俺たちに明日はない、か


はてなブックマーク - 元詐欺師・逮捕歴有りの新風のオヤジが在日韓国人青年に喧嘩売る→ぶっ倒され泣き言(笑) - Transnational History

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自称愛国者が今日ヘイトスピーチをばらまく呼びかけをしていることに思う - U´Å`U

昨日の続き - U´Å`U


この弁士の方に申し上げたいのは、言論に暴力で対応するくらい誠実な対応はないということ。鼻をつまんで通り過ぎるとか、あるいは一瞥して通り過ぎるとか、そういう不誠実な対応を退けてきたのが右翼であって、だから歴史的に右翼は、動画の青年のような情念の受け皿として機能してきた。人種主義に対する憤りの受け皿として。その憤りを、連帯の基盤として。右翼とは一種のインターナショナリズムなのでもちろん国粋主義ではないし「在日」だって受け入れる。


そして、たとえば動画の青年が右翼になって万一テロでも起こしたなら、それ見たことかと指差すのが彼らだ。自由な言論に対して暴力で対応するような、よき市民であることを知らない、日本にふさわしくない「在日」の末路と。これこそ、繰り返されてきた歴史であって、日本の右翼の歴史そのもの。


国粋主義が法を盾に余所者を差別することが、暴力的な右翼の情念を育む。その暴力性を指して、ほら私たちの法治国家に彼らはふさわしくないと公衆に説く。彼らは「北朝鮮ではない」私たちの国のその所以としての言論の自由を侵害していると。人権擁護法案反対運動がヘイトスピーチの巣窟になったこともむべなるかな。


公衆は、国粋主義者には冷淡だが、同じくらい暴力を振るう者にも冷淡だ。警察は公衆のためにあって、国粋主義者は、無届でデモなどしない、私たちの国の法を遵守するよき市民でもある。国粋主義は思想信条の自由で、思想信条の表現は言論の自由国粋主義者の「在日」に対するマッチポンプの成果は「暴力的な外国人」に対する公衆の冷淡な視線として結実している。「美しい国」とか言いたくはないが、こればかりは美しい日本の美しい風景であり、美しい国美しい国たる所以ではある。「非国民」という罵倒語が成立したのはいつのことだったか。


日本人であるかないかは、国籍の問題ではない。それが右翼の常識で、しかしカルデロン一家の件を見るまでもなく、彼らにとっては日本人か否かは国籍とそれに基づく遵法意識に尽きる。国家に対する帰属と帰属意識において日本人の条件が問われる。国家において引き裂かれる人とその情念があることを、法治国家を言祝ぐ者は忘却する。そして憲法で保障された言論の自由に基づく思想信条の自由の表明として「在日」は日本から出ていけと言う。もちろん集会の自由も行使する。


「日本人」は国籍で決まりはしないし、日本国の法の遵守で決まりはしない。国籍で決まる、と考える人が「日本人」の内実について思考しないことは致し方ないが、内実について思考しないことが「日本人」の劣化を招いている――と私はここに認めざるをえない。


彼らにおいては「愛国心」とは法治国家の法を守ることであり、憲法で保障された言論の自由に基づいて思想信条の自由を表明し、集会の自由に基づいてデモを行うことである。それは、警察の覚えもめでたいだろう。


ゆえに、「小市民」と自己を規定する彼らにおいては「愛国心」とは必ずしも天皇という超越的存在の問題ではない。つまり、まったく右翼の発想ではない。彼らが右翼ではない、というのは思想的な理路の話であって、別に「一緒にするな」という話ではない。国籍と遵法意識に限定して「日本人」を「国民」の問題として捉えるその発想を、私は斬新とは思ったが、右翼と思ったことはない。国家主義者とは思った。


そして、国家主義者の市民運動とは、どういう冗談かとも思ったけど――「愛国心」という補助線において両者は架橋されるらしい。それは「愛国心」の解釈として間違っているのだが、「愛国心」が国家主義に利用されてきた歴史には枚挙に暇がない。ド・ゴールさえも。市民が銃を取ることと国家主義が、時に結びつくことがある。中国共産党の指導部が、マオイズムを今なお胸に燃やすかつての紅衛兵を恐れるように。


右翼においては「日本人」とは「国民」の問題ではない。国民としての遵法意識の問題でもない。むしろそのような発想をこそ唾棄している。日本人としての自発性を国家へと馴致させ市民としての国民であることに眠らせる隷従への道である、と。対独協力作家の戦後フランスにおける抹殺について福田和也は最初の著作を書いた。



大陸の革命運動への参加を経て北一輝が目指した維新革命とは、近代化において成立した「日本人」であることへの自発性を賭金としたが、もちろん革命家北一輝愛国心を遵法意識の問題に還元しはしなかった。それは小市民の発想であって、だからこそ小市民の愛国心は強く、遵法意識を掲げる愛国的市民運動国家主義へと至る歴史の反復も、致し方ない結末と言うべきだろう。


国籍を理由にゴミ呼ばわりされて憤る青年は立派に「日本人」でありうる――というのも皮肉な話であることは承知だが、それは必ずしも差別ではない。右翼の理路が、国籍などという他人の決定を理由にゴミ呼ばわりされて憤るその情念を――魂を――知ることは違いない。人間の人間としての誇りが、法やそれを司る国家とその帝国主義に先んじる。それが右翼の理路なので、憲法で保障されていることを理由に、国家主義的排外主義者の裸踊りを認めるわけではない。市民なら認めて然るべきなのだろう。


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右翼と極右は区別されるべきで、簡単に言えば――『ワイルドバンチ』的な意味で――無法者を受け容れるのが右翼で、無法者を受け容れないことを市民合意として主張するのが極右。市民合意とは「私たちの社会」のこと。まさにペキンパーというかイージーライダーというかアメリカン・ニューシネマの世界観だが、それに対抗するにも、アメリカに倣うよりほかない。つまり、極右の騙る市民合意にダメ出して「私たちの社会」の題目を(「非国民」を罵倒語として認識するような)国家主義者に横領させないこと。市民合意は無法者を受け容れないためにあるものではない、と。


無法者を受け容れないことは事実市民合意ではないか――と人は言うだろうか。極右は、そのような表層としての市民合意を、自分たちの主張に利用して、市民の心情に訴求する。「これは市民による合意形成の問題である」として。「無法者を受け容れない」として彼らが市民において形成しようとする合意は「余所者を受け容れない」である。そのために国家主義と市民合意を架橋するべく「愛国心」が接着剤として利用される。


そもそも論として「愛国心」とは右翼や天皇の問題ではなく、つまり情念や超越性の問題ではなく、「日本人」の問題でさえなく、ローカライズされた市民合意への自発性として問われるものなので、「愛国心」が「ぼくのかんがえた日本国」という国家主義的排外主義の裸踊りであっては困る――コスモポリタンな市民合意の理念からローカルへと演繹される概念である以上――ので、他人の見当違いな自発性を目にした私たちもまた自発性を発揮しなければならない。そしてそのことが「私たちの社会」を自発性としての愛国心によって裏書きする結果、いっそう、たとえば「在日」を疎外する、ということにもなるのだけど。


ただ、彼らは「自発性」さえ発揮できない。そして、自発性を発揮「できない」ことを「日本から叩き出す」ことの理由とする同胞意識皆無の愛国者がいるとき、発揮しうる自発性を発揮しないことは、より悪いことだろう。自発性を発揮すべく「日本人」になろうとする「在日」がいること、その心情など、彼らにはわかりはしない。新井将敬とその死について、どう考えておられるか見解を伺ってみたい。伺うまでもないだろうが。


言うまでもなく、「日本人」になることとは、帰化することではない。「帰化すれば国民」と、彼らがそこまでクリアに考えているなら、それはそれで見上げたものだが。右翼的には、歴史的にも思想史においても、国民の問題と日本人の問題をイコールとして考えることは勘弁していただきたい、ということになる。


市民合意を極右に横領させることは、彼らの国家主義的排外主義への加担と同じことなので、はっきりさせる必要はあるだろう。市民合意とは、法への忠誠ではなく、私たちの社会は、日本国籍所有者によって形成されているのではなく、愛国心とは、国籍という既得権をめぐる自発性のことではない、と。


愛国心とは『サウンド・オブ・ミュージック』のトラップ大佐やド・ゴール的な対独レジスタンスのことであって、そのことを人類の問題へと敷衍してアメリカ人が謳い上げてみせたのが『カサブランカ』だった。「俺は高潔/高尚な人間ではないが、狂った世界を黙って見てはいられない」と。狂った世界が問題であるとき、祖国愛に対して自発的に投企することだけが市民合意ではない。そのことをアメリカ人のイカサマと言い切れないから(山本夏彦なら言い切るだろう)、人類社会は難しいし、そこに希望がないわけでもない。


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動画を拝見して(飯を食いながら見るものではなかった)、わかりきっていたことといえ、些か気が滅入ったのは、弁士が叫び、青年が憤り、警察官が取り囲み、弁士側の誰かが撮影し、通行人が遠巻きに取り巻きあるいは通り過ぎる中で、青年の憤りは、誰にも伝わっていないかのように見えること。憤りは、それが伝わらなければ、ただ顔を真っ赤にして切れている物騒な若者がいる、ということでしかない。そして、言論に暴力で対応した「在日」がいる、と公衆に対して弁士が拡声器で注釈する。なるほど思う壺だ。「どっちもどっち」という感想を引き出す程度には。


あの時あの場で、青年の憤りが誰にも伝わっていないことを確認して、彼らは動画をアップしたのだろう。だから、その動画に対して、私たちは、青年の憤りを、読み取り注釈する必要がある。市民合意とは、ローカライズされた市民合意への自発性として問われる愛国心とは、つまりそういうこと。


極右は必ず市民を自称する。市民を代弁していると自称する。自らを小市民と規定して。憲法で保障された行為に対して暴力を振るう人は怖いですね、野蛮ですね、「在日」なので私たちの社会にコミットしないのですね。憲法で保障された行為に対して暴力を行使する人を、私たちは認めません。ひとりの市民として、私はそのことを言っているだけなのです――と。そして遺憾ながら「そのこと」に限定して賛同を表明する市民は、多い。「「そのこと」に限定して」と自分で断って。もちろん、「そのことを言っているだけ」ではない。市民を名乗って、合意と僭称して「外国人」排斥を主張するのが、極右。


問題を、右翼⇔左翼の軸で捉えても仕方がないと思う。問題は「極」であるはずの「極右」がその主張の表層において市民合意と親和的なことで、言論に対する暴力はまずいと、大抵の市民は言うし、法は守るべきと市民は言う。よき市民であることが、国籍から愛国を問う発想と両立するから、公衆は国粋主義に対して冷淡なことと同程度には無法者に対して冷淡。だから彼らにとっては「外国人」の無法を公衆に証明できればそれでよいので、かくて「顔を真っ赤にして切れている物騒な若者」の姿がネットにアップされる。


だから、ヘイトスピーチの法規制が検討の俎上にある。それは、彼らに口実を与えないためにある。そして体制的市民主義者は、遵法意識から物事を判断する――遺憾なことに。


これはホロコースト否定論と同じことで、あるいは偽科学と同じことで、市民合意をセクショナリズムの次元に差し戻すことが勝利条件としてある。別に彼らは(ガチの人もいるが)否定論や偽科学を真理として流通させたいわけではない。真理の不在において万事をセクショナリズムの所産として公衆に認識させるべく、今日も彼らは社会的なラベリングをセクショナリズムの産物として公衆に印象付ける作業に精を出す。「マスゴミ」と。


結果どうなるか。言うなれば、プラットフォームが破壊される。そして「朝鮮人」をゴミと呼ぶ弁士と、そのことに憤る青年は、「どっちもどっち」として、道行く私たちと無関係な話になる。物騒なことは愚かしいことである。セクショナリズムの問題――と。マルティン・ニーメラーが言ったのはそういうことです。


疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記


社会的なラベルは必ずしも市民合意の問題ではない、セクショナリズムの闘争の結果としてある。それはその通りなのだが、「だから」市民合意は要らないしありえない、という結論は導き出されない。セクショナリズムの闘争が、プラットフォームを前提して行われるか行われないか、その相違は大きいのだから。


体制的市民主義者とは、祖国の危機に銃を取らない自称市民のこと。「美しい国」とは体制的市民主義の問題で、体制的市民主義に乗じて市民を名乗る国家主義的排外主義が市民の資格を法の問題として問うとき、「法は法だから」とか、何も言っていない。社会的なラベルをめぐる闘争が、繰り広げられている最中においては。


社会的なラベルをめぐる闘争を真理を顧慮しないセクショナリズムと見なすシニシズムは、まさにヒトラーの持ち合わせていたニヒリズムだった。そしてナチスはその人種主義に科学を動員した。セクショナリズムで何か問題が?――と彼は言った。愛国心とは彼にとってセクショナリズム以外の何物でもなかった。


もちろん、トラップ大佐も、対独レジスタンスも、カサブランカで酒場を経営するリックも、セクショナリズムに命を賭けたわけではなかったし、そして人類の大義のために戦ったわけでもなかった。しかし彼らは人類を掲げ、人類のための戦いを名乗った。セクショナリズムでやっていることではない、と。


弁士たちはセクショナリズムとわかってやっているだろう。政治がセクショナリズムの問題でしかないことを、公衆に知らしめるために。それは、あるいはその通り。そして青年の憤りも「在日」のセクショナリズムと考え、そう知らしめるべく動画をアップする。もちろん「日本国」においては「日本人」のほうが数が多い。「プロ市民」がセクショナリズムを主張してきた以上、自分たちも「プロ市民」としてセクショナリズムを主張する、と。――こういうのを、政治主義者と言う。昔は左翼とその転向者にいた。今はこういう方面にいる。


そのようなニヒリズムに同意するか、という話。私たちはセクショナリズムとして、水からの伝言を懸念するのか、自身に対する差別的な言動に腹を立てるのか、そして、自分とはかかわりない青年の憤りに支持を表明するのか。リックが痩せ我慢してイルザに対して示したものが、そこにはあるだろう。狂った世界を黙って見ていられない、と。もちろん高潔/高尚な人間ではないリックはイルザを見送った3分後には後悔するに決まっていて、だからルノーは飲もうと誘った。


そもそも世界は狂っている、というのがヒトラーの世界観だった。彼が大戦の戦場で見た光景だった。世界が狂っているところから、彼の思想は、政治活動は、出発した。狂った世界で人間が人間らしく生きることを、彼は政治を通じて目指した。ただ、彼にとって狂った世界は一切の前提条件だったので、そのことの是非を彼は問わなかった。無駄で無益で無意味と。


そもそも世界が狂っていることと、狂った世界を黙って見ていられないことは、違う。「個人であること」とは、後者の謂であって、それをして、20世紀においては、人間の尊厳と言った。真理の問題でもなければ、セクショナリズムの問題でもない。社会的なラベルをめぐる闘争を、市民合意の問題として問うとは、そういうことで、だから科学哲学があり、ホロコースト研究があって、「不法入国」の「在日外国人」をめぐって侃々諤々される。体制的市民主義者とは、そもそもこのような前提が一切ない人のことを言う。「バカは黙ってろ」と言いたくなる人の心情が、じつのところ最近私はわからないでもない。


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ところで、こういう意見を拝見した。

「そういう言い方は、やめろ!」

なんだよな。

「内容、間違ってるぞ!」

じゃないだんよな。

それも

「見たり聞いたりしていて不快だから」

っつー論旨で。

そういう“感覚”を根幹に置いた議論で「表現の自由」を語るのは、やばいと思うんだけどなあ。

内容の正誤に触れず、暴力がなければ(有無の認定は裁判所かなあ)オッケーだろう。

「表現の自由」の定義をしていいのは、誰なんだ?


「猥褻」をめぐる議論だとそういう話にもなりますが、ヘイトスピーチ公序良俗を毀損するから問題なのではありません。「公序良俗」ならあの弁士と同程度に、動画の青年だって毀損している。つまり「どっちもどっち」ということになる。ヘイトスピーチは、「内容」とその正誤の問題ではなく、race間の憎悪を煽動するから問題なんです。つまり意図と機能の問題。ヨーロッパにおける法規制の根拠もそこにある。


race間の憎悪を煽動することがなぜ問題か。社会における市民合意を毀損するからです。そこには、race間の憎悪が歴史的な前提としてある。日本にはホロコーストはありませんでした、しかし、歴史的な前提がないとは到底言えない。そしてそれは現在、「在日」「部落」に対するヘイトスピーチとして噴出している。象徴天皇ある限り大丈夫と言えない程度には。


人権擁護法案はそもそも筋が悪いとしか私には思えなかった。徒に人権を擁護するために言論の自由に制限を付しているのでは、少なくとも欧州社会はない。ホロコーストやWW2の経験を経た市民合意に対する同意として法規制はあるので、前提を違えて法規制の議論を推し進めると、「人権」を旗にしたセクショナリズムの闘争としてのみ理解される。そして事実そうなった――反対の論拠が、ということだけど。結果、セクショナリズム批判という無知と偏見に基づく差別的言動は繰り返される。


万事がセクショナリズムであって、社会的なラベリングがそのような闘争の相としてのみあるなら、そういうことになるだろう。「差別と区別は違う」という話にもなる。真理があるなら、真理においてセクショナリズムを退け、真理がないなら、倫理においてセクショナリズムを退ける。


表現の自由」とは、もちろん規範的な表現の自由ということではない。しかし高潔/高尚な人間とは到底言えないヴォルテールが説いた理念――「私は君の意見に反対だ。しかし、君がその意見を主張する権利は命を賭けて守る。」――とは、まさに市民合意そのものだった。市民合意を毀損する言論は、少なくとも言論ではない。


ヘイトスピーチを規制するなら、その順序を踏むよりほかない。そして順序のとば口にも日本社会は立っていない。合意形成が流産し続けることと、合意形成が極右に横領されることは、同じこととしてある。合意形成の流産を体制的市民主義者に帰責してヘイトスピーチの法規制を唱えるならとんでもないことと私は思う。しかし、ヘイトスピーチ公序良俗の問題でないことは知っている。「公序良俗」概念を肯定するような体制的市民主義に対して、市民合意は「命を賭けて」守られるべきものであるから。「表現の自由」「言論の自由」とはそういうこと。


憲法で保証された集会の自由に基づき言論の自由を行使して思想信条の自由を表明することがあくまで自由(=フリーダム)であるべきで、しかし暴力は警察の介入において処罰されて然るべき、というのは、無見識としか言えない。公共の福祉とは、どのような概念か。公共の福祉とは公序良俗の別名ではない。言うまでもなく、他者危害とは肉体的暴力の問題ではない。そのような無見識が、体制的市民主義と相性がいいことは知っている。


sk-44名義のネットでの議論とは関係がない話と厳にお断りしますが――真理の不在において、万事をセクショナリズムへと差し戻す物言いに、私は最近食傷しています。世界は野蛮で原始的である、と言いたいのか。確かにヒトラーはそう言ったが。政治とは、セクショナリズム以外の何物でもない。そのときに倫理の旗幟に立つことは見識だけど、しかし真理の不在において万事をセクショナリズムへと差し戻した挙句「暴力は処罰されるべき」なら、それは国家主義以外の何なのだろうか。そして20世紀とは何だったのか。これはこれで弁証法の発想とはいえ。だから――そもそも論と別に、右翼/左翼と言ったフレームが状況論において無効であることは違いない。


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

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