ある自由主義者の肖像


文字数制限に引っかかったので、過去の日付で掲示


他者の差別を罵倒する人が、別の差別的発言を繰り返すってどういうこと? - 想像力はベッドルームと路上から

http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20090414/1239716730


以下、特に断りなき場合引用はinumashさんのエントリから。ここのところはそうでもないといえ(交際相手に感謝)、私もかつて長らく不能だった。それはさておき。


「男は男らしくあらねばならない」という観念を持っている人――と私はbuyobuyoさんのことを見てきた。要点は、言うなればこの場合の「男」がsexでなくあくまでgenderを指すこと。「男」であることとは、たとえば集団の暴力に加担しないこと、不正と不義に個として憤ること。そして「インポ野郎」という言葉はそのことに対応している。「男」なら、集団の暴力に加担してはならないし、不正と不義に個として憤らなければならない。


私が思ったのは、もしオースペさんが性的な意味で「インポ野郎」だったり女性だったりしたらどうするのかしら、ということで、その意味では行儀の問題でなく間違いなく不用意な発言だった。むろん「男は男らしくあらねばならない」は規範的な観念で、私に言わせれば、その規範性に自ら照れるがゆえの乱暴でお茶目な言動が、はてなidがbuyobuyoさんの「キャラクター」を形作っている。


繰り返すが、この「男」とはsexでなくgenderを指す。もちろんこれはマッチョにして男根主義の現れだけど、buyobuyoさんは自覚しており、再三そのことを公言している。「buyobuyoさんはセクシスト」ということにはならない。むしろセクシズムに対して憤るような規範性を「男」というgenderに要求している。


集団の暴力を唾棄し、不正と不義に個として憤らなければならない。その規範的な言説を「男」というgenderに仮託して述べるのが「はてなサヨク」buyobuyoさんのスタンスで、そのことにはbuyobuyoさんの、自身とその言説の規範性に対する照れもあるのだろうと私は思うが、しかしそれだけでもないのだろうとも思う。


「男は男らしくあらねばならない」が政治的に正しいか。むろん正しくない。倫理的にも正しくない。任意のgender規範を、そのgender規範を同じくしない性的な意味での「男」に対して性的な表現を用いて突きつけているのだから。端的なDISに対して、その突きつけたgender規範の美点について述べてもあまり意味がないだろう。しかしそれは、単なる感情の表出ではない。


「男は男らしくあらねばならない」をネットに限らず言行一致させているらしいbuyobuyoさんにとってその観念は、かつて御自身で書いておられたような「男らしくなかった」親族の存在と、関係しているのかも知れない。――「大きなお世話」だけど。


「良いマッチョ」「悪いマッチョ」があるとは私は思う。「綺麗なマッチョ」ということではない。端的に言って、buyobuyoさんは石原慎太郎ではない。もちろん、右翼と左翼ということではない。というか、buyobuyoさんは左翼ではない。

id:y_arim  というかbuyobuyo氏は単に差別主義者というだけではないかな?ぼくは最初からそう思って接してるけど。はてサに含まれるたびに「俺は左翼じゃねえ」と仰ってたし、「何左翼みたいな〜」もそう考えれば腑に落ちる。

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いいえ。違います。buyobuyoさんは左翼ではなく、リベラルで筋金入りの自由主義者です。自由に対する個人の責任を自律としてきっちり引き受け、他者に対してさえそのことを迫るような。(その意味では――再三引き合いに出して申し訳ないし必ずしも批判ではないと断るけど――タケルンバさんが名乗っておられるような自由主義とは違う。あれは、個人の無責任に基づくシステム論的な自由主義なので)。ただ、そのことを「男」というgender規範において展開するところが、buyobuyoさんのbuyobuyoさんたる所以で。


このgender規範としての「男」とは、自由に対する個人の責任を引き受ける自律の別名としてある。よって、集団の暴力を見過ごしてはならないし、不正と不義には個として怒りを持つべきであり、そして、そのことを他者に対しても「暴力的に」突きつける。「男だろ」と。


――その一切が誤解の因としてあることは違いないと私は思う。しかし、誤解されることもbuyobuyoさんは引き受けておられるし、そのことがbuyobuyoさんにとっての「男らしい男」なので。


「男らしくない男」の意味でbuyobuyoさんは「インポ野郎」と言っている。「男らしくない男」の意で疾病を比喩として使用することの問題は言うまでもない。性的不能に対する偏見の歴史を述べるまでもないだろう。


しかし、buyobuyoさんの理路において「男」とは「自由に対する個人の責任を引き受ける自律」の別名としてあるので、そしてそれは端的に個人主義のことなので(つまり左翼ではない)、たとえば運動論の観点から自身の発言を云々されても困るだろうし、buyobuyoさんはあくまで自分自身としてその個において発言している。


「自由に対する個人の責任を引き受ける自律」が他者に対する「インポ野郎」か。――それはそう。「猛省」が述べられてもいる。ただ、かつてのインポ野郎(性的な意味で)として申し上げると、正しいことを正しい者が述べ、行わなければならない、という話はない。そのことをこそbuyobuyoさんは常に言行一致として示しており、それが筋金入りの自由主義者であるところのbuyobuyoさんにとっての個人主義であり、その自由に対する自律としての責任なので。個人主義自由主義者において、自律とは、他者の視線の問題ではない。


説得力が云々は運動論で、そしてbuyobuyoさんは左翼ではない。論理の一貫性については、よってbuyobuyoさんは一貫している。そして、正しいことを述べるときは自らの襟を正さないと他者に対する説得力がない、というinumashさんのスタンスとbuyobuyoさんのそれはまったく相容れないだろうから――要するに、buyobuyoさんの一連のブコメはべつだん逃げ口上でも捨て台詞でもない。いや、もっと説明したらいいのに、とは、うだうだ長文書いてる者としては思うが。


「誇りはねぇのか、お前の脳ン中にはよ!」 とロックがレヴィの胸ぐら掴んで言うように、buyobuyoさんは道行く人の胸ぐら掴まえて怒鳴っている。それを「迷惑な人」と解釈することはあるいは妥当だけど、そのように解釈してしまう社会が、在特会のような極右を台頭させている、とbuyobuyoさんはそのことを一連のブコメで言っておられるし、それには私は同意する。同意せざるをえない。そしてそれは、個人主義自由主義の王道であり、国家主義的排外主義に臨む態度の王道でもある。


王になろうとした男

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ジョン・ヒューストンという映画人がいた。『チャイナタウン』の変態親父ノア・クロスで一般には著名だろうか。赤狩りにも抵抗した筋金入りの個人主義者にして自由主義者で、そして筋金入りのマッチョだった。風貌も知的なゴリラのようで、後に『猿の惑星』に出ていたが。


アフリカの女王』で彼と仕事をしたキャサリン・ヘプバーンが後年述べている。――とにかく彼は男らしい自分をアピールしたがった。演技的なまでに。まるで自分自身に顕示しているかのように。しかし、仕事が始まると、彼はボガート同様、男の美点をすべて持ち合わせていた。つまり個人主義的で、自律しており、私を含めて他者を他者として尊重し、その意見に耳を傾け、リベラルだった。あのヘプバーンが性的な意味で言っているはずもなく、それは――撮影当時はそのような概念も未だろくになかったが――genderの、その最良の部分としての「男性的であること」の話だった。


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もちろん、そのような男性的態度は東西ガチンコの赤狩りの時代だから重みがあったので、現在では甚だしい時代錯誤かも知れない。クリント・イーストウッドが70年代からこちら、アメリカの東海岸でそう呼ばれてきたように。だからbuyobuyoさんは照れておられるし、時にそれがパロディであることもわかっておられると思う。自分を茶化すことができる人なので。しかしそれは、思想信条においてガチでないことを意味しないし、男根主義と簡単に片付けてよいものでもない。


そもそも、相互的な自律に基づいた個人主義的な自由主義それ自体が時代遅れで、そしてそのことは世界の選択かも知れない。ただ私は、そのことには同意しない。ヒューストンやイーストウッドが映画と現実を股にかけて戦ってきた国家主義と小市民の排外主義は、現在形の日本の問題でもある。


だから、怒るべきと、誇りはねぇのかインポ野郎、とbuyobuyoさんは言っている。インポの疾病については言うまでもない。お約束でソンタグの名著を持ち出すこともできる。ただし、この文脈で使用される「インポ野郎」は性的な罵倒ではない。性的な表現であって、そのことは批判されるべき。つまり、性的な罵倒ではないものに性的な表現を使用することは。しかしそれは「buyobuyoさんの性的不能者に対する偏見とその無自覚さの現れなわけ」ではない。


私は「自由主義に対する個人の責任としての自律をgender概念において表象すること」それ自体を性差別的と退けることには、同意しない。「自由主義者のマッチョは綺麗なマッチョ」ではない。自由主義者のマッチョは――歴史的にも――良きマッチョとしてありうると言っている。私は、buyobuyoさんのスタンスに、ジョン・ヒューストンを、そして、まさに『アフリカの女王』撮影時のジョン・ヒューストンを自ら監督して演じたイーストウッドを見る――というのは言いすぎだろうか。「ヒューストンは左でイーストウッドは右」というような話ではもちろんない。


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というかですね。


自身の差別的言動を咎められた時に「ただの罵倒でしょ。ちょっと口が悪いだけじゃんw」とか言い訳するのって、無自覚な差別主義者の典型例だって気づいてます?


それに、自身の言動を“純粋な怒り”とか言う感情論で正当化しようとするのって、新風の連中が「我々は純粋に国を愛しているだけだ。」とか「差別ではない。犯罪に対する怒りだ。」とか言いながら自身のヘイトスピーチを正当化しようとするのと同じでしょ?「あいつらの方が悪いのに、何で俺(達)の態度を問題にするんだ!」という言い草も新風とそっくりですよね。


まさか、buyobuyoさんは彼らのこういう言い訳を容認したりしませんよね?そういう奴らに率先して罵声を浴びせてきた人なんですから。“純粋な怒り”と共にね。


僕は別に“buyobuyoは差別主義者だ!”なんて事を言いたいわけではありません。他の人も同じでしょう。ただ自身の不用意な(差別的)発言を咎められて、それを正面から受け取る事をせず、言い逃れや正当化、矮小化を図る貴方の行為を容認することはできない、と言っているのです。なぜならそれは、僕らが敵対すべきレイシストの行為を助長することに繋がるから。


buyobuyoさんの当該発言は批判に値するが、しかし「一連の対応」含めてそれがbuyobuyoさんが唾棄するところの差別主義者と同じことになっている、というのは妥当しません。そのことを説明するために、文脈、というか私が思う「buyobuyoさんが拠って立つところ」について記しました。


「同じことに見える」のはそうだろうし、「男らしい男」であるところのbuyobuyoさんは自らに対する誤解を解こうとはあまりしない人なので。ただ「同じことに見える」ことは必ずしも本人の問題ではないし、左翼ではない個人主義自由主義者は運動論とか顧慮しないし「正しいことを述べるときは自らの襟を正さないと他者に対する説得力がない」という考え方にも同意しない。


以前も「はてなサヨク」絡みで書いたけど「特定他者に対する攻撃的な言動の後でそれが傍から問題視されて「私の言動の正当性」を当事者以外に対して自ら説明、という流れは何度目ですかという話」ではある。そして「言動の正当性なんてのは自ら他に対して説明するものではない」。


いちおう書いておくけど、私がbuyobuyoさんを擁護する筋合はないし、別に擁護していない。批判に値する発言と思う。ただ「私が考えるところのbuyobuyoさん」について、批判を拝見して書いておきたいとは思った次第。文字通りの言論者としての「自己責任」にせよ、誤解されることは、その誤解が定着することは、少なくとも気持ちのよいことではない。「お前が言うな」と即座に言われそうではあるが。

buyobuyoさんは『あれ見て純粋な怒りをもてず、むしろあれ見て激昂している人の行儀のよさがむしろ気になるのは俺には頭おかしいと思える。』(なんかおかしいですね、この文章。“行儀の悪さ”の間違いですかね?)と言っていますが、完全にお門違いです。


記してきたような理由によって「お門違い」ではありません。少なくとも、buyobuyoさんが言っていることとその文脈は、同意不同意は別にして、私はわかるし「必死に自身の正当化と問題の矮小化を図ろうと」しているとも思わない。

この一連の対応でbuyobuyoさんが一体何を守ろうとしているのか(何を守れると思っているのか)、僕にはさっぱり分かりません。ただただ墓穴を掘り続けているようにしか思えないのですが・・・。


「この一連の対応で」buyobuyoさんが守ろうとしているものについて、指摘しておきたく思った次第です。もっとも、私はbuyobuyoさんではないのでこれもまた見当違いかも知れない。「私にはそう見えているしそう受け取っている」という話です。


ところで、私は自分ではあまりブックマーク使っていないのであれだが、ブコメ非表示機能って、みな使っているのか。「粘着」が幸いにしていないせいかも知れないが、私は、自分に向けられたものであれ他者に向けられたものであれ、ネット上の他人の言葉にそこまで直截な不快を覚えたことがない。むろん褒められたことではなく、困ったことに、在特会や維新政党のそれに対してもそうなので、そのような「不感症」の私もまた、性的な意味に限らずgender的な意味で「インポ野郎」ではあるだろう。「誇りはねぇのか、お前の脳ン中にはよ!」――か。立派であることは難しい。ボギーあんたの時代はよかった、男がピカピカの気障でいられた。


まぁ私は14歳の女子中学生なんですけどね。


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