我ら永遠の課題(mojimojiさんへの応答.その1)


流石に長くなったので応答を三分割しました。


共同性ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。

共同性は、民族性に基づいた共同性に限定してさえ、民族主義の専売特許ではありません。民族主義は多様な共同性の基盤を破壊するのと同時に、民族性に基づいた共同性さえ危機に晒します。


同意します。それは、民族主義原理主義だからですが。発端となった「在日」の方のエントリが内容において原理主義的であったか、ということです。

民族主義を否定することは、民族性に基づく共同性を否定しているのだし、ひいては民族性を否定している。──sk-44さんはそのように考えておられるようですが、僕は民族性に基づく共同性を否定していません。否定することになってもいません。


民族主義を退けることには同意します。で、共同性を擁護することと、共同性の政治化を批判することは違うと書きました。しかし政治は共同性を要求する。これこそ、歴史段階の問題ではなく、古代アテネ以来の原理的な問題です。そして、近代化ひいてはグローバリズムの過程における共同体の解体に伴って共同性が危機に瀕するとき、政治は国民統合のため自己言及としての共同性をでっちあげる。これが、ナショナリズムです。


共同性は、空間と時間に規定される。だから、国民国家は国民において共同性を涵養するべく空間と時間の連続性をでっちあげる。GHQもそれはわかっていたので、天皇は国民統合の象徴として日本国に引き継がれました。もちろん、それは国民国家の国民が望むことです。


象徴天皇が人身御供であるとして、民主主義者であるところの今上は「自発的に投企をされている」というのが現行憲法に照らしても、また実情としても、私たちの理解ですね。今上の意思の問題ではなく「徴のために人身御供を要求していること」が問題、とmojimojiさんは言われると思いますが、そもそも共同性とは、人身御供において徴が刻印されることです。


そして、人身御供に「自発的に投企する」ことが共同性のその意味です。それをしてmojimojiさんは民族主義と指し、批判するのでしょうが、私の考えでは、批判は妥当ですが、それは、共同性を批判することです。共同性とはそういうことだからです。それはそもそも――平成の皇室をめぐる議論が時にその様相を呈するように――グロテスクなものです。言うまでもなく、抑圧の装置であり、同化と排除そのものだからです。


当たり前ですが、伝統と血統はイコールではありません。イコールとするところにおいて、日本国民統合の象徴は機能し、国民の共同性を涵養している。同化と排除の論理において。その矛盾を帝王学として自覚しているのが、沖縄に関心を持ち続けた今上です。


そして、チマチョゴリは、単なる伝統としての民族衣装ではない。「在日」にとってのチマチョゴリを単なる民族衣装と捉えることこそ、文化収奪的な帝国主義の視線と思います。フランスにシラクが建てたケ・ブランリ美術館のように。


ケ・ブランリ美術館 - Wikipedia


文化が収奪されることは致し方ない――それがmojimojiさんの立場と理解しますが、そのことと植民地支配を批判することが両立するとは私には思えません。

同じ民族の徴において、共同性が立ち上げられる。同じ衣装を着ている。同じ言葉を話している。同じ踊りを踊る。そこで人がつながる。それは別にいいことですし、そのことを否定したことはありません。ただし、同じ衣装を着ていないなら、同じ言葉を話さないなら、同じ踊りを踊らないなら、共同性は立ち上げられない。だから、同じ衣装を着る「べき」、同じ言葉を話す「べき」、同じ踊りを踊る「べき」、そこまで言うのが「民族主義」ということです。それを僕は批判している。──はずなのですが、何度も何度もこの点は無視され、まぜっ返されてきました。そろそろいい加減にしてほしい。


いい加減にしてほしいも何も、少なくとも私にとっては、そのことが論点です。その点についてmojimojiさんの議論に対して異論を述べているので、mojimojiさんの主張を無視しているという話ではない。


共同性に基づく規範とは「べき」の問題で、そもそも同化と排除の論理です。望むと望まざるとにかかわらず。mojimojiさんは「生きられている現実」を最初の前提に置く立場から、共同体の規範性を批判している、と理解していましたが「「規範」には二通りの意味があります。僕はそのような意味で「規範」と言ったのではありません。」と仰る。その心は、良き規範と悪しき規範は区別されるべき、という話のようですが。形式を他者に押し付けるのが悪しき規範、というのはその通りです。

たとえば、在日の共同体において、「同じ衣装を着ている。同じ言葉を話している。同じ踊りを踊る」そういうことが徴として人をつなげることはあるでしょう。別にそれはかまわない。そこに、同じ衣装を着ているわけではない、同じ言葉を話すわけではない、同じ踊りを踊るわけではない誰かがやってきて、「私も在日だ」と言うときにどうするのか、ということです。その人が「在日だ」と言うことは、在日であることの悲哀を、その人もまた感じながら生きてきた、ということです。そのときにどうするのか。「衣装も言葉も他の何もかもが違っても、あなたも私たちと同じ苦難を生きている在日だ」と言うのでしょう。そのときに、共同性は再定義されているんです。衣装も言葉も踊りも、生きられている現実としての重要性はもちろんあっても、共同性を立ち上げるために必須なものとは違う。同じ衣装を着ているわけではない、同じ言葉を話すわけではない、同じ踊りを踊るわけではない誰かを共同性の内に迎え入れるということは、そういうことです。


残留孤児が帰国後に日本社会でどのように生きてきたか。mojimojiさんは御存知と思いますが、共同性とはそもそもそういうことなので別に述べておられるようなことによって「再定義されている」という話ではない。その背景には、戦争の歴史がある。そして戦争の歴史は、それを生きてきた人の老いと死と共に、忘却の彼方にある。同時に、そうした共同性は失われるのです。そしてどうなるか。共同性の再興を掲げて安倍政権が誕生します。


小泉八雲が日本人についぞなれなかった話のことは御存知ですか。現在ではそうではないかも知れない。しかしこのようなことは言えます。小泉八雲が「日本人」になれなかった時代において、共同性とは歴史とその記憶の問題であった。歴史とその記憶の問題として共同性がある以上、mojimojiさんが述べておられるようなことは、少なくともWW2以後は普通にあることなので(そしてその中にシオニズム運動も含まれる)、その意味では仰る通りです。


そして問題は、歴史とその記憶が忘却される中で、歴史とその記憶の忘却が、現代的な消費文明の産物としての市民社会の市民生活のその条件としてあるとき、共同性の涵養のために文化という規範的概念が「でっちあげられる」ということです。源氏物語千年紀、とかですね。その観点から話題の『日本語が亡びるとき』を読むととても面白いのですが、これもまた別の話です。


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で


だから、そもそも文化とは「べき」の問題であって、あれほど――西欧人の視線に基づく――「日本文化」を愛した八雲が日本人についぞなれなかったのは、明治日本とは共同性が文化の問題としてあるのではない時代だったからです。そしてそれは、つい最近まで続きました。過去形です。結果どうなったか。mojimojiさんが言われるような「再定義」がむしろかなわなくなりました。


だから、共同性の涵養が政治課題として絶叫される。いわゆるバックラッシュも、前記エントリで言及したような極右の台頭も、その類です。それが――大雑把な話であることは認めますが――原理主義です。


ところで――mojimojiさんは、シオニズムに批判的ですよね。つまり、そういうことです。


歴史とその記憶の問題として共同性がある以上、そしてそれが人身御供において、言い換えるなら、不正と暴力において徴が刻印されることである以上、そもそも共同性とは同化と排除の論理です。


そのような共同性に対してmojimojiさんは批判的と私は考えていましたが――そうではなく、同化と排除の論理としての民族主義の問題と、mojimojiさんは仰る。私の見解では、そもそも共同性が同化と排除の論理です。そのうえで、共同性を擁護することを私は主張しています。


それは人身御供の肯定かと問われるなら、こうお答えします。共同性とは不正と暴力の産物としてある人身御供を私たちが追悼することです、と。以前にエントリを書きましたが、加藤典洋が論じたのはそういうことでした。


そして、共同性は不正と暴力の産物としてある人身御供を再生産する装置として――人類始まって以来――機能し続けている。(ハイデガーと少なからぬ縁あった)アレントが論じたように、政治が共同性を要求する以上、この原理的問題は、ノーマン・ロックウェルの著名なイラストのタイトルを借りるなら『我ら永遠の課題』です。


the problem we all live with - Google 検索


mojimojiさんはそのような共同性をこそ批判していたのではないのですか。山本七平キリスト者として生涯を貫いて批判したのも、そのような共同性です。私はそのようなものとしてある共同性を擁護しますが、それが不正と暴力の産物としてある人身御供を再生産する装置であってはならない、と同時に思います。


しかし、不正と暴力の産物としてある人身御供を私たちが記憶する営為としての共同性を擁護することと、共同性が不正と暴力の産物としてある人身御供を再生産し、ひいては生贄を求めることを批判することを、同時に行うことは、論理的にも困難です。


なぜなら、共同性が空間と時間に規定される以上、それは連続性を前提するからです。過去の人身御供を記憶することは、同時に未来の人身御供を求めることとしてある。そうして、共同体の共同性は維持され、ひいては国体は護持される。国体の連続性と同義としてある共同体の連続性が必然として人身御供を求め続ける限り、切断を企図することは「正しいこと」です。この人身御供とは、象徴天皇に限られた話ではない。天皇家はその象徴としてあるので、父の母の、ひいては「じっちゃん」のことです。


ちなみに、その点では靖国神社はまったく役立たずで、アジアの軍属は祀り続けて殉職自衛官は祀らないそうです。共同性の空間と時間を大日本帝国に限定して21世紀における国体の連続性を顧慮しない、と。1945年で時間の止まった、大日本帝国を記憶するための施設と考えればそれはそれで結構なことなのですが。大日本帝国との連続性を、かくて現在の日本は失っている。


未来に対して連続性を切断することは、過去の連続性を切断することです。連続性を切断するとはそういうことです。そして、生命の連続性と、生命の連続性を担保する愛の連続性こそ、有史以来の人類の共同性の根源としてあり、政がそのことにおいて為されてきたことを、母の問題としてある共同性の問題として、歓待の論理を掲げる者は批判しました。――日本においては事情は些か相違しますが。


そして、不正と暴力の産物としてある人柱をその連続性の場所に捧げ返すことが今なお政治であり、それは歴史段階以前の原理的な問題としてある。ヒトラーは、生命の連続性が、愛の連続性によって担保されるとはまったく考えませんでした。生命の連続性を民族の存続の問題として直截に政治化しひいては科学化したのが彼の「生存圏」という発想に基づく国家社会主義でした。そのような発想をこそアレントは批判して、しかし共同性の根源としてある血の紐帯を、政治が要求し政治において動員されるそれを、苛烈なイスラエル批判者でもあった彼女は退けたわけではなかった。


共同性の根源としてある生命の連続性と血の紐帯をこそmojimojiさんは切断すべく一連の主張を展開している、と私は理解していましたが。mojimojiさんが政治の話をされないのは、それが生命の連続性において起動するから――そう考えていました。mojimojiさんの民族主義批判を、そう私は理解しています。生命の連続性を、血の紐帯として解くべきではない、と。血の紐帯とは、まさに母の臍の緒そのものです。


私としては、そのようなmojimojiさんの立場は、BIと親和的な考え方と思います。そして、そのような立場において、文化を論じておられることがわからない。共同性を育む文化とは、空間と時間の連続性の問題で、それが近代化と帝国主義グローバリズムにおいて成り立たなくなっている、という話を、私はディーコンを引いて述べています。


日本のオタク文化に存在する「戦後」という空間と時間の連続性について、歴史を参照してその育んできた共同性に及んで村上隆氏は述べました。欧米人の文化収奪的な帝国主義の視線に対して、です。「愛国者」と言うなら、私は村上隆こそ愛国者と思うので、以前『嫌オタク流』という本で主張されていた村上隆批判を目にしたとき、呆れた。「原爆投下をアメリカに対して肯定してみせる村上隆は日本の右翼に刺されるべき」とそういうことを言っていた人がいたので。現都知事を批判しているような人ですが、民族主義的煽動とはこういうのを言います。


日本のオタク文化に存在する空間と時間の連続性を「戦前」から論じて村上氏の立論の対米迎合性を指摘する論者は大塚英志氏はじめ多くあります。批判とはそういうものです。脱線失礼。


リトルボーイ―爆発する日本のサブカルチャー・アート

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血の紐帯の困難に対する、生命の連続性の代替物として、文化はあります。連続性において、自分の思想が残れば子孫は要らない、と妻に中絶させてそのことを公言していた作家もいましたが。確かに、作品は残ったし、残るべき文学ではありますが。


もちろん、以上はグロテスクな光景です。そのグロテスクさこそ、共同性の、文化ということの、つまりそのような規範的概念の、意味なので、そうした一切を退けて「生きられている現実」を肯定している、と私はmojimojiさんの主張を理解していましたが。こうして言語化すれば一目瞭然なように、そもそも共同性や文化とはグロテスクです。


人柱の再生産としてある連続性を未来に対して切断するためにこそ、過去の連続性を「余分」として切断している、と私は思っていました。「個人に依拠する」=「「私が在る」に依拠する」とはそういうことです。理路として正しいと思います。


私としては、人柱の再生産としてある連続性を未来に対して切断することと、過去の連続性を退けず、過去の人身御供を、ひいては不正と暴力を、血の紐帯としての政治へと捧げ返すことなく悼むことは両立しうると考えています。じっちゃんの過ちを指摘することと不正と暴力の産物としてある人柱を私たちが追悼することは両立します。そうではない、と述べた人もいますが。


迫害の歴史とホロコーストシオニズム運動と中東戦争と現在のガザ侵攻は、紆余曲折あれども直線上にある、とmojimojiさんは考えていると思っていました。そして、だからこそ、第一に国家が問われる――民族主義でなく。ガザ侵攻におけるイスラエルの問題とは、シオニズムの問題ではなく、徹頭徹尾国家の問題です。そしてパレスチナ国家を現在のイスラエルが認めないことの問題です。


国体の連続性と同義としてある共同体の連続性が人身御供を求める。自ら悼み祀り生命の連続性の場所へと捧げ返し血の紐帯として政治を起動させるために。そして、その営為から「在日」が遺棄されている――そのことが問題です。他人のディアスポラを言祝ぐのは、祖国に抱かれている者の手前勝手です。もちろん、沖縄が祖国に抱かれたことがあったか、そのことは問われ続けるべきです。


空間と時間に規定される共同性は、現在形の血の紐帯の問題ではありません。沖縄には、確かにそのような意味での文化が存在します。そして、共同性を、現在形の血の紐帯として定義するのが、政治であり、国家であり、戦争とその記憶であり、あるいは、国家に対する民族主義です。そのような「再定義」こそ、民族主義とmojimojiさんの理路においては指されるでしょう。


国体とは、文化なきとき、つまり三島由紀夫が言ったような文化的天皇なきとき、現在形の血の紐帯でしかなく、よって血を求め、結果的にせよ生贄を求めます。つまり、それがイスラエルということなので、そもそも論としてエルサレム賞の存在は、歴代受賞者に照らしても結構なことではないか、というのが私の見解です。

徴という規範性を求めることそれ自体を「余分」とはしていません。共同性という規範的概念それ自体を退けてはいません*1。「自身のルーツを求めることを現代の政治課題とすることを退けて」もいない。ただ、求めても求めなくてもいいものとして、別の課題を優先することもアリだと認めうるものとして、あるべきだ、と言っている。


つまり、民族性に基づく共同性と民族主義は別の話です。そして、民族主義が共同性を立ち上げることを問題だと述べたことはありません。共同性を立ち上げるとき、同時に排除の論理を持ち込むから問題なのだ、と最初から述べています。そして、排除の論理は余分です。民族性に基づく共同性と排除の論理*2を結合させる思想──民族主義──は余分です。sk-44さんの議論の大半はその区別がつかないことを前提にしていますが、その前提は成り立ちません。僕としては、何度も示唆してきたつもりのことです。


文化が規範的概念であるというのは、二つの意味が込められているでしょう。一つは、文化がある形式である以上、○○文化とはこういうもの、という意味は当然含みます。これを問題にしているのではないのは、繰り返し書いてきたことから明らかだと思いますが、わざわざ書いておくことにします。もう一つ、つまり、僕が批判している意味での規範性とは、そうである「べき」とまで言ってしまうことを指しています。具体的なある人に対して、ある模範的な形式を身につけるべき。というような。sk-44さんが、民族性に基づく共同性と民族主義を区別できないのは、形式としての規範性と、「形式としての規範性」を模範として同化と排除を駆動させていく規範性を区別できていないからでしょう。僕は後者を批判しています。そのことは、一番最初から示しています。


ということで、こうしたmojimojiさんの見解には私としては同意できません。「ただ、求めても求めなくてもいいものとして、別の課題を優先することもアリだと認めうるものとして、あるべきだ、と言っている。」ということは了解しますし同意です。


「民族性に基づく共同性と民族主義は別の話」とのことですが、この場合、前者は同化と排除の論理と無縁、ということですよね。民族性に基づく共同性とは、同化と排除の論理そのものですよ。望むと望まざるとにかかわらず。「その前提は成り立ちません」とのことですが、また「何度も示唆してきた」ことは承知ですが、成り立つと私は考えます。他者への規範の強制はよろしくない、などということはもちろん前提なのですが、そのような話をしていたのですか。


「形式としての規範性」を規範として同化と排除を駆動させていく規範性とは、私の言葉では、政治化された共同性のことです。そして、共同性が政治概念としてしか指し示しえなくなった世界における、政治概念としてある共同性の問題と、生命の連続性が駆動させる政の厄介について述べていたつもりだったので、「区別できていないから」という言葉に些か困惑しています。


「形式としての規範性」と仰りますが、「形式としての規範性」は人身御供を要求するし、必然として同化と排除を駆動させます。人間が、いや女性が子を産み育て、男性が父としてあることは、その過程において成立する家族は「自然」でもなんでもないからです。生命の連続性は、人間において必然として規範を形成し、同化と排除を駆動させる。それが、共同性の基礎にあることです。ケ・ブランリにはレヴィ=ストロース館が落成したそうですが。


食卓作法の起源 (神話論理 3)

食卓作法の起源 (神話論理 3)


批判ということではまったくないのですが――前記エントリで言及した極右について、gkmondさんが日の丸や天皇や「日本」に触れて「何かを好きであることを証明するのに、何かを嫌う必要なんてないんだ。」と述べておられました。それはその通りなのですが、しかし、そのような簡単な話ではない。


私が象徴天皇についてあまり言及しないのは、「国民」としての「日本人」が日本語圏で天皇について言及することそれ自体が同化と排除を駆動させるからです。そのことに問題意識を持ち合わせるからです。考えすぎ、と仰いますか。しかし、皇室への敬愛を日本語圏で公言する多くの人は、そのことが同化と排除を駆動させることを、微塵も考えない。つまり、それが「マジョリティの無自覚」ということです。


たとえば靖国神社とは、そのような同化と排除の装置そのものです。それはナショナリズムの問題であり、ひいては民族主義の問題である、とmojimojiさんは言うでしょうか。違います。ナショナリズム民族主義はもちろん違うのですが、それ以前の問題として、違います。国体ではなくなった象徴天皇とは、民族性に基づく共同性そのものです。そして結局は、民族性に基づく共同性が国体を指し示していること、戦前と変わりはしない。


「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」などというのは、少なくとも国体と同義の日本共同体の連続性を空間と時間において規定する場所では――つまり国内に留まらずかつて大日本帝国と縁あった現在の諸外国では――通る話ではありません。「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」ことが、同化と排除を駆動させることを、mojimojiさんは知っているはずです。同化と排除の駆動に気が付かないことが「マジョリティの無自覚」のその意味であり、その「気が付かない」無自覚こそが「同化と排除の論理」そのものなのです。――釈迦に説法と思っていました。


「何かを好きであることを証明するのに、何かを嫌う必要なんてないんだ。」は承知です。では「何かを好きであることを証明する」ことが、何かを排除し誰かに対して同化を迫っていることであったなら。そのことに気が付かず、ただ「何かを好きであることを証明する」ことと思って、公共の空間で日の丸を振っていたら? それが、マジョリティの、マジョリティであるがゆえの無自覚です。マイノリティが「自覚」せざるをえないことです。政治とは、そのことです。無徴に対して、徴のもとに結集することの、その意味です。


チマチョゴリを好きであることを証明するのに、何かを嫌う必要なんてないんだ」とmojimojiさんが言っておられるなら、それはその通りですが、そもそもそういう話ではない、ということです。事は政治の問題です。


mojimojiさんが直接に「余分」と指摘した人が、天皇の金婚式報道に対してエントリを掲示していました。私は先帝と今上に対して「国民」として「日本人」として思うことがあります。もちろんそれは「何かを好きであることを証明する」ことであるはずがない。そのような、軽い話ではない。


私がわからないのは――mojimojiさんにとって擁護さるべき「民族性に基づく共同性」とは「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」ことを指すのですか。それが「マジョリティの無自覚」という話と思いますが。「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」などという話があろうはずがない。それは通らない。


それはナショナリズムの問題か。違います。民族性に基づく共同性に対する自発的な投企の様相としてあります。もちろん、それは幻想ですが。「無自覚」のままに、マジョリティの共同性に対する自発的な投企がナショナリズムと接続されることが、その無自覚としての同化と排除の論理が、この日本の問題である、ということです。愛国心とは自発性の問題なので、愛国心と意識されない愛国心を――つまりナショナリズムを――民族性に基づく共同性において駆動させるべく象徴天皇は機能している。


人身御供を要求するわけでもなし――「ただ日の丸が好きで」日の丸を振ることは、mojimojiさんにとっては擁護さるべき行為ですか。「ただ日の丸が好きで」日の丸を振る「国民」としての「日本人」の姿に、そのマジョリティとしての無自覚に、歴史とその記憶を喚起される人たちがあるとき。そしてそのことの政治的な問題は現在形としてあるとき。植民地支配の時代から、「ただ日の丸が好きで」日の丸を振る「国民」としての「日本人」が、それ自体で同化と排除を駆動させています。それともそれは、マイノリティの側の同化と排除の論理としての民族主義でしょうか。斎藤憐ならそう言うでしょう。


私たちは、自身の存在が政治的であることと無縁ではいられません。そして、それは過去の問題ではありません。だから自重すべき、という話ではもちろんありません。自身の存在が現在形において政治的であることを、言行に際して自覚せよ、ということです(――これも、釈迦に説法と思うのですが)。「呪われた生などない」は、私たちが「現存在」として負っている政治性を「実存」において白紙に差し戻します。サルトルと言ったのは、そういうことです。私の理解が大掴みであることは事実ですが。


不正と暴力の再生産を拒否し、不正と暴力の再生産に対する無自覚を拒否することと、私たちが「現存在」として負っている政治性を白紙に差し戻さないことは、両立します。「呪われた生」を呪われた生として肯定することと、呪われた生の再生産を拒否することは、両立します。私において両立させています、とは言いませんが。承認とは、呪われた生を呪われた生として肯定することであって「呪われた生などない」と言い切ることではない。

博愛という綱領(mojimojiさんへの応答.その2)


承前⇒共同性ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。

別様にも言いましょう。問題は共同性それ自体ではなく、民族性に基づく共同性を特権化することです。また、同胞愛それ自体も問題ではありません。同胞愛の論理で博愛の論理を否定するのが問題なのです。完全なる共同性の観念があるからこそ、私たちは民族性により共同性を特権化することなく、「必要なときには」、民族性によらない共同性をその都度立ち上げることができます。博愛の観念があるからこそ、同胞愛を特権化することなく、「必要なときには」同胞の範囲を広げたり、同胞ではない人のことを思いやったりすることができます。


むしろ、博愛は、同胞愛の基礎にもなります。「別の誰かにとって特別な誰かに対する愛」の方から遡って、「私にとって特別な誰かに対する愛」を知ることもできるのですから。私にとって特別な誰かに対する愛(同胞愛)を知るから、別の誰かにとって特別な誰かに対する愛(別の誰かにおける同胞愛)を知ることができます。「私にとって」と「別の誰かにとって」を媒介するのが普遍性ということであり、それを等しく扱う視点を理解することが「博愛」ということです。──博愛は、理解の問題であり、愛の問題ではありません。博愛は、神の愛であり、人間の愛ではないのですから。人間にとっては、それを視点として使えればよい、つまり理解があればよいのであって、神のように愛する必要はありません。


ゆえに、同胞愛と博愛を殊更に対立させる発想は、そもそも成り立ちません。成り立たないだけでなく、その前提を取ることにより、同胞愛を博愛から絶縁されたものにしている。それは同胞愛の基礎を破壊することです。シオニズムがやっていることと同じように。


「完全なる共同性の観念」とは、空間と時間に規定されない共同性のことですか。ありうるでしょう。宗教性の問題として。ところで、有史以来人類の共同性の基礎としてある生命の連続性の観念は、博愛ではありません。それを不完全とmojimojiさんが指すなら、「殊更に」ではないにせよ同胞愛と博愛は対立しうるということです。同胞愛の基礎にあるのは、生命の連続性と、その現在形としてある血の紐帯です。


博愛が理解の問題であることには同意します。多少なり物を考える人間なら「理解」には至りうることでしょう。そして、mojimojiさんは一貫して理解のレベルで話しておられる、ということを言っているのですが。むろん構いませんが「余分」とは「mojimojiさんの理解において余分」という話ですね、ということです。


民族性に基づく共同性の特権化が問題とmojimojiさんは仰る。繰り返しますが「ただ日の丸が好きで」日の丸を振る「国民」としての「日本人」は、民族性に基づく共同性を特権化していますか。そのことに対して同化と排除の論理を指摘するマイノリティとしての「在日」は、民族性に基づく共同性を特権化しているのですか。問題の要点は、ここにあります。


「ただ日本が好きで」日の丸を振るマジョリティとしての「日本人」は、自身の共同性を、たとえば「大和民族」とは認識していません。そしてそのことに対して同化と排除の論理を指摘するマイノリティとしての「在日」は、自身の共同性を「朝鮮人」とは認識していません。「朝鮮人になりたい」とはそういうことです。


つまり、民族性に基づく共同性はそもそも植民地支配から連続する現在形の政治力学において衆寡として規定されている。そのことから切り離して、民族性に基づく共同性を擁護することはできない――批判することはできても――ということです。佐藤亜紀氏が適切に指摘した通り、私たちはそもそも最初から混血なのだから。


別様にも言いましょう。民族性に基づく共同性は、植民地支配から連続する政治力学において現在形として規定されている以上、現在形の政治概念としての意味を持つ。そのことは拭い去ることができない。というより、拭い去ることこそ、中国政府がチベットに対して現在絶賛実行中のethnic cleansingであり、同化政策そのものです。現在形の政治概念としての意味を持つから、政治化された共同性としての民族主義とは必ずしも切り離しえない。この「政治」とは、シュミットが言うところの敵対性としてのそれです。


擁護さるべき共同性は、敵対性を覆い隠し市民社会の広義の同胞愛へと馴致します。批判さるべき民族主義とは、可視化された政治において敵対性を明らかにすることです。もちろんそれは、国民国家によるそれとは別の、同化と排除の論理を含みます。いずれにしても、グロテスクな話です。


グロテスクなのは、民族性に基づく共同性が、植民地支配から連続する現在形の政治力学において、現在形の政治概念として規定されているからです。マジョリティとマイノリティとは、そういう話であって、ゆえに無自覚と自覚が問われるので、単なる衆寡の問題ではありません。政治的な敵対性における決定的なファクターとしての衆寡の話です――ルワンダのような。「ツチ族」「フツ族」という区別は植民地支配の産物でした。そのことが、虐殺を引き起こした。


繰り返しますが、植民地支配批判は、過去の話ではありません。植民地支配から連続する政治力学が現在形の問題であるとき、つまり過去の「出生の因果」の問題ではないとき、それでもmojimojiさんは民族主義を「余分」と退けますか。つまり、そのように問題を立てたことがmojimojiさんはありますか。


不正と暴力の産物としての「出生の因果」と現在形の「私が在る」は、切り離しうるものではありません。現在形の「私が在る」は現在形の政治問題であり、現在形の不正と暴力だからです。そのことは「出生の因果」と連関しますが「出生の因果」に一切が規定されはしない。


「出生の因果」における不正と暴力を批判し「出生の因果」と切り離して現在形の「私が在る」を肯定することは、現在形の「私が在る」に伴う政治問題としての不正と暴力を、事実上退けている。mojimojiさんが直接に「余分」と指摘した人は現在形の「私が在る」の話を、それに伴う政治問題としての不正と暴力の話を、述べていると思います。一貫して。


要するに「切り離しうる」として「区別できる」と再三述べておられるmojimojiさんの論理はアクロバティックと私は再三述べています。現在形の「私が在る」に伴う政治問題としての不正と暴力に対しても、民族主義の芽が窺える限り、過ちは指摘する、ということなら、それは見識です。


民族性に基づく共同性の特権化は、そもそも当事者の自覚の問題ではない。しかし自覚なくしてそのことと向かい合うこともできない――「現存在」としてある自身の政治性を自覚しないことには。投企を前提に、そのことを「実存」において白紙に差し戻しているように、私にはmojimojiさんの議論は映る、ということです。それも見識です。ただ私とはスタンスが違う。


自覚/無自覚を問うことなくあらゆる共同性の特権化を最低限綱領に抵触するものとして批判することは、現在形の政治問題、つまり政治的な敵対性における決定的なファクターとしてある衆寡に対する目隠しを意図するものでしかない。私はそう考えます。



ホテル・ルワンダ』においてドン・チードル演じる主人公のポール・ルセサバギナは、植民地支配に迎合的だった自身の非政治性と民族的無自覚について、虐殺が始まってようやく思い至る。そのうえでなお彼は、植民地支配が推し進めた近代化のもとで自らが学び育んだ白人ブルジョワの価値観に基づいて行動する。あれは「君たちは隣人を多数派の暴力から守れるか」とか、そういう単純な話ではない。そして、関東大震災の際に殺されたのは、当然、少数派としての朝鮮人でした。

親に祝福されなかった子どもばかりを集めて一つところにまとめておくと、しばしば、そういう子どもたちの間での暴力が発生します。自らの欠落感を補うために他者を下位に置いて支配しようとする。と説明すればできるでしょう。しかし、そのようなやり方で欠落感を補おうとはしない子も、います。このような状況を肯定することは、「親に祝福されなかった子供」の一部のために、別の子供を生贄として与えるに等しい。それこそ「親に祝福された子供の手前勝手」な理屈と思います。ヤンクミじゃあるまいし。それを承知で「仕方ない」と思っているのなら「処置なし」というところです。


親に祝福されようとされまいと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっています。放置されるべきことでもありません。その欠落をいかに贖うかとは無関係に、それはまちがっています。そう断言するところから考え始めるしかないことです。今のsk-44さんの主張を正当化するためには、埋められない欠落があることを言うだけでは足りません。そうして他者を踏みつけにすること「だけが」欠落感を補う、"if and only if"の意味で主張するのでなければ足りません。まぁ、そのように主張することは、「踏みつけにされる側は必要な生贄です」と言うに等しいのですが。


言うまでもなく、社会的背景を問題にすることは必要です。しかし、そのことと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっていると述べることは両立します。述べることだけではありません。実際問題として、暴力の現場に介入して、ふるわれている暴力を止めることとも両立します。暴力を止めることは、欠落感を贖うことになるわけではありません。そんなことと関係なく、暴力を止めるよう、試みられます。止めることができたにせよできなかったにせよ、そこでふるわれた暴力はまちがっていますし、それが欠落感を贖おうと贖うまいと、止めることは正しいです。──ここで「止めることは正しい」と言い切れない人は、生贄を肯定しているのだということを、わかりやすくどこかに明言しておいてください。「そういう人だ」ということにしておきますので。


もう一つ。他者を支配し抑圧したことの一切は、他者を支配も抑圧もしない人間になりたいと願い始めたとき、重荷になります。当たり前です。ですから、他者を支配することで欠落感を補おうとしている、平たく言えば、その子はそれを「望んで」やっているのでしょうが、それは、その子がそれを「望まなくなる」ときの重荷をどんどん積み上げていっているわけです。業を深めている、ということです。それは、その人自身のためにこそ、止められねばなりません。*3


「親に祝福されようとされまいと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっています。」間違っていますよ。他者危害は間違っているし、その再生産も間違っているし、不正と暴力は間違っているし、その再生産も間違っていますよ。「そう断言するところから考え始めるしかないこと」です。


私が言っているのは、親に祝福されなかった子供が他者を踏みつけにすることは致し方ない、という話ではない。親に祝福されなかった子供に承認を贖うことがその子において他者を踏みつけにさせる構造を、またそのことで計上される社会的/政治的/経済的な利益の存在を、実際的な話において前提せざるをえない、ということです。


日本に限りませんが、やくざの身贔屓と縦社会は、典型的にこの構図です。親に祝福されなかった子供において「家」という居場所を与えることは、その居場所のためなら、その居場所を守るためなら、何だってやるという結論を容易に導き出します。だから「家族」には掟と序列がある。――「親分のためなら」。


塩野七生氏だったか、数年前のことですが、パレスチナ問題について「かくも紛争がやまないのは紛争の当事者双方に、紛争がやむと困る者がいるということだ。」と述べていました。イスラエルパレスチナについて「どっちもどっち」と言っているのではない。シニシズムに陥っているのでもない。塩野氏は「その者を排除すべく国際社会がコミットしないことには」と書いていました。


で、排除することは結構なのですが、排除して誰が「家族」のために他者を踏みつけにしてきた者の承認を贖うのか。血の紐帯としてある現在形の共同性においては、家族とは祖国です。もちろん、それでも排除すべきです。それこそ典型的な動員の構図なのだから。止めることは正しい。


ただ「──ここで「止めることは正しい」と言い切れない人は、生贄を肯定しているのだということを、わかりやすくどこかに明言しておいてください。「そういう人だ」ということにしておきますので。」と書くmojimojiさんは、何をどう考えてこういうことを書いておられるのか、とは思います。


私が書いてきたようなことが、結局は不正と暴力の再生産を、他者危害の再生産を、もたらしている、ということなら、それはその通りです。私はそれを生命の連続性を基礎とする共同性の問題と考えますが、つまり、それでもなお共同性を擁護するということと、その困難について述べているのですが、mojimojiさんにおいてはそれは民族主義の問題ということになりますか。


共同性は、そもそも同化と排除を駆動させる不正と暴力の温床としてもあります。繰り返しますが、止めることは正しいです。そして、止めることもまた、共同性の機能としてありうるので、共同性を切り捨てることはできない。止めることが共同性の機能としてありうることと、止めることが正しいことは、別の話ですが。

つまり、親に祝福されなかった子供の欠落に対する無自覚があるなら、同様に、その欠落を埋めるための生贄にされる子供たちに対する無自覚があるし、生贄を求めることの業に対する無自覚さがあります。どの無自覚をお好みですか?という話ではない。全部根こそぎ拒否するしかない、ということです。親に祝福されなかった子のことを考えるとは、それゆえに立ち上がれない子のことだけでなく、それでも立ち上がろうとする子も含めて考えるべきことです。


全体最適部分最適という概念がありまして、一方が一方を蔑ろにすることは端的に非効率と思います。当たり前ですが「部分最適において生贄が必要」という話ではない。私は部分最適を個別的な承認の問題と考えますが、つまり人の愛の問題と考えますが、神の愛ではない全体最適の議論は、それもべき論としてのそれは、最低限綱領の確認と考えます。


最低限綱領の確認は必要です。「呪われた生などない」「止めることは正しい」「親に祝福されようとされまいと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことは間違っている」。mojimojiさんの議論とは、最低限綱領の確認ですか。もちろんそれは必要です。そのために論理のアクロバットや強弁は必要かということです。「効率の問題ではない」ならこう言います「綱領の問題ではない」少なくとも、承認と共同性の問題においては。


他者危害の再生産を止める「べき」――それは最低限綱領です。そのことの確認は必要です。シニシズムに陥らないためにも。その最低限綱領の場所から、承認と共同性の問題を解くとき、難所にぶち当たるという話です。論理においても現実にも。mojimojiさんは論理においては難所ではないと述べておられる。それは、民族性と民族主義が区別されるなら、クリアな話でしょう。


最低限綱領でさえないそもそも論に、近代化以来、帝国主義グローバリズムを経た現在の状況という変数を加えたとき、クリアな解は出ない。私は煎じ詰めればそのことを言っている。そうではない、とmojimojiさんは仰っているのでしょうが、最低限綱領の場所からそのことを言っているなら、その綱領には同意します、としか私が言えることはない。

「受け継ごうその想い」云々も、好きにしたらいいと思います。ただし、たとえば親から虐待された子が、もうその親とは関わりあいたくない、というときに、「どんな親でも親なんだから、ちゃんと子どもとしてやるべきことはやらなければならない」などと言い出すなら(世間では頻繁に言われている)、それも余分です。受け継ぎたいなら、受け継いだらいいじゃないですか。受け継ぐようなものがないとして、それを引け目に感じなければならないようなことを言い出すからおかしな話になるんです。それこそ「親に祝福された子供の手前勝手」というものでしょう。


「好きにしたらいいと思います。」ええ、批判も好きにしたらいいと思います。親に祝福された子供と、親に祝福されなかった子供は、衆寡において敵しませんが。これは、政治をめぐる問題です。で、mojimojiさんが述べておられるのは最低限綱領の確認ですか。


衆寡が敵しないとき、政治とは、綱領の問題ではありません。だから綱領を蔑ろにしてよい、ということではない。むしろ綱領に立ち返るべきです。綱領とは衆寡が敵しないときのためにこそあるのだから。ただしそのことは逆立している。逆立の理由は、共同性が綱領よりはるかに強いからです。ことに神のいないこの日本では。山本七平が生涯批判し続けたことです。


SMAPの曲はお気に召さなかったようですが、「大国の英雄や戦火の少女 それぞれ重さの同じ尊ぶべき命だから」これは、まさにmojimojiさんが言っておられることです。そして、その世界観においては政治が存在しない。イラクの戦渦に巻き込まれた少女と、ジョージ・W・ブッシュ。両者の「命」は、等価のものとして尊ぶべき――とそういうことをmojimojiさんは常に言っておられます。「留保のない生の肯定」において。掛け値なしに見識と思います。ただ、その場所には、政治がない。


イラクの少女とブッシュのその「命」は、政治的に等価ではない。そのことは正誤のレベルで誤りか。そうではない、というのが私の見解です。だからこそ、等価ではないことを政治的な場所から批判しうる。紅白歌合戦の大トリとして歌われたSMAPの曲のその世界観には、あるいは当然のことながら、政治が存在しない。そして、それは、共同性が綱領を代理する世界観です。綱領の代理としてありうる共同性を、民族主義ではない民族性に基づく共同性として、mojimojiさんは擁護しておられるように、私には映ります。


先のエントリと逆のことを言っていると思われるかも知れませんが、私は同じことの別の側面について述べています。「問題はリアルで重層的で複雑」とはそういうことです。是非を言うにも様々な角度から吟味しなければならない程度には。最低限綱領の問題として是非を問うなら、それはクリアでしょう。私も是非を言えます――最低限綱領のレベルでは。こういうスタンスをシニシズムと仰るなら、「そういう人だ」ということに、私もmojimojiさんをしておきます。

承認についてどう考えるか。人が人に対してする承認とは、承認することもしないこともできる存在が承認するところに意味があります。だから、第一に、財のように分配することができません。つまり、保障できません。第二に、今は承認されているとしても、その承認が途切れることがあります。だから、人は悪あがきをする。その意味で、他者からの承認を求める限り、不可避的にこぼれ落ちる人がおり、根源的に不安定なものでしかありません。「そこに依拠するしかない」という諦念は、人と人が殺し合う現実に対する諦念を即座に意味するでしょう。そんなものには乗れません。


ニッコリほほえんで抱きしめてくれる、みたいな、戯画化された「神様」の話なら、不可知論に立つまでもなく「いるわけない」と断じます。その程度の意味での無神論云々という議論には、そもそも最初から興味関心がありません。そんなこととは関係なく、私たちが殺し合わないための、ともに生きる条件たる観念は何かと考えるなら、人が人に対して与える承認に存在の基盤を置いてはならない、ということは導かれると思います。


人が人に与える承認が重要ではない、という意味ではありません。そうではなく、そこに存在の基盤を置かないからこそ、獲得することも失うこともできる重要なものとして扱うことができる、という意味です。別の場所に基盤が置かれるとき、それを神と呼ぼうが何と呼ぼうが、僕の知ったことではありません。無神論に立とうが立つまいが、宗教性は問題であり続けています。


「神は死んだ」──その後は、こう続くようです。「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?」*4。文字通りにとるのは素朴過ぎるように思います。死んだ「まま」とはどういうことでしょうか?「我々自身が神々にならなければならない」とはどういうことでしょうか?


「まま」とは、「まま」ではないことがありうることを示唆しています。我々が神々になれないのであれば、神を「死んだまま」にしておけない、とも読めます。そして「神」とはそもそも何か。──これ以上は、やめておきましょう。いずれにせよ、現実を構想することと、その困難を想うことは別の話です。


仰られていることには同意します。「最低限綱領」と私は皮肉で書いているのではなく「現実を構想すること」を指しています。「その困難」に依拠して構想された現実について批判しているのでもありません。ただ、最低限綱領を具体的な承認の問題について当事者に対して提示することには乗れない、ということです。mojimojiさんが言っておられるような宗教性については私も問題としています。そして、私とmojimojiさんの「無神論」は相違するようです。


私の無神論とは、現実を構想するとき、承認と別の場所に基盤を措くことを諦めることです。そのことが、人と人が殺し合う現実に対する諦念を即座に意味するか。いいえ。「いいえ」という場所から、私は現実を構想しています。だから、私は原理的には死刑廃止論ですが、共同性に依拠する日本の市民社会死刑存置を首肯することを、否定しません。倫理とは、必ずしも綱領の問題ではないからです。


擁護すべき共同性は、同時に死刑存置を首肯する共同性です。これは、民族主義の問題ではありません。いや、そうではない、共同性の特権化の問題とmojimojiさんは仰るでしょうか。


『「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろ』というエントリを掲示して大々的な顰蹙を買った人がいました。生命の連続性という、共同性の基礎をその人は批判しました。私は当時、現在よりずっと共同性クソクラエだったので、色々書いたことを記憶しています。


生命の連続性という共同性の基礎が、もっとも深刻な同化と排除を駆動させていることについて、その人は指摘しました。生命の連続性という共同性の基礎から排除されている存在として、親に祝福されなかった子があり、たとえば死刑囚があります。


そのような存在を擁護するためには、生命の連続性という共同性の基礎に依拠してはならない。mojimojiさんが仰る宗教性とは、存在の基盤とは、そういうことでしょう。それをカントに従って超越論と指したものか、わかりかねますが。


生命の連続性という共同性の基礎が排除する存在があります。それでもなお、共同性の馴致の機能において、敵対性を覆い隠しまがりなりにも市民合意のフィクションのもと「殺し合うことのない」他者危害禁止原則に基づく市民社会を操業することを、私は最低限綱領において構想します。


それが、生命の連続性という共同性の基礎が排除する存在において、つまり死刑囚の存在において、最低限綱領に抵触していると、共同性の特権化と言われるなら、まさに「仕方のないこと」です。問題は、生命の連続性という共同性の基礎が国体の基礎として顕れることで、現行の国家とは、ひいては共同幻想としての国家幻想とは、そういうことです。

食卓が亡びるとき(mojimojiさんへの応答.その3)


承前⇒共同性ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。


ミュンヘン スペシャル・エディション [DVD]

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というスピルバーグの著名な映画があります。1972年のミュンヘンオリンピック事件を題材にした映画です。


ミュンヘン (映画) - Wikipedia

ミュンヘンオリンピック事件 - Wikipedia


滅法面白いこの映画の物語とその結末はとても興味深い。


『神の怒り作戦』をゴルダ・メイアから直接指示されたモサド工作員の主人公は『黒い九月』のメンバーをローマやベイルートで殺して回る。物語は、自宅で閣議を開いていたゴルダ・メイアのキッチンから始まり、凄惨な殺人の端々にユダヤ教の家庭の食卓の光景が差し込まれる。その豪華で親密で賑やかな「気のおけない」食卓は、妊娠した主人公の妻や、作戦の同志によって、用意され、再三囲まれる。


そして、殺しすぎた、作戦の同志も失った彼は、ニューヨークで報復に脅えて、妻子と共に隠れるように暮らす。映画のラストシーン。モサドの上司から帰国するよう命じられた主人公は、彼に背を向けて立ち去る。その背中に、上司は言う。「食卓が、待ってるぞ」。主人公は振り返らない。


食卓をこそ、主人公は拒否した。だから彼は、きっと、祖国のための戦いに疲れた夫をねぎらうために親密な食卓を用意する妻と子の待つその「家」にも帰らない。映画の結末が示唆するのは「食卓こそ諸悪の根源」ということ。この食卓とは、冒頭のゴルダ・メイアに暗示される通り、母としての女性を意味している。


母の象徴としての食卓が、諸悪の根源であることに気が付いた主人公は、自分が命を賭けて守った食卓が待つ祖国には帰らない。同様に、自分が命を賭けて守った妻と子の食卓にも帰らない。ニューヨークの摩天楼を、祖国とその食卓を守るために散々血で染めた手をぶらさげて、行き場なくさまようことになるだろう。


ディアスポラ性とはこのことです。映画の結末における主人公の認識を得ることが、歓待の条件としてある。歓待を問うなら、私はそう考えています。もちろん、スピルバーグが殺人者でないように、手を血で染めることは必要条件ではありません。私が映画の結末を興味深く思ったのは、主人公が得る認識に私も共感したからです。もちろん、主人公のような経験は持ち合わせません。その食卓を守るために命を賭けて戦った祖国に裏切られたことは。


そして、映画の結末において主人公が得る認識は、これ以上ないほどに残酷なものでしょう。それを、民族主義の問題とその解として指すことに私は同意しません。シオニズムの問題ではあるでしょう。つまり、食卓を持つことと、それを守ることの問題です。食卓を守るべく、手を血で染めることが、最後には自分が守ってきたはずの食卓さえ失う。そのことの問題です。


しかし食卓とは、妻と子と共に心安んじて囲む食卓とは、祖国イスラエルにある妻の妊娠を知った主人公にとって、命を賭けて守るべきものだった。そして、手を血で染めて守った結果、主人公にとって、妻と子が待つ家族の食卓は、心安んじる場所ではなくなっていた。


よって、妻と子が待つ家族の食卓こそ、諸悪の根源である。そして家族の食卓を、ディアスポラにとっての祖国としてあるイスラエルに重ねて描いたのが、世界的に知られたユダヤ映画作家による『ミュンヘン』という映画でした。もちろん映画はイスラエル政府の顰蹙を買い、映画監督はユダヤ人の友人を大勢失ったそうな。


家庭の幸福は諸悪の根源と言った作家がいましたが。「家族が囲む食卓こそ諸悪の根源である」と映画作家は示唆しました。家族が囲む食卓を、その家を、守るために、人は命を賭けて、手を血で染めるから。


そして家族が囲むユダヤの食卓は、人類にとって共同性の根源としてある生命の連続性を象徴していた――そのディアスポラゆえに。その、生命の連続性の象徴としての家族の食卓をこそ、ディアスポラにとってのイスラエルという「祖国」として映画作家は描いた。


このような、映画を引いての比喩的な論理にmojimojiさんが同意されるかはわかりかねます。述べたいことは、私の認識では「家族が囲む食卓こそ諸悪の根源である」とmojimojiさんは事実上言っておられるが、それでよろしいか、ということです。それなら、言葉の定義は措いても認識を私とmojimojiさんは同じくしています。


家族が囲む母の食卓は、人類にとって共同性の根源としてある生命の連続性の象徴としてあり、それは命を賭けて手を血で染めてでも守るべき「祖国」の象徴でした。私が、民族性と民族主義を区別し難いものと考えるのは、このような理路からです。要するに、国体は食卓に始まり、現在形の共同性の紐帯は母の臍の緒によって結ばれている、ということです。それが、同化と排除の論理でなくして何であるか。


ゆえに、私は、あらゆる人が映画の結末における主人公の認識を得ることを、それこそ弁証法的に構想しますが、それが途方もなく残酷な話であることも知っている。それでもなお、ディアスポラ性こそ歓待の条件と、言いうるかということです。もちろん、デリダもサイードも言いましたが。私は、自分のことはともかく、他人については、微妙です。


私は、家族幻想が国家幻想と対峙しうるとは、あまり思えない。こうの史代の『夕凪の街 桜の国』『古い女』ではありませんが、対幻想と国家幻想は共犯関係を結ぶものと思っています。もちろん与謝野晶子を私たちは知っています。日本近代史上、国家を幻想と後世の誰よりも知っていたのが、御一新を挟む明治人でした。国防婦人会を私たちは知っています。


諸悪の根源である以上、つまり同化と排除の論理を駆動し「祖国」に対するナショナリズムを用意する共同性の基盤としてある以上、私たちは家族が囲む母の食卓を放棄すべきである。つまり、生命の連続性をこそ手放すべきである。そう他人に対して言うことは私は微妙です。まして、事実上のディアスポラとしての「在日」に対して言うことは。それが、止揚された場所であるとしても。


mojimojiさんの「余分」とは、つまりそういうことです。そういうことではない、自分は共同性を擁護しているし、批判しているのは民族主義だから、と言われますか。その認識にも理路にも、私は了解できません。


「家族が囲む母の食卓を諸悪の根源とは自分は考えない」とmojimojiさんが仰られることは構いませんが、「家族が囲む母の食卓こそ諸悪の根源である」と私は言い切ります。親に祝福されなかった子供を抑圧する同化と排除の論理とはそのことで、人類の共同性の基礎としてある生命の連続性が駆動する同化と排除の論理は「家族が囲む母の食卓」に発します。


「家族が囲む母の食卓」の、ディアスポラとしてのユダヤ人における特権性を、ユダヤ教の食卓として、イスラエルという「祖国」として、スピルバーグは描きました。それを、民族主義という民族性に基づく共同性の特権化として退けることは構いませんが、そのとき「ディアスポラとしてのユダヤ人」は、必要条件ではなく十分条件で、つまり他人事ではまったくない。今上以降の象徴天皇とは、食卓を徴する家族という、生命の連続性の象徴において、戦争の記憶を遠く離れつつある国民国家の共同性を涵養しているのだから。もちろん、同化と排除の論理として。「在日」に対する、衆寡とその無自覚に基づく抑圧として。


だから、民族性に基づく共同性がそれ自体で同化と排除の論理を駆動する、と私は言い切ります。人類の共同性の基礎たる生命の連続性こそ、同化と排除の論理そのものなのだから。同化と排除の論理と承知してなお、ハサミは使いようということです。象徴天皇とは、そういうことです。明治の元勲は、GHQは、バカではなかった。


ハサミは使いようという話を、最低限綱領において裁断されるなら、そこまでです。最低限綱領に同意すること、現実の構想に際して最低限綱領の再三の確認が欠かせないこと。このことも繰り返しておきます。


以下、補足について。

言うまでもなく、ダンボールを被って寝ている人たちにも文化があります。靱公園にも長居にも、そこで育まれた共同性がありました。新宿西口のダンボールハウスには、たくさんのダンボール・アートが作られたと聞いています。もちろん、その背後にあった経済的剥奪は問題にされるべきです。しかし、そこに文化がなかった、などというのは、それこそ経済的に恵まれた者の手前勝手でしょう。


いわゆる「ホームレス文化」なることを言い出した人もいました。僕はあれを好きではありません。その背景にある経済的剥奪の問題をまったく問題にしなかったからです。今もそうなのかは知りませんが、とりあえず、僕の見た限りではそうでした。そして、そうであるならば、それは批判されるべきです。生きられている文化を肯定することと、経済的剥奪を問題にすることは両立します。実際、新宿西口のダンボール・アートの中には、経済的剥奪と社会的無関心を鋭く批判するような作品もあったと記憶しています。


むしろ、文化を即「充足」とみなす発想が、マイノリティに対する抑圧や剥奪を問題にする際に、なにか肯定的な文化があってはならない、そういう要求につながるのでしょう。「ダンボールハウスでたのしくやってるなら、それでいいじゃないか」、というわけで絶賛放置中、ということにもなるのでしょう。最初の発想がそもそも余分です。どんなところにも文化はあります。そのことと、社会的な抑圧や剥奪があることは両立しますし、それを問題化することとも両立します。


「ホームレス文化」論が問題なのは、剥奪と抑圧の状況下にあるものを文化と呼ぶからではありません。そこから抜け出す可能性を開く「抑圧や剥奪の問題化」を無視するからであり、それは、ホームレス文化を「そうあるべき」文化とみなすからです。これは「ホームレス文化主義」とでも呼ぶべきものです。僕が民族主義を批判するのも、同じ構図です。


当然のことながら、ダンボールを被って寝ているところに文化はありません。と繰り返しても仕方がないのですが。ダンボールを被って寝ている人たちも絵を描くし、共同体を育んでいる、という話ですか。それは、15000年前の石器人だって洞窟に絵を描きました。生きられている現実を肯定することには同意しますが、文化大革命には同意できません。文化とは人ではなく、人を育む基盤の問題です。要するに、インフラストラクチャーの問題です。基盤とインフラストラクチャーが、連続性を保証する。文化において「「私が在る」に依拠する」とは、次のようなことです。


自分が書く一行に1000年の民族の言霊の歴史が顕現する、そう思って一行一行を書いている、と三島由紀夫は言いました。小林秀雄も同様です。文化とはそういうことなので、そもそもmojimojiさんが言われるところの「生きられている現実」とは相性のよくない概念と思います。もちろん、それが三島由紀夫小林秀雄にとっての「生きられている現実」でした――掛け値なく。そして、彼らは「充足」していたわけではまったくない。「ホームレス文化」などというのはそれこそブルジョワの御託です。


歴史の連続性を顧慮しないアートは少なくとも文化ではないし、「1000年の芸術の歴史を前提する」制度化された「アート」でもない。貶めているのではない。「1000年の民族の言霊の歴史」などという「連続性を顧慮しない」ものとして「ダンボールを被って暮らしているところ」をmojimojiさんは持ち出したと私は思っていたので。だから、そのような生の在りようはもちろん肯定しますが、それは文化の話ではない。


アウトサイダー・アート」は御存知ですか。あれはあらゆる意味で文化ではない。そもそも文化とは結果的にせよイン/アウトを区別するもので、そのことに対して、mojimojiさんはインサイダーに対するアウトサイダーとして「ダンボールを被って暮らしているところ」を持ち出したと私は考えています。


文化とは、その定義において結果的にせよイン/アウトを区別するので、必然的にアウトサイダーを同化/排除します。「アウトサイダー・アート」が典型ですが。アウトサイダーアウトサイダーとしての生と、その共同体的な在りようとしてのアートについて、インサイダーがイン/アウトに基づく同化/排除の視線を投げかけることを、たとえば「ホームレス文化」なる物言いについて批判しておられるのなら、普通に全面的に同意します。


あくまでインサイダーの立場から「ホームレス文化」と「文化」において同化を駆動させておきながら、一方で経済的な剥奪や社会的な抑圧についてアウトサイダーとして絶賛放置して排除を駆動する。それは最悪であり、その最悪さはブルジョワ的な市民生活の最悪さであり、まさに船上パーティの最たるものです。そして、帝国主義とそれに基づく搾取と収奪の典型です。然りて、文化とはそもそもそういうグロテスクなものなので、イン/アウトを区別する限りにおいて制度であることを逃れえない。


そのような前提については同じくしうるようなので、別に「文化」の定義に私が固執する必要もないのでしょうけど。私が言っているのは、三島や小林は言うまでもなく、『日本語が亡びるとき』の水村美苗氏に至るまで、文化という概念がそもそもインサイダーの視線であり、同化と排除の論理そのものであるということです。ここでも「区別し難い」という私の主張になります。

民族主義に基づく同化圧力において、<私>の薄い民族性に対して引け目を感じる、元々問題にしていたのはそういう話です。もちろん、ジンバブエルワンダやユーゴは、その延長線上にある話です。ですが、その延長線上にあるものを最初に問題にしたのではありません。その出発点における、「相対的には小さな」と言える抑圧を、問題にしています。今更のように事の大小を問題にするのは、話のすり替えです。僕が問題にしているのは動員ですが、小さい動員ならOKという話ではありません。


事の大小が問題であると言いたいならば。虐殺に至らない間は、その程度の引け目くらいは仕方のないことだから我慢せよ、と正直におっしゃるべきです。僕はそれに同意しませんが、少なくとも、論点はハッキリします。


論点はもう既にハッキリしていると思いますが、よって、事の大小が問題であるのではありません。「ジンバブエには英雄的な指導者が存在し、ルワンダには多数派としてのフツ族が存在し、ユーゴには権力を求めた扇動家が存在しました。」このような政治的な条件を排除することが、殺戮の轍を踏まないためには必要ということです。民族主義の克服を「殊更に」他者に示唆するよりも。


同化と排除の論理としての共同性を無条件に肯定するわけではない私の考えにおいては、食卓という――生命の連続性を「家」に囲い込む――共同性において民族主義と民族性は区別し難く、そして政治的な条件が食卓という共同性を同化と排除の論理に留まらない殺し合いへと駆り立てるので、共同性を根こそぎ拒否するよりは政治的な条件を排除することが実際的でありかつ(特権化された共同性としての――つまり民族主義としての)政治問題として解くことが可能であって、同時にそれは、現実の構想においても、正しい、と考えます。


「虐殺に至らない間は、その程度の引け目くらいは仕方のないことだから我慢せよ、と正直におっしゃるべきです。」――「余分」とは「我慢するな」という意味だったのですね。やっとわかりました。その意味なら――「引け目を我慢するな」という話なら――全面的に同意します。「大きなお世話」を承知で書きますと、「余分」と言わず最初からそのように書いていれば、先方に伝わったと思います。


で、私の見解は「我慢」の問題なら「我慢せよ」とは言いませんよ。自発的な投企とは「我慢」の問題ではない。自発性の剥奪の問題なら、我慢するな、と即答します。ただ、我慢しなかった結果がジンバブエでありルワンダでありユーゴだったわけです。そして、mojimojiさんは発端のエントリを「我慢」と読んだのですか。私は自発的な投企と読みました。そのことの是非を云々するのは端的に「大きなお世話」と思います。本人の選択です。「回復」ではなく選択です。「誤りを含んだ言説は社会的に悪影響なので批判する」という話ですか――偽科学批判のような。


mojimojiさんはジンバブエルワンダをユーゴを我慢の結果と考えている。自発性の剥奪の結果と。そこまでは同意です。しかし、我慢することが同時に自発的な投企であり選択である、ということがあって、それが共同性とその功罪である、というのが私にとっての論点です。ジンバブエルワンダやユーゴが「我慢しなかった結果」とは、馴致のための共同性を退けた、ということです。食卓のことを忘れたということです。それが民族主義なのですが。


高度に発達した自発的な投企は我慢と見分けがつかない。ふざけて言っているのではありません。それが、共同性ということであり、そのグロテスクな光景です。母であることが父であることが、高度に発達した自発的な投企であることは周知です。典型的に、今上がそうであるように。そして皇太子妃の現在の苦痛があるように。高度に発達した自発性を涵養してきたものこそ、生命の連続性の集積としてある歴史です。バックラッシュや極右が強いのは、それは当然のことなのです。だからこそ、批判しなければならないのですが。


高度に発達した自発的な投企に対して「我慢するな」とは私は言えません。「大きなお世話」であることがあるからです。それが生きるということで、父であり母であるということで、日本人であるということでした。というのが共同性とその同化と排除のグロテスクな光景ですが。


だからこそ、私は出発点としての――食卓における――共同性が駆動させる同化と排除ではなく、政治的な条件をこそ問題視します。「過ちに学ぶ」とはそういうことです。述べてきたように、私の考えにおいては、原理主義としての民族主義は、政治的な条件の問題としてあります。そして、政治的な条件としてある現在形としての不正と暴力をこそ問題視します。もちろん、そのことに対してマイノリティは「我慢」するべきではまったくありません――「民族主義」としてであれ。大きかろうが小さかろうが、もちろん私は動員をこそ問題にしています。


mojimojiさんが提示しておられるような最低限綱領において抑圧の問題を、ひいては同化と排除の問題を、原理として出発点において問うなら、そもそも食卓こそ諸悪の根源と答えます。世界から食卓を撤廃する現実について構想する。最低限綱領を問うなら、それが私にとっての最低限綱領ですが、それが望ましい世界か保証のところではありません。ディストピアの極みという気もします。そのときこそ、宗教性の問題が問われるでしょう。


私にとって、最低限綱領まで差し戻して問いを問うなら、共同性それ自体が諸悪の根源です。mojimojiさんがそのように考えないなら、それは「私が在る」に依拠しておられるからでしょう。政治的な条件を過去の過ちから問うことを最低限綱領という原理的地平において退けて。何度でも書きますが、私の考えでは、民族性と民族主義は、区別に難いでしょう。


私はmojimojiさんのスタンスは理解しているつもりでいます、最低限綱領の確認は絶対に必要です。その場所に踏みとどまって、決してシニシズムへと後退しないことも。しかし「リアルで重層的で複雑」な問題そのものとしてある現在の世界を最低限綱領において倫理の問題として裁断することは、時に精神勝利法と見分けがつきません。これも繰り返しになりますが、実践としての倫理は、必ずしも綱領の問題ではないからです。


もの食う人びと (角川文庫)

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