魂と権利の落としどころ


「いのちだいじに」教はてごわい - すべての夢のたび。


反応に感謝を申し上げたうえで、反応を拝見しての私の見解を。

(前略)まぁ「エホバの側に立つ」はもちろん釣りタイトルなんで、そこを云々されてもこちらに応答する言葉の用意がないのですが、そういったタイトルを使うことで非難を受ける可能性は織り込み済みで、しかし得る効果を考えて使っているということです。


――ん? 『たとえどんなにエホバが間違っていようとも、私はエホバの側に立つ』エントリの趣旨を的確に表していると、読者としては思いますが。村上春樹スピーチの改変も適当と思います。「エホバの証人が間違っているか否かは問題ではない」ですよね。村上春樹も趣旨としてそう言っています。「正しい/間違っている」は問題ではない、と。「わかってやっている」的なエクスキューズは不要です。「不謹慎」をわかってやっていることは明白なので。

が、だからこそ、当該の輸血拒否問題に対するみちアキさんの「私はエホバの証人の側に立つ」というスタンスに私はダメを出す。貴殿にはまったく立つ筋合も筋道も資格もないと。


資格がない、という指摘はぼく相手には有効ではありません。資格があろうがなかろうが書けるよ、ということをぼくは知っているからです。そして実際にその通りに行動します。だからここは、sk-44さんは「資格がない」という穏やかな言葉を使っていらっしゃいますが、ほんとうは、あのようなものを書くのは止めろ、と仰りたいのではないかと想像します。


当人として申し上げますと、違います。言論を「不謹慎」と指す発想に対してみちアキさんが批判的であることは存じ上げているつもりです。「だから」あえて挑発的な言論を展開する。で――そのことには私は同意します。そもそもみちアキさんを不謹慎とは思わない。不謹慎な内容を書くことを止めろとかまったく思わない。何を書こうと構いません――というか、私に「構う」筋合も筋道も資格もあるはずがない。


「たとえどんなにエホバの証人が間違っていようとも、エホバの証人の側に立つ」資格がみちアキさんにはない、という話です。御自身の主張を御自身の行動が裏切っているからです。私が指摘したのはそのことです。


「資格がない」のは、信仰問題をアプリオリな自由意志の問題へと還元しているからです。論理的にエラーしているという話。論理的なエラーにおいて選択されるのが倫理で、倫理とは個人の個人性が要求する概念であり行為です。みちアキさんは個人の個人性を掲げるために、1歳児や妊娠4ヶ月の胎児の生命を犠牲にする議論を「故意に」展開している。


そのことが、みちアキさんが示した「真意」によるものなら、少なくとも倫理的な話ではありません。非倫理的な議論と不謹慎は違います。不謹慎とは私はまったく思いませんが、倫理を掲げる議論がまるで非倫理的なのは釣りですか、とは指摘しました。「タイトルは釣り」とかそういう話ではありません。

これについては結果的にその通りです。もし仮に主治医の人が「医療で人命を救うのが医者の仕事であり使命なのであって、何人たりともそれに文句は言わせねえ」と言ったなら、ぼくは何も言い返せないな、ということには気付いていました(そして医療関係者の方の多くがそういう気概で仕事をされていることと考えています。たとえば戦争が起き、自分の担当した兵士が治癒し、その結果ふたたび彼が戦場に赴くことになって命を失うとする。しかし、そうであっても治療を行うのが医者の使命に違いない、そう思います)。が、その気付いた弱みを語り、さらにそれについての言い訳を語ると、主張が弱まり面白みが薄まる、と考えて省いたものです(それによって誰かが傷つくかも知れないということも、繰り返しますが織り込み済みでそうしているということです)。実際には、もしこの現場で親権停止が間に合わずに1歳児が危機的状況に陥ったとしたら、ためらわずに輸血は行われただろうと、ぼくは考えています。


「医師の信念」の問題としてみちアキさんが事態を了解しておられることがわかりました。みちアキさんにおいて、問題は「信念」なのですね。「正しい/間違っている」と関係がない「信念」。

意志が人命に先立つとぼくが考えているのだろう、という指摘については、ぼくはその部分を言葉にして考えたことがないのでわかりません。そうなのかもしれません。……いや、違うな。この部分はsk-44さんはぼくを誤解している。あとで触れるかもしれません。


確かに誤解していました。みちアキさんにおいては「意志=信念」であって、その信念は「正しい/間違っている」と関係がない。みちアキさんは、輸血拒否問題についてもそのような自身の問題関心において捉えている。つまり、宗教全然関係ない。

ぼくは1歳児の意志(?)は問題にしていません。ぼくが気にしているのは、元のエントリにも書いていますが、では両親の意志はどうなるのか、ということです。ぼくがあのエントリを書いた頃、はてブを見ていて下のエントリが目に止まりました。


(中略)


マイノリティみずからによる主張。こういうのは、内容の是非によらず否定しにくい。ジェンダーという微妙で扱いにくい(と書くことすら危うい)問題であることもあるでしょう。しかしエホバの証人はあっさり否定されるんだな。まず、カルト(と言われているがぼくは違うと思っている)だから。そして人命絡みだから。そして主張を代弁しているのがその資格すらないみちアキであるというところが大きな問題でしょう。けれど、自分たちがその主張を「取り合うまでもない」と考えているからと言って、ガン無視して輸血をしてしまっていいんだろうか、ということをぼくは言っているのです。両親側は輸血をしないことが正しいと考え、止めてくれと言っているのですから。


「輸血拒否問題はマイノリティ問題であり、マイノリティの意志(=信念)が無視されてよいか」――そのような認識で「エホバの証人の側に立つ」と書くから「資格がない」と私は言っています。


「意志>人命」と私がみちアキさんに対して指摘したのは――みちアキさん言われるところの「いっぱいブクマされた」派遣村に言及したエントリでも偽科学批判に言及したエントリでも同様でしたが――「権利」という概念に対する顧慮がみちアキさんに一切ないと考えるからです。それはみちアキさんのスタンスと思うので、構いません。


しかし、基本的人権という「権利」の付与は意志の有無を問いません。行使するか否かです。行使を実現する社会機構の実装とアップデートは問われます。権利の行使に際して、主体の「意志」は問われません――人間においては。つまり、信念の問題ではありません。


「妊娠4ヶ月の胎児の命も1歳児の命もその重みに大差はないと考えている」みちアキさんの信念は構いませんが、中絶問題とはそういうことではありません。権利の行使に際して、主体の「意志」が問われないからこそ、人間の条件が外在的に侃々諤々される。


マザー・テレサは間違えている。 - Something Orangeというエントリを拝見しました。タイトルについて述べるなら、マザー・テレサはまったく間違えていない。というか、インドの宗教共同体に介入したマザー・テレサの行為の是非について彼女の信仰との連関に言及したうえで彼女の中絶観を云々しないことには「話にならない」。魂に貴賎なし、とマザー・テレサは考えていたし、貴賎なき魂は社会的条件の問題ではない。生命の問題です。


貴賎なき魂を社会的条件において画定しようとして、権利の概念は生じました。そして「自己決定権」という概念が派生する。その背景には、妊娠出産において毀損されてきた権利に対する反省がある。もちろん、これはアポリアです。だからいまなお侃々諤々の渦中にある。


そして――このアポリアは信念の衝突としてあるのではない、権利の衝突としてある。胎児の信念など、1歳児の信念と同様に、問えるものではない。いや、その6 ある胎児の一生 - Something Orangeで紹介されている文章のようなものもありますが。トンデモと注記するまでもありません。

(前略)先に記したsk-44さんへの応答の最後のほうの話が、まったく通じない人がいるのです。それを仮に「いのちだいじに」教の信者ということにしておきます。「人命ノ尊厳ハ神聖ニシテ絶対デアリ、何人タリトモコレヲ侵スベカラズ」と信じている人たちです。実際には日本では死刑や安楽死や堕胎という形で微妙にほころびはあるのですが、そのわずかな例外を除けば絶対、という感じ。「信じている」と書きましたが、彼ら/彼女らにはこれは大々々前提なので、そもそも意識にも上らないため話には出てきません。ぼくも当然その前提を共有しているはずだ、というところから話が始まってしまいます。


そういう人たちには、「人命が最優先ではない」という価値観の存在は、考えることができないのです。端的に「間違っている」と言うか、「可能性としては考えられるけど、しかしあり得ない」と言うか、その程度の差はあるかもしれませんが。自分たちの価値観が唯一の世界であり、そうでない世界は「ない」か「誤っている」と考えている。


「いのちだいじに」教とはカトリックのことですね、わかります。――皮肉は止めて真面目に申し上げますが、カトリックと峻別して「いのちだいじに」教を批判することは立論における「権利」概念の不在をしか意味しない。繰り返しますが、信念の衝突の問題ではなく、権利の衝突の問題です。


「織り込み済み」でやっておられるなら釣りという話でしかない。派遣村にせよ偽科学批判にせよ輸血拒否問題にせよ、権利問題を信念の問題として問うことは端的に的外れだからです。――不謹慎とかそういうことの以前に。


輸血拒否問題は、エホバの証人と「いのちだいじに」教の「信念」の衝突の問題ではない。親の権利と子の権利の権利の衝突の問題です。日本国においては生存権は親権に優先するということです。妥当な判断と思います。親権が生存権に優先する国家においては、名誉殺人といった事態が発生します。


これは問い質しているのではなく感想ですが――みちアキさんの立論においては、名誉殺人はどのように批判されるのか。いや、別に名誉殺人肯定でも構いませんし先進国日本でそれを言うことも構いませんが、御自身の立論が問題設定において名誉殺人を射程に含むことを理解しておられるか――ということです。名誉殺人の批判者は、信念の問題としてそれを批判しているのではないし「いのちだいじに」教でもない、人権問題として批判している。


生きながら火に焼かれて

生きながら火に焼かれて

しかし、ぼくは歴史には詳しくないのですが、日本においてすら「人命は絶対」という価値観が成立したのは最近になってのことじゃないのですか? 戦時中は特攻隊などもあったし、もっともっと以前には「姥捨て」や「間引き」、子供を売り飛ばすこと(ちょっと違う?)は普通に「あった」のではないですか?(「姥捨ては『無かった』」とか言われると続かないのですが) でも、「いのちだいじに」教信者は「それは当時の人間が誤っていたのであって現在が正しい」と言うのでしょう。けれど、当時の価値観においてはそれらは「正しい」ことであったのです(と言ってもこれも通じないんだろうなーと思いつつ進めます)。


こういうことを言う人はとても多いのですが、権利概念の発展を言祝ぐことと「当時の人間が誤っていたのであって現在が正しい」は違います。みちアキさんが最新エントリで歴史認識問題に言及しておられるので述べますが、たとえば慰安婦問題について「過去の価値観に基づく個人の行為に対する、現在からの断罪」を述べる人は多い。そういうことではないのです。「権利概念の発展に伴って私たちは過去の国家的行為に責任を負う」ということです。私は権利概念の発展を言祝ぐ立場なので。つまり「いのちだいじに」教という整理は的外れであって、権利の衝突を信念の衝突として考えるみちアキさんの問題関心に基づく誤解と思います。

(前略)ただしここで、異なった可能性が有り得ます。goldheadさんのエントリから引きます。

 俺は、そこんところについて、「そりゃあ言うまでもないぜ」っていう、そういうのはあんまり好きじゃない。疑ってみて、考えてみて、感じてみて、「お前さんはそう言うが、それでもやっぱりその子供は救われるべきなんだ」って、そうじゃなきゃ嘘だぜって気がする。この世を論じようとするならば、論外なんてねえんだって。そうでなくては、むしろ壁になっている教団に、「われわれ」の壁でぶつかるだけのような気がする。お互い卵は壊れる。


これですね。エホバの証人を「論外」として退けるのではなく、そちらの立場にも自分を置いて検討してみる(非常に困難でしょうが)。そして、その上で、他の世界の存在を認めた上で、新たにこちらを選び直す。これならば、いいんじゃないかとは思える。同じ「いのちだいじに」教信者であっても、「生まれながらの、疑うことを知らない」信者と、「各地を放浪修行して戻ってきた」信者の違いがそこにはあるでしょう。もちろんそれで問題が解決するわけでは全然なく、他の世界との戦いが行われるわけですが、少なくとも相手の存在を認めてはいる。それは礼儀ではないのでしょうか。人命最優先もいいけれど、それを主張するんなら他人の存在を空気のように無視することもしちゃいけないんじゃないの?と思うわけですよ。まぁここまで言っても通じない人には通じないんですけどね。


「信念の衝突」というスジで考えるならそうなります。しかし「権利の衝突」というスジで考えるべき問題です――これは。魂の落としどころは、それとは別に模索するべきでしょう。つまり、まずは親権停止してでも1歳児を救命すべきと、「いのちだいじに」教信者ではなく権利概念の発展を言祝ぐ先進国の近代市民としては思います。


「信念の衝突」と考えるから話が宗教戦争にまで三段跳びに飛躍する。信念の衝突に発する宗教戦争を調停するために権利概念とそれを実装する社会は存在します。親の信念と医師の信念の綱引きの対象としないために、1歳児の生命は権利概念において保護され、その権利を実現するべく社会が機能しています。近代国家においては、結果的にせよ、信念で人を殺す行為は「法的に」裁かれます。親権が輸血拒否の法的な盾としてあるから、関係機関は法的措置を迅速に取った。信念に基づく超法規を関係機関に対して主張するなら、筋違いかイチャモンと言うよりほかない。

ではどうであればよかったのか。思うに、「1)主治医側とエホバの証人側が徹底的に、徹底的に話し合い、その間になんだかよく解らないけど奇跡が起きて子供が完治してしまう」というのが、もっとも感動を呼ぶシナリオなんじゃないかと思います(笑)。その次は、似てるけど、「2)話し合っているうちに子供が死んでしまう」ですね。ぼくには、「3)強引な輸血の結果子供が助かる」は2より悪く見えるし、「4)輸血拒否を受け入れて子供が死ぬ」も実は2より駄目なんじゃないかという気がしてきました。要するに「お互い納得する」というシナリオはここにはないわけで、ほんとは、エホバの証人は輸血拒否をするってことは前々から解っているんだから、問題が起きる前に話し合いなりなんなりをしておくべきだった、というのがベターだったのでしょう。でも今回はもう遅いので、次に揉める前になんか決めたほうがいいんじゃないかとは思います。そしてそれは「うちに入院する以上は絶対言うことを聞いてもらうぞ!絶対にだ!」でも別にいいんじゃないでしょうか(そしたらエホバの証人側は、はじめから病院に連れていかなくなっちゃったり、するかもですけどね)。


いや、シミュレーションは大変結構ですが、「話し合いなりなんなりをしておくべきだった」――していないと考えていたわけですか。権利概念を前提しないみちアキさんが、このような話を始めることは致し方ないとしても。茶化すのは構いませんが無知と不見識は拭えない。権利概念を一切捨象して万事を信念とその衝突の問題に還元するから、医療関係者を「信念的存在」と勝手に仮定することになる。挙句宗教戦争にまで話を進める。的外れです。


自身の問題関心から他人事について他人事と断って人命をダシにした立論を故意に展開している人が「マイノリティの信念」の側に立つと称する資格はありません。もちろん発言は自由です、不謹慎という概念に私は関心がありません。故意に混同しておられるのでしょうが。


権利問題を信念の衝突の問題として考えることがそもそも的外れであり、「いのちだいじに」教を仮想敵とすることも、また事態を「正しい/間違っている」のフレームとして見ることも外している。「正しい/間違っている」が人命を奪うことを阻止するために権利概念は発展してきました。もちろん死刑は基本的人権に反しています――原理的には。

まぁ、輸血はしていいんだと思いますよ。「正しい」「間違い」という言葉は使いたくないので避けますが、輸血拒否は馬鹿げている、とぼくも思う。輸血はしていい。でもその時、こちらは誰かの意志を無視して踏みにじっているのだよ、ということに、意識的であってほしいと、それを忘れるなと、そう考えているのです(ここも重要なので繰り返しますが、「あいつらの言うことは明らかにおかしいから無視していい」では駄目なんですよ)。そしてエホバの証人は慎ましやかなのでそんなこと言わないだろうからぼくがお節介をした、ということです。


筋を違えた立論の結論がこれなのですが。「誰かの意志を無視して踏みにじっているのだよ、ということに、意識的であってほしいと、それを忘れるなと、そう考えているのです」だから「自分は意識しているし忘れていない」と再三みちアキさんは強調しておられるのですね。


オウム真理教から「貴方の描いたことで信者が傷ついている」と抗議されたときの小林よしのりの名言がありまして「傷ついたと言われるのは我慢ならん、こっちは傷つけることを覚悟して胸がえぐられてるのがわからんのか」――むろん、よしりんは続くコマで教祖の台詞として「……狂っとるなぁ」と漫画家自身に対する突っ込みを入れています。


「こっちは傷つけることを覚悟して胸がえぐられてるのがわからんのか」と自分で言いたがる人と言いたがらない人がいます。傷つけることに変わりはないのに。そして「胸がえぐられてる」か否かなんて他人には知ったこっちゃないのに。


「マイノリティの信念」が無視され踏みにじられている問題、と輸血拒否問題を考えるならそういう話にもなるでしょう。ところで、これも感想ですが、意志と仰いますが、自由意志はみちアキさんにおいてはアプリオリなのですか。権利のアプリオリに対してあれほど懐疑的なのに。自由意志のアプリオリこそ、私には疑わしい。私の自由意志が自由意志のアプリオリを証明している、という命題はトートロジーです。


アプリオリに自由意志を設定して権利概念を批判する議論が、あえてしているメタ議論でないなら(あえてしているメタ議論であっても私はろくでもないと思いますが)――つまり本気でそう考えているのなら――私にはトンデモとしか思えない。テキトーな思考実験で現実の事態について他者を批判すべきではない。


続く、とのことですが、とりあえずこんなところです――私の見解は。


神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

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