小さな故意のメロディ


はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):生徒が「先生を流産させる会」 いすに細工、給食に異物 - 社会

はてなブックマーク - 中日新聞:中学生が妊娠教諭に嫌がらせ 愛知・半田の生徒16人「流産させる会」:社会(CHUNICHI Web)


妊娠可能年齢の女性教師に対する虐めは厨房男子の習いだから、と中学時代を思い返す。進学校だったけれど。むろん、若い男性教師だって人によっては虐められるのだが、妙齢の女性教師に対する虐め方はあきらかに質が違った。虐めている側の意識においても。今となっては言語化できるが――相手のジェンダー意識を狙い撃ちして攻撃していた。


当時を思い返して考えることは、男子校の中学生は、いつ「ジェンダー意識を狙い撃ちする」攻撃の方法を覚えたのだろうか、そして、なぜそのことを虐めの手段としたのか。正解は、そのことが虐めの理由と目的だったからだ。お断りしておくと、私が知っていた連中のことであって、私のことではない。


傑作揃いのさくらももこの初期の短編に『いつもの帰り道』という名品がある。以下の単行本に収録されていたと思う。



「男子」「女子」としていつものように仲良く喧嘩できなくなった、いつもの帰り道をいつものように帰れなくなった、中学生の男女の距離感の変化の話。それは恋の始まり、ということではない。しかしさくらももこは人品骨柄卑しからぬ人であり作家なので、ありうるグロテスクな結末については描かない。当該の短編の結末としては描かない、というだけで、もちろん作家はそのことを知っているし、描いている。


私がその短編を初めて読んだのは中学生のときで、滅法面白かったが、その含意には気が付かなかった。往々にして言われる通り、そして作中で中学時代の「ももこ」も言うように、男子とはバカでガサツで雑なものである。


先日、癒されたくて久々に『小さな恋のメロディ』引っ張り出して観たのだが、流石イギリスというか流石アラン・パーカーというか、全然癒されなくて困った。『今日の5の2』ともちろん違うことには、11歳の少年少女たちの背後には彼らの両親とその住む世界とその断絶があり、背景には英国の階級社会と、しかし環境的に階級をシェイクする公教育がある。もちろん、その公教育の当事者は少年少女たちの親と同様に階級的な価値観においてよく訓練された大人である。


だからこそ、少年少女たちが「男子」「女子」としてそれ以外の何者でもなくつるみ合えて、仲良く喧嘩したり、結婚式を挙げたり、森の奥深くの由緒ある墓場でミック・ジャガーのポスターにキスしたり、ママのオープンカーに手製爆弾を投げ込んだりすることが、素晴らしい瞬間として描かれる。橋本治がかつて「原っぱの思想」と説明したように、それは日本における戦後民主主義の理想としてもあった。映画は日本で大ヒットした。


ぼくたちの近代史 (河出文庫)

ぼくたちの近代史 (河出文庫)


それは、盗んだバイクで走り出すこととも夜の校舎窓ガラス壊してまわることともきしむベッドの上で優しさ持ちよることとも違う。なぜなら、アラン・パーカーが知っていたように、私たちもまた知っている。――少年少女たちが「男子」「女子」としてそれ以外の何者でもなくつるみ合い仲良く喧嘩しあえるその瞬間が、儚い奇跡的な一瞬であることを。


階級的な価値観を彼らのためにと吹き込むよく訓練された大人の言葉から無縁のまま彼らが成長することが決してないことを――それが反撥にせよ適応にせよ面従腹背にせよ。だから、よく訓練された大人としての私たちは、決して戻れはしないその幸福なひとときについて時に極端に回顧する。そのために私は『今日の5の2』を観ていたのであって、ロリコンとかqあwせdrftgyふじこlp!


よく訓練された大人の言葉が、ジェンダー概念とその自明としてある。子供は間違いなく大人の価値観の影響を受ける。世界の狭さゆえに、周囲の大人の価値観を。反撥にせよ適応にせよ面従腹背にせよ。だから、自分が世界の原器と信じる厨房男子は妊娠可能年齢の女性が持ち合わせるジェンダー概念を知っている。そして狙い撃ちする。「先生を流産させる会」発足も致し方ない。


男と女が区別されることの社会性に気が付いた原器は、女に対して女の所以を狙い撃つ。男女が区別されることの社会性に気が付いたとき、社会的な権力の存在に同時に原器は気が付くから。気が付いて、原器ゆえに相手に気付かせることを目的として、権力的な行為に及ぶ。性的な権力行為に。それがフィジカルに露骨なのは、もちろん厨房だからだが。つまり、それを虐めと言う。付け加えると、童貞に倫理観など求めるべくもない――この童貞とは比喩だが。


それが、さくらももこが描かなかった、いつもの帰り道をいつものように帰れなくなった男女の結末である。


私がいわゆるジェンダーフリー教育に総論賛成なのは、そういうこと。いつもの帰り道をいつものように帰れなくなった思春期の男女においてジェンダー概念が虐めと抑圧と同調圧力に利用されるリソースでしかないことが明白なとき「男らしさ」「女らしさ」とか冗談も大概にしろと思う。少なくとも日本において、公教育に「社会的な」男女の区別を持ち込むことが幸せな結末をもたらすとは到底思えない。妊娠可能年齢の女性教師がジェンダー概念において狙い撃ちされることは、「流産させる会」が発足することは、特異な子供たちの話ではない。


小さな恋のメロディ』のラストシーン、トロッコを漕いで旅立つダニエルとメロディ。その線路の終点には、よく訓練された大人の価値観が影響して、ジェンダー概念を虐めの理由と目的と手段とする中学生と、よく訓練された大人であることから疎外された個人の性的な孤独が、待ち受けている。遠く来た現在、私は「男」「女」としてそれ以外の何者でもなく乳繰り合う『ラストタンゴ・イン・パリ』の、その結末に癒されている。しかし「――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………」。


小さな恋のメロディ

小さな恋のメロディ