2.私の見落とし


シム宇宙の内側にて 『死ぬ死ぬ詐欺』 を 『死ね死ね詐欺』 と言い換えないでください


リンクありがとうございます。エントリの迫力にのけぞり、かつ背筋に寒気が走ってあわてて日記内検索を行ったブログ主でしたが、私も含めて誰もつられて誤表記はしていなかったようで、安堵しました。当該のくだりとそれに対する私の返答を長めに自己引用。


真面目な返事は続く - 地を這う難破船

> つまり貴方にとっては「問題にする要を感じない」ということでよろしいですか。

そうではなく、その死ね死ね詐欺とかいう下品な言葉を問題にするならば、ということです。


再三の簡潔かつ不明瞭な回答。さすがに呆れてきましたが、せめて引用するなら段落単位で引用のうえ自らの対応的な見解を記していただきたい。もはや論文云々について貴方に確認する気もないので、貴方の意図に準じますが、つまり貴方は「死ぬ死ぬ詐欺とかいう下品な言葉を(こそ)問題に」しているのであると。あるいは同じことですが「死ぬ死ぬ詐欺とかいう下品な言葉に準拠した『運動』をめぐる検討自体、問題にする要を感じない」のである、と。結局のところ、当該問題についての貴方の関心と優先順位はそこにのみ超越的に所在する。他の一切はどうでもよいし分節や相対という概念が貴方にはないのであるから。幾度も記しましたが、そうした貴方の感性に依拠した疑義ないし問題意識の表明については、同意する方も感銘する方もいるであろうし、実際いたことでしょう。貴方のそれは決して「特異」な感性などではない。「死ぬ死ぬ詐欺」という卓抜な命名のもとに展開された「運動」の、「死ぬ死ぬ詐欺」という呼称自体についての違和感として集約され得る事柄に対しての問題意識と疑義、それについては、私もまた部分的かつ限定的には同意します。


正式な名称に訂正して記しているということは、引用の段階で気が付いていたということでしょう。ではなぜその旨指摘することなく「スルー」したかというと、音羽さんの書き込みが全体的に、とりわけ当該部の書き込みについてはあからさまに投げやりであって、自らの記述の細部に注意を払っているとは到底思えなかったため(実際、誤字脱字も多かった)、また粗雑な誤記かと判断したということではないかと、思い返しています。

(前略)ネタでも冗談でも、『死ね死ね詐欺』 などという発言は許されません。○○ちゃんを救う会批判派の皆さんは、決して 『死ね死ね詐欺』 などと積極的に主張したりはしていません。こんなことを言っていては、sk-44 さんのblogのコメント欄で次のように稚拙な印象操作を試みている 音羽 さんの同類と勘違いされてしまいますよ。


「印象操作を試み」たものであったのかと、今頃気が付きました。その点については、fw0さんのように注意を払ってはいませんでした。反省し自戒します。正直なところ、こうした誤表記を含めた明白な誤認についても、先方の作為に基づくものであるのか天然であるのかわかりかね、かつ指摘したならきりがないうえに先方にとっては無効であるため、私が把握し得る範囲についてもいくつも「スルー」してきたことは事実です。とはいえ、fw0さんのエントリのコメ欄にて( ´∀`)さん(オーマイニュース絡みで最近各所にて拝見しますが、私のブログにもコメントしてくださった方でしょうか)が指摘されfw0さんが応答されている通りに、名称の意味的な由来についてわずかでも考えたなら、いくら「死ね死ね団」(by川内康範先生)や「オレオレ詐欺」(「レ」と「ね」で母音が被る)と似通った名称であるとはいえ、誤表記すること自体が、不案内と偏見を明示してしまう類のものではあるのですが。


そして、たかが誤表記ではないかと、いやそれ以前にそのような事項に不案内であろうと何か問題がありますか、とする人が「救う会批判派」に対する批判者には多く、要は前提において価値判断というファクターが決定的に介在している、かつ池田信夫氏もまたそうした価値判断にコミットする人であった、つまりは価値判断に準拠してファクトの軽重すなわちファクトに対する注意と顧慮の軽重が左右される、池田氏の誤表記に象徴された、かかる事柄自体を、そしてそうした池田氏の認識についてもまたfw0さんは指摘し批判されている、のであろうと私は受け取りました。原則的に、同意します。


とはいえ、上記引用にて示した私の見解自体は、今なお変わりません。少なくとも「死ぬ死ぬ詐欺」とはどぎつい言葉であるがゆえに卓抜なキャッチコピーでもあった。たとえば「ネット右翼」等もまた同様ですが、キャッチコピーが普及した結果、レッテルとして第三者に濫用されることによって、字義の水準においてレッテル自体に付随している悪意を恣意的に利用する(fw0さんが言われるところの)「真正バカや擁護派工作員」による「「死ね」などの暴言」を誘発する要素が、かかるキャッチコピーの字義においても存在したこと、またそうした状況に対する嫌悪感をキャッチコピーの字義にこそ集約させて表明した人があったことは、それは多く軽率ではあったといえ、感覚として、かつ状況のたどった筋道としては無理もないことであったろうとは、部分的かつ限定的には私個人は思うためです。


とはいえ、以上と誤表記とは過誤であれ恣意であれまったく別個の次元に在る問題であり、誤表記とは、そもそも名称の由来的な意味ひいては「救う会批判派」が準拠している論点自体を適正的に検討してはいない、または適正的に検討する価値自体を認めていないことを証してしまっていると受け取り得る材料であるがゆえに、かかる意識と認識自体に遡行しての批判を受けてやむを得ないものと、私もまた判断します。つまりは、価値判断に準拠してファクトに対する注意と顧慮の軽重が左右される、そうした事柄自体とそれを単一的な価値判断から是認する認識は、少なくとも(追記:批判を前提した)指摘には値するという、上の記述に戻る問題であろうと、私は考えています。