される。だから、人は「個人の尊厳」においてハイジャックした旅客機をWTCに突っ込ませる。そのような物の考え方を「原理主義」として批判したのが養老孟司です。要するに、他者にとっての「個人の尊厳」を考量しない発想であると。他者とは、そういうことです。思想信条を、信仰を、つまり妄想を自らと共にしない相手のことです。


「ニンゲンがサルの一種であることを免れにゃー」ことは、あるいは遺伝子の産物であることは、他者の観念を規定するに至った人間存在をめぐる数千年の問いを、ひいては近代の達成である諸価値を、反故にしうるものではない。「ニンゲンがサルの一種」であろうがなかろうが、歴史的存在であるところの私たちはサルではないし、遺伝子の産物でもない。価値の根拠を、「良いオカルト」と「悪いオカルト」の弁別を、なぜ「ニンゲンがサルの一種であることを免れにゃー」ことに求めなければならないのか本当にわかりません。


人間存在は、遺伝子の産物ではなく、観念の産物です。当然それはオカルトです。科学とは、観念の産物であるところの人間存在の外部に基準を設ける試みとその歴史です。「それでも地球は回っている」とはそのことです。地球が回っていることは、観念の問題ではない。心頭滅却すれば火もまた涼しいが、しかし火傷はする。そして心頭滅却すれば、ハイジャックした旅客機で高層ビルに特攻することもできる。観念の産物であるところの人間存在にとって「個人の尊厳」が取り沙汰されるのは――つまり他者の観念が規定されたのは――このような事例に歴史は事欠かなかったからです。当然、日本も例外ではない。


人間存在の外部に設けた基準を観念へと回収するとき、つまり人間存在の場所へと回収するとき、ナチスドイツのごとき誤った優生学が採られる。ドーキンスは、そしてワトソンも、半ば観念へと回収してしまっている。人間存在が観念の産物である以上、私たちはいかなる天才であってもオカルトを胸に抱いて生きていかなければならないので致し方ないのですが。しかしことドーキンスは、公共の問題としてそのことを主張している。公共にあってオカルトが合意されてはならないと。その通りですが、しかし「神は妄想である」というオカルトについて公共は合意すべきと彼もまた言っている。


子殺しを否定することから始まった文明の尻尾に、現在の中絶問題があり進化論問題があり、「間引き」に躊躇ない社会に対する批判があり、捕鯨問題があり、ひいては児童への性的搾取に対する批判がある。このとき、文化の観念が要請される。かつて、インスタントコーヒーの普及に伴うコーヒー文化の転倒について「文化と文明は逆立ちする」と言ったのはコーヒー好きで知られる夏目房之介です。要するに、文化が先んじて存在していた場所に文明が介入しこれを決定的に変容させたとき、「文化」は文明に接木されるものとして見出される、と。この「文明」とは資本主義とほぼ同義です。


いわゆる文化的多元主義とは、文明に接木される「文化」を考量する発想です。文化とは文明に接木され資本主義に接木されるものとして見出され言挙げされる。そうでないならそれは、もはやバックラッシュでしかない。そのようなバックラッシュを、たとえば現在のローマカトリックは主張しているか。否、です。


文明に接木される「文化」を考量することと、文化人類学的に見出された文化の起源を文明と対立するものとして提出することは、違います。文明に接木される「文化」は、端から文明の掌です。しかし、文化の起源を、私たちは文明によって簒奪されている。骨を手にした猿、骨を武器に用いて殺し合う猿。かくてテクノロジーをもって宇宙に繰り出す、かつての猿としての人間存在。キューブリックが描いたように、それが私たちの来し方行く末です。スターチャイルドには決してならないでしょうが。

多分、ニンゲンというサルの心理生活というのは数百人規模のクラン(氏族)に適合するようチューニングされている。ニンゲンの可塑性はでかいが、基本的には数百人規模の集団で生きるのがこのサルの生態。心理的にもその規模の集団で暮らすようにチューニングされている。



レヴィ=ストロースの「真正性の水準」はその有力な傍証と考えますにゃ。

このサルを一定規模以上の集団に所属させるためには、いくつかの政治的な装置が必要となるのではにゃーかと。近代国家はこのサルの忠誠心を利用するために、民族国家というでっちあげを、たぶんでっちあげと意識しないまま行ったんだにゃ。天皇制や国家神道も、このサルを民族国家とやらに直接的に帰属させるためのでっちあげ。



ニンゲンというサルを一定規模以上の社会に直接的に帰属させるためには、「大きな物語」が必要であると宮台あたりはいうけれど、どっちかというと「大きな物語」ってのは、同じ国民や同志を、あたかも血縁であるかのごときレトリックなんでにゃーかな? これは、いちいち例証の必要すらにゃーくらいだ。守るべきは同胞(はらから)、兄弟であり、国父は政治家への最大の賛辞であり・・・。

で、僕はこの血縁レトリックがあんまり信用できにゃーんで、「大きな物語」なしで済ませたいのですにゃ。

しょうがにゃーので中間団体。

「「中間団体を重視する」のは、社会の原型を彼らの議論の場所に tikani_nemuru_Mさんが見ているから」もいいんだけど、もうちょっと正確にいうと、「サルには群が必要だから」となりますかにゃ。

個々人が直接的に大きなものに帰属するのがアトミズムなのではにゃーのかと思うのですにゃ。これなら権力によっていくらでも動員できるわけで。


なので、このくだりには国家論としては同意するのですが、「サルには群が必要だから」にはまったく同意できません。人間存在は観念の産物なので、「群」を口実に動員されたり特攻したりするのです。『俺は、君のためにこそ死ににいく』という、石原慎太郎製作総指揮・脚本による特攻隊を描いた映画がありました。このタイトルの意味は、つまり「俺は、天皇陛下のために死ににいくわけではない」ということです。「君」とは愛する人のこと。レトリックではない血縁のこと。「数百人規模のクラン(氏族)」のこと。「顔が見える相手」のこと(当時、天皇は「顔が見えにゃー相手」としてあった)。


石原慎太郎はそもそもそういう考えの人なのですが、「俺は、天皇陛下のために死ににいくわけではない、君のためにこそ死ににいく」は、死ににいくことについては一緒です。「一緒ではない、違う」というのが石原慎太郎の考えであり「想い」でもあり、この映画で彼が伝えたかっただろうメッセージであり、言ってしまえばそれは一種のロマン主義です。で、こういうロマン主義をかつて糞味噌に虚仮にしたのが深作欣二であったり、笠原和夫であったり。やはり、私たちは先祖返りしているのでしょう。『仁義なき戦い』の北大路欣也も「俺は、君のためにこそ死ににいく」を地で行った訳であるし。実在の人物をモデルにした彼の演じた役柄は「特攻隊の生き残り」でした。そしてもちろん、彼らは北大路欣也演じる山中正治に思い入れていた。


ヤクザの徹底した身贔屓の論理は、 tikani_nemuru_Mさんの上記の主張によって擁護されるのですが、そして、そのようなものとして社会があることも日本にあってはまったくその通りで何の間違いもないのですが――だから、それでよいのですか。他者の観念を規定することに伴って要請される価値的な人工物であるリベラルな市民社会は、百年どころか百万年の孤独の彼方でしょう。


性差別撤廃が問題なら身贔屓の論理は真っ先に問題と私は思います。氏族や部族の論理を21世紀の日本で主張されても困ります。事実認識の問題なら、そんなことは公知の事実です。「人を殺してはならない」と「身内を殺してはならない」は違います。後者の論理を否定して前者の論理を採るのが人類の歴史的教訓だと私は思っていましたが。もちろん、「人を殺してはならない」と「同胞を殺してはならない」も違います。パレスチナ問題についての見解を伺いたいところです。

真正性の水準ってのは、ニンゲンという生物は顔が見える相手と見えにゃー相手では行動パターンを変える仕様になっているという、知恵のついたサルとしてはアッタリマエの話なんだにゃ。で、自らの属する集団の利益に敏感でありつつ、顔の見える範囲において他者の尊厳に配慮し、また、他にもそうした集団があることを考慮すべしといいたいだけにゃんが。

だいたい、世間様だのムラ社会だのは僕だって好かにゃー。おっしゃるとおり性犯罪の二次被害三次被害の主犯は世間様であるというのは僕がいいだしたことだし、その認識は変わってにゃーよ。ただ、ニンゲンというサルを直接的に一定規模以上の集団に帰属させるためには血縁を擬制した仕掛けが必要であり、その仕掛けが根本的に群れ幻想とでもいうものに基づくものであると認識しているということですにゃ。あるいは、「帰属させない」という方法もあるけど、これはアトミズムにしかならにゃーと思うのですにゃ。

よって、サルの群れ=世間様をいじるべし、ということになる。



中間団体が利権団体であるのは百も承知しているし、不正の温床といえばいえるだろうけれど、まあそれはそれ。国家権力による各々のアトムへの直接的統制よりはマシと見ますにゃ。中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ。

何にしろ、旧来からある世間様なりムラ社会そのものを肯定するつもりなど最初から微塵もにゃーし、そんなこと書いたおぼえもにゃー。なんで直接的に顔の見える関係とか、個々人の代替がきかにゃー関係といったらムラ社会呼ばわりされて否定されるのかよくわかんにゃー。


「で、自らの属する集団の利益に敏感でありつつ、顔の見える範囲において他者の尊厳に配慮し、また、他にもそうした集団があることを考慮すべしといいたいだけにゃんが。」サルの話は措き、このくだりには同意です。「ただ、ニンゲンというサルを直接的に一定規模以上の集団に帰属させるためには血縁を擬制した仕掛けが必要であり、その仕掛けが根本的に群れ幻想とでもいうものに基づくものであると認識しているということですにゃ。あるいは、「帰属させない」という方法もあるけど、これはアトミズムにしかならにゃーと思うのですにゃ。」このくだりについては、群れ幻想と国家幻想は共犯関係にあるというのが私の考えです。


アトミズムは資本主義がもたらした近代の帰結です。これは事実認識の問題。そしてアトム化した個人が帰属と承認を求めてファシズムへと辿り着いた以上、自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会という価値的な人工物とそれに伴う公共の観念が社会の構成員の自覚的なコミットによって形成されなければならない――古典的な自由主義とその帰結に対して懐疑的なtikani_nemuru_Mさんは、そのような問題意識を持っておられるのだと私は理解していましたが。少なくともハーバーマスは、そのような問題意識を持っていたので。


「サルの群れ=世間様をいじるべし」――いじれないから世間様です。その意味では「ぶっ壊す」ことによってもっともいじったのが小泉純一郎でしたが。イデオロギーでも啓蒙でもなく、下部構造におけるドラスティックなスクラップ&スクラップによって。「中間団体が利権団体であるのは百も承知しているし、不正の温床といえばいえるだろうけれど、まあそれはそれ。国家権力による各々のアトムへの直接的統制よりはマシと見ますにゃ。中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ。」――愛国心共産主義は「イデオロギー的うわ言」ですか。


その「イデオロギー的うわ言」で、本能の壊れた動物であり観念の産物であるところの人間存在は、オカルトに支配されていることと個人の尊厳を持ち合わせることが同じこととしてある人間存在は、自分を殺したり他人を殺したりする。あるいは親兄弟を告発したり殺したりする。そのコミットメントは何に由来するか。中間団体が利権団体であり、不正の温床であることです。「弱者」とは、利権や不正の温床としての中間団体から零れ落ち弾き出された者のことです。私が小泉構造改革を結局のところ支持しかねたのは、「構造」を変えることにしか彼は関心がなかった。改革さるべき「構造」の犠牲となってきた者へのフォローを彼は考量しなかったし、そもそも彼にとって政治とはそういうものだった。徹頭徹尾下部構造の問題であり、そこに「個人の尊厳」はない


「中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ。」よほどマシも何も、中間団体が利益共同体としてあることと「愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言」は、コインの表と裏としてあり、いうなれば相互補完的に存在し、その表裏によって一枚のコインとして社会はある。資本主義下の近代社会は。別の言い方をするなら、共犯関係にある。ただし共犯関係は、均衡によって成立する。


「資本家が私腹を肥やしている」とき、革命の契機があり、あるいは右翼テロが起こる。つまり共犯関係の均衡は崩れる。保守主義とは、コインの表裏としてのこの相互補完の均衡を維持することによって、社会というコインそれ自体が「イデオロギー的うわ言」へと裏返らないことを目指す立場のことです。つまり、「中間団体が利権団体であるのは百も承知して」いながら「まあそれはそれ」として「中間団体は利益共同体でよく」とする認識がある限り、「愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言」は猖獗を極める一方でしょう。つまり、現代にあっては排外主義の昂進。


「中間団体は利益共同体でよく」と私も思いますよ。ただ、「イデオロギー的うわ言」に基づく差別を問題視する限り、コインの表裏とその均衡について、共犯関係が決裂する分水嶺の在処について、ことに現在は、考えざるを得ない。共産主義革命は起きないでしょうが、レイシズムという「イデオロギー的うわ言」において社会という一枚のコインが裏返ることは十分にありえる。

何にしろ、旧来からある世間様なりムラ社会そのものを肯定するつもりなど最初から微塵もにゃーし、そんなこと書いたおぼえもにゃー。なんで直接的に顔の見える関係とか、個々人の代替がきかにゃー関係といったらムラ社会呼ばわりされて否定されるのかよくわかんにゃー。


「直接的に顔の見える関係とか、個々人の代替がきかにゃー関係」が縁故に由来するものであることと、他者の観念に由来するものであることはまったく違うからです。自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会という価値的な人工物は、また公共の観念は、後者に準拠します。前者に準拠するものとして、tikani_nemuru_Mさんは論じておられるように私には思えたし、今もそう考えていますが。

多分フッサール経由でハーバーマスのいっている「生活世界」でもいいし、最近の宮台がいいだしているらしい「パトリオティズム」でもいいにゃ。最近の宮台のいっていることは追っていなかったので、こういうことをいっているとは知らなかったんだけどにゃ。さて、こういうのも「先祖返り」かにゃ?


この問題について宮台真司を持ち出してよいのなら話は早いのですが――彼が一通り議論してきたことなので。なんとなく禁じ手にしていたところです。自由と寛容を言祝ぐ価値的な人工物であるリベラルな市民社会はしかし範囲の画定を要請する。範囲を画定しないなら、古典的な自由主義と区別が付かないし、アトミズムとその帰結を補填することもない。国家の外延において範囲が画定されるとき、その準拠枠を「パトリオティズム」を単位とすることによって、個々人の自発的なコミットメントを涵養する。而して斯様な構造ある限りその自発的なコミットメントは国家へと回収される――それが彼の議論の要諦に対する私の見解ですが。


神風特攻隊は「悪いオカルト」を信じたが会津白虎隊は「良いオカルト」を信じた、ということでもないでしょう。あるいは、討ち入りした赤穂浪士は「良いオカルト」を信じた、ということでもない。「良いオカルト」は、少なくとも他者を殺さないオカルトでしょう。『花よりもなほ』という映画がありまして。


前後しますが。

もちろん、べき論ではにゃーです。「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」は事実認識の問題として紹介しましたにゃ。科学によって呪術を駆逐しようとしたって、そんなことは無理もいいところですにゃ。もちろん、公領域における呪術は困りものにゃんがね。

呪術思考は駆逐不可能というのが現実なので、科学と呪術の並置以外に選択肢はにゃーってことね。


こちらについては全面的に同意です。

ヤスクニだのテンノーってのは、数百匹規模の群れ生活に適合したサルの忠誠心なり感情的帰属感を、近代国家に対して抱かせるためのペテンだにゃ。無論、サヨクの個人崇拝もペテンね。ヤスクニやテンノーってのは、むしろ国家権力による共同性の簒奪だと考えますにゃ。

実際に、明治政府は村落共同体の神社や鎮守の森を破壊しつつ、国家神道をでっちあげていったわけだにゃ。つまりは村落共同体の破壊と国家共同体のでっちあげというペテンだよにゃ。南方熊楠あたりが、血管切れそうな勢いで激怒しているトピックですよにゃ。このあたりの話はオモチロイので、いつか気が向いたら引用してエントリにしたいくらい。



sk-44が、社会と共同体を対立的に扱うのはわからなくもにゃーんだが、少なくともテンノーやヤスクニある限り、日本に「社会」は無理なんでにゃーの?

少なくとも、個人が直接に帰属する「社会」は、テンノーとヤスクニあるかぎり、無理に思えますにゃ。

だから、「死んだ子供」を止揚する社会、というのがテンノーやヤスクニのある国家共同体で実現できるというふうに僕にはイメージできにゃー。テンノーとヤスクニを克服しにゃーところに、社会なんて存在しにゃーよ。


「少なくともテンノーやヤスクニある限り、日本に「社会」は無理なんでにゃーの?」そう思いますよ。だから現行憲法下において天皇は国民統合の象徴であり靖国神社は一新興宗教です。それが、現在の日本における社会合意の在り様であって、それが問題という立場は当然あるでしょう。私の見解としては、共和主義も結構ですが、この国で天皇を廃し靖国神社を取り潰したら(一新興宗教をどのように取り潰すのかわかりませんが)、社会というコインは裏返るでしょう。裏返っても構いませんが、差別と暴力と動員が靖国の境内でなく公共の往来を行き交う風景は殊更に見たいものでもない。


「テンノーとヤスクニを克服しにゃーところに、社会なんて存在しにゃーよ。」共同幻想論を採る立場としては仰る通りですが、話が逆です。社会を存在させるために、天皇靖国というオカルトに支配された人と貴方が他者として対話すればよい。「直接的に顔の見える関係」において、他者の「個人の尊厳」を尊重したうえで。「天皇靖国というオカルトに支配された人」はこの国に百万人はいます。それが、自由と寛容を言祝ぐリベラルな市民社会という価値的な人工物に対するコミットであり、公共を成り立たせる行為です。――コミットをかくも他者に対して勧めておられるのだから。


繰り返しになりますが、神風特攻隊はペテンに殉じたが、会津白虎隊はそうではなかった、などという話はありません。どちらもペテンです。ペテンで構いませんが。「俺は、君のためにこそ死ににいく」も当然ペテンです。「君のためにこそ」などペテンの極みです。これは、突き詰めれば「あらゆる死は犬死にである」という、かつて宮崎哲弥が主張したテーゼになりますが、もちろんこの命題とて観念です。


『生き延びるための思想』という上野千鶴子の著作があります。彼女は言う。死ぬための思想ばかりがこの世にはあって、もてはやされてきて、生き延びるための思想がない。生き延びるための思想を、私は紡いでいきたいと思う、と。思想は人を殺す、という歴史が証明した公知の命題を裏返してこの言明はなされている。


人を殺す思想はなべてペテンです。しかし、本能の壊れた動物であり観念の産物であり、オカルトに支配されているがゆえに個人の尊厳を持ち合わせる人間存在にとって、このことは宿痾としてあり、かかるペテンは私たちの存在を規定しさえする。「生き延びるための思想」は、良いペテンであり、良いオカルトである。そして「生き延びるための思想」は、他者としての自他が生き延びるための思想でなければならない。価値の根拠は、最終的に当為命題です。つまり「生き延びるための思想」の根拠は、問われるものではない。サルも遺伝子も要らない。

社会というものは、他者の存在を認めるものですよにゃ。共同性だけではそこに社会といえるものはにゃーよね。これはもちろんわかる。

しかし

ニンゲンは社会というものに直接に帰属することはできにゃーのだと考える。帰属とは感情的な満足をもたらすものであり、帰属の対象は小規模な共同体、顔の見える関係が基本なのですにゃ。そして、「おおきな何か」への帰属はほとんど常にペテンでしたにゃ。また、帰属のにゃーところにはアトミズムが待っている。

社会というのは共同性の否定ではなく、他の共同性があることを相互に認証することによっても成り立つと考えますにゃ。

各共同体【間】の多層性・多元性・流動性のうちに社会があると僕は見る。だから、「死んだ子供」を共同性になかに封じ込めるのだと僕はいったのですにゃ。共同性のなかで「死んだ子供」がうろつくのはアタリマエ。しかし、他の共同性というものを認めなければならないとしたら、他の共同性に対して「死んだ子供」を横車につっこんで無理を通すことはできにゃー。

社会とは死んだ子供を止揚するところだと僕も思うぜ。


「おおきな何か」への帰属がほとんど常にペテンであったならば、「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属もほとんど常にペテンでした。生殖に伴う合理性はペテンを贖うものではない。人間は生殖に規定される存在である、という「悪いオカルト」を主張しておられるのではないのだと思いますが、またコルホーズやタタラ場のごときものを想定しているわけでもないのでしょうが――「おおきな何か」を棄却する限り、小規模な共同体への帰属と生殖における人間存在の規定は裏腹です。


そのような、生殖における人間存在の規定から離脱したくて、要するに、自身の性的な身体から逃れたくて、人は「おおきな何か」を要求し、観念の産物として自身の存在を規定することを望みました。神、人権、自由、平等、同胞愛、労働者の解放、インターナショナリズムフェミニズム。確かに、神への帰属も人権への帰属も自由への帰属も平等への帰属も同胞愛への帰属も労働者の解放への帰属もインターナショナリズムへの帰属も、フェミニズムへの帰属も、天皇や民族国家への帰属と同様に、ほとんど常にペテンでしたね。オカルトだから仕方がないし、イデオロギー的うわ言だから仕方がない。


で、「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属が意味する、人間は生殖に規定される存在である、という命題もほとんど常にペテンだと思いますが。ちなみに、この命題は、tikani_nemuru_Mさんが仰る「イースト氏」が「事実認識」とエクスキューズして再三主張していることです。そういうのが糞だと、フェミニズムは再三言ってきました。人間は生殖に規定される存在である、♀はその資源である、というのが前近代の論理でした。だから、深沢七郎は「アンチヒューマニズム」の文学を書いた。


「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属がなぜ「人間は生殖に規定される存在である」を意味すると言い切れるのか、と問われるだろうから書いておきますが、「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属についてそのように言い切れないのなら、それは、「おおきな何か」への帰属というペテンの産物です。神、人権、自由、平等、同胞愛、労働者の解放、インターナショナリズムフェミニズム。ペテンの産物で結構ではないですか。つまり、それが近代の達成である諸価値とその帰結なので。


もちろん、私は、「ニンゲンは社会というものに直接に帰属することはできにゃーのだと考え」ません。「諸個人は社会という大きなものに直接に帰属することはできにゃーと思って」いません。「べき論でなく、事実認識として」まったくそのように考えない。なぜなら、事実問題として他者は存在するからです。隣人として。「顔が見える相手」として。「直接的に顔の見える関係」の中で。私にとって♀は他者です。そして、身贔屓の論理がどのように他者を奪うか。


人間存在は観念の産物なので、心頭滅却すれば火もまた凉し、で、比喩ですが、誰かを焼き殺します。たとえば我が子を。苦痛を与えることが愛情の証明であるオカルト世界について縷々説明してきたつもりです。子に対する再三の打擲が「親の思いを子どもに刻み込む」ことだと公言する人の話を、最近ブックマーク経由で読みました。私も似たような愛情教育を受けてきたし(私は虐待とは思っていない)サディスト的に考えれば正しいのですが、それ体罰というより調教だよなぁ、と私は思ったのでした。苦痛を与えることが愛情の証明であるオカルト世界に年端もいかない幼子を合意させたいのかなぁ、と。

sk-44は「土人」「土人部落」というレトリックを使うけれど、僕ならば人類すべては「サルの一種」「サルの群れ」といいますにゃ


サルの群れは土偶を必要としません――超越性の依り代を。超越性の依り代が、つまり、エホバの顔が、現人神が、観念の産物であるところの人間存在において個人の尊厳の在処を指し示す。そもそも国家神道をペテンと言い切るなら、原理的には、あらゆる世界宗教をペテンと言い切るべきなのですが。もしペテンと言い切れないのなら、その理由を伺いたいところです。


国家神道は「小規模な共同体」「顔の見える関係」への帰属と親和的でない、というのは当然与太です。言うまでもなく「俺は、君のためにこそ死ににいく」と靖国神社は大変親和的であり、相互補完する共犯関係にある。国家批判ということならわかります。現在の靖国神社は一宗教法人です。私は政教分離原則を支持するものです。私にとっては「おおきな何か」への帰属も「小規模な共同体」への帰属も等しくペテンです。「良いオカルト」と「悪いオカルト」があるように「良いペテン」と「悪いペテン」もあるでしょう。


なお。

僕はアタマがワリイんでね。「メタ」な読み方というものがサッパリぱりぱりパリサイ派。ベタだのメタだの言われてもわかんにゃーのでごめんね。この本のこの辺でこういっているだろ、という話ならわかるんだけどにゃー。


では言い換えます。彼らの近代批判が含意する西欧文明の前提について踏まえておられますか、ということ。前世紀の歴史的条件を考量しておられますか、ということ。スターリニズムファシズムについてどこまで了解しておられますか、ということ。私たちが歴史的存在であることへの認識はあるのですか、ということ。文脈を捨象して文章を徹頭徹尾リテラルに読んでおられるのですか、ということ。なお。「手もとの本からは見つからにゃー」どころか私は資料に縁のない場所で記憶で書いているので(本とビデオテープの物置と化している自宅には長らく帰っていない)、このことについては諦めてください。

ソノトオリ。

だけどさ、

ブログで性犯罪被害者が声をあげたエントリのコメント欄に涌きだした連中*1の反応を思い起こしてみるに、「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対して腰がめっぽう重い親方日の丸と、コメント欄に涌いて出た連中は共犯関係にあるのではにゃーかと思ったんでにゃ。

親方日の丸とコメ欄に涌いた連中との違いは、「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」の是非だけで、それ以外の性差別容認については利益が一致しているのではにゃーのかと思って、ああいう書き方をしたくなったのよ。


ええ。レイピストが教師になることも、教師がレイピストであることも、この美しい国の美しい伝統です。レイピストが親方日の丸の陰に隠れるのは、「小規模な共同体」の公共に押す横車の結果ですが。その横車を、縁故社会と言います。中間団体が利権団体であることや不正の温床であることとは、つまりこういうことです。「まあそれはそれ。国家権力による各々のアトムへの直接的統制よりはマシ」と見ることができるか。


このとき、「国家権力による各々のアトムへの直接的統制」の最たるものである死刑を支持するのも「小規模な共同体」です。「中間団体は利益共同体でよく、愛国心だの共産主義だのといったイデオロギー的うわ言よりはよほどマシ」――利益共同体とは、身贔屓の結果人権侵害を隠蔽する装置です。皆で旨い飯が食えればそれでよい。「皆」とは「顔が見える相手」のことです。警察組織が身贔屓の結果人権侵害を隠蔽することは日本の常識であり世界の常識です。


昔、宮崎駿が『火垂るの墓』について言ったことですが。――あれは高畑勲が嘘をついたというよりは、野坂昭如が嘘をついた。戦時下に海軍士官の息子が餓死するなどということはありえない。上官同僚部下、海軍共同体が草の根分けてでも探し出して保護する。海軍とはそういうものだった。そして、海軍共同体に縁故なき平民の子が餓死した。そういうものを自分は糞だとずっと思ってきた、と。


言うまでもなく彼は左翼的な理想主義に共鳴してきた人ですが、こうした発想は「イデオロギー的うわ言」ですか。私は縁故なき平民の子なので、愛国心にせよ共産主義にせよ「イデオロギー的うわ言」の方が「まだしもマシ」と思います。歴史が証明している通り、イデオロギーで飯は食えないし食わせられない――だから「生き延びるための思想」が要請されている。


脱線。「小規模な共同体」とヒモのアナロジーについて思ったことがあるので少し書きますが。男たちは「ヒモが付いていない♀」を求めている。男のヒモ、あるいは共同体のヒモがついていない♀を。国家の法のヒモが付いていない♀を。ヒモが付いていない♀なら誰に気兼ねすることなく好きにできる。陵辱も殺害も遺棄も。「ヒモが付いていない少女/幼女」というのはある種の男にとって理想的な存在で、人身売買はそうしたニーズによく適合している。処女厨というのもそういうことでしょう。


ヒモが付いていない♀のことは誰も探さない。もちろん♂でも同様で、人買い、というかその筋の人たちはまずその辺を確認する。日本の家出人や行方不明者は年間どのくらいでしたか。要するに、下部構造にあってはニンゲン、ことに♀は現在も国家共同体のヒモによってその存在を規定されているので、ヒモが外れれば誰かの所有物になる。♀の存在はその性的な身体に結ばれているヒモによって規定されているので、存在の査定はヒモをもってされる。人権? 人格? 尊厳? そういうのは「イデオロギー的うわ言」です。


昔も今も、人は身体をその背後のヒモによって査定する。誰の所有物であるかを見る。誰の所有物でもないなら、それが資源である限り、誰かが所有権を得る。性的身体は資源です。身体の背後に存在するヒモのことを、マルクスは社会的諸関係と呼んだし、リベラリストは個人の身体を抑圧する国家共同体の権力と呼びました。フェミニストも。そして、♀の身体の背後に存在するヒモは、概ね性によって規定されている。今もなお。


余談ですが、仕事柄もあり、価値判断は措きこのような事実認識がデフォルトとしてあると、些か年下の交際相手との向き合い方はなんとも難しい。当たり前ですが、近代において♀は女性であって尊厳持ち合わせる人間なので、自分の身体の背後に存在する性によって規定された国家共同体のヒモを心底鬱陶しく思っている。そして、そのヒモを国家共同体から切り離すことと恋愛の相手に付託することを同一の抵抗にして自由の行使と考えているように私には映る。


それは、それこそかつて宮台真司が論じたような「自分の身体は自分のもの」という制服少女の選択へと行き着くのですが、思うに、自分の身体の背後に存在する性によって規定されたヒモを誰かに付託することが抵抗であり自由の行使であるということが、なんというか、痛ましい。


♀は性によって規定されたヒモにその存在それ自体を規定される――デフォルトで国家共同体に。すなわち家父長制に。そのことを承知でヒモを誰かに付託することが抵抗であり自由の行使と暗黙に考えている。結局、ヒモにその存在それ自体が規定されていることは変わらない。変えることもできない。だから彼女は対幻想まがいの恋愛幻想を求める。つまり、ヒモの問題ではないことをヒモを付託した相手に確認しようとする。矛盾なのだが。


ヒモの問題だろう、という私の事実認識が邪魔をして、その恋愛幻想にはどうしても乗れなかったりする。要するに、恋愛幻想をもって束の間にせよヒモを忘れることは虚偽としか私は思わないので、自由を得るためには自活する生活力を身に付けるよりほかない、と真っ当な生活の才に欠けるノンシャラン男としてもサジェスチョンするしかなかったりする。脱線でした。

親方日の丸に表現規制をさせないことが、当初からの僕の一貫した問題意識なのはご承知のとおり。性差別の解消が最有効手段のひとつであるというのもずっといっていることですにゃ。

差別撤廃は「ヒモ」ではなく市民の義務だしにゃ。

「おまえらがヒモをつけているから、俺は性差別撤廃という市民の義務を拒否する」

ではガキもいいとこだし、性差別と陵辱ゲーの関連を印象づけることにすらなっちゃうにゃ。差別撤廃を是とするのなら、リストにあげられたものを各自是々非々で判断していけばよいだけ。そっちのほうが得だと思うんだけどにゃー。

政府に対しては「表現規制だとかくだらねえこと抜かしてないで、性差別撤廃のために○○をやれ。」

人権団体に対しては「表現は関係ねえよ。エロゲ業界も俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」

と言えた方がいい。

自分の言い分を通すためには、いろいろやるべきことはあるわけだにゃ。


「差別撤廃を是とする」のは一連の議論の継続的な参加者ほぼ全員と思いますが。「差別もある明るい社会」という話は誰もしていなかったと記憶しています。で、「リストにあげられたものを各自是々非々で判断していけばよいだけ」という話ではないからはてなに限っても延々紛糾しているのだと思いますが。なお、少なくとも私は損得のために議論しているのではない。現在においては、tikani_nemuru_Mさんに応えたいから議論しています。


「人権団体に対しては「表現は関係ねえよ。エロゲ業界も俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」と言えた方がいい。」――私は人権団体に対して「俺も性差別撤廃のために匿名でブログで議論してるよ」とは流石に言えません。佐藤亜紀氏の言葉を借りるなら――「ちゃんと目を開いて」この国で暮らしているならあらゆる女性が差別に晒されていることはわかるはずなので、「直接的に顔の見える関係」に限ってもそうした人のために小指一本くらい動かすべきではあるでしょう。「小指一本」も、ニンゲンをアトム化する下部構造にあっては色々と難しいのですが、小指一本くらいは私も動かしている。tikani_nemuru_Mさんにおいてもそうでしょう。小指一本でキーボードを叩いても仕方がないと私などは思います。


で、それはわかるのですが、「エロゲ業界」が引き合いに出される理由が皆目わかりません。「人権団体」だろうが何だろうが、誤った指摘は誤りでしかない。「エロゲ業界」が指摘されるべき性差別撤廃とは、たとえば「国連の人権系の委員会」が述べるところの「男女賃金格差、女性の不安定雇用、同一価値労働同一賃金原則の確立、育児休業制度の整備など」のことですか。それは日本政府に対して要請されていることだと思いますが。そして、経団連トップを輩出するような日本を代表するグローバル企業から指折り数えて指摘されていくべきことです。


――言論の自由がない中国出身の監督による映画『靖国』上映に多くの人々が尽力したこの自由民主主義社会にあって、当然、表現内容に対する政府の容喙はあってはならないので。ところで自主規制というのがあります。それは、暗黙の容喙です。


「エロゲ業界」に対して日本政府が要請されるべき差別撤廃は職業差別の撤廃であって、つまり刑法175条の撤廃が筋。話はそれからです。撤廃しないまま公安の宣う「公共の福祉」を容認するのがこの国の民意なので、刑法175条を擁する日本国民はどの面下げて「エロゲ業界」に「性差別撤廃のために」要請できることがあろうか。――「エロゲ業界」の部外者としての私はそう考えますが。表現内容に対する暗黙の容喙を許しているのは私たち日本国民と、その「エロゲ業界」に対する差別です。


性差別撤廃を「国連の人権系の委員会」は言挙げても、職業差別の撤廃を言挙げることはない。そして、風俗ライターの経歴を持つ国会議員は世間様に謝罪しなければならない。出馬の際に経歴を開示すべき、という意見がありましたが、確かに、開示していれば、選挙期間中に森喜朗の面白い発言がまた聞けたでしょう。かつて買春を報じられた元首相の。


市民の義務は自発性の問題です。ヒモの問題であるはずがない。それこそ宮台真司の議論ですが。差別撤廃という市民の義務に対する自発性を「エロゲ業界」の中の人に対して本当に求めているのなら、「エロゲ業界」の外の人の「貴方」が最初に職業差別撤廃に取り組むべきです――市民の義務として。


「エロゲ業界」には官憲のヒモが付いている。そのヒモを外して、日本にあって表現の自由が空手形でないことを示すべく「刑法175条の撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ、表現内容に対する暗黙の容喙を許さないためにこういうことを実際にしてるよ」と、「エロゲ業界」の中の人に対して外の人としての私たちは言えた方がいい。言うまでもなく、刑法175条の存在と職業差別は連関している。管理売春の違法を口実に「売春婦」を差別する人間はこの自称法治国家には事欠きません。


「親方日の丸に表現規制をさせないことが、当初からの僕の一貫した問題意識」は結構ですが、なら刑法175条の撤廃が順序です。職業差別撤廃にtikani_nemuru_Mさんは同意されますよね。「差別もある明るい社会」を望んではおられないだろうから。ならば、「エロゲ業界」の中の人に対しては「俺も職業差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ。刑法175条撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ。表現内容に対する暗黙の容喙を許さないためにこういうことを実際にしてるよ」と言えた方がいい。


そのことに「エロゲ業界」の中の人が納得すれば、市民の義務に自発的にコミットするでしょう。つまり、表現内容に対する暗黙の容喙を「貴方」が許さないのであれば。「エロゲ業界」の外の人である「貴方」が。改めて確認しておきますが、これはヘイトスピーチの問題ではありません。「エロゲ業界」はゾーニングを採用しています。差別撤廃が市民の義務であるように、表現の自由も市民の義務です。今更言うまでもありませんが「エロゲ業界」は社会的少数者です。「オメコの汁で飯食うとる」人間はなべて差別の対象です。オメコの汁の二次元三次元を問わず。


ところが話は逆立ちしている。「エロゲ業界も俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」――「エロゲ業界」が性差別撤廃のために何を実際にするのですか。「男女賃金格差、女性の不安定雇用、同一価値労働同一賃金原則の確立、育児休業制度の整備など」のことですか。それはまず経団連に言うべきことで、「エロゲ業界」に対しては、刑法175条の撤廃が順序ですね。繰り返しますが、市民の義務である表現の自由のために表現内容に対する暗黙の容喙を断固として退けることが先決です。


これも念の為に書いておきますが、差別を理由とする表現内容に対する容喙は許されないというのが一貫した私の立場です。表現内容に対する容喙と批判は違います。ゾーニングも違います。もちろん、暗黙の容喙は実情ですが、自主規制が存在することと自主規制を肯定することはまったく違います。市民の義務であるところの表現の自由に関わる問題だからです。tikani_nemuru_Mさんは自主規制を是としておられるのですか。


はっきり申し上げますが、いや再三申し上げているのですが、性差別撤廃の議論に際して「エロゲ業界」に言及することは職業差別に与する行為です。当然、「国連の人権系の委員会」はこの日本での職業差別に大いに加担しているし、公安の仕事を大いに助けている。そのことに自覚がないのか、つまりその程度の見識なのか、それとも日本で暮らす人々に対して端から無責任なのか。「差別撤廃を是とするのなら、リストにあげられたものを各自是々非々で判断していけばよいだけ」――冗談ではない。「差別撤廃を是とするのなら」は無理を通して道理を引っ込ませる金科玉条ではない。


その一文に私が了解したことは、こうした文脈を踏まえないでtikani_nemuru_Mさんが論じておられるということです。御自身の言説が差別に加担していることがtikani_nemuru_Mさんの意図するところでも望むところでもないなら、性差別撤廃の議論に「エロゲ業界」を引き合いに出すことは即刻やめていただきたい。――「差別撤廃を是とするのなら」。


女買いに縁のない日本の大企業官公庁など存在しません。もちろん桜田門も。人権団体に対して「俺も性差別撤廃のためにこういうことを実際にしてるよ」と言えた方がいいのは御手洗経団連会長ですね。大手芸能プロダクションも「言えた方がいい」でしょうね。金で買った女を抱かせて国家を股に掛けた商談を成立させ経済成長を達成してきた日本中のプロジェクトXなサムライビジネスマンは過去半世紀に及んで猛省すべきですね。美しい日本の礎となった彼らは。


念の為に確認しておきますが、そしてどうやらこのことは改めて声を大にして言うべきことらしいので言いますが、「人権団体」に対して「エロゲ業界」が「エロゲ業界」として言わなければならないことなど何もない。言う筋合も問い質される筋合もない。エロゲがいつ人権を侵害しましたか。エロゲがいつ人権思想に抵触しましたか。私が関わっているような、現実の性的な身体が絡む「業界」なら人権侵害もありますが、しかしエロゲのそれは「ただの絵」です。こんなテンプレートを、なぜ今更、しかも声を大にして言わなければならないのか。


繰り返しますが、私を含めた、マジョリティとしての「エロゲ業界」の外の人が最初に職業差別撤廃、ひいては刑法175条の撤廃、表現内容に対する暗黙の容喙の撤廃に取り組むべきであり、そのことに納得すれば、公安の弾圧に晒され続けている社会的少数者としての「エロゲ業界」の中の人も性差別撤廃という市民の義務に自発的にコミットするでしょう。むろん、性差別撤廃と表現内容に対する暗黙の容喙の撤廃は両立します。性差別は表現内容に対する暗黙の容喙によって撤廃されるものでは当然ないので。マイノリティとしての女性は性差別について声を上げるに難い、「声を上げるに難い」状況こそ差別である、という話はネットでもリアルでもよく知っている。であるならば、マイノリティとしての「エロゲ業界」の中の人も当然同様です。


そのようなマイノリティを納得させられないなら、つまり市民の義務である差別撤廃や表現の自由が空文でしかないということになれば、「エロゲ業界」の中の人は下部構造で勝手にビジネスやるだけです。私が、いや多くの縁故なき平民の子が、そしてマジョリティとしての男性が、そうしているように。人権だの尊厳だのという「イデオロギー的うわ言」で飯は食えないので。それもまた「生き延びるための思想」です。私が、マイノリティとしての女性を納得させられなかったこととその結果のように。もちろん、現実の恋愛の話ではない。


「エロゲ業界」と言挙げてその中の人に対して外の人が性差別撤廃という市民の義務を要請するなら、まずは風俗ライター出身の国会議員が世間様に謝罪するようなふざけた事態がなくなるよう、職業差別撤廃、刑法175条の撤廃、表現内容に対する暗黙の容喙の撤廃、話はそれからですね。――「「エロゲ業界」と言挙げてその中の人に対して外の人が性差別撤廃という市民の義務を要請する」ことが、事実上の職業差別です。職業差別そのものです。意図なくとも加担しています。わかっておられますか。――「差別撤廃を是とするのなら」。

逐語的に答えているととんでもにゃー量になるので、あるていど絞って選択して答えていますにゃ。で、「ここのところの指摘は重要なはずだけど答えてねえじゃん」と思われるところはご指摘くださいにゃー。都合がワリイところを避けるという真似はしてにゃーつもりだけど、後回しにして忘れたり、正直言ってよくわからにゃーんでほっといてあるところもある。


別にスルーはまったく構いません。私とtikani_nemuru_Mさんが「逐語的に答え」合っていたらとんでもないことになるでしょう。「都合がワリイところを避けるという真似はしてにゃー」ことは知っています。私の書いたことに対して、tikani_nemuru_Mさんの応えたいように応えてくださってまったく構いません。記憶で書くことも脱線も含めて、私もかなり勝手にやっているので。ただし、「都合がワリイところを避けるという真似」をこちらのレスについて指摘されても困ります。それはtikani_nemuru_Mさんの発想です。「都合がワリイところを避けるという真似はしてにゃーつもり」は私も同様です。

『競輪上人行状記』明日からシネマート六本木で上映でござる。


ほぼ、id:zaikabouさんへの業務連絡。余計なことだったら申し訳ない。


あぐあぐ - 日毎に敵と懶惰に戦う

はてなブックマーク - zaikabouのブックマーク / 2008年7月9日

2.競輪上人行状記が先週上映されていたこと


(引用略)


この映画はねえ…。小沢昭一主演なんだけれど、10年以上前から見たいみたいみたいと思い続けているんだけれど、果たせていないんですよ…。今日になって、先週上映されていたことを知るなんて!ぐやじい! 日本映画チャンネルとかでやってるのかなあ。ほいで、やっぱり、傑作みたいじゃないですか。ううう、見たいみたいみたい!


もし今なお未見なら。そして御存知でなかったら。


http://www.cinemart.co.jp/theater/roppongi/lineup/20090817_4127.html

日活シネマクラシックVol.3 日活名曲アルバム 黛 敏郎]


私も、(今は亡き)シネマアートンでもポレポレでも観逃したので、江戸の敵を長崎で討つがごとく、下北沢と東中野の敵を六本木で討ちます。同特集で今日まで上映されていた野坂×今村×小沢のコラボによる『人類学入門』は、大昔に川崎で観ましたが、改めて観たかった、のだけど、都合が付かなかったのでした。小三治が仕掛けた小沢昭一御大の高座を新宿末広亭で堪能したのも今となってはよい自慢話也。


もし今なお未見で、御存知でなかったら、ということで、御連絡までに。「ううう、見たいみたいみたい!」私もまったく同感でした。この2年間。

「個人の尊厳」の贖い


選挙結果が判明して以来色々とゴタゴタして更新が滞りました。都民の私は比例は社民に入れました。


「種としての個体」と自民自滅後の表現規制(追記アリ - 地下生活者の手遊び

2009-09-04


反論、ということでは必ずしもなく、フォローとして少しコメントを。駆け足の雑駁な議論になりますが。


私の見解では。レヴィ=ストロースの仕事とは、共同体的社会の「可能性の中心」を近代の場所から読み解く試みでした。だから、彼は共同体的社会を人類の事実性の問題として単に主張しているのではもちろんない。共同体的社会の「可能性の中心」に「個人の尊厳」がある、とはたして彼は言ったか。――「個人の尊厳」を何によって贖うか、という問題です。

僕はここで、「権力と自然両者」を「システム」と読み替えますにゃ。

文化とはもともと「自然の鉄則」とか「弱肉強食の原理」「世界はこういうもの」とかいった「システム」への否定として現われたものですにゃ。

言い換えると、個々人の尊厳を確保するために文化が必要とされたのだにゃ。



というわけで、Yagokoroやkadotanimitsuru に応えると、

  • 個々人の尊厳・代替不可能性を担保するために文化があり公共性がある

となりますにゃ。日本国憲法の基本原理も個人の尊厳だしにゃ。個人の尊厳は自分でかってに獲得しろってのは、相当に極端な主張になると思うんだけど、その辺はわかってるんだろか?

だいたいね、個人において尊厳やら代替不可能性を獲得できるって、もうニンゲンを超越しとるぞ。お釈迦様とかイエス・キリストの次元。そんなやつ、人類史上で何人いるんだろ? まあ、個性トーテミズムをして個人の尊厳の獲得だとか勘違いしているノウタリンは掃いて捨てるほどいそうだけどにゃ。

というか、尊厳というものが個人で何とかするものなのであれば、性犯罪被害者の二次被害・三次被害なぞ考慮する必要なんてにゃーわけだ。


これは、tikani_nemuru_Mさんに対する反論ではなく、むしろ同意ということですが。「個人の尊厳」という観念と人権思想は違う。人権思想は代替不可能性を贖うものではない。「個人の尊厳」を共同性によって贖おうとした近代の宿痾として前世紀前半のファシズムはありました。レヴィ=ストロースは、「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの「可能性の中心」を、近代の洗礼を経ていない共同体的社会に見出しました。それは西欧近代人の視線以外の何物でもありませんが、そのことはむろん彼の問題ではない。


原始的社会において共同性によって贖われる「個人の尊厳」は、複雑化しシステム化する近代社会にあって、個性トーテミズムという無前提の自己信仰に取って代わられる。――レヴィ=ストロースはそのように主張しました。それは当然、人権思想の否定ではない。

文化とはそもそも反自然・反権力、つまりは反システムであり、システムとは個々人が取り換え可能な存在であることを基盤にして成り立つものですにゃ。

  • 個人が取り換え可能な存在であることに否定をつきつけるのが文化

なのであって、文化とは個人の尊厳という幻想のためにあるといえますにゃ。

そして文化とは表現によって表象される。



だから、表現は何でもアリにしておいたほうがよい、のかどうか?

表現が経済的に流通するものである以上、システムに片足つっこんでいるといえるわけで。



表現の自由」とは「蹂躙の自由」である
という言明について、これをシステム的に解釈するのか、文化の側で解釈するのか、という違いがありそうですにゃ。前者を国家による自由、後者を国家からの自由、と言い換えられるかもしれませんにゃー。


文化とは共同性の表象を指す観念です。だから、近代以降、文化と芸術は弁別された。共同性と別の場所で行われ、共同性を突き抜けて普遍へと至りうるものが芸術であり、そして芸術は公共を表象する。共同性によって贖われる「個人の尊厳」の表象としての文化をシステム的に解釈するのがスターリニズムです。


「個人が取り換え可能な存在であることに否定をつきつけるのが文化」その通りです。そして、ナチス頽廃芸術を措定し、同志スターリンロシア・フォルマリズムを掃討しました。複雑化しシステム化する近代社会にあって「個人が取り換え可能な存在であることに否定をつきつける」文化の観念が、国家システムと結託したとき、公共を表象する芸術をどれほど疎外してきたか。ひいては個をどれほど疎外してきたか。「それが個性トーテミズムである」というのが唯物論者の言い分です。モダニズムが花開いたのは、自由主義を奉じる社会でした。レヴィ=ストロースの芸術論は、敢えて言うなら、モダニズムの観念に対して些か懐疑的です。


「個人が取り替え可能な存在であること」に対する回答として、プルーストジョイスもウルフもナボコフも、デュシャングリーンバーグゴダール小林秀雄も、その「芸術」を提示しました。もちろんカフカも。村上春樹も。それが「否定をつきつける」ものであったか――簡単に言えることではありません。ただし。彼らの営為は文化へと捧げられたものではない。


繰り返しますが。レヴィ=ストロースは、「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの可能性の中心を、近代の洗礼を経ていない共同体的社会に見出しました。「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの表象が文化としてあるから、それと対立するものとして表現はあり自由主義はある。「表現」とは「「個人の尊厳」を共同性によって贖うこと」ではありません。共同性の外延をいくら延長したところで「表現の自由」という観念には辿りつきません。共同性を突破する場所として表現の自由はあるからです。そのようなものとして、公共は用意されているからです。


表現の自由」が「蹂躙の自由」でもあるのは、当然、「個人の尊厳」を共同性によって贖うことの裏腹です。原理的に、かつ本質的に、「表現の自由」は「蹂躙からの自由」としてあるので、「個人の尊厳」が共同性によって贖われることがそもそも蹂躙です。「表現の自由」がおよそ普遍の観念とされるのは、システム化しグローバル化する近代社会にあって「個人の尊厳」が共同性によって贖われることこそ国家というシステムの最たる機能だからです。――靖国神社のように。

表現の自由」の名における蹂躙がシステムに依拠したものであると捉えるのか、文化に属したものであると見なすのか? どちらかが一方的に正しい、という話にはならにゃーでしょう。

ただし、蹂躙・陵辱表現が日本社会のシステマティックな女性蔑視とはまったくの無関係という証明はほぼ不可能だろにゃ。悪魔の証明だし。というわけで以下のようなことをいわれているわけだにゃ。


(引用略)


見てのとおり、「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」が性差別的な政治的社会的システムの一環として認識され批判されているのは明らかにゃんな。


「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」と「国連の人権系の委員会」は「認識」しているようですが、それは自由主義社会における自由な表現です。表現を「政治的社会的システムの一環」として「認識」しあまつさえ「批判」するのがスターリニストです。いや、国民選択の結果政権交代もされたし、この国でも冷戦が終わったとは言えるので、スターリニストであることは構わないしスターリニストであることに道理がないものではもちろんないのですが、しかし私はその考え方には乗れない。


「批判」は結構ですが、「性差別的な政治的社会的システム」を是正するために表現をその「一環」と「認識」する発想は、誤りです。そしてスターリニズムです。私は自由主義社会を支持する者なので、表現に及んで「性差別的な政治的社会的システム」を是正しようとする発想にはまったく同意できません。なお、人権思想にコミットすることは「国連の人権系の委員会の勧告に従う」ことではもちろんありません。


付け加えますと、表現規制は性差別是正のもっとも安易な解決策です。表象とその公的流通の問題なので、お国の官憲が上意下達で規制を敷けばよいし、過去の経緯から業界は空気を読む。たとえば「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」 や「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」は具体的かつ物理的な暴力の問題であり、本職のDQNが絡んでおり、多く私的領域や擬似的な契約に隠蔽されていることなので、解決に人力を必要とします。その「人力」を「国内NGO」とその国境を越えた連携に頼っているのが現在の実情です。そして、そのようなNGOの国際的連携に対するコミットさえ日本政府は滅法腰が重い。むろん、人手もろくに出さない。だから顰蹙を買い、結果、「国連の人権系の委員会」が斯様な勧告を出す。筋としてそういう話なのですが、しかし。

引用中の指摘された諸事項について僕は個にゃん的には「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」はビミョーだけど、その他の項目はすべてもっともだと思いますにゃ。


当該の勧告に対して「「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」はビミョーだけど、その他の項目はすべてもっともだと思います」とは私は言えない。レイヤーの相違する話を一緒くたに並べていることが彼らの判断とその安易の証明だからです。レイヤーの相違は、いずれも人権思想に由来する。「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」を「是正」するのは「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に滅法腰が重い本邦の政府です。


そして。表現規制にお国と官憲の腰が軽いことは「性的搾取を目的とする人身売買や研修生問題」「婚姻内レイプ、児童に対する性的虐待、DV、性暴力、セクシュアルハラスメントなど、女性に対する暴力防止対策」に対する腰の重さと裏腹としてある。これら一切がひっくるめて問題、というよりこのことが問題の本丸なので、「国連の人権系の委員会」は問題の本丸に対する認識に些か欠けている、と私は判断せざるを得ません。それは、日本が先進民主主義国を名乗っていることのツケではあるでしょう。つまり、この「問題の本丸」はいわゆる途上国においては普通にあることなので。


なので、自民党政権であれ民主党政権であれ、問題は統治権力に対する批判として問われなければならない。それが建前であるにせよ、自由主義社会の自由な表現を「女性蔑視的なポルノゲームの氾濫」と「認識」して性差別是正の的にすることは、間違いです。なぜなら、自由主義社会の自由な表現という建前を「公共の福祉」という建前を宣う国家から勝ち取るべく戦ってきた表現者を、維新以来の歴史において私たちは知っているから。そして、刑法における猥褻の規定はなんら廃されたわけではない。


武智鉄二の名前を、彼らは知らないでしょう。要するに、国情に対する理解が足りない。日本の問題は――国籍の如何に関わらず――その国に暮らす人々が解決に取り組むべきだと、戦後、この国においてまがりなりにも守られてきた自由主義社会という建前にコミットする私は思います。

その他項目において性差別が撤廃・縮小されて、それでもエロゲが元気だったら、エロゲと性差別は無関係、つまり陵辱表現が文化の側にあったってことの証明になるでしょうにゃ。是非とも証明してみたいところにゃんな。皮肉でなくそうなる可能性はあるし、そうなったらオモチロイとも思いますにゃ。


このくだりについては、書いてきた通り文化観が相違するので、なんとも言えません。いうなれば、陵辱は近代日本の文化です。陵辱によって「個人の尊厳」を贖うことが近代日本の共同性として機能していた時代がありました。もちろん、過去形ではまるでない。だから、フェミニズムは異議申立をした。陵辱によって「個人の尊厳」を贖うことの供犠とされてきた存在が声を上げた。私たちにも「個人の尊厳」がある、と。それは人権思想の問題では必ずしもない。なぜなら、近代日本の文化としての陵辱は、常に比喩なので。比喩であることが建前なので。


共同性もまたシステムです。共同性をシステムとして陶冶したのが日本という近代国家です。戦前も、戦後も。明治憲法下も、戦後憲法下も。共同性というそのシステムは、かくも複雑化しグローバル化する以前の、この国の近代化と経済成長を支える社会システムとして代替的な役割を果たしていた。山本七平は、あるいは丸山眞男は、それをこそ喝破しました。


しかしグローバリゼーションと共に社会システムはシステムそれ自体として複雑化し「洗練」もされ、グローバル化に伴う下部構造の確変は、戦後日本において社会システムを代替してきた共同性さえ破壊した。獅子身中の虫のように。小泉純一郎は、あるいは竹中平蔵は、その旗をこそ振りました。結果、システムから遺棄された者による共同性への回帰という現在の様相がある。かつて社会システムを代替してきた共同性への。そして彼らは、そのゆえに、社会システムとして共同性を要求する。結果、国籍至上の排外主義です。


それは、無所属の城内実小選挙区で当選するし、在特会も躍進するでしょう。彼らが振る日の丸は、共同性の象徴です。――喪われた共同性の。日本のいわゆる「地方」は、とっくのとうに、システムそれ自体として「洗練」された社会システムから遺棄されている。彼らもそのことに気が付いている。かつて社会システムを代替した共同性と共に、世界の選択に伴う社会システムそれ自体の陶冶からブースターのように切り離されて。そしてグローバル化に適応した新自由主義の小さな政府は月を目指す、かといえば、そうではなかったから民主主義は面白い。


それが近代の達成であるか。否、という有権者の判断が民主党政権を選択しました。「自民自滅後の表現規制」という話なら、私が考えるのはこういうことです。そもそも「自民自滅」と私は考えない。私は小選挙区でも民主党には投票しませんでしたが、国民選択の結果として民主党政権がある。なお。

善悪が社会と無関係に個人に属するの? すさまじく斬新にゃんな。何にしても、尊厳は個人で自前調達かー。すっごいねー。


kadotanimitsuruさんと私はたぶん意見が相違するのですが、しかし、「善悪が社会と無関係に個人に属する」のが人間にとって神の存在する意味です。あるいはかつて明治憲法下の天皇が存在した意味です。カントの用語では「超越性」という言葉になりますか。クリント・イーストウッド主義者であるところの私にとってもそうです。「尊厳は個人で自前調達」も同様です。中島義道も同じことを言うでしょう。それこそが「個人の尊厳」です。繰り返しますが、「個人の尊厳」という観念と人権思想は違います。


そして。ハーバーマスが取り組んだのは、神なき世界において、つまり「超越性」に拠らない場所で、「個人の尊厳」を社会的存在としての人間が獲得する枠組でした。たぶん、この点について、私とtikani_nemuru_Mさんの更なる意見交換の契機があるのでしょう。私は、そのハーバーマスの取り組みを、極めて大事なことと思っている。なぜなら――神なき世界を生きる人間は、「個人の尊厳」を、神以外の何物かによって、贖わなければならない。神の愛ではなく、具体的な誰かの愛によって。


なお、原理的に、かつ本質的に、「表現の自由」は「蹂躙からの自由」としてあり、表現とは「蹂躙からの自由」の別名なので、当然、あらゆる表現は政治的です。原理的には。しかし自由主義社会は、タダ乗りを認めます。それが自由主義社会の価値ですが、しかしそのことは同時に、自由主義社会それ自体の危機を時にもたらす。一般投資家の株式市場への参入がライブドアショックを引き起こしたように。これが、再三言われている千日手であり、このことも原理的問題です。

表現規制から遠く離れて


世間様から公共圏へ - 地下生活者の手遊び


先のエントリを挑発的に書いた甲斐があったようで、議論が前に進みそうです。包括的な社会観の議論として、私とtikani_nemuru_Mさんの見解の相違点について確認していきたいと思います。

確かに各人が緊密に結びつけられて相互に影響がでかいところが「世間」の特徴のひとつにゃんが、それだけで「世間」となるわけではにゃー。

  • 「世間」というのは、「個人の尊厳」がないところ

これは基本にして必須の論点のはずだにゃ。阿部謹也も「世間とは何か」で言っていたぞ。


仰る通りです。だから、そういうのを「東洋の土人部落」と言うのだと思いますが。佐藤亜紀氏も使用していた「世間様」という言葉を一連の議論で最初に使用したのはtikani_nemuru_Mさんだと思いますが、その典拠は阿部謹也の世間論だったのですか。ならば「東洋の土人部落」という話には必ずしもならないでしょうね。つまり、価値の問題として。誤解した人がやはりいたようですが、私は特定宗教を批判しているのではない。しかし、信教の自由とはすなわち政教分離であり、政教分離によって信教の自由が実現される、そのような「自由な社会」を言祝いではいる。

やふ掲示板以来のネット知己に、ypcpn8というメリケン在住の聖書律法主義者がいますにゃ。以前、彼がいっていたことなんだけれど、彼の属する教会のコミュニティにおいては、当然のように障害者に対するケアがコミュニティの成員によって行われているそうですにゃ。障害児の親は、そのコミュニティが存続する限りにおいて、障害児たる自分の子供の将来に何の心配もいらにゃーのだそうだ。

宗教ってものにはこういう一面があり、メリケンにおけるキリスト教の影響力をただの愚昧とみなすことは何重にも間違った認識だということにゃんね。



まあ、それはそれとして、この教会コミュニティは「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」の典型のひとつですよにゃ。そもそも教会とは個々の代替のきかなさを説き、前のエントリで触れた「死んだ子供」を扱う共同体ですにゃ。


教会においてはそうでしょう。神からの授かりものであるところにおいて「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である」ことが教義だから。そこには価値が埋め込まれているし、私も素晴らしいと思う。マザー・テレサが素晴らしかったように。そのことが「ただの愚昧」であるはずがない。そして、公的領域において、その価値を洗練させたものが人権思想です。そこには、政教分離に基づく信教の自由というオプションが追加されている。キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想は、自由主義とセットとしてある。それが、メリケンという国家の選択です。


ところで、私は、tikani_nemuru_Mさんが紹介してくださった上の話を、次のように読みます。教会のコミュニティに属さない障碍児の親は、そのコミュニティの存続の如何に関わらず、障碍児たる自分の子供の将来への心配に日々頭を痛める、と。大江健三郎のように。そのような障碍児の親が「自分の子供の将来に何の心配もいらにゃー」ようにするためにこそ、社会はあり、社会は公的領域に帰属する。信教は自由です。そして、障碍児の親が信教によって「自分の子供の将来への心配」が左右されないようにするために、公的領域に帰属する社会はある。


障碍児の親が何を信じていようと、どのような価値観の持ち主であろうと、「自分の子供の将来への心配」が左右されることがない――そのために社会はある。そして社会は公的領域に帰属している。だから、信教が自由であればこそ、信教が公的領域に横車を押してはならない。特定の信教が公的領域に横車を押すことは、他なる特定の信教の自由を抑圧する。かつて国家神道の胴元であった靖国神社の政治性にそれを見る人がいるように。


政教分離とは、そのことです。それは、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が、導き出した解です。子供は他者であり、他者であるがゆえに育児は公共的である。そのようにtikani_nemuru_Mさんは述べておられたと記憶していますが、私の考えではこうなります。育児は公的領域であるところの社会に帰属する、と。当然、ここには差異がある。その差異が、私とtikani_nemuru_Mさんの社会観の根本的な相違なのでしょう。


そのような社会がこの「東洋の土人部落」にあってはまともに成立せず機能もしていないからこそ、自分の子供の将来への心配に日々頭を痛める、たとえば障碍児の親は、信教とそのコミュニティにすがる。結果、ホメオパシーの流行と、我が子のためを思っての幼児虐待です。キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想は、そのことを許容しません。


「世間様」とは、まともに成立せず機能もしていない社会の代替物です。戦後、創価学会が躍進したのは、新憲法下にあって人権思想を言祝ぐ日本社会が社会としてまともに成立せず機能していなかったことの証左です。故郷という共同体から遺棄され徹底的にマージナライズされた都市住民にあって「自分の子供の将来への不安」は、信教とそのコミュニティにおいてしか贖われることがなかった。その歴史を忘れて、やれ政教分離だの「そうかそうか」だのと言っているのは何なのか、ツケが回っているだけだろう――と私は紋切型の学会批判を見るたび思います。私が生まれ育った東京の団地には、学会員が多かった。

そう、この箇所はソノトオリと僕も思うにゃ。「個人の代替不能が個別利害の問題としてのみある」のは確かにムラ社会であり世間様だにゃ。

しかし、

なぜ個人の代替不能を「個別利害の問題としてのみ」見るんだ?

「個人の尊厳」から導かれる代替不能とそのためのコミュニティという側面がありえにゃーとでも?



無論、教会コミュニティが理想的で抑圧ナシってことは多分にゃーだろ。ニンゲンとニンゲンが緊密に結びつけられたところには「うざさ」もついて回るだろうにゃ。

だけどさ

個人の尊厳を運営原則としたコミュニティは、ムラ社会とか世間様とはやはり違うものなのでにゃーのか? それは世間様と地続きであるかもしれにゃーが、同じものではにゃーだろ。


私がムラ社会を価値判断において非とするのは、ムラと社会は相容れないと考えているからです。社会の機能不全の代替物としてムラがあると考えるからです。政教分離に基づく信教の自由の機能不全の代替物として疑似科学があると考えるからです。「「個人の尊厳」から導かれる代替不能とそのためのコミュニティという側面がありえにゃーとでも?」ありえますよ。信教とそのコミュニティにあっては。「個人の尊厳を運営原則としたコミュニティ」にあっては。ムラ社会なり世間様なりには「ありえにゃー」だけで。


「東洋の土人部落」とは政教分離の不可能な政体の問題です。つまり、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が成立しない政体の問題です。それをしてムラ社会と言い、世間様と言います。新憲法下の日本の政体は、政教分離を掲げながら、なんら実現されることがない。もちろん、創価学会のことを言っているのではない。「死んだ子供」が蘇り、公的領域に横車を押しまくっている現在のことです。結果、信教の自由さえ実現されることがない。つまり「個人の尊厳」がない。


キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が規定する信教の自由は、内心の自由へと敷衍される。ひいては表現の自由へと。公的領域の問題として表現の自由を問うとは、公的領域を用意した人権思想ならびに自由民主主義政体をその起源において問い直す、ということです。そのことに対する認識とコミットが足りない――tikani_nemuru_Mさんにせよ、佐藤亜紀氏にせよ、あるいはApemanさんにせよhokusyuさんにせよ、今回の一連の議論において規制反対論に対する疑義として指摘されたのは、そのことでした。

公共圏論とは、「個人の代替不能が個別利害の問題としてのみあるムラ社会の論理」にダメ出しするものであるのは確かだにゃ。ただし、「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」に対してダメ出しするものではにゃーぞ。個人の尊厳とは、ひとりひとりが代替のきかにゃー存在、かけがえのにゃー存在であるということだろ、少なくともタテマエ上は。

そして

「個人の実存や傷つく心」や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押すこと」を許容すべきでにゃーからこその公共圏だにゃ。


公共圏論が「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」に対してダメ出しするもの」と私は書いていませんし、都市のモラルと公共圏論が一致するとも書いていません。それはハーバーマス的には前提と思うのですが。公共圏論にかこつけてムラ社会を言祝ぐことはやめてくださいと私は言っている。言祝いでおられないなら結構です。正反合ということで、相互の挑発を止揚したいと思います。


「個人の尊厳とは、ひとりひとりが代替のきかにゃー存在、かけがえのにゃー存在であるということだろ」そうです。そして、そのような「個人の尊厳」を、信教が実現するのではなく、人権思想において信教の自由を実現する政教分離された社会が、すなわち自由民主主義政体が実現する。そのように、この「東洋の土人部落」にあっても、公的領域に帰属する社会は要請される。公的領域に帰属する社会が「個人の尊厳」を実現することは、物心を意味する。たとえば公的福祉として、表現の自由として。それが、私の社会観の大枠です。

光市母子殺害事件差戻審の際の顛末には僕もまったくもって辟易三昧ですにゃ。まさに「個人の実存や傷つく心」や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押」しまくり。

いったいなんでこんなことになるのか?



「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回るものなのに、それを僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であることを認めにゃーからだ。

だのに

「「自由な社会」のオプションにそれを追加しないでいただきたい。そのオプションは「自由な社会」それ自体の価値を毀損する。それこそが「表現の自由を脅すもの」だからです。」

だってえ? それはオプションなどではにゃー。「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?

はいはい、「私たちの社会がムラ社会であることを免れないことと私たちがムラ社会を真っ平御免と考えることは両立しうる」でしょうにゃ、確かにね。導き出された当為にコミットしてくれ。多いに結構。

でも、

僕たちがニンゲンという生き物である限り必然的について回る「死んだ子供」を実際にどうする? 

殺す? どうやって殺す? そもそも殺せる? これは神殺しにゃんぜ。だから殺しても生き返るだろ。まあ供養次第かもしれにゃーが。

それとも飼いならす? 飼いならすなら放し飼い? それとも檻にいれる? エサは? 人身御供でもするかい?

確かにヤスクニって厄介だよにゃ。



sk-44はさ、「真っ平御免」としか言ってにゃーよね。括弧にいれてるだけ。見たくにゃーだけ。「知識」をシカトして「価値」を言祝いでいるだけ。

それじゃ祟られるぜ。

光市事件の顛末ってのは、「死んだ子供」を見ないようにしてきたことの祟りだろ。

「死んだ子供」ってのは祟るぜー。道真や崇徳天皇どころじゃにゃーぞ*1。



ローチは正しいんだにゃ、ただし大文字のシステムとして。

だから、レヴィ=ストロースを引っぱってこなければならなかったの。

自由科学にコミットするのなら、いっぽうで怨霊を何とかしなきゃならにゃーんだ、この国では。


「「死んだ子供」ってのは祟るぜー。」ええ。だから祟りを鎮めるためにも靖国神社天皇陛下は御親拝されるべきですね。――そういう話は通らない、という話を私はずっとしています。日本が自由民主主義政体である限り、それこそ「死んだ子供」という心の問題が公的領域に押す横車以外の何物でもないからです。信教が公的領域に押す横車そのものだからです。


「光市事件の顛末ってのは、「死んだ子供」を見ないようにしてきたことの祟りだろ。」ええ。だから私は裁判員制度に賛成です。市民の司法参加に賛成です。市民とは、心の問題を公的領域へと止揚しうる「死んだ子供」の親のことです。本村洋氏がそうであったように。


「「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?」そうですよ。だから、マージナライズされた者は「死んだ子供」を公的領域へと止揚したとき初めて市民として振舞いうる――自由民主主義政体にあっては。その、「自由民主主義政体における市民」が――こと性の問題にあっては――偽善と欺瞞の極みである、というのが私の書いてきた「知識」ですが。そのような「知識」の問題を退けてきたtikani_nemuru_Mさんは「価値」について問うておられる、と私は理解していました。

sk-44はさ、「真っ平御免」としか言ってにゃーよね。括弧にいれてるだけ。見たくにゃーだけ。「知識」をシカトして「価値」を言祝いでいるだけ。


「真っ平御免」というのはムラ社会を言祝ぐことに対する価値判断のことですが。「「知識」をシカトして」は私の「真っ平御免」同様レトリックなのでしょうが、私としては困惑するところです。私にとって「「知識」をシカトして」いるのはtikani_nemuru_Mさんなので。

自由科学にコミットするのなら、いっぽうで怨霊を何とかしなきゃならにゃーんだ、この国では。


まったく同意です。だから、「死んだ子供」は社会において止揚されなければならない。社会がなぜ要請されるか。「死んだ子供」を止揚するためです。「死んだ子供」を止揚するために公的領域が要請される。その公的領域にあって「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞う存在のことを市民と言う――自由民主主義政体では。よって、私はリバタリアニズムを必ずしも受け容れることはできない――この点では、私はNaokiTakahashiさんが示しておられるような規制反対論とは、おそらく考えと立場を異にするものです。


「死んだ子供」が単純に共同体や国家において止揚されるなら、それは靖国神社が要求していることです。それこそレヴィ=ストロースが指摘したように、人類社会始まって以来延々と繰り返されてきた営為です。それは、自由民主主義政体下の現在にあっては――id:chuuburarinさんのブックマークコメントを借りるなら――「違う信仰者や祀られたくない人や日本に帰属しない戦争被害者を尊重」しないで行われていることです。だから8月15日に「反靖国」デモが行われ、結果、公共圏でのviolenceをもって贖われる。


「死んだ子供」が社会において止揚されること。「死んだ子供」を止揚するために公的領域が要請されること。公的領域において「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞うことに私たちが市民として合意すること。それが、社会合意であり、現在の自由民主主義政体の起源にある考え方です。この考え方にあっては、ヘイトスピーチ規制は十分に検討の俎上に載る。佐藤亜紀氏の立論の趣旨も、大筋ではこの線です。保守主義的な立場にあってはそもそも「止揚」というのが綺麗事でしかないので調停として問われるにせよ。


「死んだ子供」の社会における止揚の可能性をその不可能性の臨界において問い続けるのが政治的立場としてのリベラルです。tikani_nemuru_Mさんが「現在の議論との距離をはかる指標としてブクマ」された私の過去エントリに即して言うなら――「「死んだ子供」の社会における止揚の可能性をその不可能性の臨界において問い続ける」リベラルの知的営為に限界を感じた東浩紀氏は現在のスタンスへと着地した。「死んだ子供」の社会における止揚を放棄した。「社会における止揚の可能性をその不可能性の臨界において問い続ける」類の論理の研鑽に――あるいはアクロバットに――見切りをつけた。


それはそれでひとつの立場と今では思いますが、結論としては「「死んだ子供」の社会における止揚の放棄」と「工学的アーキテクチャに新たな止揚の可能性を見る」なので、そしてそれが「ポストモダニズム系リベラル」であるとのことなので、それは顰蹙されるだろうし、「市民として」私も顰蹙しました。


私たちが在特会を顰蹙するのは、市民を名乗りながらその言行において先祖返りであり、自由民主主義政体の正統性の在処を理解せず、挙句社会合意をなんら顧みないからです。「差別主義者の集団だから」というテンプレートは、容易にシニカルな対抗言説を用意する。なお、私は人間に貴賎があるとは思いません。賎しい振舞いはあっても。

「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回るものなのに、それを僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であることを認めにゃーからだ。

だのに

「「自由な社会」のオプションにそれを追加しないでいただきたい。そのオプションは「自由な社会」それ自体の価値を毀損する。それこそが「表現の自由を脅すもの」だからです。」

だってえ? それはオプションなどではにゃー。「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?


この点において、私とtikani_nemuru_Mさんの社会観の根本的な相違があるのでしょう。自由民主主義政体にその正統性を負う「自由な社会」は、「死んだ子供」という迷信を社会において止揚することをその目的とする。そのために公的領域が要請され、「死んだ子供」が社会に止揚されるための公的領域における「市民」の振舞いが要請される。社会合意とはこのことです。だから――「自由な社会」のオプションに「死んだ子供」を追加しないでいただきたい。「自由な社会」とは価値を負う概念だからです。キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を負う概念だからです。


「オプション」というレトリックで間違いはないのです。「死んだ子供」という迷信を社会において止揚することをコンセプトとする「自由な社会」のオプションに改めて「死んだ子供」を追加することは、リベラリズムにあっては、反動であり先祖返りでしかない。ただし。それを反動と先祖返りと指す限り、「自由な社会」がその正統性を負うところの自由民主主義政体とその起源について、問い直すことが必要でしょう。自由民主主義政体を言祝ぐ私たちは、それを止揚するために自由民主主義政体を要請し、市民社会を要請した「死んだ子供」のことを忘却してはいまいか、と。


しかし、tikani_nemuru_Mさんがされた反論はそのようなものではない。「それはオプションなどではにゃー。「死んだ子供」とはマージナライズされたものにとっては生きるうえでの前提ではにゃーのか?」――「死んだ子供」がマージナライズされた者にとっての生きるうえでの前提であることと、「それはオプションなどではにゃー」といかなる関係が? 


前者を止揚するために「自由な社会」は要請される。その、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を負う概念に「死んだ子供」というオプションを追加するのが、文字通りの感情論であり、保守反動です。佐藤亜紀氏はそのような感情論を述べてはいなかった。正直、私とtikani_nemuru_Mさんと、どちらが左翼かわからなくなってきました。


「「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回るものなのに、それを僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であることを認めにゃーからだ。」「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回ることと、「死んだ子供」が「自由な社会」の条件であることは全然違います。前提ではあるでしょう。前提を忘却していた者もいたでしょう。前提の忘却において在特会は典型的でしょう。しかし。「自由な社会」の条件は「死んだ子供」という迷信の公的領域における止揚であって、「死んだ子供」という迷信そのものではない。


「自由な社会」は「死んだ子供」をその目的とはしない。「死んだ子供」それ自体が目的であるならば、在特会の「外国人売春婦は私たちの祖父を貶めるな」は正しく市民的行為です。そういうのを共同幻想と言います。「自由な社会」の目的にして条件は公的領域における「死んだ子供」という迷信の止揚であり、市民的行為とは、公的領域において「死んだ子供」という迷信が止揚されるべく振舞うことです。「自由な社会」が「死んだ子供」それ自体を目的とするなら、公的領域など要らない。一切を共同幻想で塗り潰せばよい――靖国神社の境内のように。


「「死んだ子供」という迷信が、いかなる人類社会にもついて回る」こと、それが「僕たちの「自由な社会」の前提であること、条件であること」。私がシカトしているとtikani_nemuru_Mさんが主張される「知識」がそのことなら、こちらのアンサーは以上です。私は、「死んだ子供」を止揚するための公的領域を要請する「自由な社会」を是とするので、「死んだ子供」を目的とするムラ社会は真っ平御免です。価値判断の問題です。これは、リベラリストにとって、あるいは近代主義者にとって、イロハのイのような前提と思いますが。


レヴィ=ストロースも先祖返りは是としないでしょう。先祖返りとは、区別と差別の弁別を巻き戻すことです。人類社会は、近代の達成である諸価値において、区別と差別を弁別してきました。トイレの♂♀別は差別ではないが、しかしGIDにおいて差別問題たりうる。そうした精緻な議論が交わされるのがリベラリズムです。念の為に申し上げておきますが、レヴィ=ストロースがフィールドワークしたような社会にあっては「売春婦」は区別の対象です。♀は共同体の所有物なので。それを「差別」と近代の達成である諸価値は呼ぶことにしました。で。

その曲解の検討は後でするとして、「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を都市のモラルとして言祝ぐことが僕には理解できるものではにゃー。都市には確かに好意的無関心というものがあるけれども、それは互いをニンゲンと認めているからだにゃ。「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」に個人の尊厳などどこにもなく、ここから帰結するのは女工哀史自動車絶望工場であり秋葉原ダガーナイフによる無差別殺傷、あるいは♀を「輸入」して強制売春させ、妊娠でもしたら強制中絶して血の一滴まで搾り取ることがほっておかれる、つまりは他者への恐るべき無関心と冷酷さが帰結することになるんでにゃーの。


こういうのを真正の感情論と言います。「他者への恐るべき無関心と冷酷さ」が「自由な社会」の前提であり、条件であるからこそ私たちは近代の達成である諸価値において区別と差別を弁別し、「死んだ子供」を止揚するために公的領域を要請し、公的領域において「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞うことに市民として合意する。


それが、社会合意であり、自由民主主義政体の起源にある考え方です。「他者への恐るべき無関心と冷酷さ」がキリスト教の教義に埋め込まれていた価値観か、と問うなら私はYESです。そして、その洗練の結果としてあるのが人権思想と考える。もちろん、これは人権思想批判ではない。キリスト教批判でもない。ただ、そのようなものとしてある人権思想をレヴィ=ストロースは批判しました。


――tikani_nemuru_Mさんによれば「曲解」とのことですが、反論を拝見した限りでも、レヴィ=ストロースに対する見解の相違、というのが私の判断です。それが議論の本筋ならそちらについて論じても構いませんが――レヴィ=ストロースがルソーを否定したと私はまったく書いていないのですが、そのようなレベルで応酬を繰り返してもたぶん横道でしょう。本筋。

まあ、確かに現在の都市は「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」になっちゃったのかもしれにゃーがね。それは言祝ぐようなものではにゃーよ。島宇宙を言祝いでどうすんの?

島宇宙ってのは、多様性・多元性が個々人にとっては何の意味も持たにゃーということにゃんぞ。

「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」ということ、つまり他者の存在による多様性が各個人において何も意味がにゃー多様性を言祝ぐのであれば、民族学のフィールドワークなんて面倒なことしてにゃーで、奪いつくし焼きつくし殺しつくして、戦利品を博物館に入れとけばいいだろ。大蟻食のいうとおり、みんななかったことになるだろにゃ。

「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を言祝ぐ多様性というのは、「博物館にいろんな珍しいものがあります」という多様性でしかにゃーよ。



そういう多様性を拒絶するから、誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースを引っ張り出して、受苦だの内省だの死んだ子供の祟りだの共苦だのといった宗教がかったオカルトをしゃべっているんだにゃ*2。


下部構造においても上部構造にあっても――個人の代替可能性は近代の宿命です。それに対する反動として前世紀前半のオカルティズムとファシズムはあった。付け加えるなら精神分析の流行も。誇り高き唯物論者であるレヴィ=ストロースは、また大戦の時代を生きたレヴィ=ストロースは、近代の宿命としてある個人の代替可能性に対する反動としてのオカルティズムを言祝ぐようなことはしなかった。それは、民俗学に埋め込まれていた「他者の発見」という価値そのものです。


オカルティズムもファシズムも、付け加えるなら精神分析におけるユングの台頭も、「他者の発見」からもっとも遠かった。別の言い方をするなら。近代の宿命である個人の代替可能性と近代の達成である諸価値は相互補完の関係にある――たとえば人権思想は。大戦後、サルトルはそれをこそ否定してアンガージュマンを掲げたし、たとえばトーマス・マンは『ヨゼフとその兄弟』を著しました。ドラッカーがマネジメントを提唱したのも同じ時代のことです。

以前のエントリで、「野生の思考」の第1章を僕なりに読んで以下のようにまとめましたにゃ。

  • 呪術=人間の知覚および想像力のレベルをねらった認識の様式。記号的であり、その把握する現実に人間性をもちこむことが容認され、または要求される。
  • 科学=人間の知覚および想像力のレベルを忌避した認識の様式。概念的であり、その把握する現実に対して全的に透明であろうとする。

そして「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」とレヴィ=ストロースは言っていますにゃ。

さて

この呪術と科学の定義は、私見ではローチの「表現の自由を脅すもの」と「自由科学」とにキレーに対応しますにゃ。ローチは両者を対立するものとみなしているけれど、僕はレヴィ=ストロースにしたがって両者を並置させたいと考えますにゃ。なぜなら、呪術/科学は、真正な社会/非真正な社会にそれぞれ対応するものだからですにゃ。僕たちは、真正な社会/非真正な社会という二重の社会を生きなければならにゃー。二重の社会については、以前にもリンクしたものを引用して再リンクしますにゃ。

多分、sk-44と僕の公共圏のイメージで1番違うのは、僕が中間団体を重視する点にあるような気がしますにゃ。そして、この国で中間団体を維持していくとなれば、「世間様」的なるものをどうするかを考えなくてはならにゃー。

そもそも世間とは「人々が長い間育んできた原社会とでもいうべきもの」「人と人を結びつける原基的意識形態」なのであり、レヴィ=ストロースのいう「悪弊や犯罪の背後にある人間社会の確乎たる基礎」といえるものですにゃ。こういうものに対し「真っ平御免」ではすまにゃーので、リサイクルしたいのですにゃ。

「世間様」の恐ろしさと凶悪さはちっとはわかっているつもりにゃんが、それでもその「柔らかな構造」をあてこんでいくしかにゃー。「死んだ子供」をそこに封じて、公権力の領域に「死んだ子供」がでてこにゃーようにしなければならにゃー。公権力の領域においてはローチの自由科学でいくべきなのですにゃ。


そもそも、私は阿部謹也の世間論に必ずしも同意しないので、tikani_nemuru_Mさんの「世間様」の典拠が阿部謹也であったことに成程とは思っています。阿部謹也の世間論は丸谷才一山崎正和のような日本的市民社会論でもないので、そうした市民社会論ならまだ私は同意するのですが。レヴィ=ストロース阿部謹也が直線で結ばれるのは、tikani_nemuru_Mさんが「中間団体を重視する」のは、社会の原型を彼らの議論の場所にtikani_nemuru_Mさんが見ているから、ですよね。それは、私とは根本的に社会観が違う。レヴィ=ストロース阿部謹也が立っていたメタな位置、という話でもあるのですが。


「「死んだ子供」をそこに封じて、公権力の領域に「死んだ子供」がでてこにゃーようにしなければならにゃー。公権力の領域においてはローチの自由科学でいくべきなのですにゃ。」この点で、私と全然考え方が違う。


「死んだ子供」は世間様の「柔らかな構造」に封じるのではなく、社会の名において止揚されなければならない。「公権力の領域に「死んだ子供」がでてこにゃーようにしなければならにゃー」のではなく、公権力の領域としてある公的領域においてこそ「死んだ子供」が止揚されなければならない。「死んだ子供」を社会の名において止揚するために公的領域が要請される。そのとき、公権力に対する掣肘として公的領域は要請される。だから、私は裁判員制度に賛成です。そして、原理的死刑廃止論者です。


先般、前上博と山地悠紀夫の死刑が執行されました。靖国の英霊に形式的にしか黙祷したことのない私ですが、線香の代わりに煙草で、個人的に黙祷しました。それは、私にとっての「死んだ子供」つまり「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」のひとつです。この社会は「死んだ子供」をそのように止揚している、そして執行は人知れず行われ事後の発表のみが公権力の領域を表象する。


だから私は裁判員制度に賛成です。この社会が「死んだ子供」をそのように止揚していることに同意して、彼らは控訴を取り下げたのでしょう。加藤智大の行為も、そのようにして止揚される。それが共同幻想でなくして何であるか私はさっぱりわかりませんが。この「東洋の土人部落」において、裁判員制度なくして、心の問題を公的領域へと止揚しうる「死んだ子供」の親は、つまり市民の自覚は、育まれることはない。本村洋氏は稀有な人でした。


世間様の「柔らかな構造」は、国家幻想において止揚される。そして動員と暴力が横行する。それもまた、近代の宿命です。そして私たちは先祖返りすることはできない。「呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。」が現在の近代社会に対する「べき論」として述べられるなら、近代主義を経たリベラリズムの立場からは、それは先祖返りの反動としか言えません。


現在の近代社会に対する「べき論」として、すなわち価値判断として、レヴィ=ストロースは述べてはいない。それが、私のtikani_nemuru_Mさんに対する指摘の趣旨ですが、それを「「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を都市のモラルとして言祝ぐsk-44は、レヴィ=ストロースを自分に都合よく曲解していく。」と記述するのがtikani_nemuru_Mさんの議論作法であることは了解しました。誤読はお互い様ですが、また挑発もお互い様ですが、その記述は誤りです。


世間様を当て込んでいる限り、レヴィ=ストロースの主張をベタに受け取っている限り、英仏独がそうしたようには、この国において死刑は廃止されないでしょう。だから、私は、裁判員制度に賛成。これは、普通の近代主義の立場だと思いますが。「真っ平御免」とは、そのことです。レヴィ=ストロースもまた「真っ平御免」とメタには言っている、ということです。


なので――tikani_nemuru_Mさんがレヴィ=ストロースを引いて主張しておられる「真正な社会」という話には、まったくついていけない。それは先祖返りです。グローバリゼーションとは下部構造の問題です。マクドナルド化島宇宙化も世界の選択です。これが「知識」の問題。そして、それ自体は私は是です。ただし、人権思想にはコミットします。ひいては自由民主主義政体にも社会合意にも、表現の自由にも。これが「価値」の問題です。


ただ。

これは、パスが勝手に言っていることではにゃーんだな。「民族学は西欧の《悔恨》から生まれている」とレヴィ=ストロースも「悲しき熱帯」で言っていますにゃ。

価値が最初から埋め込まれているからこそ、価値を括弧に入れることができたのですにゃ。そして埋め込まれているその価値は「わたしという存在はあなたという存在があってはじめて生きるのだという」「内省」という価値だとパスは言いますにゃ。


これはその通りです。そして、レヴィ=ストロースを育んだ社会に「悔恨」はあっても、レヴィ=ストロースがフィールドワークした社会に必ずしもそれはなかった。他者を発見することができたのは、レヴィ=ストロースを育んだ、「内省」という価値の埋め込まれた社会であり、レヴィ=ストロース水木しげるではなかったので、彼を育んだ「内省」という価値の埋め込まれた社会にしか自分の居場所がないことを知っていた。近代の達成である諸価値を国旗に掲げる社会に。国家主義的な社会に。民族学に発するフィールドワークが、そもそもそういうものなのですが。「族」「俗」違いといえ、柳田國男がそうであったように。

自由主義の帰結といえる世界のマクドナルド化島宇宙化ってのは、実際には多様性の縮減だろうという指摘をきれいにスルーしたうえで、さらりとこんなことを言われてもにゃー(ぽりぽり


「指摘をきれいにスルー」? 『美人投票の果てに』で私が書いたこととと同じ話をしておられると判断しましたが。水は低きに流れます。「実際には多様性の縮減だろう」という話には普通に同意です。ところで、tikani_nemuru_Mさんは私の指摘をいくつスルーしてきましたか。「世界のマクドナルド化島宇宙化」など下部構造では擬似問題にすぎない。表象の商業的流通の問題とは、水が低きに流れることです。「水は低きに流れるもの」と言ってしまえばそこで終わります。それが下部構造の問題です。水が低きに流れることと人権問題は違う。下部構造において問われるべきは、人権問題です。


そもそも。共同体に遺棄された者、「人々が長い間育んできた原社会」とやらにあっては殺されるか「区別」されるしかない者、マージナライズどころか、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者のために、自由民主主義政体とその社会はある。


近代以前にあっては、世間様という名の共同体的社会から排除されることが、この世界のどこにも居場所がないことを意味した――キリスト教の教義に埋め込まれていた価値も、それを洗練させたものとしての人権思想もなかった世界では。人権思想が知識層にあって普及してなお、民族国家という共同幻想が要請されたのは、不完全な社会の定石でしかない。結果、オカルティズムとファシズムであったわけですが、しかし、それを批判することは、個人の代替可能性という近代の宿命をスターリニズムをもって替えることではない。


ハンセン氏病患者が世間様においてどのような扱いを受けてきたか承知ですよね。レヴィ=ストロースがフィールドワークしたような社会にあってハンセン氏病患者が「区別」されてきたことも。HIVに対する偏見はなんら根絶されたわけではない。


中間団体が利権の巣窟だから構造改革、というのが小泉純一郎のスローガンでした。小泉構造改革の是非は措き、中間団体が利権の巣窟であることは同意です。中間団体とは、コネクションのことであり、警察一家のことであり、非合法の警察であるところの任侠一家のことです。総じて代紋商売です。それはそれで、かつては宅間守のようなゴンタクレの受け皿になったものですが。tikani_nemuru_Mさんが言祝いでおられる教会コミュニティとは別の話でしょうが、それが本邦の世間様です。私は好きだけど――花村萬月の小説のようには必ずしもこの世界はできていない。


他者を尊重することと、世間様や共同体的社会を尊重することは、全然違います。他者を尊重するためにこそ、世間様や共同体的社会を真っ平御免とする。馴致と包摂は違う。他者を包摂しようとして、共同体的ではない「自由な社会」が要請される。それが、リベラルの価値判断です。他者とは、加藤智大のことであり、宅間守のことであり、前上博のことであり、山地悠紀夫のことであり、福田孝行のことであり、かつてのオウム真理教の信徒のことです。――ここで『A2』に言及すればますます議論は入り組むのですが。加藤智大も、宅間守も、前上博も、山地由紀夫も、福田孝行も、その罪を許す宗教があり、現に執行の際は神父が直前に立ち会う。しかしオウム真理教の信徒は? 死刑囚がノーサンキューと言ったなら?


――だから、「死んだ子供」は公的領域に帰属する社会において止揚されなければならない。そして、「死んだ子供」が公的領域に帰属する社会において止揚されるとき、彼らの内心は彼らのものです。私は前提として近代主義なので、レヴィ=ストロースの真正性云々をもって現在の近代社会を価値判断的に論じるなら、それはポストモダン的反動としか言えません。私は退けるものです。もちろん、レヴィ=ストロースポストモダン的反動だと言っているのではない。


価値判断の話をしているのでないのなら、Midasさんが私やtikani_nemuru_Mさんに対して述べておられる一連の指摘で終了です。――上部構造がガラガラポンポストモダン的現実にあって下部構造を公共圏論で掣肘しうると考えることがそもそも頭がおかしいし偽善者のカマトトでありスターリニズムの入口である、と。それはそうなんだけどね、と私の実感としても「知識」に照らしても思うところです。


共同体に遺棄された者、中間団体の利権に与らなかった者、「人々が長い間育んできた原社会」とやらにあっては殺されるか「区別」されるしかない者、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者。――キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が、彼らや彼女たちのために社会を物心として要請すること。そのことが、表現の自由の意味としてある。しかし。


「死んだ子供」を止揚するために公的領域が要請される。その公的領域にあって「死んだ子供」が社会に止揚されるべく私たちが市民として振舞うことが社会合意であり、その社会合意が自由民主主義政体の起源としてある以上、公的領域の問題として表現の自由を問うことは、公的領域を用意した人権思想ならびに自由民主主義政体をその起源において問い直すことであり、それは、表現の自由の意味を規定する人権思想の二重性を承知することでもある。――これが、千日手の実相です。


表現の自由に付く紐という話なら、このようには言えます。公的領域を用意した人権思想ならびに自由民主主義政体の起源を問うことと表現の自由を公的領域の問題として問うことは密接に連関しており、ゆえに近代の達成である諸価値は輻輳している、と。ただし、そのことは、人権侵害として問えることではないし、「表現の自由には他者という紐が付いている」とクリアに言い換えうるものではありません。公的領域がなんら要請されない共同幻想に支配された南米の土人部落をフィールドワークしたレヴィ=ストロースが、人権思想ならびに自由民主主義政体をなんら否定しないように。そして、表現の自由は、自由民主主義政体の基盤です。


言ってしまえば。ムハンマドの風刺画を描く自由は当然ある。それが、キリスト教の教義に埋め込まれていた価値を洗練させたものとしての人権思想が規定する表現の自由の意味であり、価値だからです。しかし、「汝の隣人を愛せよ」ともイエスは言った。ムハンマドの風刺画を描く自由は当然あるが、しかし、ムハンマドの風刺画を描こうとするそのとき、「死んだ子供」を止揚するために要請された――すなわち他者との衝突を調停するために要請された――公的領域において「死んだ子供」が社会に止揚されるべく振舞う市民の責務を、社会合意の何たるかを、自由民主主義政体の起源とその正統性の在処を、私たちは問い直し、顧みなければならない。


――このような話をtikani_nemuru_Mさんがされていたなら、私としては普通に同意するのですが。「他者への配慮の問題」と一言でまとめる議論にも、「表現の自由には他者という紐が付いている」という話にも、乗れません。なぜなら、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者のために要請されるのが社会であり、この世界のどこにも居場所がなく共同幻想にさえ馴致されない者のための社会を要請するのは人権思想であり、その根底にはキリスト教の教義に埋め込まれていた価値と、自由民主主義政体の基盤としての表現の自由がある。根底にあるものは、輻輳しているがゆえに、時に衝突する。主義としての自由主義は、タダ乗りを認めるものです。


そして念押ししておきますが、中間団体の存在と表現の自由はなんら関係がない。中間団体の論理を退けるから表現の自由です。中間団体の論理に人権思想は優先する。そのために社会は要請される。――戦後日本がそうでなかったことは周知の事実です。だから創価学会が躍進し、自民党55年体制を維持し、経済成長と消費社会と不況を経て、現在の「マクドナルド化島宇宙化」をもたらした。それは、分断された社会の謂です。「多様性の縮減」の様相とはそのことなので、この期に及んで「中間団体を重視」することは、私はできません。価値判断の問題に限ったことではまるでない。在特会の成長は、排外主義の活発化は、中間団体の崩壊の証左です。


沢田美喜は稀有な人物でしたが、エリザベス・サンダースホームが存在する社会は、社会の名に値しない。終戦直後ならともかく、21世紀になってなお、世間様は、公的領域がなんら要請されず公権力が掣肘されることもないこの東洋の土人部落は、エリザベス・サンダースホームを過去の話にはしない。価値判断の話をされていたのだと理解しています。私はナショナリストなので、レヴィ=ストロースに言及してこの国の世間様を肯定的に論じられると何だかなぁと思うのです。この東洋の土人部落は、レヴィ=ストロースにとって、フィールドワークの対象です。


本筋での異論としては、こんなところでしょうか。私は表現規制反対に際してキリスト教を批判した記憶はないのですが、やはり誤解されてしまったようで残念なことです。これで議論が前進するなら何より。なお、『公共圏についての個にゃん的イメージ』と題された結部の整理的な記述には――その社会観にもハーバーマスに対する見解にも――概ね異論ありません。ただ。

ハーバーマスによれば、公共圏とはもともと私的領域の拡大したもの。ここでは、会社組織や地域共同体、あるいはゼミやサークル、宗教団体・教会、NPO、NGOなどの中間団体を想定している。それぞれの団体固有の価値が組み込まれている。

家庭ではないが、個人が直接所属し、個人を包含し、個人を抑圧もすれば守りもするもの。昔のムラ社会とちがって、現代ではある程度自分の所属する共同体を選ぶことができる。

それぞれの団体の性格にもよるが、内部での諸個人による討議はあってしかるべき。


これが無理だからムラ社会なのですが。中間団体の成立とその崩壊と市民社会としてのその再生の模索の歴史がドイツとは違う。日本社会はこれから、80年遅れで、(敗戦をもってさえ崩壊しなかった)中間団体の崩壊と共に動員と暴力の時代へと突入するのでしょう。再生を模索すべき市民社会もないままに。もちろん、民主党政権のことを言っているのではない。その後のこと。

絶望した!

id:kadotanimitsuru 社会  とりあえず買い専でもいいからコミケに行けばいいんじゃないかな。/不良ごっこと本質的阻害の問題がごっちゃになってるかも。まあそれこそが英霊であり動員されるという事なんだろうけど。/近場の護国神社でいいや。

はてなブックマーク - 靖国、8月15日 - 地を這う難破船


kadotanimitsuruさんにコミケ童貞と思われていたことに絶望した!


コミケ童貞もリアル童貞も私は中学で捨てております。先輩オタクに誘われてサークル参加の手伝いもよくした。以来、ブランクがあったりしつつも、去年も一昨年もその前の年もそのまた前も(ry最終日は欠かさず推参しているうえに米澤嘉博氏の葬儀にも参列したこの私の靖国に対するそれ以上に深いコミケに対する愛が涙目。


8月16日も参上のうえブルーシートオフ@コミケ76開催のお知らせ - 東京横浜オーケストラにも参加してオフ会童貞さえも捨てたところです(junkMAさん、inumashさん、その他ブルーシートオフ参加された皆様、その節は有難うございました。大変楽しかったです)。


真面目な話、これは批判とか皮肉とか苦情ではなくて、kadotanimitsuruさんが私をコミケ未経験と判断された所以については思うところがあります。8月15日の靖国神社で感じ入っている類をblogにうpする者はその翌日コミケに参上しない、と常識的には考えられている、ということですか。


もちろん、8月16日の有明でも私は感じ入ることがありました。それは、前日の靖国で感じ入ったことと問題設定において連関しないわけではない。ただ、連関させて述べることはやめました。ただでさえ込み入った話がいっそう込み入るし、ただでさえDQNの責任をオタクが社会的に取らされている構図がいま現にあるのだから。ネトウヨの四文字において靖国コミケを安直に結びつける類の話には辟易しています。


人生は万華鏡であり、人生が万華鏡である以上、靖国もまた万華鏡である。にもかかわらず、李纓監督は、彼自身が人生の万華鏡を知りながら、しかしその人生の万華鏡が宗教とイデオロギーの合金においてテンプレートに表象される姿をしか映し出そうとしなかった。それが彼の靖国信仰観であり、映画のコンセプトでもあり、映画の残念の所以でもある。


――私の記憶では、映画の上映を断固支持した宮台真司の、映画の内容に対する批判はそのようなものでした。私も同意です。私は李監督の『味』という作品も観ているので、人生の万華鏡を知っている彼が、しかし人生の万華鏡が任意の文化表象に収斂されるその「現場」をこそ撮る人であることは知っている。否定でなく、およそ肯定として。


李監督は、大雑把に言えば「一途」を撮りたい人なので、その問題意識が靖国神社に投影されたとき、人生の万華鏡は8月15日の靖国という(もはや文化表象でさえない)宗教とイデオロギーの合金の特異な表象へと縮減されてしまう。靖国神社の「ゆるさ」とは、万華鏡であることで、その万華鏡はしかし「天皇を中心とする神の国」に包括されてある。


私は、コミケの万華鏡が「天皇を中心とする神の国」に包括されてあるとはつゆ思わない。だから、連関させて述べることはしませんでした。愛国心は悪党の最後の砦、という言葉はよく知られています。しかし私は思うのですが、個人の実存にあっては、砦なくして人生の万華鏡もない、そういう人たちがいる。それをして知的にサボっていると指摘することは、もちろん可能ですが。


現実に、個人の実存の砦は政治的な動員に利用され、それは結果人生の万華鏡さえ当人においても他者においても剥奪する。歴史が証明している。今年の8月15日の靖国の「例年通り」の剣呑に、その端緒を見ることは可能でしょう。


なお。ティーンの頃の私が滑稽と思ったのも、その光景が一見「不良ごっこ」に見えたからです。そうではなくて、本職の不良も8月15日の靖国に来る。境内にはある合意がある。そういう場所である、ということです。それは、この国における共同体の崩壊の有様でもある。


共同体の崩壊は、しかし共同体的存在であるしかない人間において、大いなる引力を要請する。それが英霊である、ということです。共同体的存在であるしかない人間は、なるほど知的にサボってるのかも知れない。ゆえに動員に容易く利用されることは、違いない。


とはいえ、私は、人生の万華鏡を政治的なテンプレートに落とし込むことが好きではない。コミケの万華鏡を「10万人の宮崎勤」に落とし込むことが好きではないように。それは、単なる偏見でしかない。靖国神社の万華鏡も、同様です。8月15日であっても、いや、8月15日であればこそ。「護国神社でいい」というのは、その通りと思います。なお、このエントリはkadotanimitsuruさんのブックマークコメントに対するレスとして20日に書かれたものなので、tikani_nemuru_Mさんへのレスは、また改めて。

惚れたが悪い、か


http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20090817111909


元記事は消えており、特にコメントもなかったのだけれど。


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に始まる一連のハイクでのやりとりを拝見して思ったことがある。一読して、元増田の行動に対して、ではなく(美しい女性には声を掛けるのがマナー)、あくまで文章に対して、だが、覚えた違和感があった。それは何だろうかと男の観点から改めて思い返すに。


元増田は「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」という趣旨の話になっている。増田の行動は措くとして、増田はそのように書いてしまっている。angmarさんが指摘しておられる元増田の「自虐」は「異性に気を遣えない俺」という話になっており――自覚を表すための「自虐」――そして「そんな俺に気を遣ってくれた彼女」「だから惚れました。」という話になっている。そう、組み立てられているということ。増田の実際の心の動きがどうということではなく、増田はそのように話を書いている。――惚れた「彼女」に宛てた手紙として。それは、失敗かと問うなら、失敗。


「異性に気を遣えない俺に気を使ってくれた彼女」「だから惚れました。」という話としてしか書かれていないので、「だから惚れました」の「だから」が顰蹙されている、のだと思う。目線の上下はどうでもいいし、そもそもそう思わない。一見スイーツな高嶺の花が中身腐女子ならキモオタでも与し易し御し易し、という話とはまったく思わない。ただ、「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」「だから惚れました。」としか組み立てられていない話の「だから」は――失礼とかそういうことを言うつもりはさらさらないが――「だから」惚れられた側にとってはノーサンキューだろうとも、一般論として思う。


つまり。明白に「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」「だから惚れました。」という話として書かれているし「自虐」もそのために挿入されているので、「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」でない彼女は、増田にとってはひとりのスイーツでしかなく、あるいは外見スイーツの中身腐女子でしかないのだろうとも思う。


「お前が気を遣え」「お前も気を遣え」とか突っ込む趣味も筋合も私にはない。ただ、「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」そういう話は槇原敬之の歌の中だけにしておいてくれとも思った。『どうしようもない僕に天使が降りてきた』と。


1999年に活動休止する以前の槇原敬之の歌は、「いい気」な男の内面の歌とも言われていた。『冬がはじまるよ』『もう恋なんてしない』など典型的だが「♪すごくうれしそうにビールを飲む横顔がいいね」「♪もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」と、歌における語り手はひとりでいい気になって自分の心で呟いているに過ぎない。それは傍らに存在する、あるいはもう去ってしまった、現実の女性に対して向けられたものではない。恋に落ちて、あるいは恋に破れてなお「いい気」になっている男の内面における一方通行なストーリーでしかない。そしてそのことを、自ら承知している男の歌だ。


この点こそ彼の稀有にして傑出した作家性だが、その独自の音楽世界において詞を書く槇原敬之は十二分に自覚的で、『SPY』にせよ『まだ生きてるよ』にせよ『モンタージュ』にせよ『Hungry Spider』にせよ、歌における語り手の「いい気」振りを、言い換えるなら現実の女性という他者の不在を、存分に笑い、虚仮にし、自嘲し、自虐し、しかしメロウにあの朗々とした声と朴訥な風貌で歌い上げてみせる。私はそんな槇原敬之の音楽を素晴らしいと思っている。関係ないとは当然言えないだろうが――セクシャリティの話をしているのでは第一義的にはない。


私は、元増田の自嘲も自虐も、槇原敬之の歌詞の世界におけるそれと同質のものと思っている。増田は自分の「いい気」に十二分に自覚的で、そのことを表すために、自身の「いい気」振りを、現実の女性という他者の不在を、存分に笑い、虚仮にし、自嘲し、自虐し、しかしメロウに朗々と朴訥に、綴っている。それが、惚れた女性に宛てた公開の手紙なら、顰蹙されるだろう、としか言えない。


槇原敬之のかつての歌詞世界を顰蹙する女性はいる。あるいは引く女性がいる。ミュージシャンのセクシャリティに対する差別でも前科者差別でもない。『どうしようもない僕に天使が降りてきた』は、素晴らしい歌だけれど、歌の中だけにしていただきたい。自分の「いい気」に対する自覚を表すべく、自分の「いい気」を存分に笑い虚仮にし自嘲し自虐し、でも結局『どうしようもない僕に天使が降りてきた』なら、どうぞカラオケで存分に、俺とハモろう、ということになる。だから、その優れたポピュラリティを併せ持つ音楽性とは別に、それこそが、槇原敬之のヒットの秘訣でもある。私が泣きながら歌う所以でもある。


惚れた女性に宛てた増田の公開の手紙に、その文面における話の組み立て方に、活動休止前の槇原敬之の歌詞世界と同じものを私は見た。そして目から水をあふれさせつつ思う。そのアプローチが現実に存在する現実の女性に対する現実のアプローチなら、大失敗である。活動休止前の槇原敬之の歌詞世界は、端から失敗を織り込んで天体のごとく運行している。「いい気」であり続けるとはそういうことで、つまり確信犯的に現実から目を切ること。そのことを承知すること。復帰後の槇原敬之の歌詞世界の変容については、いずれ書く機会があるだろう。


「♪君はきっとどうしようもない僕に降りてきた天使」と言われて喜ぶ女性はあまりいない。そのように朗々と歌い上げる「どうしようもない僕」にとって、惚れたその理由は「どうしようもない僕に降りてきた天使だから」惚れたのだから。現実の恋愛は、往々にして、どうしようもないわけでもない僕と、天使ではない誰かが、ヴェンダースの映画のように、平場で他者同士としてgdgdやるものではある。互いに気を遣えたり遣えなかったりするものである。20年前のヴェンダースによれば、かくて歴史は前進する。もちろん、私たちはベルリンの壁の崩壊の後に9.11とイラク戦争を見てしまったし、ヴェンダースも相変わらず悩んでいる、すっかり哲学者のような風貌になってしまった。『どうしようもない僕に天使が降りてきた』は、繰り返すが素晴らしい歌だけれど、惚れた女性へのアプローチとしては、使えない。


余談めくけれど。私は交際相手の髪が何色だろうと無問題だが、10年ひと昔前、当時同居していた妹が初めて髪を染めた際は微妙な感慨があった。それは、言語化するなら「自分の女の価値に云々」ではあるだろう。「気付きやがって」とは思わないし、その感慨はおくびにも出さなかったが。なぜそのような感慨を抱いたかと言えば、私が妹に女を見なかったからだろう。当時の様々な交際相手に対してもそうだったが、自分が最初から女として見ている相手が髪を染めても何とも思わない。そして私にとって女とは聖母でも娼婦でもなく端的に他者なので、その言行に責任を持つ必要がない相手にダメ出しする趣味はない。


「自分の女の価値に気付きやがって」と、顰蹙されたその人が言った相手は14歳のいとこだったそうで、それなら、「いとこに女を見ていたから」ではなく「いとこに女を見ていなかったから」そう口にしてしまったのではないか、と当時思ったのだった。「惚れたが悪いか」という話ではないのではないか、と。そして、私が妹の染髪にそのような感慨を抱いたのは、14歳の頃の私自身が「自分の男の価値」に気付いて髪を染め始めたからだった。私はそのレベルで妹の染髪を眺めていたのだが、親族の基本構造のごとき話は措く。


レイピストとは他者の性的な自己決定にダメ出ししたい人のことなので、聖母にしたり娼婦にしたり、どうしようもない僕に降りてきた天使にしたり、外見スイーツでも中身腐女子ならオタ話で引っ繰り返して取りに行ったり、自分の女の価値にまだ気付いていない女を狙ったりする。自分の女の価値にまだ気付いていない女は彼らにとって他者ではないので。外見スイーツでも中身腐女子な女が彼らにとって他者でないように。槇原敬之をレイピストと言っているのではない。彼が悲しげな表情で、朗らかにメロウに歌い上げ続けたように、現実にあっては自嘲、でなく自重せよ、という話。承知していればよいということではない。私は非モテとは下部構造の問題と思っているので「非モテ自重しろ」という話ではもちろんない。 ――I'm a hungry spider You're a beautiful butterfly


自分の女の価値にまだ気付いていない女をこそ欲望する者たちの視線と行為によって、否応なく自分の女の価値に気付かされる女性が、この社会のほぼ全員であること。何が問題の根であり、諸悪の根源かと問うなら、それが問題の根であり、諸悪の根源だろう。自由な社会とは、現在、そのような社会のことなので、それは批判はあるだろう、とは書き添えておく。なお、このエントリ含めて21日付のエントリは実際には20日に書かれており、tikani_nemuru_Mさんへのレスは、また改めて。


お伽草紙 (新潮文庫)

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