長距離走者の誤読


妊婦さんが東京マラソンに出場して完走した話。 - コミュニケーションする福が内


アスリートとシロートは違う。それと、松村邦洋もそもそも24時間テレビもそうだが「困難に挑戦」という文脈からシロートのマラソンが礼賛されるけど、その「困難」は生死を含む。そして、他人の生死に責任を負う職掌がある。他人の生死に責任を負うがゆえに「万難を排する」職掌にとっては、「万難を排して」の指示を「いかなる障害も乗り越えて」と誤読する個人の意志は管轄外だろう。――「管轄外」で済むのなら。


マンナンライフ訴訟にせよ、あるいは割り箸事故の訴訟にせよ思うのは、日本は中絶が比較的問題視されない社会であるにもかかわらず、1歳児の死の責任は「遺族」において誰かに対して問われる。それは、端的に言って両親の意向の問題でしかないし、両親の納得の問題でしかない。むろん、それで構わないのだが、法的責任を問うならハッキリさせたほうがいいんでないのとは思う。両親が望まない子は社会的にも祝福されないし両親が望む子はその死について両親の意向において誰かが責任を問われる、と。だから、マザー・テレサの言行には意義があったし、間違えているはずもないのだけれど。


子供は死ぬものだ、という認識では済まないのが「先進国」の条件であるとして、日本においてその条件とは当事者としての両親ひいては親族の意向に一切が帰される。――もちろん、そうではない。少なくとも、医療関係者においてはそうではなかった。両親ならびに親族という加害当事者によって隠蔽されようとしてきた虐待と虐待死は数知れない。そのとき、医療機関による通報が事件発覚に貢献してきたことは、前提すべきことと思う。


子供は死ぬものだ、という認識について一切を左右するのが当事者としての両親ならびに親族の意向でも別に構わないが、訴訟は繰り返されるし、原告に対するバッシングも繰り返されるだろうし、虐待と虐待死も繰り返されるだろう。当事者問題を持ち出すために法廷があることと、法的判断の結果社会的に波及しうる当事者問題が傍からエゴイズムにしか見えないことはパラレルではある。いずれにせよ「遺族自重しろ」は間違っているとは、死刑問題を観測してきた限りでは思う。


しかし当たり前だが、「先進国」において誕生に関与するのは当事者としての両親ならびに親族に限定されるわけではない。誕生に際して「万難を排する」職掌が要る、その職掌職掌である限りにおいて「他人の子供」の生死に責任を負わないわけではない。そして、そうした歴史的な職業意識は「当事者としての両親ならびに親族の意向」において、そして正論原理主義の報道によって、時に踏みにじられてきた。ジョン・アーヴィングを持ち出す気はないが、そしてフェミニズムを云々する気もないが、ああいう発想は、ない人にはないらしい。


サイダーハウス・ルール〈上〉 (文春文庫)

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たぶんに問題は、マラソン個人競技であること。マラソンという競技それ自体が悪いわけではもちろんないが、「困難に挑戦」という文脈から礼賛されるシロートのマラソンは、生死を含むその困難について「万難を排して」を「いかなる障害も乗り越えて」と誤読させる要素を含むのだろう。他人の生死に責任を負うがゆえに「万難を排する」職掌にとっては、傍迷惑な話であることは違いない。


「困難に挑戦」する際に私たちがメディカルチェックを受けるのは、誰しも自分の身体の一切を知ることはできないからだ。だから言うまでもなく、私たちが生きることは常に死の蓋然を含む。しかし蒼天航路の世界ではない日本社会においては「子供は死ぬものだ」が成立しないように「人は死ぬものだ」も成立しない。それは結構なことなのだが、成立しないことの結果が他人の生死に責任を負う職掌に対する法的な追求としてあるのが現在。むろん、それは医療に限定されはしない。運輸も。そしてそもそも「人は死ぬもの」だからこそ、他人の生死に責任を負わない職掌などない。医療はその最前線である、ということ。


http://b.hatena.ne.jp/entry/12676193/asahi.com%EF%BC%88%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89%EF%BC%9A%E6%B3%A5%E9%85%94%E5%AD%A6%E7%94%9F%E4%B8%8B%E8%BB%8A%E3%81%97%E5%87%8D%E6%AD%BB%E3%80%81%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%81%AB%E8%B3%A0%E5%84%9F%E5%91%BD%E4%BB%A4%E3%80%80%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E8%A3%81%20-%20%E7%A4%BE%E4%BC%9A


泥酔者は死ねばいいよ、というのがタクシードライバーの倅であるところの私の「個人的な」感想だが、もちろんそういう言説は成り立たない。ロシアではあるまいし「泥酔者は凍死するものだ」であってはならないから、他人の生死に責任を負う職掌に対して法的な責任問題が派生する。職掌の責任とは、かつて道義的問題だった。前線は、医療に限定されることなく、広がっている。毛沢東の言葉を借りるなら、燎原のごとく。


「死を覚悟して」酔っ払え、とか「死を覚悟して」マラソン出場しろ、という物言いは成立しない――医師にそれを言う理由が存在するのは、職掌的な責務から。蓋然的な私たちの生死のゆえに万難を排する責務がこの社会に存在する――医療もその一環としてある。むろん、蓋然をゼロにはできないけれど。そして誰にも訊かれないうちから「いかなる障害も乗り越える」ことに対する自身の覚悟を口走る者は多いが、なら死んでから誰の責任も問われなくなるように念書書いておくように。貴方が「万難を排して」念書書いても遺族は「納得しない」と思うが。


人は自分ひとりで生きているわけではない、というのは端的な事実なのだが、そのことを知ると、たとえば新聞記者に対して強調する人に限って、自分と自分の愛する者で生きていると考えている。その思考回路においては、身内の幸福は私の慶賀、身内の不幸は部外者の責任。しかし、と私が逆接を続けるのは、万難を排する責務が存在するはずの社会から遺棄されている――という認識が身内の不幸に遭遇したとき人には抜き難く存在しうることを知っているから。死刑問題において顕著なように。


私たちの蓋然的な生はいかなるメディカルチェックにおいても排除できない。そのゆえに「万難を排する」責務を負った社会的機構とそれを職掌とする個々人が法的に問責されることは、蓋然を必然と接続するエラーであって間違っている。しかし身内の不幸は当事者にとって蓋然の結果たりえず必然でしかない。そして「蓋然に対する努力の欠如」として、つまり「万難を排する」ことからの遺棄として、個人の職掌的行為が問責される。


「万難を排して」の指示を「いかなる障害も乗り越えて」と誤読する発想は、乗り越えられなかった障害について自身が(あるいは自身の愛する者が)万難を排さなかったことと結び付けることはないだろう。その帰趨について事前に「覚悟」という個人的な概念へと格納して念書が交わされて解決するなら構わないが、それで医療は成立しないし、それで医療が成立しないことに胸を痛めているのは誰か。少なくとも、誤読する長距離走者ではない。


私たちは、死の蓋然を自身の覚悟において引き受けうるものではない。だから「万難を排する」必要がある。政治はそのためにあるので、自称人工衛星について職掌を果たしている人たちがいる。新聞報道に対するブログでの「万難を排して」を「妊婦自重しろ」と読み取る発想には私はまったく同意しないし、個人における自己決定の歴史的な意義はわかるが、この件についてそれには同意しない。「困難に挑戦」という文脈から礼賛されるシロートのマラソンが生死を秤にかけて煽っているのは、まさにその「個人における自己決定」と、それに対する幻想なのだから。自己決定権とは、そういうことではない。


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