惚れたが悪い、か


http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20090817111909


元記事は消えており、特にコメントもなかったのだけれど。


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に始まる一連のハイクでのやりとりを拝見して思ったことがある。一読して、元増田の行動に対して、ではなく(美しい女性には声を掛けるのがマナー)、あくまで文章に対して、だが、覚えた違和感があった。それは何だろうかと男の観点から改めて思い返すに。


元増田は「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」という趣旨の話になっている。増田の行動は措くとして、増田はそのように書いてしまっている。angmarさんが指摘しておられる元増田の「自虐」は「異性に気を遣えない俺」という話になっており――自覚を表すための「自虐」――そして「そんな俺に気を遣ってくれた彼女」「だから惚れました。」という話になっている。そう、組み立てられているということ。増田の実際の心の動きがどうということではなく、増田はそのように話を書いている。――惚れた「彼女」に宛てた手紙として。それは、失敗かと問うなら、失敗。


「異性に気を遣えない俺に気を使ってくれた彼女」「だから惚れました。」という話としてしか書かれていないので、「だから惚れました」の「だから」が顰蹙されている、のだと思う。目線の上下はどうでもいいし、そもそもそう思わない。一見スイーツな高嶺の花が中身腐女子ならキモオタでも与し易し御し易し、という話とはまったく思わない。ただ、「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」「だから惚れました。」としか組み立てられていない話の「だから」は――失礼とかそういうことを言うつもりはさらさらないが――「だから」惚れられた側にとってはノーサンキューだろうとも、一般論として思う。


つまり。明白に「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」「だから惚れました。」という話として書かれているし「自虐」もそのために挿入されているので、「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」でない彼女は、増田にとってはひとりのスイーツでしかなく、あるいは外見スイーツの中身腐女子でしかないのだろうとも思う。


「お前が気を遣え」「お前も気を遣え」とか突っ込む趣味も筋合も私にはない。ただ、「異性に気を遣えない俺に気を遣ってくれた彼女」そういう話は槇原敬之の歌の中だけにしておいてくれとも思った。『どうしようもない僕に天使が降りてきた』と。


1999年に活動休止する以前の槇原敬之の歌は、「いい気」な男の内面の歌とも言われていた。『冬がはじまるよ』『もう恋なんてしない』など典型的だが「♪すごくうれしそうにビールを飲む横顔がいいね」「♪もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対」と、歌における語り手はひとりでいい気になって自分の心で呟いているに過ぎない。それは傍らに存在する、あるいはもう去ってしまった、現実の女性に対して向けられたものではない。恋に落ちて、あるいは恋に破れてなお「いい気」になっている男の内面における一方通行なストーリーでしかない。そしてそのことを、自ら承知している男の歌だ。


この点こそ彼の稀有にして傑出した作家性だが、その独自の音楽世界において詞を書く槇原敬之は十二分に自覚的で、『SPY』にせよ『まだ生きてるよ』にせよ『モンタージュ』にせよ『Hungry Spider』にせよ、歌における語り手の「いい気」振りを、言い換えるなら現実の女性という他者の不在を、存分に笑い、虚仮にし、自嘲し、自虐し、しかしメロウにあの朗々とした声と朴訥な風貌で歌い上げてみせる。私はそんな槇原敬之の音楽を素晴らしいと思っている。関係ないとは当然言えないだろうが――セクシャリティの話をしているのでは第一義的にはない。


私は、元増田の自嘲も自虐も、槇原敬之の歌詞の世界におけるそれと同質のものと思っている。増田は自分の「いい気」に十二分に自覚的で、そのことを表すために、自身の「いい気」振りを、現実の女性という他者の不在を、存分に笑い、虚仮にし、自嘲し、自虐し、しかしメロウに朗々と朴訥に、綴っている。それが、惚れた女性に宛てた公開の手紙なら、顰蹙されるだろう、としか言えない。


槇原敬之のかつての歌詞世界を顰蹙する女性はいる。あるいは引く女性がいる。ミュージシャンのセクシャリティに対する差別でも前科者差別でもない。『どうしようもない僕に天使が降りてきた』は、素晴らしい歌だけれど、歌の中だけにしていただきたい。自分の「いい気」に対する自覚を表すべく、自分の「いい気」を存分に笑い虚仮にし自嘲し自虐し、でも結局『どうしようもない僕に天使が降りてきた』なら、どうぞカラオケで存分に、俺とハモろう、ということになる。だから、その優れたポピュラリティを併せ持つ音楽性とは別に、それこそが、槇原敬之のヒットの秘訣でもある。私が泣きながら歌う所以でもある。


惚れた女性に宛てた増田の公開の手紙に、その文面における話の組み立て方に、活動休止前の槇原敬之の歌詞世界と同じものを私は見た。そして目から水をあふれさせつつ思う。そのアプローチが現実に存在する現実の女性に対する現実のアプローチなら、大失敗である。活動休止前の槇原敬之の歌詞世界は、端から失敗を織り込んで天体のごとく運行している。「いい気」であり続けるとはそういうことで、つまり確信犯的に現実から目を切ること。そのことを承知すること。復帰後の槇原敬之の歌詞世界の変容については、いずれ書く機会があるだろう。


「♪君はきっとどうしようもない僕に降りてきた天使」と言われて喜ぶ女性はあまりいない。そのように朗々と歌い上げる「どうしようもない僕」にとって、惚れたその理由は「どうしようもない僕に降りてきた天使だから」惚れたのだから。現実の恋愛は、往々にして、どうしようもないわけでもない僕と、天使ではない誰かが、ヴェンダースの映画のように、平場で他者同士としてgdgdやるものではある。互いに気を遣えたり遣えなかったりするものである。20年前のヴェンダースによれば、かくて歴史は前進する。もちろん、私たちはベルリンの壁の崩壊の後に9.11とイラク戦争を見てしまったし、ヴェンダースも相変わらず悩んでいる、すっかり哲学者のような風貌になってしまった。『どうしようもない僕に天使が降りてきた』は、繰り返すが素晴らしい歌だけれど、惚れた女性へのアプローチとしては、使えない。


余談めくけれど。私は交際相手の髪が何色だろうと無問題だが、10年ひと昔前、当時同居していた妹が初めて髪を染めた際は微妙な感慨があった。それは、言語化するなら「自分の女の価値に云々」ではあるだろう。「気付きやがって」とは思わないし、その感慨はおくびにも出さなかったが。なぜそのような感慨を抱いたかと言えば、私が妹に女を見なかったからだろう。当時の様々な交際相手に対してもそうだったが、自分が最初から女として見ている相手が髪を染めても何とも思わない。そして私にとって女とは聖母でも娼婦でもなく端的に他者なので、その言行に責任を持つ必要がない相手にダメ出しする趣味はない。


「自分の女の価値に気付きやがって」と、顰蹙されたその人が言った相手は14歳のいとこだったそうで、それなら、「いとこに女を見ていたから」ではなく「いとこに女を見ていなかったから」そう口にしてしまったのではないか、と当時思ったのだった。「惚れたが悪いか」という話ではないのではないか、と。そして、私が妹の染髪にそのような感慨を抱いたのは、14歳の頃の私自身が「自分の男の価値」に気付いて髪を染め始めたからだった。私はそのレベルで妹の染髪を眺めていたのだが、親族の基本構造のごとき話は措く。


レイピストとは他者の性的な自己決定にダメ出ししたい人のことなので、聖母にしたり娼婦にしたり、どうしようもない僕に降りてきた天使にしたり、外見スイーツでも中身腐女子ならオタ話で引っ繰り返して取りに行ったり、自分の女の価値にまだ気付いていない女を狙ったりする。自分の女の価値にまだ気付いていない女は彼らにとって他者ではないので。外見スイーツでも中身腐女子な女が彼らにとって他者でないように。槇原敬之をレイピストと言っているのではない。彼が悲しげな表情で、朗らかにメロウに歌い上げ続けたように、現実にあっては自嘲、でなく自重せよ、という話。承知していればよいということではない。私は非モテとは下部構造の問題と思っているので「非モテ自重しろ」という話ではもちろんない。 ――I'm a hungry spider You're a beautiful butterfly


自分の女の価値にまだ気付いていない女をこそ欲望する者たちの視線と行為によって、否応なく自分の女の価値に気付かされる女性が、この社会のほぼ全員であること。何が問題の根であり、諸悪の根源かと問うなら、それが問題の根であり、諸悪の根源だろう。自由な社会とは、現在、そのような社会のことなので、それは批判はあるだろう、とは書き添えておく。なお、このエントリ含めて21日付のエントリは実際には20日に書かれており、tikani_nemuru_Mさんへのレスは、また改めて。


お伽草紙 (新潮文庫)

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