命なくして共生なし


承前。言葉足らずで申し訳ありません。


2009-03-23


「命なくして共生なし」それが出発点と思います。そして「共生」という概念を切断するのがアプリオリな自由意志で、究極には「自分の生き死には自分で決める」ということだと思います。それも見識と思います。しかし。


uumin3さんが書いておられることと同じことと思いますが、私の言葉で表すなら、倫理とは「共生」の概念です。共生を否定して倫理を主張しているみちアキさんが「論理的にエラーしている」ということであって、エホバの証人に限らず、「信仰」が「論理的にエラーしている」とは私はまったく思いませんし、書いていません。


端的に言って、みちアキさんは信仰の論理に対して無頓着だからこそ、「正しい/間違っている」の問題ではないと主張しておられる。エホバの証人ではないみちアキさんは「たとえどんなにエホバの証人が間違っていようとも、私はエホバの証人の側に立つ」と主張しました。「正しい/間違っている」の問題ではなく――つまりuumin3さんが言われるところの「ある集団的な「理」」の問題ではなく――共生倫理の問題であると。それはまさに村上春樹のスピーチの趣旨なので、それ自体が釣りとか私は全然思わない。しかし。


信仰の論理は「正しい/間違っている」という「理」を求めます。「いのちだいじに」教もまた信仰の論理に過ぎない、ただ信徒の多寡とマジョリティゆえの信仰に対する無自覚があるのみ。それがみちアキさんの主張です。その主張が任意の信仰の論理に対してただマイノリティであることを理由にその「側に立つ」ために持ち出されるからエラーと言っています。


なぜなら、みちアキさんの主張は自由意志をアプリオリと措定して立論されるからです。だから命をダシにした自称倫理が説かれる。1歳児の命を「括弧に入れて」みちアキさんは立論しているのではない。


「死にたがっている奴は死なせてやれ」とか私はまったく倫理と思いません。ブログで主張しないだけで私も「一般論として」そう思うし自殺を繰り返しトライする友人に対してもそう思いますが、それは「我関せず」をしか意味しない。倫理ではないし共生の試行でもない。そして、ホームレス問題や派遣村に言及して「生きるも死ぬも自由」という「一般論」がブログで説かれる光景を再三見てきました。別に構いませんが、倫理とか冗談も大概にしろとは思います。


個の尊重とは、個の基盤を尊重することです。みちアキさんは個の基盤をアプリオリな自由意志と措定している。なら中絶も1歳児の死も問題たりえないでしょう。共生倫理の主張として、成立しない議論としか思えないし、当該の問題に対してそう立論することは「テキトーな思考実験」としか私には思えません。


そしてみちアキさんは、たぶん輸血拒否問題について何も知らない。「要するに「お互い納得する」というシナリオはここにはないわけで、ほんとは、エホバの証人は輸血拒否をするってことは前々から解っているんだから、問題が起きる前に話し合いなりなんなりをしておくべきだった、というのがベターだったのでしょう。でも今回はもう遅いので、次に揉める前になんか決めたほうがいいんじゃないかとは思います。そしてそれは「うちに入院する以上は絶対言うことを聞いてもらうぞ!絶対にだ!」でも別にいいんじゃないでしょうか(そしたらエホバの証人側は、はじめから病院に連れていかなくなっちゃったり、するかもですけどね)。」だそうです――結構なサジェスチョンで。


http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20070624ik02.htm


ただ自身の問題関心からメタな議論を繰り広げている。それは構いませんが、共生を主張することは違います、という話です。なお、エホバの証人が「トンデモ」とか、私はまったく思っていないし書いてもいません――もし誤解しておられるのなら。