私が思うこと


2009-03-23


私が「命なくして共生なし」を書いたのは、文化的多元主義の講釈をするため、ではないのです。釈迦に説法だろうし。

 

 もし目の前に「死にたがっている人」がいれば私は躊躇無く止めるでしょう。それは自分に染みついた倫理観です。ただしその理路が死にたいと言っている人に通じるとも必ずしも思えません。


 「あなたにはわからない!」と言われれば、わかりませんと答えるしかないかもしれません。でもそれでも止めるのですが。わかるかわからないかという次元ではなくそれを止めようとする気持ち、おそらくそこのところはsk-44さんと私は共有しているかもしれないのですが、それは一つの倫理という以上の意味は無いかもしれないと私は考えるのです。


ここで書かれていることに私は全面的に同意しますが、なぜuumin3さんは、私のダイアリを読んでくださっているにもかかわらず、そのことを私の考え方との相違として述べておられるのだろう、と。「それは一つの倫理という以上の意味は無いかもしれないと私は考えるのです」私もそう考えます(――あるいは、だからこそuumin3さんは「sk-44さんらしくない」と書かれたのかも知れませんが)。


眼前の「死にたがっている人」を止める理由は「俺の寝覚めが悪いから」「俺が嫌だから」で十分と思います。生きることの価値とか意味とか説くことは「大きな御世話」の部類でしょう。


ざっくばらんに申し上げますが、世界が他者性において構成されていることは私にとって自明です。それは、思想や哲学に触れるまでもなく、誰しも「俗世」を生きて知ることです。自己とは、他者性を介して達するものではないかというのが私の了解です。単純に、恋愛とか仕事という俗世で「あなたにはわからない!」と言われ「あなたがわからない」と言われることの合わせ技で己を知る、と言いましょうか。


そして、私はuumin3さんのダイアリを日頃拝見しているので、uumin3さんが独我論の部類に対して違和感を再三表明しておられることは存じ上げているつもりです。ひょっとして、そうした御自身の問題関心から私の「論理的なエラーにおいて選択されるのが倫理で、倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為です。」という記述について「引っかかり」「釈然とできないで」おられるのですか。


他者論

2008-07-14


ここにあるような問題意識から、私の「倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為です。」について違和感を表明しておられるなら、当該の記述について補足しますが「倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為であるがゆえに他なる個人の個人性を前提することである」――というのが私の考え方です。


個人の個人性とは「正しい/間違っている」の外部にある判断のその根拠です。「壁と卵」の話ですが、そのことについて、私は最近、ある人との対話の中で散々書きました。だから、uumin3さんが他者性に対する顧慮がないかのように私のことを誤解しておられるなら、驚きます。自己とは他者性を介して達するものであるにせよ。ラスコリニコフが倫理的とか私はまったく思わないし、そんな話は成立しません。


コメント欄でのBrittyさんとのやりとりを拝見して、他者性を個人の個人性へと還元することに対する疑問を、uumin3さんは示しておられるのではないかと察しました。その点について述べるなら、私は――生きるうえでも言論でも――共同体の共同性が要求する倫理と個人の個人性が要求する倫理を便宜的に区別して考えています。別に個人の倫理が特権的ということでもそれが普遍的な「良心」ということでもない。


2009-03-15


初めて拝見したときも興味深く読ませていただいたのですが、改めて、再掲された過去記事含めて読み直していました。私は、当該の報道とそれに対する反応についてすぐに何かを書く気にはなりませんでした。「もにょもにょ」したことは事実です。


私は炊き出しする甲斐性はありませんが自宅の前に行列があってもそのことに干渉しないでしょう。誰しも知っているように、生きていくことの困難を知っているからです。「みんな大変なんだ」と。しかし私には子供がいない。偏見を書いているのではない、子供を持つ親が森羅万象に不安を覚える程度には共同体の共同性が機能しない社会であることを知っている、ということです。――まるで『サイン』のメル・ギブソンのように。


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誰しも知る生きることの困難が「みんな大変なんだ」という共同性へと昇華されない社会。「みんな大変なんだ」が機能しない、共同体の共同性が要求する倫理が喪われた社会。それが日本的なる風景かは知りません。しかし、たとえばロシアのように共同性を再興することは無理と私は思いますし、すべきでないとも思います。――だから、ホームレスを他者として切断する地域住民を他者として切断しているのだろう、と。


個人の普遍的な良心が「他者」という切断を共同体の共同性に対して要求する。そして共同性が喪われた社会で普遍的な良心を守るために森の奥深くにゲットーを作って暮らす――悪に満ちた外界の一切を遮断して。散々「トンデモ」と言われてきたインド人の撮った映画は色々と時代を先取りしていました。


個人の普遍的な良心が「他者」という切断を共同体の共同性に対して要求し、時に普遍的な良心は夜郎自大へと及ぶ。私が「リベラル」でないのは個人の普遍的な良心を「信じない」からです。だから「いのちだいじに」教である、ということは言えます。「信念」の問題としては。


私の認識と思考のスジでは、と断りますが、自他の相違に対する相互的な配慮が現代の倫理で、そうした倫理の基盤を共同体の共同性に求めることは既に無理です。なぜなら、共同体の共同性が倫理と結びつくことのない社会を私たちは生きているからです。生死においてさえも。共同体の共同性は他者に対する倫理を要求するか――現代日本では困難と私は思います。


誰しも知る生きることの困難が「みんな大変なんだ」という共同性へと昇華されない社会において、マイノリティは「権利」を声高に叫ぶことによってしかその生の困難を「他者」に承認されません。――uumin3さんがそうでなくとも、です。「権利」とは、共同性が喪われた社会で他者を他者として社会に繋ぎとめる唯一の観念であり、理念です。


だから、権利概念が発展し過ぎた、共同性を喪った社会における人間たちのグロテスクな光景について、あるいは権利観念において「人」として他者を社会に繋ぎとめるとき起こりうる逆転劇について、SFに限らず多くの小説が書かれ映画が撮られました。ディックを筆頭に――というのも釈迦に説法ですね。



繰り返しますが、「権利」とは、共同性が喪われた社会でマイノリティが「他者」としてのマジョリティに対してその生の困難について承認させるべく切ることのできる唯一のカードです。その手形に押されているのは日本国憲法の判子です。それを空手形と指摘する立論に対して私が批判的なのは、共同性の喪失が私にとって自明だからです。


これは独我論的な観念の問題ではありません、私が生まれて育って生きて俗世で暮らしてきた中で得た認識です。――率直に言って、世代の相違の問題とは思います(私はじき31です)。まさに、生きてきた時代の違いとして。


だから、輸血拒否問題は権利問題と私は言っています。共同性の喪われた社会でマイノリティの「信念」を尊重する倫理は、少なくとも共同体の共同性からは調達されません。個人の個人性からしか調達されないと、夏目漱石が説いた意味で「個人主義」の私は思います。uumin3さんが「共同体主義」ということではもちろんありません。というか――そういう話ではないのです。


「共同性が喪われた社会」と私は書きました。為に言っているのではなく、私は本気でそう思います。たぶん、私がそう言い切ることに対してuumin3さんは「釈然とできない」と思います。私だって躊躇しないわけではない。


炊き出し中止の報道に接して美しい日本社会のくそったれに憤慨する人は「共同性が喪われた社会」における共同性の再興を望んでいるのではない。安倍政権の掲げた理念に同調するはずもないからです。しかし、共同性が喪われた社会の結末を嘆くことが「個人の普遍的な良心」の存在を証明するわけではないし、もちろん「リベラル」の証明でもない。共同性が喪われた社会の結末についてどう考え、自分がどのようなスタンスを取るか、ということと思います。少なくとも、共同性が喪われた社会のくそったれを嘆き他者に良心を要求することは、良心の夜郎自大です。「普遍的な良心」を信じない者にとっては。


権利問題として考えるべきと、私はこうした問題については思います。共同性が喪われた社会の結末を嘆き普遍的な良心を他者に対してブックマークコメントで問うことと、悪に満ちた外界と遮断された森の奥深くのゲットーに暮らす良心的な人々と、どう違うのか。――はてなブックマークという『ヴィレッジ』と。共同体の共同性に対する切断とそれが喪われた結末に対する反応として美しい日本に対する批判はあります。つまり、ないものねだりなのですが。

 私は依然として「倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為」だという言葉には釈然とできないでいます。私が今の時代にこの社会に生まれていなければ、sk-44さんがおっしゃる共生の倫理というものに少しでも共感できていたか…それはわからないと思ってしまうからなんですね。


「私が今の時代にこの社会に生まれていなければ」私の感覚ではもっと些細な話です。「私があの両親のもとで東京のあの公団に生まれていなければ」「今ここにある私」と同じ考え方をしていたかまったく定かでない。もちろん、uumin3さんの書いておられることに共感し、こうして長レスしているかもわからない。


団塊世代の私の両親は具体的な共同体とは切り離されて故郷を離れた東京で生きた人でした。しかし、誰しも知る生きることの困難が「みんな大変なんだ」という共同性へと昇華される時代を生きたがゆえに、「みんな大変なんだ」という三丁目の夕日の哲学を私に叩き込みはしました。ホームレスを笑ってはならないと小学生の私に厳しく戒めました。


だから、私は、共同性が喪われた社会にさして不便もありませんしくそったれとも思いませんしまして美しい日本と揶揄する気は皆無ですが、しかし「みんな大変なんだ」という三丁目の夕日の哲学は私という個人の中に生きていますし、存在しています。私という個人の中にしか存在しないものとして。「他者」同士としての個々人に存在する、共同体の共同性を媒介した価値観や世界観や「信仰」を尊重し、そのことに相互的に配慮することが、私にとって倫理であり、共生の要諦です。


共同性が喪われた社会において、そのことを理由に、共同体の共同性を媒介した価値観や世界観や「信仰」を顧みないことはまさしくくそったれと私は思います。少なくとも、それは倫理でも共生の要諦でもないし、「他者」の尊重でもない。


共同性が喪われた社会は、共同体の共同性を媒介した価値観や世界観や「信仰」を踏みにじることの理由にはなりません。いや、共同性が喪われた社会だからこそ、共同体の共同性を媒介した価値観や世界観や「信仰」は、個人間の共生倫理において尊重され相互に配慮されなければならない。


そんなことは「先進国」では自明のことですが、日本に限らず、リベラルを名乗る野蛮人が多いことも事実です。以前も紹介した、しかも入手困難らしい本ですが、とても好きな小説なので。


ホワイト・ティース(上) (新潮クレスト・ブックス)

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ホワイト・ティース(下) (新潮クレスト・ブックス)

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「壁と卵」という問題設定に、uumin3さんはそもそも「釈然とできない」と思います。しかし、私の考え方のスジでは、The Systemから疎外される存在として卵は「卵」として見出される。その卵は共同性が喪われた社会における、共同体の共同性を媒介した価値観や世界観や「信仰」のことでもあります。そしてその存在を証す個々人のこと。


そして、だからこそ、私は輸血拒否問題を権利問題と言っています。個人の権利の問題と。こうしたことは、ダイアリで繰り返し書いています。uumin3さんが、独我論や自称「リベラル」の物言いに対する違和感を、再三表明しておられるように。もちろん私も、共同体の共同性に、自身の死生観を規定されています。

当たり前と思われているところに一石を投じて、その当たり前の根っ子を揺るがすのが「丘の上の狂人」、すなわち哲学者の存在意義であるとしたら、michiakiさんの今回の記事はまさにそうした哲学的な問いかけになっていたであろうと思います。

おそらく私たちは一瞬一瞬自分たちの倫理に賭けているんです。そしてもしその判断、自己投機のことを安易に忘れてしまっているとしたら、それは誰かに思い起こさせてもらわなければちゃんとした倫理にならないんです。そういう意味でmichiakiさんのエントリは「他者」として私に(そして多くの人に)働きかけてきたと思いますし、その意味で私は評価できるのです。言いたいのはそれだけなんですよ。


あぁ――そういう話ならわかります。私の見解としては、みちアキさんに対しては、倫理を問うために公然と「他者」の生死を弄んでいる、という感想になってしまうのですが。「他者」とはエホバの証人という「みちアキさんにとっての他者」のことです(もちろん、私にとっても他者ですが)。「資格がない」とはそのことを言っているのですが――この際措きましょう。もちろん、私にも資格はない。


こちらこそ、長々とお付き合いいただきありがとうございます。


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