博愛という綱領(mojimojiさんへの応答.その2)


承前⇒共同性ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。

別様にも言いましょう。問題は共同性それ自体ではなく、民族性に基づく共同性を特権化することです。また、同胞愛それ自体も問題ではありません。同胞愛の論理で博愛の論理を否定するのが問題なのです。完全なる共同性の観念があるからこそ、私たちは民族性により共同性を特権化することなく、「必要なときには」、民族性によらない共同性をその都度立ち上げることができます。博愛の観念があるからこそ、同胞愛を特権化することなく、「必要なときには」同胞の範囲を広げたり、同胞ではない人のことを思いやったりすることができます。


むしろ、博愛は、同胞愛の基礎にもなります。「別の誰かにとって特別な誰かに対する愛」の方から遡って、「私にとって特別な誰かに対する愛」を知ることもできるのですから。私にとって特別な誰かに対する愛(同胞愛)を知るから、別の誰かにとって特別な誰かに対する愛(別の誰かにおける同胞愛)を知ることができます。「私にとって」と「別の誰かにとって」を媒介するのが普遍性ということであり、それを等しく扱う視点を理解することが「博愛」ということです。──博愛は、理解の問題であり、愛の問題ではありません。博愛は、神の愛であり、人間の愛ではないのですから。人間にとっては、それを視点として使えればよい、つまり理解があればよいのであって、神のように愛する必要はありません。


ゆえに、同胞愛と博愛を殊更に対立させる発想は、そもそも成り立ちません。成り立たないだけでなく、その前提を取ることにより、同胞愛を博愛から絶縁されたものにしている。それは同胞愛の基礎を破壊することです。シオニズムがやっていることと同じように。


「完全なる共同性の観念」とは、空間と時間に規定されない共同性のことですか。ありうるでしょう。宗教性の問題として。ところで、有史以来人類の共同性の基礎としてある生命の連続性の観念は、博愛ではありません。それを不完全とmojimojiさんが指すなら、「殊更に」ではないにせよ同胞愛と博愛は対立しうるということです。同胞愛の基礎にあるのは、生命の連続性と、その現在形としてある血の紐帯です。


博愛が理解の問題であることには同意します。多少なり物を考える人間なら「理解」には至りうることでしょう。そして、mojimojiさんは一貫して理解のレベルで話しておられる、ということを言っているのですが。むろん構いませんが「余分」とは「mojimojiさんの理解において余分」という話ですね、ということです。


民族性に基づく共同性の特権化が問題とmojimojiさんは仰る。繰り返しますが「ただ日の丸が好きで」日の丸を振る「国民」としての「日本人」は、民族性に基づく共同性を特権化していますか。そのことに対して同化と排除の論理を指摘するマイノリティとしての「在日」は、民族性に基づく共同性を特権化しているのですか。問題の要点は、ここにあります。


「ただ日本が好きで」日の丸を振るマジョリティとしての「日本人」は、自身の共同性を、たとえば「大和民族」とは認識していません。そしてそのことに対して同化と排除の論理を指摘するマイノリティとしての「在日」は、自身の共同性を「朝鮮人」とは認識していません。「朝鮮人になりたい」とはそういうことです。


つまり、民族性に基づく共同性はそもそも植民地支配から連続する現在形の政治力学において衆寡として規定されている。そのことから切り離して、民族性に基づく共同性を擁護することはできない――批判することはできても――ということです。佐藤亜紀氏が適切に指摘した通り、私たちはそもそも最初から混血なのだから。


別様にも言いましょう。民族性に基づく共同性は、植民地支配から連続する政治力学において現在形として規定されている以上、現在形の政治概念としての意味を持つ。そのことは拭い去ることができない。というより、拭い去ることこそ、中国政府がチベットに対して現在絶賛実行中のethnic cleansingであり、同化政策そのものです。現在形の政治概念としての意味を持つから、政治化された共同性としての民族主義とは必ずしも切り離しえない。この「政治」とは、シュミットが言うところの敵対性としてのそれです。


擁護さるべき共同性は、敵対性を覆い隠し市民社会の広義の同胞愛へと馴致します。批判さるべき民族主義とは、可視化された政治において敵対性を明らかにすることです。もちろんそれは、国民国家によるそれとは別の、同化と排除の論理を含みます。いずれにしても、グロテスクな話です。


グロテスクなのは、民族性に基づく共同性が、植民地支配から連続する現在形の政治力学において、現在形の政治概念として規定されているからです。マジョリティとマイノリティとは、そういう話であって、ゆえに無自覚と自覚が問われるので、単なる衆寡の問題ではありません。政治的な敵対性における決定的なファクターとしての衆寡の話です――ルワンダのような。「ツチ族」「フツ族」という区別は植民地支配の産物でした。そのことが、虐殺を引き起こした。


繰り返しますが、植民地支配批判は、過去の話ではありません。植民地支配から連続する政治力学が現在形の問題であるとき、つまり過去の「出生の因果」の問題ではないとき、それでもmojimojiさんは民族主義を「余分」と退けますか。つまり、そのように問題を立てたことがmojimojiさんはありますか。


不正と暴力の産物としての「出生の因果」と現在形の「私が在る」は、切り離しうるものではありません。現在形の「私が在る」は現在形の政治問題であり、現在形の不正と暴力だからです。そのことは「出生の因果」と連関しますが「出生の因果」に一切が規定されはしない。


「出生の因果」における不正と暴力を批判し「出生の因果」と切り離して現在形の「私が在る」を肯定することは、現在形の「私が在る」に伴う政治問題としての不正と暴力を、事実上退けている。mojimojiさんが直接に「余分」と指摘した人は現在形の「私が在る」の話を、それに伴う政治問題としての不正と暴力の話を、述べていると思います。一貫して。


要するに「切り離しうる」として「区別できる」と再三述べておられるmojimojiさんの論理はアクロバティックと私は再三述べています。現在形の「私が在る」に伴う政治問題としての不正と暴力に対しても、民族主義の芽が窺える限り、過ちは指摘する、ということなら、それは見識です。


民族性に基づく共同性の特権化は、そもそも当事者の自覚の問題ではない。しかし自覚なくしてそのことと向かい合うこともできない――「現存在」としてある自身の政治性を自覚しないことには。投企を前提に、そのことを「実存」において白紙に差し戻しているように、私にはmojimojiさんの議論は映る、ということです。それも見識です。ただ私とはスタンスが違う。


自覚/無自覚を問うことなくあらゆる共同性の特権化を最低限綱領に抵触するものとして批判することは、現在形の政治問題、つまり政治的な敵対性における決定的なファクターとしてある衆寡に対する目隠しを意図するものでしかない。私はそう考えます。



ホテル・ルワンダ』においてドン・チードル演じる主人公のポール・ルセサバギナは、植民地支配に迎合的だった自身の非政治性と民族的無自覚について、虐殺が始まってようやく思い至る。そのうえでなお彼は、植民地支配が推し進めた近代化のもとで自らが学び育んだ白人ブルジョワの価値観に基づいて行動する。あれは「君たちは隣人を多数派の暴力から守れるか」とか、そういう単純な話ではない。そして、関東大震災の際に殺されたのは、当然、少数派としての朝鮮人でした。

親に祝福されなかった子どもばかりを集めて一つところにまとめておくと、しばしば、そういう子どもたちの間での暴力が発生します。自らの欠落感を補うために他者を下位に置いて支配しようとする。と説明すればできるでしょう。しかし、そのようなやり方で欠落感を補おうとはしない子も、います。このような状況を肯定することは、「親に祝福されなかった子供」の一部のために、別の子供を生贄として与えるに等しい。それこそ「親に祝福された子供の手前勝手」な理屈と思います。ヤンクミじゃあるまいし。それを承知で「仕方ない」と思っているのなら「処置なし」というところです。


親に祝福されようとされまいと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっています。放置されるべきことでもありません。その欠落をいかに贖うかとは無関係に、それはまちがっています。そう断言するところから考え始めるしかないことです。今のsk-44さんの主張を正当化するためには、埋められない欠落があることを言うだけでは足りません。そうして他者を踏みつけにすること「だけが」欠落感を補う、"if and only if"の意味で主張するのでなければ足りません。まぁ、そのように主張することは、「踏みつけにされる側は必要な生贄です」と言うに等しいのですが。


言うまでもなく、社会的背景を問題にすることは必要です。しかし、そのことと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっていると述べることは両立します。述べることだけではありません。実際問題として、暴力の現場に介入して、ふるわれている暴力を止めることとも両立します。暴力を止めることは、欠落感を贖うことになるわけではありません。そんなことと関係なく、暴力を止めるよう、試みられます。止めることができたにせよできなかったにせよ、そこでふるわれた暴力はまちがっていますし、それが欠落感を贖おうと贖うまいと、止めることは正しいです。──ここで「止めることは正しい」と言い切れない人は、生贄を肯定しているのだということを、わかりやすくどこかに明言しておいてください。「そういう人だ」ということにしておきますので。


もう一つ。他者を支配し抑圧したことの一切は、他者を支配も抑圧もしない人間になりたいと願い始めたとき、重荷になります。当たり前です。ですから、他者を支配することで欠落感を補おうとしている、平たく言えば、その子はそれを「望んで」やっているのでしょうが、それは、その子がそれを「望まなくなる」ときの重荷をどんどん積み上げていっているわけです。業を深めている、ということです。それは、その人自身のためにこそ、止められねばなりません。*3


「親に祝福されようとされまいと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことはまちがっています。」間違っていますよ。他者危害は間違っているし、その再生産も間違っているし、不正と暴力は間違っているし、その再生産も間違っていますよ。「そう断言するところから考え始めるしかないこと」です。


私が言っているのは、親に祝福されなかった子供が他者を踏みつけにすることは致し方ない、という話ではない。親に祝福されなかった子供に承認を贖うことがその子において他者を踏みつけにさせる構造を、またそのことで計上される社会的/政治的/経済的な利益の存在を、実際的な話において前提せざるをえない、ということです。


日本に限りませんが、やくざの身贔屓と縦社会は、典型的にこの構図です。親に祝福されなかった子供において「家」という居場所を与えることは、その居場所のためなら、その居場所を守るためなら、何だってやるという結論を容易に導き出します。だから「家族」には掟と序列がある。――「親分のためなら」。


塩野七生氏だったか、数年前のことですが、パレスチナ問題について「かくも紛争がやまないのは紛争の当事者双方に、紛争がやむと困る者がいるということだ。」と述べていました。イスラエルパレスチナについて「どっちもどっち」と言っているのではない。シニシズムに陥っているのでもない。塩野氏は「その者を排除すべく国際社会がコミットしないことには」と書いていました。


で、排除することは結構なのですが、排除して誰が「家族」のために他者を踏みつけにしてきた者の承認を贖うのか。血の紐帯としてある現在形の共同性においては、家族とは祖国です。もちろん、それでも排除すべきです。それこそ典型的な動員の構図なのだから。止めることは正しい。


ただ「──ここで「止めることは正しい」と言い切れない人は、生贄を肯定しているのだということを、わかりやすくどこかに明言しておいてください。「そういう人だ」ということにしておきますので。」と書くmojimojiさんは、何をどう考えてこういうことを書いておられるのか、とは思います。


私が書いてきたようなことが、結局は不正と暴力の再生産を、他者危害の再生産を、もたらしている、ということなら、それはその通りです。私はそれを生命の連続性を基礎とする共同性の問題と考えますが、つまり、それでもなお共同性を擁護するということと、その困難について述べているのですが、mojimojiさんにおいてはそれは民族主義の問題ということになりますか。


共同性は、そもそも同化と排除を駆動させる不正と暴力の温床としてもあります。繰り返しますが、止めることは正しいです。そして、止めることもまた、共同性の機能としてありうるので、共同性を切り捨てることはできない。止めることが共同性の機能としてありうることと、止めることが正しいことは、別の話ですが。

つまり、親に祝福されなかった子供の欠落に対する無自覚があるなら、同様に、その欠落を埋めるための生贄にされる子供たちに対する無自覚があるし、生贄を求めることの業に対する無自覚さがあります。どの無自覚をお好みですか?という話ではない。全部根こそぎ拒否するしかない、ということです。親に祝福されなかった子のことを考えるとは、それゆえに立ち上がれない子のことだけでなく、それでも立ち上がろうとする子も含めて考えるべきことです。


全体最適部分最適という概念がありまして、一方が一方を蔑ろにすることは端的に非効率と思います。当たり前ですが「部分最適において生贄が必要」という話ではない。私は部分最適を個別的な承認の問題と考えますが、つまり人の愛の問題と考えますが、神の愛ではない全体最適の議論は、それもべき論としてのそれは、最低限綱領の確認と考えます。


最低限綱領の確認は必要です。「呪われた生などない」「止めることは正しい」「親に祝福されようとされまいと、他者を支配して踏みつけにすることで自らの欠落感を補うことは間違っている」。mojimojiさんの議論とは、最低限綱領の確認ですか。もちろんそれは必要です。そのために論理のアクロバットや強弁は必要かということです。「効率の問題ではない」ならこう言います「綱領の問題ではない」少なくとも、承認と共同性の問題においては。


他者危害の再生産を止める「べき」――それは最低限綱領です。そのことの確認は必要です。シニシズムに陥らないためにも。その最低限綱領の場所から、承認と共同性の問題を解くとき、難所にぶち当たるという話です。論理においても現実にも。mojimojiさんは論理においては難所ではないと述べておられる。それは、民族性と民族主義が区別されるなら、クリアな話でしょう。


最低限綱領でさえないそもそも論に、近代化以来、帝国主義グローバリズムを経た現在の状況という変数を加えたとき、クリアな解は出ない。私は煎じ詰めればそのことを言っている。そうではない、とmojimojiさんは仰っているのでしょうが、最低限綱領の場所からそのことを言っているなら、その綱領には同意します、としか私が言えることはない。

「受け継ごうその想い」云々も、好きにしたらいいと思います。ただし、たとえば親から虐待された子が、もうその親とは関わりあいたくない、というときに、「どんな親でも親なんだから、ちゃんと子どもとしてやるべきことはやらなければならない」などと言い出すなら(世間では頻繁に言われている)、それも余分です。受け継ぎたいなら、受け継いだらいいじゃないですか。受け継ぐようなものがないとして、それを引け目に感じなければならないようなことを言い出すからおかしな話になるんです。それこそ「親に祝福された子供の手前勝手」というものでしょう。


「好きにしたらいいと思います。」ええ、批判も好きにしたらいいと思います。親に祝福された子供と、親に祝福されなかった子供は、衆寡において敵しませんが。これは、政治をめぐる問題です。で、mojimojiさんが述べておられるのは最低限綱領の確認ですか。


衆寡が敵しないとき、政治とは、綱領の問題ではありません。だから綱領を蔑ろにしてよい、ということではない。むしろ綱領に立ち返るべきです。綱領とは衆寡が敵しないときのためにこそあるのだから。ただしそのことは逆立している。逆立の理由は、共同性が綱領よりはるかに強いからです。ことに神のいないこの日本では。山本七平が生涯批判し続けたことです。


SMAPの曲はお気に召さなかったようですが、「大国の英雄や戦火の少女 それぞれ重さの同じ尊ぶべき命だから」これは、まさにmojimojiさんが言っておられることです。そして、その世界観においては政治が存在しない。イラクの戦渦に巻き込まれた少女と、ジョージ・W・ブッシュ。両者の「命」は、等価のものとして尊ぶべき――とそういうことをmojimojiさんは常に言っておられます。「留保のない生の肯定」において。掛け値なしに見識と思います。ただ、その場所には、政治がない。


イラクの少女とブッシュのその「命」は、政治的に等価ではない。そのことは正誤のレベルで誤りか。そうではない、というのが私の見解です。だからこそ、等価ではないことを政治的な場所から批判しうる。紅白歌合戦の大トリとして歌われたSMAPの曲のその世界観には、あるいは当然のことながら、政治が存在しない。そして、それは、共同性が綱領を代理する世界観です。綱領の代理としてありうる共同性を、民族主義ではない民族性に基づく共同性として、mojimojiさんは擁護しておられるように、私には映ります。


先のエントリと逆のことを言っていると思われるかも知れませんが、私は同じことの別の側面について述べています。「問題はリアルで重層的で複雑」とはそういうことです。是非を言うにも様々な角度から吟味しなければならない程度には。最低限綱領の問題として是非を問うなら、それはクリアでしょう。私も是非を言えます――最低限綱領のレベルでは。こういうスタンスをシニシズムと仰るなら、「そういう人だ」ということに、私もmojimojiさんをしておきます。

承認についてどう考えるか。人が人に対してする承認とは、承認することもしないこともできる存在が承認するところに意味があります。だから、第一に、財のように分配することができません。つまり、保障できません。第二に、今は承認されているとしても、その承認が途切れることがあります。だから、人は悪あがきをする。その意味で、他者からの承認を求める限り、不可避的にこぼれ落ちる人がおり、根源的に不安定なものでしかありません。「そこに依拠するしかない」という諦念は、人と人が殺し合う現実に対する諦念を即座に意味するでしょう。そんなものには乗れません。


ニッコリほほえんで抱きしめてくれる、みたいな、戯画化された「神様」の話なら、不可知論に立つまでもなく「いるわけない」と断じます。その程度の意味での無神論云々という議論には、そもそも最初から興味関心がありません。そんなこととは関係なく、私たちが殺し合わないための、ともに生きる条件たる観念は何かと考えるなら、人が人に対して与える承認に存在の基盤を置いてはならない、ということは導かれると思います。


人が人に与える承認が重要ではない、という意味ではありません。そうではなく、そこに存在の基盤を置かないからこそ、獲得することも失うこともできる重要なものとして扱うことができる、という意味です。別の場所に基盤が置かれるとき、それを神と呼ぼうが何と呼ぼうが、僕の知ったことではありません。無神論に立とうが立つまいが、宗教性は問題であり続けています。


「神は死んだ」──その後は、こう続くようです。「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?」*4。文字通りにとるのは素朴過ぎるように思います。死んだ「まま」とはどういうことでしょうか?「我々自身が神々にならなければならない」とはどういうことでしょうか?


「まま」とは、「まま」ではないことがありうることを示唆しています。我々が神々になれないのであれば、神を「死んだまま」にしておけない、とも読めます。そして「神」とはそもそも何か。──これ以上は、やめておきましょう。いずれにせよ、現実を構想することと、その困難を想うことは別の話です。


仰られていることには同意します。「最低限綱領」と私は皮肉で書いているのではなく「現実を構想すること」を指しています。「その困難」に依拠して構想された現実について批判しているのでもありません。ただ、最低限綱領を具体的な承認の問題について当事者に対して提示することには乗れない、ということです。mojimojiさんが言っておられるような宗教性については私も問題としています。そして、私とmojimojiさんの「無神論」は相違するようです。


私の無神論とは、現実を構想するとき、承認と別の場所に基盤を措くことを諦めることです。そのことが、人と人が殺し合う現実に対する諦念を即座に意味するか。いいえ。「いいえ」という場所から、私は現実を構想しています。だから、私は原理的には死刑廃止論ですが、共同性に依拠する日本の市民社会死刑存置を首肯することを、否定しません。倫理とは、必ずしも綱領の問題ではないからです。


擁護すべき共同性は、同時に死刑存置を首肯する共同性です。これは、民族主義の問題ではありません。いや、そうではない、共同性の特権化の問題とmojimojiさんは仰るでしょうか。


『「子供が産まれて感動した」「おめでとう!」…がどんだけの男女を無気力にさせているか少しは考えろ』というエントリを掲示して大々的な顰蹙を買った人がいました。生命の連続性という、共同性の基礎をその人は批判しました。私は当時、現在よりずっと共同性クソクラエだったので、色々書いたことを記憶しています。


生命の連続性という共同性の基礎が、もっとも深刻な同化と排除を駆動させていることについて、その人は指摘しました。生命の連続性という共同性の基礎から排除されている存在として、親に祝福されなかった子があり、たとえば死刑囚があります。


そのような存在を擁護するためには、生命の連続性という共同性の基礎に依拠してはならない。mojimojiさんが仰る宗教性とは、存在の基盤とは、そういうことでしょう。それをカントに従って超越論と指したものか、わかりかねますが。


生命の連続性という共同性の基礎が排除する存在があります。それでもなお、共同性の馴致の機能において、敵対性を覆い隠しまがりなりにも市民合意のフィクションのもと「殺し合うことのない」他者危害禁止原則に基づく市民社会を操業することを、私は最低限綱領において構想します。


それが、生命の連続性という共同性の基礎が排除する存在において、つまり死刑囚の存在において、最低限綱領に抵触していると、共同性の特権化と言われるなら、まさに「仕方のないこと」です。問題は、生命の連続性という共同性の基礎が国体の基礎として顕れることで、現行の国家とは、ひいては共同幻想としての国家幻想とは、そういうことです。