我ら永遠の課題(mojimojiさんへの応答.その1)


流石に長くなったので応答を三分割しました。


共同性ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。

共同性は、民族性に基づいた共同性に限定してさえ、民族主義の専売特許ではありません。民族主義は多様な共同性の基盤を破壊するのと同時に、民族性に基づいた共同性さえ危機に晒します。


同意します。それは、民族主義原理主義だからですが。発端となった「在日」の方のエントリが内容において原理主義的であったか、ということです。

民族主義を否定することは、民族性に基づく共同性を否定しているのだし、ひいては民族性を否定している。──sk-44さんはそのように考えておられるようですが、僕は民族性に基づく共同性を否定していません。否定することになってもいません。


民族主義を退けることには同意します。で、共同性を擁護することと、共同性の政治化を批判することは違うと書きました。しかし政治は共同性を要求する。これこそ、歴史段階の問題ではなく、古代アテネ以来の原理的な問題です。そして、近代化ひいてはグローバリズムの過程における共同体の解体に伴って共同性が危機に瀕するとき、政治は国民統合のため自己言及としての共同性をでっちあげる。これが、ナショナリズムです。


共同性は、空間と時間に規定される。だから、国民国家は国民において共同性を涵養するべく空間と時間の連続性をでっちあげる。GHQもそれはわかっていたので、天皇は国民統合の象徴として日本国に引き継がれました。もちろん、それは国民国家の国民が望むことです。


象徴天皇が人身御供であるとして、民主主義者であるところの今上は「自発的に投企をされている」というのが現行憲法に照らしても、また実情としても、私たちの理解ですね。今上の意思の問題ではなく「徴のために人身御供を要求していること」が問題、とmojimojiさんは言われると思いますが、そもそも共同性とは、人身御供において徴が刻印されることです。


そして、人身御供に「自発的に投企する」ことが共同性のその意味です。それをしてmojimojiさんは民族主義と指し、批判するのでしょうが、私の考えでは、批判は妥当ですが、それは、共同性を批判することです。共同性とはそういうことだからです。それはそもそも――平成の皇室をめぐる議論が時にその様相を呈するように――グロテスクなものです。言うまでもなく、抑圧の装置であり、同化と排除そのものだからです。


当たり前ですが、伝統と血統はイコールではありません。イコールとするところにおいて、日本国民統合の象徴は機能し、国民の共同性を涵養している。同化と排除の論理において。その矛盾を帝王学として自覚しているのが、沖縄に関心を持ち続けた今上です。


そして、チマチョゴリは、単なる伝統としての民族衣装ではない。「在日」にとってのチマチョゴリを単なる民族衣装と捉えることこそ、文化収奪的な帝国主義の視線と思います。フランスにシラクが建てたケ・ブランリ美術館のように。


ケ・ブランリ美術館 - Wikipedia


文化が収奪されることは致し方ない――それがmojimojiさんの立場と理解しますが、そのことと植民地支配を批判することが両立するとは私には思えません。

同じ民族の徴において、共同性が立ち上げられる。同じ衣装を着ている。同じ言葉を話している。同じ踊りを踊る。そこで人がつながる。それは別にいいことですし、そのことを否定したことはありません。ただし、同じ衣装を着ていないなら、同じ言葉を話さないなら、同じ踊りを踊らないなら、共同性は立ち上げられない。だから、同じ衣装を着る「べき」、同じ言葉を話す「べき」、同じ踊りを踊る「べき」、そこまで言うのが「民族主義」ということです。それを僕は批判している。──はずなのですが、何度も何度もこの点は無視され、まぜっ返されてきました。そろそろいい加減にしてほしい。


いい加減にしてほしいも何も、少なくとも私にとっては、そのことが論点です。その点についてmojimojiさんの議論に対して異論を述べているので、mojimojiさんの主張を無視しているという話ではない。


共同性に基づく規範とは「べき」の問題で、そもそも同化と排除の論理です。望むと望まざるとにかかわらず。mojimojiさんは「生きられている現実」を最初の前提に置く立場から、共同体の規範性を批判している、と理解していましたが「「規範」には二通りの意味があります。僕はそのような意味で「規範」と言ったのではありません。」と仰る。その心は、良き規範と悪しき規範は区別されるべき、という話のようですが。形式を他者に押し付けるのが悪しき規範、というのはその通りです。

たとえば、在日の共同体において、「同じ衣装を着ている。同じ言葉を話している。同じ踊りを踊る」そういうことが徴として人をつなげることはあるでしょう。別にそれはかまわない。そこに、同じ衣装を着ているわけではない、同じ言葉を話すわけではない、同じ踊りを踊るわけではない誰かがやってきて、「私も在日だ」と言うときにどうするのか、ということです。その人が「在日だ」と言うことは、在日であることの悲哀を、その人もまた感じながら生きてきた、ということです。そのときにどうするのか。「衣装も言葉も他の何もかもが違っても、あなたも私たちと同じ苦難を生きている在日だ」と言うのでしょう。そのときに、共同性は再定義されているんです。衣装も言葉も踊りも、生きられている現実としての重要性はもちろんあっても、共同性を立ち上げるために必須なものとは違う。同じ衣装を着ているわけではない、同じ言葉を話すわけではない、同じ踊りを踊るわけではない誰かを共同性の内に迎え入れるということは、そういうことです。


残留孤児が帰国後に日本社会でどのように生きてきたか。mojimojiさんは御存知と思いますが、共同性とはそもそもそういうことなので別に述べておられるようなことによって「再定義されている」という話ではない。その背景には、戦争の歴史がある。そして戦争の歴史は、それを生きてきた人の老いと死と共に、忘却の彼方にある。同時に、そうした共同性は失われるのです。そしてどうなるか。共同性の再興を掲げて安倍政権が誕生します。


小泉八雲が日本人についぞなれなかった話のことは御存知ですか。現在ではそうではないかも知れない。しかしこのようなことは言えます。小泉八雲が「日本人」になれなかった時代において、共同性とは歴史とその記憶の問題であった。歴史とその記憶の問題として共同性がある以上、mojimojiさんが述べておられるようなことは、少なくともWW2以後は普通にあることなので(そしてその中にシオニズム運動も含まれる)、その意味では仰る通りです。


そして問題は、歴史とその記憶が忘却される中で、歴史とその記憶の忘却が、現代的な消費文明の産物としての市民社会の市民生活のその条件としてあるとき、共同性の涵養のために文化という規範的概念が「でっちあげられる」ということです。源氏物語千年紀、とかですね。その観点から話題の『日本語が亡びるとき』を読むととても面白いのですが、これもまた別の話です。


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で


だから、そもそも文化とは「べき」の問題であって、あれほど――西欧人の視線に基づく――「日本文化」を愛した八雲が日本人についぞなれなかったのは、明治日本とは共同性が文化の問題としてあるのではない時代だったからです。そしてそれは、つい最近まで続きました。過去形です。結果どうなったか。mojimojiさんが言われるような「再定義」がむしろかなわなくなりました。


だから、共同性の涵養が政治課題として絶叫される。いわゆるバックラッシュも、前記エントリで言及したような極右の台頭も、その類です。それが――大雑把な話であることは認めますが――原理主義です。


ところで――mojimojiさんは、シオニズムに批判的ですよね。つまり、そういうことです。


歴史とその記憶の問題として共同性がある以上、そしてそれが人身御供において、言い換えるなら、不正と暴力において徴が刻印されることである以上、そもそも共同性とは同化と排除の論理です。


そのような共同性に対してmojimojiさんは批判的と私は考えていましたが――そうではなく、同化と排除の論理としての民族主義の問題と、mojimojiさんは仰る。私の見解では、そもそも共同性が同化と排除の論理です。そのうえで、共同性を擁護することを私は主張しています。


それは人身御供の肯定かと問われるなら、こうお答えします。共同性とは不正と暴力の産物としてある人身御供を私たちが追悼することです、と。以前にエントリを書きましたが、加藤典洋が論じたのはそういうことでした。


そして、共同性は不正と暴力の産物としてある人身御供を再生産する装置として――人類始まって以来――機能し続けている。(ハイデガーと少なからぬ縁あった)アレントが論じたように、政治が共同性を要求する以上、この原理的問題は、ノーマン・ロックウェルの著名なイラストのタイトルを借りるなら『我ら永遠の課題』です。


the problem we all live with - Google 検索


mojimojiさんはそのような共同性をこそ批判していたのではないのですか。山本七平キリスト者として生涯を貫いて批判したのも、そのような共同性です。私はそのようなものとしてある共同性を擁護しますが、それが不正と暴力の産物としてある人身御供を再生産する装置であってはならない、と同時に思います。


しかし、不正と暴力の産物としてある人身御供を私たちが記憶する営為としての共同性を擁護することと、共同性が不正と暴力の産物としてある人身御供を再生産し、ひいては生贄を求めることを批判することを、同時に行うことは、論理的にも困難です。


なぜなら、共同性が空間と時間に規定される以上、それは連続性を前提するからです。過去の人身御供を記憶することは、同時に未来の人身御供を求めることとしてある。そうして、共同体の共同性は維持され、ひいては国体は護持される。国体の連続性と同義としてある共同体の連続性が必然として人身御供を求め続ける限り、切断を企図することは「正しいこと」です。この人身御供とは、象徴天皇に限られた話ではない。天皇家はその象徴としてあるので、父の母の、ひいては「じっちゃん」のことです。


ちなみに、その点では靖国神社はまったく役立たずで、アジアの軍属は祀り続けて殉職自衛官は祀らないそうです。共同性の空間と時間を大日本帝国に限定して21世紀における国体の連続性を顧慮しない、と。1945年で時間の止まった、大日本帝国を記憶するための施設と考えればそれはそれで結構なことなのですが。大日本帝国との連続性を、かくて現在の日本は失っている。


未来に対して連続性を切断することは、過去の連続性を切断することです。連続性を切断するとはそういうことです。そして、生命の連続性と、生命の連続性を担保する愛の連続性こそ、有史以来の人類の共同性の根源としてあり、政がそのことにおいて為されてきたことを、母の問題としてある共同性の問題として、歓待の論理を掲げる者は批判しました。――日本においては事情は些か相違しますが。


そして、不正と暴力の産物としてある人柱をその連続性の場所に捧げ返すことが今なお政治であり、それは歴史段階以前の原理的な問題としてある。ヒトラーは、生命の連続性が、愛の連続性によって担保されるとはまったく考えませんでした。生命の連続性を民族の存続の問題として直截に政治化しひいては科学化したのが彼の「生存圏」という発想に基づく国家社会主義でした。そのような発想をこそアレントは批判して、しかし共同性の根源としてある血の紐帯を、政治が要求し政治において動員されるそれを、苛烈なイスラエル批判者でもあった彼女は退けたわけではなかった。


共同性の根源としてある生命の連続性と血の紐帯をこそmojimojiさんは切断すべく一連の主張を展開している、と私は理解していましたが。mojimojiさんが政治の話をされないのは、それが生命の連続性において起動するから――そう考えていました。mojimojiさんの民族主義批判を、そう私は理解しています。生命の連続性を、血の紐帯として解くべきではない、と。血の紐帯とは、まさに母の臍の緒そのものです。


私としては、そのようなmojimojiさんの立場は、BIと親和的な考え方と思います。そして、そのような立場において、文化を論じておられることがわからない。共同性を育む文化とは、空間と時間の連続性の問題で、それが近代化と帝国主義グローバリズムにおいて成り立たなくなっている、という話を、私はディーコンを引いて述べています。


日本のオタク文化に存在する「戦後」という空間と時間の連続性について、歴史を参照してその育んできた共同性に及んで村上隆氏は述べました。欧米人の文化収奪的な帝国主義の視線に対して、です。「愛国者」と言うなら、私は村上隆こそ愛国者と思うので、以前『嫌オタク流』という本で主張されていた村上隆批判を目にしたとき、呆れた。「原爆投下をアメリカに対して肯定してみせる村上隆は日本の右翼に刺されるべき」とそういうことを言っていた人がいたので。現都知事を批判しているような人ですが、民族主義的煽動とはこういうのを言います。


日本のオタク文化に存在する空間と時間の連続性を「戦前」から論じて村上氏の立論の対米迎合性を指摘する論者は大塚英志氏はじめ多くあります。批判とはそういうものです。脱線失礼。


リトルボーイ―爆発する日本のサブカルチャー・アート

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血の紐帯の困難に対する、生命の連続性の代替物として、文化はあります。連続性において、自分の思想が残れば子孫は要らない、と妻に中絶させてそのことを公言していた作家もいましたが。確かに、作品は残ったし、残るべき文学ではありますが。


もちろん、以上はグロテスクな光景です。そのグロテスクさこそ、共同性の、文化ということの、つまりそのような規範的概念の、意味なので、そうした一切を退けて「生きられている現実」を肯定している、と私はmojimojiさんの主張を理解していましたが。こうして言語化すれば一目瞭然なように、そもそも共同性や文化とはグロテスクです。


人柱の再生産としてある連続性を未来に対して切断するためにこそ、過去の連続性を「余分」として切断している、と私は思っていました。「個人に依拠する」=「「私が在る」に依拠する」とはそういうことです。理路として正しいと思います。


私としては、人柱の再生産としてある連続性を未来に対して切断することと、過去の連続性を退けず、過去の人身御供を、ひいては不正と暴力を、血の紐帯としての政治へと捧げ返すことなく悼むことは両立しうると考えています。じっちゃんの過ちを指摘することと不正と暴力の産物としてある人柱を私たちが追悼することは両立します。そうではない、と述べた人もいますが。


迫害の歴史とホロコーストシオニズム運動と中東戦争と現在のガザ侵攻は、紆余曲折あれども直線上にある、とmojimojiさんは考えていると思っていました。そして、だからこそ、第一に国家が問われる――民族主義でなく。ガザ侵攻におけるイスラエルの問題とは、シオニズムの問題ではなく、徹頭徹尾国家の問題です。そしてパレスチナ国家を現在のイスラエルが認めないことの問題です。


国体の連続性と同義としてある共同体の連続性が人身御供を求める。自ら悼み祀り生命の連続性の場所へと捧げ返し血の紐帯として政治を起動させるために。そして、その営為から「在日」が遺棄されている――そのことが問題です。他人のディアスポラを言祝ぐのは、祖国に抱かれている者の手前勝手です。もちろん、沖縄が祖国に抱かれたことがあったか、そのことは問われ続けるべきです。


空間と時間に規定される共同性は、現在形の血の紐帯の問題ではありません。沖縄には、確かにそのような意味での文化が存在します。そして、共同性を、現在形の血の紐帯として定義するのが、政治であり、国家であり、戦争とその記憶であり、あるいは、国家に対する民族主義です。そのような「再定義」こそ、民族主義とmojimojiさんの理路においては指されるでしょう。


国体とは、文化なきとき、つまり三島由紀夫が言ったような文化的天皇なきとき、現在形の血の紐帯でしかなく、よって血を求め、結果的にせよ生贄を求めます。つまり、それがイスラエルということなので、そもそも論としてエルサレム賞の存在は、歴代受賞者に照らしても結構なことではないか、というのが私の見解です。

徴という規範性を求めることそれ自体を「余分」とはしていません。共同性という規範的概念それ自体を退けてはいません*1。「自身のルーツを求めることを現代の政治課題とすることを退けて」もいない。ただ、求めても求めなくてもいいものとして、別の課題を優先することもアリだと認めうるものとして、あるべきだ、と言っている。


つまり、民族性に基づく共同性と民族主義は別の話です。そして、民族主義が共同性を立ち上げることを問題だと述べたことはありません。共同性を立ち上げるとき、同時に排除の論理を持ち込むから問題なのだ、と最初から述べています。そして、排除の論理は余分です。民族性に基づく共同性と排除の論理*2を結合させる思想──民族主義──は余分です。sk-44さんの議論の大半はその区別がつかないことを前提にしていますが、その前提は成り立ちません。僕としては、何度も示唆してきたつもりのことです。


文化が規範的概念であるというのは、二つの意味が込められているでしょう。一つは、文化がある形式である以上、○○文化とはこういうもの、という意味は当然含みます。これを問題にしているのではないのは、繰り返し書いてきたことから明らかだと思いますが、わざわざ書いておくことにします。もう一つ、つまり、僕が批判している意味での規範性とは、そうである「べき」とまで言ってしまうことを指しています。具体的なある人に対して、ある模範的な形式を身につけるべき。というような。sk-44さんが、民族性に基づく共同性と民族主義を区別できないのは、形式としての規範性と、「形式としての規範性」を模範として同化と排除を駆動させていく規範性を区別できていないからでしょう。僕は後者を批判しています。そのことは、一番最初から示しています。


ということで、こうしたmojimojiさんの見解には私としては同意できません。「ただ、求めても求めなくてもいいものとして、別の課題を優先することもアリだと認めうるものとして、あるべきだ、と言っている。」ということは了解しますし同意です。


「民族性に基づく共同性と民族主義は別の話」とのことですが、この場合、前者は同化と排除の論理と無縁、ということですよね。民族性に基づく共同性とは、同化と排除の論理そのものですよ。望むと望まざるとにかかわらず。「その前提は成り立ちません」とのことですが、また「何度も示唆してきた」ことは承知ですが、成り立つと私は考えます。他者への規範の強制はよろしくない、などということはもちろん前提なのですが、そのような話をしていたのですか。


「形式としての規範性」を規範として同化と排除を駆動させていく規範性とは、私の言葉では、政治化された共同性のことです。そして、共同性が政治概念としてしか指し示しえなくなった世界における、政治概念としてある共同性の問題と、生命の連続性が駆動させる政の厄介について述べていたつもりだったので、「区別できていないから」という言葉に些か困惑しています。


「形式としての規範性」と仰りますが、「形式としての規範性」は人身御供を要求するし、必然として同化と排除を駆動させます。人間が、いや女性が子を産み育て、男性が父としてあることは、その過程において成立する家族は「自然」でもなんでもないからです。生命の連続性は、人間において必然として規範を形成し、同化と排除を駆動させる。それが、共同性の基礎にあることです。ケ・ブランリにはレヴィ=ストロース館が落成したそうですが。


食卓作法の起源 (神話論理 3)

食卓作法の起源 (神話論理 3)


批判ということではまったくないのですが――前記エントリで言及した極右について、gkmondさんが日の丸や天皇や「日本」に触れて「何かを好きであることを証明するのに、何かを嫌う必要なんてないんだ。」と述べておられました。それはその通りなのですが、しかし、そのような簡単な話ではない。


私が象徴天皇についてあまり言及しないのは、「国民」としての「日本人」が日本語圏で天皇について言及することそれ自体が同化と排除を駆動させるからです。そのことに問題意識を持ち合わせるからです。考えすぎ、と仰いますか。しかし、皇室への敬愛を日本語圏で公言する多くの人は、そのことが同化と排除を駆動させることを、微塵も考えない。つまり、それが「マジョリティの無自覚」ということです。


たとえば靖国神社とは、そのような同化と排除の装置そのものです。それはナショナリズムの問題であり、ひいては民族主義の問題である、とmojimojiさんは言うでしょうか。違います。ナショナリズム民族主義はもちろん違うのですが、それ以前の問題として、違います。国体ではなくなった象徴天皇とは、民族性に基づく共同性そのものです。そして結局は、民族性に基づく共同性が国体を指し示していること、戦前と変わりはしない。


「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」などというのは、少なくとも国体と同義の日本共同体の連続性を空間と時間において規定する場所では――つまり国内に留まらずかつて大日本帝国と縁あった現在の諸外国では――通る話ではありません。「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」ことが、同化と排除を駆動させることを、mojimojiさんは知っているはずです。同化と排除の駆動に気が付かないことが「マジョリティの無自覚」のその意味であり、その「気が付かない」無自覚こそが「同化と排除の論理」そのものなのです。――釈迦に説法と思っていました。


「何かを好きであることを証明するのに、何かを嫌う必要なんてないんだ。」は承知です。では「何かを好きであることを証明する」ことが、何かを排除し誰かに対して同化を迫っていることであったなら。そのことに気が付かず、ただ「何かを好きであることを証明する」ことと思って、公共の空間で日の丸を振っていたら? それが、マジョリティの、マジョリティであるがゆえの無自覚です。マイノリティが「自覚」せざるをえないことです。政治とは、そのことです。無徴に対して、徴のもとに結集することの、その意味です。


チマチョゴリを好きであることを証明するのに、何かを嫌う必要なんてないんだ」とmojimojiさんが言っておられるなら、それはその通りですが、そもそもそういう話ではない、ということです。事は政治の問題です。


mojimojiさんが直接に「余分」と指摘した人が、天皇の金婚式報道に対してエントリを掲示していました。私は先帝と今上に対して「国民」として「日本人」として思うことがあります。もちろんそれは「何かを好きであることを証明する」ことであるはずがない。そのような、軽い話ではない。


私がわからないのは――mojimojiさんにとって擁護さるべき「民族性に基づく共同性」とは「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」ことを指すのですか。それが「マジョリティの無自覚」という話と思いますが。「ただ日の丸が好きで日の丸を振っている」などという話があろうはずがない。それは通らない。


それはナショナリズムの問題か。違います。民族性に基づく共同性に対する自発的な投企の様相としてあります。もちろん、それは幻想ですが。「無自覚」のままに、マジョリティの共同性に対する自発的な投企がナショナリズムと接続されることが、その無自覚としての同化と排除の論理が、この日本の問題である、ということです。愛国心とは自発性の問題なので、愛国心と意識されない愛国心を――つまりナショナリズムを――民族性に基づく共同性において駆動させるべく象徴天皇は機能している。


人身御供を要求するわけでもなし――「ただ日の丸が好きで」日の丸を振ることは、mojimojiさんにとっては擁護さるべき行為ですか。「ただ日の丸が好きで」日の丸を振る「国民」としての「日本人」の姿に、そのマジョリティとしての無自覚に、歴史とその記憶を喚起される人たちがあるとき。そしてそのことの政治的な問題は現在形としてあるとき。植民地支配の時代から、「ただ日の丸が好きで」日の丸を振る「国民」としての「日本人」が、それ自体で同化と排除を駆動させています。それともそれは、マイノリティの側の同化と排除の論理としての民族主義でしょうか。斎藤憐ならそう言うでしょう。


私たちは、自身の存在が政治的であることと無縁ではいられません。そして、それは過去の問題ではありません。だから自重すべき、という話ではもちろんありません。自身の存在が現在形において政治的であることを、言行に際して自覚せよ、ということです(――これも、釈迦に説法と思うのですが)。「呪われた生などない」は、私たちが「現存在」として負っている政治性を「実存」において白紙に差し戻します。サルトルと言ったのは、そういうことです。私の理解が大掴みであることは事実ですが。


不正と暴力の再生産を拒否し、不正と暴力の再生産に対する無自覚を拒否することと、私たちが「現存在」として負っている政治性を白紙に差し戻さないことは、両立します。「呪われた生」を呪われた生として肯定することと、呪われた生の再生産を拒否することは、両立します。私において両立させています、とは言いませんが。承認とは、呪われた生を呪われた生として肯定することであって「呪われた生などない」と言い切ることではない。