ある自由主義者の肖像


文字数制限に引っかかったので、過去の日付で掲示


他者の差別を罵倒する人が、別の差別的発言を繰り返すってどういうこと? - 想像力はベッドルームと路上から

http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20090414/1239716730


以下、特に断りなき場合引用はinumashさんのエントリから。ここのところはそうでもないといえ(交際相手に感謝)、私もかつて長らく不能だった。それはさておき。


「男は男らしくあらねばならない」という観念を持っている人――と私はbuyobuyoさんのことを見てきた。要点は、言うなればこの場合の「男」がsexでなくあくまでgenderを指すこと。「男」であることとは、たとえば集団の暴力に加担しないこと、不正と不義に個として憤ること。そして「インポ野郎」という言葉はそのことに対応している。「男」なら、集団の暴力に加担してはならないし、不正と不義に個として憤らなければならない。


私が思ったのは、もしオースペさんが性的な意味で「インポ野郎」だったり女性だったりしたらどうするのかしら、ということで、その意味では行儀の問題でなく間違いなく不用意な発言だった。むろん「男は男らしくあらねばならない」は規範的な観念で、私に言わせれば、その規範性に自ら照れるがゆえの乱暴でお茶目な言動が、はてなidがbuyobuyoさんの「キャラクター」を形作っている。


繰り返すが、この「男」とはsexでなくgenderを指す。もちろんこれはマッチョにして男根主義の現れだけど、buyobuyoさんは自覚しており、再三そのことを公言している。「buyobuyoさんはセクシスト」ということにはならない。むしろセクシズムに対して憤るような規範性を「男」というgenderに要求している。


集団の暴力を唾棄し、不正と不義に個として憤らなければならない。その規範的な言説を「男」というgenderに仮託して述べるのが「はてなサヨク」buyobuyoさんのスタンスで、そのことにはbuyobuyoさんの、自身とその言説の規範性に対する照れもあるのだろうと私は思うが、しかしそれだけでもないのだろうとも思う。


「男は男らしくあらねばならない」が政治的に正しいか。むろん正しくない。倫理的にも正しくない。任意のgender規範を、そのgender規範を同じくしない性的な意味での「男」に対して性的な表現を用いて突きつけているのだから。端的なDISに対して、その突きつけたgender規範の美点について述べてもあまり意味がないだろう。しかしそれは、単なる感情の表出ではない。


「男は男らしくあらねばならない」をネットに限らず言行一致させているらしいbuyobuyoさんにとってその観念は、かつて御自身で書いておられたような「男らしくなかった」親族の存在と、関係しているのかも知れない。――「大きなお世話」だけど。


「良いマッチョ」「悪いマッチョ」があるとは私は思う。「綺麗なマッチョ」ということではない。端的に言って、buyobuyoさんは石原慎太郎ではない。もちろん、右翼と左翼ということではない。というか、buyobuyoさんは左翼ではない。

id:y_arim  というかbuyobuyo氏は単に差別主義者というだけではないかな?ぼくは最初からそう思って接してるけど。はてサに含まれるたびに「俺は左翼じゃねえ」と仰ってたし、「何左翼みたいな〜」もそう考えれば腑に落ちる。

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いいえ。違います。buyobuyoさんは左翼ではなく、リベラルで筋金入りの自由主義者です。自由に対する個人の責任を自律としてきっちり引き受け、他者に対してさえそのことを迫るような。(その意味では――再三引き合いに出して申し訳ないし必ずしも批判ではないと断るけど――タケルンバさんが名乗っておられるような自由主義とは違う。あれは、個人の無責任に基づくシステム論的な自由主義なので)。ただ、そのことを「男」というgender規範において展開するところが、buyobuyoさんのbuyobuyoさんたる所以で。


このgender規範としての「男」とは、自由に対する個人の責任を引き受ける自律の別名としてある。よって、集団の暴力を見過ごしてはならないし、不正と不義には個として怒りを持つべきであり、そして、そのことを他者に対しても「暴力的に」突きつける。「男だろ」と。


――その一切が誤解の因としてあることは違いないと私は思う。しかし、誤解されることもbuyobuyoさんは引き受けておられるし、そのことがbuyobuyoさんにとっての「男らしい男」なので。


「男らしくない男」の意味でbuyobuyoさんは「インポ野郎」と言っている。「男らしくない男」の意で疾病を比喩として使用することの問題は言うまでもない。性的不能に対する偏見の歴史を述べるまでもないだろう。


しかし、buyobuyoさんの理路において「男」とは「自由に対する個人の責任を引き受ける自律」の別名としてあるので、そしてそれは端的に個人主義のことなので(つまり左翼ではない)、たとえば運動論の観点から自身の発言を云々されても困るだろうし、buyobuyoさんはあくまで自分自身としてその個において発言している。


「自由に対する個人の責任を引き受ける自律」が他者に対する「インポ野郎」か。――それはそう。「猛省」が述べられてもいる。ただ、かつてのインポ野郎(性的な意味で)として申し上げると、正しいことを正しい者が述べ、行わなければならない、という話はない。そのことをこそbuyobuyoさんは常に言行一致として示しており、それが筋金入りの自由主義者であるところのbuyobuyoさんにとっての個人主義であり、その自由に対する自律としての責任なので。個人主義自由主義者において、自律とは、他者の視線の問題ではない。


説得力が云々は運動論で、そしてbuyobuyoさんは左翼ではない。論理の一貫性については、よってbuyobuyoさんは一貫している。そして、正しいことを述べるときは自らの襟を正さないと他者に対する説得力がない、というinumashさんのスタンスとbuyobuyoさんのそれはまったく相容れないだろうから――要するに、buyobuyoさんの一連のブコメはべつだん逃げ口上でも捨て台詞でもない。いや、もっと説明したらいいのに、とは、うだうだ長文書いてる者としては思うが。


「誇りはねぇのか、お前の脳ン中にはよ!」 とロックがレヴィの胸ぐら掴んで言うように、buyobuyoさんは道行く人の胸ぐら掴まえて怒鳴っている。それを「迷惑な人」と解釈することはあるいは妥当だけど、そのように解釈してしまう社会が、在特会のような極右を台頭させている、とbuyobuyoさんはそのことを一連のブコメで言っておられるし、それには私は同意する。同意せざるをえない。そしてそれは、個人主義自由主義の王道であり、国家主義的排外主義に臨む態度の王道でもある。


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ジョン・ヒューストンという映画人がいた。『チャイナタウン』の変態親父ノア・クロスで一般には著名だろうか。赤狩りにも抵抗した筋金入りの個人主義者にして自由主義者で、そして筋金入りのマッチョだった。風貌も知的なゴリラのようで、後に『猿の惑星』に出ていたが。


アフリカの女王』で彼と仕事をしたキャサリン・ヘプバーンが後年述べている。――とにかく彼は男らしい自分をアピールしたがった。演技的なまでに。まるで自分自身に顕示しているかのように。しかし、仕事が始まると、彼はボガート同様、男の美点をすべて持ち合わせていた。つまり個人主義的で、自律しており、私を含めて他者を他者として尊重し、その意見に耳を傾け、リベラルだった。あのヘプバーンが性的な意味で言っているはずもなく、それは――撮影当時はそのような概念も未だろくになかったが――genderの、その最良の部分としての「男性的であること」の話だった。


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もちろん、そのような男性的態度は東西ガチンコの赤狩りの時代だから重みがあったので、現在では甚だしい時代錯誤かも知れない。クリント・イーストウッドが70年代からこちら、アメリカの東海岸でそう呼ばれてきたように。だからbuyobuyoさんは照れておられるし、時にそれがパロディであることもわかっておられると思う。自分を茶化すことができる人なので。しかしそれは、思想信条においてガチでないことを意味しないし、男根主義と簡単に片付けてよいものでもない。


そもそも、相互的な自律に基づいた個人主義的な自由主義それ自体が時代遅れで、そしてそのことは世界の選択かも知れない。ただ私は、そのことには同意しない。ヒューストンやイーストウッドが映画と現実を股にかけて戦ってきた国家主義と小市民の排外主義は、現在形の日本の問題でもある。


だから、怒るべきと、誇りはねぇのかインポ野郎、とbuyobuyoさんは言っている。インポの疾病については言うまでもない。お約束でソンタグの名著を持ち出すこともできる。ただし、この文脈で使用される「インポ野郎」は性的な罵倒ではない。性的な表現であって、そのことは批判されるべき。つまり、性的な罵倒ではないものに性的な表現を使用することは。しかしそれは「buyobuyoさんの性的不能者に対する偏見とその無自覚さの現れなわけ」ではない。


私は「自由主義に対する個人の責任としての自律をgender概念において表象すること」それ自体を性差別的と退けることには、同意しない。「自由主義者のマッチョは綺麗なマッチョ」ではない。自由主義者のマッチョは――歴史的にも――良きマッチョとしてありうると言っている。私は、buyobuyoさんのスタンスに、ジョン・ヒューストンを、そして、まさに『アフリカの女王』撮影時のジョン・ヒューストンを自ら監督して演じたイーストウッドを見る――というのは言いすぎだろうか。「ヒューストンは左でイーストウッドは右」というような話ではもちろんない。


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というかですね。


自身の差別的言動を咎められた時に「ただの罵倒でしょ。ちょっと口が悪いだけじゃんw」とか言い訳するのって、無自覚な差別主義者の典型例だって気づいてます?


それに、自身の言動を“純粋な怒り”とか言う感情論で正当化しようとするのって、新風の連中が「我々は純粋に国を愛しているだけだ。」とか「差別ではない。犯罪に対する怒りだ。」とか言いながら自身のヘイトスピーチを正当化しようとするのと同じでしょ?「あいつらの方が悪いのに、何で俺(達)の態度を問題にするんだ!」という言い草も新風とそっくりですよね。


まさか、buyobuyoさんは彼らのこういう言い訳を容認したりしませんよね?そういう奴らに率先して罵声を浴びせてきた人なんですから。“純粋な怒り”と共にね。


僕は別に“buyobuyoは差別主義者だ!”なんて事を言いたいわけではありません。他の人も同じでしょう。ただ自身の不用意な(差別的)発言を咎められて、それを正面から受け取る事をせず、言い逃れや正当化、矮小化を図る貴方の行為を容認することはできない、と言っているのです。なぜならそれは、僕らが敵対すべきレイシストの行為を助長することに繋がるから。


buyobuyoさんの当該発言は批判に値するが、しかし「一連の対応」含めてそれがbuyobuyoさんが唾棄するところの差別主義者と同じことになっている、というのは妥当しません。そのことを説明するために、文脈、というか私が思う「buyobuyoさんが拠って立つところ」について記しました。


「同じことに見える」のはそうだろうし、「男らしい男」であるところのbuyobuyoさんは自らに対する誤解を解こうとはあまりしない人なので。ただ「同じことに見える」ことは必ずしも本人の問題ではないし、左翼ではない個人主義自由主義者は運動論とか顧慮しないし「正しいことを述べるときは自らの襟を正さないと他者に対する説得力がない」という考え方にも同意しない。


以前も「はてなサヨク」絡みで書いたけど「特定他者に対する攻撃的な言動の後でそれが傍から問題視されて「私の言動の正当性」を当事者以外に対して自ら説明、という流れは何度目ですかという話」ではある。そして「言動の正当性なんてのは自ら他に対して説明するものではない」。


いちおう書いておくけど、私がbuyobuyoさんを擁護する筋合はないし、別に擁護していない。批判に値する発言と思う。ただ「私が考えるところのbuyobuyoさん」について、批判を拝見して書いておきたいとは思った次第。文字通りの言論者としての「自己責任」にせよ、誤解されることは、その誤解が定着することは、少なくとも気持ちのよいことではない。「お前が言うな」と即座に言われそうではあるが。

buyobuyoさんは『あれ見て純粋な怒りをもてず、むしろあれ見て激昂している人の行儀のよさがむしろ気になるのは俺には頭おかしいと思える。』(なんかおかしいですね、この文章。“行儀の悪さ”の間違いですかね?)と言っていますが、完全にお門違いです。


記してきたような理由によって「お門違い」ではありません。少なくとも、buyobuyoさんが言っていることとその文脈は、同意不同意は別にして、私はわかるし「必死に自身の正当化と問題の矮小化を図ろうと」しているとも思わない。

この一連の対応でbuyobuyoさんが一体何を守ろうとしているのか(何を守れると思っているのか)、僕にはさっぱり分かりません。ただただ墓穴を掘り続けているようにしか思えないのですが・・・。


「この一連の対応で」buyobuyoさんが守ろうとしているものについて、指摘しておきたく思った次第です。もっとも、私はbuyobuyoさんではないのでこれもまた見当違いかも知れない。「私にはそう見えているしそう受け取っている」という話です。


ところで、私は自分ではあまりブックマーク使っていないのであれだが、ブコメ非表示機能って、みな使っているのか。「粘着」が幸いにしていないせいかも知れないが、私は、自分に向けられたものであれ他者に向けられたものであれ、ネット上の他人の言葉にそこまで直截な不快を覚えたことがない。むろん褒められたことではなく、困ったことに、在特会や維新政党のそれに対してもそうなので、そのような「不感症」の私もまた、性的な意味に限らずgender的な意味で「インポ野郎」ではあるだろう。「誇りはねぇのか、お前の脳ン中にはよ!」――か。立派であることは難しい。ボギーあんたの時代はよかった、男がピカピカの気障でいられた。


まぁ私は14歳の女子中学生なんですけどね。


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はてなブックマーク - 元詐欺師・逮捕歴有りの新風のオヤジが在日韓国人青年に喧嘩売る→ぶっ倒され泣き言(笑) - Transnational History

動画⇒動画 - はてなダイアリー


自称愛国者が今日ヘイトスピーチをばらまく呼びかけをしていることに思う - U´Å`U

昨日の続き - U´Å`U


この弁士の方に申し上げたいのは、言論に暴力で対応するくらい誠実な対応はないということ。鼻をつまんで通り過ぎるとか、あるいは一瞥して通り過ぎるとか、そういう不誠実な対応を退けてきたのが右翼であって、だから歴史的に右翼は、動画の青年のような情念の受け皿として機能してきた。人種主義に対する憤りの受け皿として。その憤りを、連帯の基盤として。右翼とは一種のインターナショナリズムなのでもちろん国粋主義ではないし「在日」だって受け入れる。


そして、たとえば動画の青年が右翼になって万一テロでも起こしたなら、それ見たことかと指差すのが彼らだ。自由な言論に対して暴力で対応するような、よき市民であることを知らない、日本にふさわしくない「在日」の末路と。これこそ、繰り返されてきた歴史であって、日本の右翼の歴史そのもの。


国粋主義が法を盾に余所者を差別することが、暴力的な右翼の情念を育む。その暴力性を指して、ほら私たちの法治国家に彼らはふさわしくないと公衆に説く。彼らは「北朝鮮ではない」私たちの国のその所以としての言論の自由を侵害していると。人権擁護法案反対運動がヘイトスピーチの巣窟になったこともむべなるかな。


公衆は、国粋主義者には冷淡だが、同じくらい暴力を振るう者にも冷淡だ。警察は公衆のためにあって、国粋主義者は、無届でデモなどしない、私たちの国の法を遵守するよき市民でもある。国粋主義は思想信条の自由で、思想信条の表現は言論の自由国粋主義者の「在日」に対するマッチポンプの成果は「暴力的な外国人」に対する公衆の冷淡な視線として結実している。「美しい国」とか言いたくはないが、こればかりは美しい日本の美しい風景であり、美しい国美しい国たる所以ではある。「非国民」という罵倒語が成立したのはいつのことだったか。


日本人であるかないかは、国籍の問題ではない。それが右翼の常識で、しかしカルデロン一家の件を見るまでもなく、彼らにとっては日本人か否かは国籍とそれに基づく遵法意識に尽きる。国家に対する帰属と帰属意識において日本人の条件が問われる。国家において引き裂かれる人とその情念があることを、法治国家を言祝ぐ者は忘却する。そして憲法で保障された言論の自由に基づく思想信条の自由の表明として「在日」は日本から出ていけと言う。もちろん集会の自由も行使する。


「日本人」は国籍で決まりはしないし、日本国の法の遵守で決まりはしない。国籍で決まる、と考える人が「日本人」の内実について思考しないことは致し方ないが、内実について思考しないことが「日本人」の劣化を招いている――と私はここに認めざるをえない。


彼らにおいては「愛国心」とは法治国家の法を守ることであり、憲法で保障された言論の自由に基づいて思想信条の自由を表明し、集会の自由に基づいてデモを行うことである。それは、警察の覚えもめでたいだろう。


ゆえに、「小市民」と自己を規定する彼らにおいては「愛国心」とは必ずしも天皇という超越的存在の問題ではない。つまり、まったく右翼の発想ではない。彼らが右翼ではない、というのは思想的な理路の話であって、別に「一緒にするな」という話ではない。国籍と遵法意識に限定して「日本人」を「国民」の問題として捉えるその発想を、私は斬新とは思ったが、右翼と思ったことはない。国家主義者とは思った。


そして、国家主義者の市民運動とは、どういう冗談かとも思ったけど――「愛国心」という補助線において両者は架橋されるらしい。それは「愛国心」の解釈として間違っているのだが、「愛国心」が国家主義に利用されてきた歴史には枚挙に暇がない。ド・ゴールさえも。市民が銃を取ることと国家主義が、時に結びつくことがある。中国共産党の指導部が、マオイズムを今なお胸に燃やすかつての紅衛兵を恐れるように。


右翼においては「日本人」とは「国民」の問題ではない。国民としての遵法意識の問題でもない。むしろそのような発想をこそ唾棄している。日本人としての自発性を国家へと馴致させ市民としての国民であることに眠らせる隷従への道である、と。対独協力作家の戦後フランスにおける抹殺について福田和也は最初の著作を書いた。



大陸の革命運動への参加を経て北一輝が目指した維新革命とは、近代化において成立した「日本人」であることへの自発性を賭金としたが、もちろん革命家北一輝愛国心を遵法意識の問題に還元しはしなかった。それは小市民の発想であって、だからこそ小市民の愛国心は強く、遵法意識を掲げる愛国的市民運動国家主義へと至る歴史の反復も、致し方ない結末と言うべきだろう。


国籍を理由にゴミ呼ばわりされて憤る青年は立派に「日本人」でありうる――というのも皮肉な話であることは承知だが、それは必ずしも差別ではない。右翼の理路が、国籍などという他人の決定を理由にゴミ呼ばわりされて憤るその情念を――魂を――知ることは違いない。人間の人間としての誇りが、法やそれを司る国家とその帝国主義に先んじる。それが右翼の理路なので、憲法で保障されていることを理由に、国家主義的排外主義者の裸踊りを認めるわけではない。市民なら認めて然るべきなのだろう。


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右翼と極右は区別されるべきで、簡単に言えば――『ワイルドバンチ』的な意味で――無法者を受け容れるのが右翼で、無法者を受け容れないことを市民合意として主張するのが極右。市民合意とは「私たちの社会」のこと。まさにペキンパーというかイージーライダーというかアメリカン・ニューシネマの世界観だが、それに対抗するにも、アメリカに倣うよりほかない。つまり、極右の騙る市民合意にダメ出して「私たちの社会」の題目を(「非国民」を罵倒語として認識するような)国家主義者に横領させないこと。市民合意は無法者を受け容れないためにあるものではない、と。


無法者を受け容れないことは事実市民合意ではないか――と人は言うだろうか。極右は、そのような表層としての市民合意を、自分たちの主張に利用して、市民の心情に訴求する。「これは市民による合意形成の問題である」として。「無法者を受け容れない」として彼らが市民において形成しようとする合意は「余所者を受け容れない」である。そのために国家主義と市民合意を架橋するべく「愛国心」が接着剤として利用される。


そもそも論として「愛国心」とは右翼や天皇の問題ではなく、つまり情念や超越性の問題ではなく、「日本人」の問題でさえなく、ローカライズされた市民合意への自発性として問われるものなので、「愛国心」が「ぼくのかんがえた日本国」という国家主義的排外主義の裸踊りであっては困る――コスモポリタンな市民合意の理念からローカルへと演繹される概念である以上――ので、他人の見当違いな自発性を目にした私たちもまた自発性を発揮しなければならない。そしてそのことが「私たちの社会」を自発性としての愛国心によって裏書きする結果、いっそう、たとえば「在日」を疎外する、ということにもなるのだけど。


ただ、彼らは「自発性」さえ発揮できない。そして、自発性を発揮「できない」ことを「日本から叩き出す」ことの理由とする同胞意識皆無の愛国者がいるとき、発揮しうる自発性を発揮しないことは、より悪いことだろう。自発性を発揮すべく「日本人」になろうとする「在日」がいること、その心情など、彼らにはわかりはしない。新井将敬とその死について、どう考えておられるか見解を伺ってみたい。伺うまでもないだろうが。


言うまでもなく、「日本人」になることとは、帰化することではない。「帰化すれば国民」と、彼らがそこまでクリアに考えているなら、それはそれで見上げたものだが。右翼的には、歴史的にも思想史においても、国民の問題と日本人の問題をイコールとして考えることは勘弁していただきたい、ということになる。


市民合意を極右に横領させることは、彼らの国家主義的排外主義への加担と同じことなので、はっきりさせる必要はあるだろう。市民合意とは、法への忠誠ではなく、私たちの社会は、日本国籍所有者によって形成されているのではなく、愛国心とは、国籍という既得権をめぐる自発性のことではない、と。


愛国心とは『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐やド・ゴール的な対独レジスタンスのことであって、そのことを人類の問題へと敷衍してアメリカ人が謳い上げてみせたのが『カサブランカ』だった。「俺は高潔/高尚な人間ではないが、狂った世界を黙って見てはいられない」と。狂った世界が問題であるとき、祖国愛に対して自発的に投企することだけが市民合意ではない。そのことをアメリカ人のイカサマと言い切れないから(山本夏彦なら言い切るだろう)、人類社会は難しいし、そこに希望がないわけでもない。


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動画を拝見して(飯を食いながら見るものではなかった)、わかりきっていたことといえ、些か気が滅入ったのは、弁士が叫び、青年が憤り、警察官が取り囲み、弁士側の誰かが撮影し、通行人が遠巻きに取り巻きあるいは通り過ぎる中で、青年の憤りは、誰にも伝わっていないかのように見えること。憤りは、それが伝わらなければ、ただ顔を真っ赤にして切れている物騒な若者がいる、ということでしかない。そして、言論に暴力で対応した「在日」がいる、と公衆に対して弁士が拡声器で注釈する。なるほど思う壺だ。「どっちもどっち」という感想を引き出す程度には。


あの時あの場で、青年の憤りが誰にも伝わっていないことを確認して、彼らは動画をアップしたのだろう。だから、その動画に対して、私たちは、青年の憤りを、読み取り注釈する必要がある。市民合意とは、ローカライズされた市民合意への自発性として問われる愛国心とは、つまりそういうこと。


極右は必ず市民を自称する。市民を代弁していると自称する。自らを小市民と規定して。憲法で保障された行為に対して暴力を振るう人は怖いですね、野蛮ですね、「在日」なので私たちの社会にコミットしないのですね。憲法で保障された行為に対して暴力を行使する人を、私たちは認めません。ひとりの市民として、私はそのことを言っているだけなのです――と。そして遺憾ながら「そのこと」に限定して賛同を表明する市民は、多い。「「そのこと」に限定して」と自分で断って。もちろん、「そのことを言っているだけ」ではない。市民を名乗って、合意と僭称して「外国人」排斥を主張するのが、極右。


問題を、右翼⇔左翼の軸で捉えても仕方がないと思う。問題は「極」であるはずの「極右」がその主張の表層において市民合意と親和的なことで、言論に対する暴力はまずいと、大抵の市民は言うし、法は守るべきと市民は言う。よき市民であることが、国籍から愛国を問う発想と両立するから、公衆は国粋主義に対して冷淡なことと同程度には無法者に対して冷淡。だから彼らにとっては「外国人」の無法を公衆に証明できればそれでよいので、かくて「顔を真っ赤にして切れている物騒な若者」の姿がネットにアップされる。


だから、ヘイトスピーチの法規制が検討の俎上にある。それは、彼らに口実を与えないためにある。そして体制的市民主義者は、遵法意識から物事を判断する――遺憾なことに。


これはホロコースト否定論と同じことで、あるいは偽科学と同じことで、市民合意をセクショナリズムの次元に差し戻すことが勝利条件としてある。別に彼らは(ガチの人もいるが)否定論や偽科学を真理として流通させたいわけではない。真理の不在において万事をセクショナリズムの所産として公衆に認識させるべく、今日も彼らは社会的なラベリングをセクショナリズムの産物として公衆に印象付ける作業に精を出す。「マスゴミ」と。


結果どうなるか。言うなれば、プラットフォームが破壊される。そして「朝鮮人」をゴミと呼ぶ弁士と、そのことに憤る青年は、「どっちもどっち」として、道行く私たちと無関係な話になる。物騒なことは愚かしいことである。セクショナリズムの問題――と。マルティン・ニーメラーが言ったのはそういうことです。


疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記


社会的なラベルは必ずしも市民合意の問題ではない、セクショナリズムの闘争の結果としてある。それはその通りなのだが、「だから」市民合意は要らないしありえない、という結論は導き出されない。セクショナリズムの闘争が、プラットフォームを前提して行われるか行われないか、その相違は大きいのだから。


体制的市民主義者とは、祖国の危機に銃を取らない自称市民のこと。「美しい国」とは体制的市民主義の問題で、体制的市民主義に乗じて市民を名乗る国家主義的排外主義が市民の資格を法の問題として問うとき、「法は法だから」とか、何も言っていない。社会的なラベルをめぐる闘争が、繰り広げられている最中においては。


社会的なラベルをめぐる闘争を真理を顧慮しないセクショナリズムと見なすシニシズムは、まさにヒトラーの持ち合わせていたニヒリズムだった。そしてナチスはその人種主義に科学を動員した。セクショナリズムで何か問題が?――と彼は言った。愛国心とは彼にとってセクショナリズム以外の何物でもなかった。


もちろん、トラップ大佐も、対独レジスタンスも、カサブランカで酒場を経営するリックも、セクショナリズムに命を賭けたわけではなかったし、そして人類の大義のために戦ったわけでもなかった。しかし彼らは人類を掲げ、人類のための戦いを名乗った。セクショナリズムでやっていることではない、と。


弁士たちはセクショナリズムとわかってやっているだろう。政治がセクショナリズムの問題でしかないことを、公衆に知らしめるために。それは、あるいはその通り。そして青年の憤りも「在日」のセクショナリズムと考え、そう知らしめるべく動画をアップする。もちろん「日本国」においては「日本人」のほうが数が多い。「プロ市民」がセクショナリズムを主張してきた以上、自分たちも「プロ市民」としてセクショナリズムを主張する、と。――こういうのを、政治主義者と言う。昔は左翼とその転向者にいた。今はこういう方面にいる。


そのようなニヒリズムに同意するか、という話。私たちはセクショナリズムとして、水からの伝言を懸念するのか、自身に対する差別的な言動に腹を立てるのか、そして、自分とはかかわりない青年の憤りに支持を表明するのか。リックが痩せ我慢してイルザに対して示したものが、そこにはあるだろう。狂った世界を黙って見ていられない、と。もちろん高潔/高尚な人間ではないリックはイルザを見送った3分後には後悔するに決まっていて、だからルノーは飲もうと誘った。


そもそも世界は狂っている、というのがヒトラーの世界観だった。彼が大戦の戦場で見た光景だった。世界が狂っているところから、彼の思想は、政治活動は、出発した。狂った世界で人間が人間らしく生きることを、彼は政治を通じて目指した。ただ、彼にとって狂った世界は一切の前提条件だったので、そのことの是非を彼は問わなかった。無駄で無益で無意味と。


そもそも世界が狂っていることと、狂った世界を黙って見ていられないことは、違う。「個人であること」とは、後者の謂であって、それをして、20世紀においては、人間の尊厳と言った。真理の問題でもなければ、セクショナリズムの問題でもない。社会的なラベルをめぐる闘争を、市民合意の問題として問うとは、そういうことで、だから科学哲学があり、ホロコースト研究があって、「不法入国」の「在日外国人」をめぐって侃々諤々される。体制的市民主義者とは、そもそもこのような前提が一切ない人のことを言う。「バカは黙ってろ」と言いたくなる人の心情が、じつのところ最近私はわからないでもない。


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ところで、こういう意見を拝見した。

「そういう言い方は、やめろ!」

なんだよな。

「内容、間違ってるぞ!」

じゃないだんよな。

それも

「見たり聞いたりしていて不快だから」

っつー論旨で。

そういう“感覚”を根幹に置いた議論で「表現の自由」を語るのは、やばいと思うんだけどなあ。

内容の正誤に触れず、暴力がなければ(有無の認定は裁判所かなあ)オッケーだろう。

「表現の自由」の定義をしていいのは、誰なんだ?


「猥褻」をめぐる議論だとそういう話にもなりますが、ヘイトスピーチ公序良俗を毀損するから問題なのではありません。「公序良俗」ならあの弁士と同程度に、動画の青年だって毀損している。つまり「どっちもどっち」ということになる。ヘイトスピーチは、「内容」とその正誤の問題ではなく、race間の憎悪を煽動するから問題なんです。つまり意図と機能の問題。ヨーロッパにおける法規制の根拠もそこにある。


race間の憎悪を煽動することがなぜ問題か。社会における市民合意を毀損するからです。そこには、race間の憎悪が歴史的な前提としてある。日本にはホロコーストはありませんでした、しかし、歴史的な前提がないとは到底言えない。そしてそれは現在、「在日」「部落」に対するヘイトスピーチとして噴出している。象徴天皇ある限り大丈夫と言えない程度には。


人権擁護法案はそもそも筋が悪いとしか私には思えなかった。徒に人権を擁護するために言論の自由に制限を付しているのでは、少なくとも欧州社会はない。ホロコーストやWW2の経験を経た市民合意に対する同意として法規制はあるので、前提を違えて法規制の議論を推し進めると、「人権」を旗にしたセクショナリズムの闘争としてのみ理解される。そして事実そうなった――反対の論拠が、ということだけど。結果、セクショナリズム批判という無知と偏見に基づく差別的言動は繰り返される。


万事がセクショナリズムであって、社会的なラベリングがそのような闘争の相としてのみあるなら、そういうことになるだろう。「差別と区別は違う」という話にもなる。真理があるなら、真理においてセクショナリズムを退け、真理がないなら、倫理においてセクショナリズムを退ける。


表現の自由」とは、もちろん規範的な表現の自由ということではない。しかし高潔/高尚な人間とは到底言えないヴォルテールが説いた理念――「私は君の意見に反対だ。しかし、君がその意見を主張する権利は命を賭けて守る。」――とは、まさに市民合意そのものだった。市民合意を毀損する言論は、少なくとも言論ではない。


ヘイトスピーチを規制するなら、その順序を踏むよりほかない。そして順序のとば口にも日本社会は立っていない。合意形成が流産し続けることと、合意形成が極右に横領されることは、同じこととしてある。合意形成の流産を体制的市民主義者に帰責してヘイトスピーチの法規制を唱えるならとんでもないことと私は思う。しかし、ヘイトスピーチ公序良俗の問題でないことは知っている。「公序良俗」概念を肯定するような体制的市民主義に対して、市民合意は「命を賭けて」守られるべきものであるから。「表現の自由」「言論の自由」とはそういうこと。


憲法で保証された集会の自由に基づき言論の自由を行使して思想信条の自由を表明することがあくまで自由(=フリーダム)であるべきで、しかし暴力は警察の介入において処罰されて然るべき、というのは、無見識としか言えない。公共の福祉とは、どのような概念か。公共の福祉とは公序良俗の別名ではない。言うまでもなく、他者危害とは肉体的暴力の問題ではない。そのような無見識が、体制的市民主義と相性がいいことは知っている。


sk-44名義のネットでの議論とは関係がない話と厳にお断りしますが――真理の不在において、万事をセクショナリズムへと差し戻す物言いに、私は最近食傷しています。世界は野蛮で原始的である、と言いたいのか。確かにヒトラーはそう言ったが。政治とは、セクショナリズム以外の何物でもない。そのときに倫理の旗幟に立つことは見識だけど、しかし真理の不在において万事をセクショナリズムへと差し戻した挙句「暴力は処罰されるべき」なら、それは国家主義以外の何なのだろうか。そして20世紀とは何だったのか。これはこれで弁証法の発想とはいえ。だから――そもそも論と別に、右翼/左翼と言ったフレームが状況論において無効であることは違いない。


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

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