食卓が亡びるとき(mojimojiさんへの応答.その3)


承前⇒共同性ということ - モジモジ君のブログ。みたいな。


ミュンヘン スペシャル・エディション [DVD]

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というスピルバーグの著名な映画があります。1972年のミュンヘンオリンピック事件を題材にした映画です。


ミュンヘン (映画) - Wikipedia

ミュンヘンオリンピック事件 - Wikipedia


滅法面白いこの映画の物語とその結末はとても興味深い。


『神の怒り作戦』をゴルダ・メイアから直接指示されたモサド工作員の主人公は『黒い九月』のメンバーをローマやベイルートで殺して回る。物語は、自宅で閣議を開いていたゴルダ・メイアのキッチンから始まり、凄惨な殺人の端々にユダヤ教の家庭の食卓の光景が差し込まれる。その豪華で親密で賑やかな「気のおけない」食卓は、妊娠した主人公の妻や、作戦の同志によって、用意され、再三囲まれる。


そして、殺しすぎた、作戦の同志も失った彼は、ニューヨークで報復に脅えて、妻子と共に隠れるように暮らす。映画のラストシーン。モサドの上司から帰国するよう命じられた主人公は、彼に背を向けて立ち去る。その背中に、上司は言う。「食卓が、待ってるぞ」。主人公は振り返らない。


食卓をこそ、主人公は拒否した。だから彼は、きっと、祖国のための戦いに疲れた夫をねぎらうために親密な食卓を用意する妻と子の待つその「家」にも帰らない。映画の結末が示唆するのは「食卓こそ諸悪の根源」ということ。この食卓とは、冒頭のゴルダ・メイアに暗示される通り、母としての女性を意味している。


母の象徴としての食卓が、諸悪の根源であることに気が付いた主人公は、自分が命を賭けて守った食卓が待つ祖国には帰らない。同様に、自分が命を賭けて守った妻と子の食卓にも帰らない。ニューヨークの摩天楼を、祖国とその食卓を守るために散々血で染めた手をぶらさげて、行き場なくさまようことになるだろう。


ディアスポラ性とはこのことです。映画の結末における主人公の認識を得ることが、歓待の条件としてある。歓待を問うなら、私はそう考えています。もちろん、スピルバーグが殺人者でないように、手を血で染めることは必要条件ではありません。私が映画の結末を興味深く思ったのは、主人公が得る認識に私も共感したからです。もちろん、主人公のような経験は持ち合わせません。その食卓を守るために命を賭けて戦った祖国に裏切られたことは。


そして、映画の結末において主人公が得る認識は、これ以上ないほどに残酷なものでしょう。それを、民族主義の問題とその解として指すことに私は同意しません。シオニズムの問題ではあるでしょう。つまり、食卓を持つことと、それを守ることの問題です。食卓を守るべく、手を血で染めることが、最後には自分が守ってきたはずの食卓さえ失う。そのことの問題です。


しかし食卓とは、妻と子と共に心安んじて囲む食卓とは、祖国イスラエルにある妻の妊娠を知った主人公にとって、命を賭けて守るべきものだった。そして、手を血で染めて守った結果、主人公にとって、妻と子が待つ家族の食卓は、心安んじる場所ではなくなっていた。


よって、妻と子が待つ家族の食卓こそ、諸悪の根源である。そして家族の食卓を、ディアスポラにとっての祖国としてあるイスラエルに重ねて描いたのが、世界的に知られたユダヤ映画作家による『ミュンヘン』という映画でした。もちろん映画はイスラエル政府の顰蹙を買い、映画監督はユダヤ人の友人を大勢失ったそうな。


家庭の幸福は諸悪の根源と言った作家がいましたが。「家族が囲む食卓こそ諸悪の根源である」と映画作家は示唆しました。家族が囲む食卓を、その家を、守るために、人は命を賭けて、手を血で染めるから。


そして家族が囲むユダヤの食卓は、人類にとって共同性の根源としてある生命の連続性を象徴していた――そのディアスポラゆえに。その、生命の連続性の象徴としての家族の食卓をこそ、ディアスポラにとってのイスラエルという「祖国」として映画作家は描いた。


このような、映画を引いての比喩的な論理にmojimojiさんが同意されるかはわかりかねます。述べたいことは、私の認識では「家族が囲む食卓こそ諸悪の根源である」とmojimojiさんは事実上言っておられるが、それでよろしいか、ということです。それなら、言葉の定義は措いても認識を私とmojimojiさんは同じくしています。


家族が囲む母の食卓は、人類にとって共同性の根源としてある生命の連続性の象徴としてあり、それは命を賭けて手を血で染めてでも守るべき「祖国」の象徴でした。私が、民族性と民族主義を区別し難いものと考えるのは、このような理路からです。要するに、国体は食卓に始まり、現在形の共同性の紐帯は母の臍の緒によって結ばれている、ということです。それが、同化と排除の論理でなくして何であるか。


ゆえに、私は、あらゆる人が映画の結末における主人公の認識を得ることを、それこそ弁証法的に構想しますが、それが途方もなく残酷な話であることも知っている。それでもなお、ディアスポラ性こそ歓待の条件と、言いうるかということです。もちろん、デリダもサイードも言いましたが。私は、自分のことはともかく、他人については、微妙です。


私は、家族幻想が国家幻想と対峙しうるとは、あまり思えない。こうの史代の『夕凪の街 桜の国』『古い女』ではありませんが、対幻想と国家幻想は共犯関係を結ぶものと思っています。もちろん与謝野晶子を私たちは知っています。日本近代史上、国家を幻想と後世の誰よりも知っていたのが、御一新を挟む明治人でした。国防婦人会を私たちは知っています。


諸悪の根源である以上、つまり同化と排除の論理を駆動し「祖国」に対するナショナリズムを用意する共同性の基盤としてある以上、私たちは家族が囲む母の食卓を放棄すべきである。つまり、生命の連続性をこそ手放すべきである。そう他人に対して言うことは私は微妙です。まして、事実上のディアスポラとしての「在日」に対して言うことは。それが、止揚された場所であるとしても。


mojimojiさんの「余分」とは、つまりそういうことです。そういうことではない、自分は共同性を擁護しているし、批判しているのは民族主義だから、と言われますか。その認識にも理路にも、私は了解できません。


「家族が囲む母の食卓を諸悪の根源とは自分は考えない」とmojimojiさんが仰られることは構いませんが、「家族が囲む母の食卓こそ諸悪の根源である」と私は言い切ります。親に祝福されなかった子供を抑圧する同化と排除の論理とはそのことで、人類の共同性の基礎としてある生命の連続性が駆動する同化と排除の論理は「家族が囲む母の食卓」に発します。


「家族が囲む母の食卓」の、ディアスポラとしてのユダヤ人における特権性を、ユダヤ教の食卓として、イスラエルという「祖国」として、スピルバーグは描きました。それを、民族主義という民族性に基づく共同性の特権化として退けることは構いませんが、そのとき「ディアスポラとしてのユダヤ人」は、必要条件ではなく十分条件で、つまり他人事ではまったくない。今上以降の象徴天皇とは、食卓を徴する家族という、生命の連続性の象徴において、戦争の記憶を遠く離れつつある国民国家の共同性を涵養しているのだから。もちろん、同化と排除の論理として。「在日」に対する、衆寡とその無自覚に基づく抑圧として。


だから、民族性に基づく共同性がそれ自体で同化と排除の論理を駆動する、と私は言い切ります。人類の共同性の基礎たる生命の連続性こそ、同化と排除の論理そのものなのだから。同化と排除の論理と承知してなお、ハサミは使いようということです。象徴天皇とは、そういうことです。明治の元勲は、GHQは、バカではなかった。


ハサミは使いようという話を、最低限綱領において裁断されるなら、そこまでです。最低限綱領に同意すること、現実の構想に際して最低限綱領の再三の確認が欠かせないこと。このことも繰り返しておきます。


以下、補足について。

言うまでもなく、ダンボールを被って寝ている人たちにも文化があります。靱公園にも長居にも、そこで育まれた共同性がありました。新宿西口のダンボールハウスには、たくさんのダンボール・アートが作られたと聞いています。もちろん、その背後にあった経済的剥奪は問題にされるべきです。しかし、そこに文化がなかった、などというのは、それこそ経済的に恵まれた者の手前勝手でしょう。


いわゆる「ホームレス文化」なることを言い出した人もいました。僕はあれを好きではありません。その背景にある経済的剥奪の問題をまったく問題にしなかったからです。今もそうなのかは知りませんが、とりあえず、僕の見た限りではそうでした。そして、そうであるならば、それは批判されるべきです。生きられている文化を肯定することと、経済的剥奪を問題にすることは両立します。実際、新宿西口のダンボール・アートの中には、経済的剥奪と社会的無関心を鋭く批判するような作品もあったと記憶しています。


むしろ、文化を即「充足」とみなす発想が、マイノリティに対する抑圧や剥奪を問題にする際に、なにか肯定的な文化があってはならない、そういう要求につながるのでしょう。「ダンボールハウスでたのしくやってるなら、それでいいじゃないか」、というわけで絶賛放置中、ということにもなるのでしょう。最初の発想がそもそも余分です。どんなところにも文化はあります。そのことと、社会的な抑圧や剥奪があることは両立しますし、それを問題化することとも両立します。


「ホームレス文化」論が問題なのは、剥奪と抑圧の状況下にあるものを文化と呼ぶからではありません。そこから抜け出す可能性を開く「抑圧や剥奪の問題化」を無視するからであり、それは、ホームレス文化を「そうあるべき」文化とみなすからです。これは「ホームレス文化主義」とでも呼ぶべきものです。僕が民族主義を批判するのも、同じ構図です。


当然のことながら、ダンボールを被って寝ているところに文化はありません。と繰り返しても仕方がないのですが。ダンボールを被って寝ている人たちも絵を描くし、共同体を育んでいる、という話ですか。それは、15000年前の石器人だって洞窟に絵を描きました。生きられている現実を肯定することには同意しますが、文化大革命には同意できません。文化とは人ではなく、人を育む基盤の問題です。要するに、インフラストラクチャーの問題です。基盤とインフラストラクチャーが、連続性を保証する。文化において「「私が在る」に依拠する」とは、次のようなことです。


自分が書く一行に1000年の民族の言霊の歴史が顕現する、そう思って一行一行を書いている、と三島由紀夫は言いました。小林秀雄も同様です。文化とはそういうことなので、そもそもmojimojiさんが言われるところの「生きられている現実」とは相性のよくない概念と思います。もちろん、それが三島由紀夫小林秀雄にとっての「生きられている現実」でした――掛け値なく。そして、彼らは「充足」していたわけではまったくない。「ホームレス文化」などというのはそれこそブルジョワの御託です。


歴史の連続性を顧慮しないアートは少なくとも文化ではないし、「1000年の芸術の歴史を前提する」制度化された「アート」でもない。貶めているのではない。「1000年の民族の言霊の歴史」などという「連続性を顧慮しない」ものとして「ダンボールを被って暮らしているところ」をmojimojiさんは持ち出したと私は思っていたので。だから、そのような生の在りようはもちろん肯定しますが、それは文化の話ではない。


アウトサイダー・アート」は御存知ですか。あれはあらゆる意味で文化ではない。そもそも文化とは結果的にせよイン/アウトを区別するもので、そのことに対して、mojimojiさんはインサイダーに対するアウトサイダーとして「ダンボールを被って暮らしているところ」を持ち出したと私は考えています。


文化とは、その定義において結果的にせよイン/アウトを区別するので、必然的にアウトサイダーを同化/排除します。「アウトサイダー・アート」が典型ですが。アウトサイダーアウトサイダーとしての生と、その共同体的な在りようとしてのアートについて、インサイダーがイン/アウトに基づく同化/排除の視線を投げかけることを、たとえば「ホームレス文化」なる物言いについて批判しておられるのなら、普通に全面的に同意します。


あくまでインサイダーの立場から「ホームレス文化」と「文化」において同化を駆動させておきながら、一方で経済的な剥奪や社会的な抑圧についてアウトサイダーとして絶賛放置して排除を駆動する。それは最悪であり、その最悪さはブルジョワ的な市民生活の最悪さであり、まさに船上パーティの最たるものです。そして、帝国主義とそれに基づく搾取と収奪の典型です。然りて、文化とはそもそもそういうグロテスクなものなので、イン/アウトを区別する限りにおいて制度であることを逃れえない。


そのような前提については同じくしうるようなので、別に「文化」の定義に私が固執する必要もないのでしょうけど。私が言っているのは、三島や小林は言うまでもなく、『日本語が亡びるとき』の水村美苗氏に至るまで、文化という概念がそもそもインサイダーの視線であり、同化と排除の論理そのものであるということです。ここでも「区別し難い」という私の主張になります。

民族主義に基づく同化圧力において、<私>の薄い民族性に対して引け目を感じる、元々問題にしていたのはそういう話です。もちろん、ジンバブエルワンダやユーゴは、その延長線上にある話です。ですが、その延長線上にあるものを最初に問題にしたのではありません。その出発点における、「相対的には小さな」と言える抑圧を、問題にしています。今更のように事の大小を問題にするのは、話のすり替えです。僕が問題にしているのは動員ですが、小さい動員ならOKという話ではありません。


事の大小が問題であると言いたいならば。虐殺に至らない間は、その程度の引け目くらいは仕方のないことだから我慢せよ、と正直におっしゃるべきです。僕はそれに同意しませんが、少なくとも、論点はハッキリします。


論点はもう既にハッキリしていると思いますが、よって、事の大小が問題であるのではありません。「ジンバブエには英雄的な指導者が存在し、ルワンダには多数派としてのフツ族が存在し、ユーゴには権力を求めた扇動家が存在しました。」このような政治的な条件を排除することが、殺戮の轍を踏まないためには必要ということです。民族主義の克服を「殊更に」他者に示唆するよりも。


同化と排除の論理としての共同性を無条件に肯定するわけではない私の考えにおいては、食卓という――生命の連続性を「家」に囲い込む――共同性において民族主義と民族性は区別し難く、そして政治的な条件が食卓という共同性を同化と排除の論理に留まらない殺し合いへと駆り立てるので、共同性を根こそぎ拒否するよりは政治的な条件を排除することが実際的でありかつ(特権化された共同性としての――つまり民族主義としての)政治問題として解くことが可能であって、同時にそれは、現実の構想においても、正しい、と考えます。


「虐殺に至らない間は、その程度の引け目くらいは仕方のないことだから我慢せよ、と正直におっしゃるべきです。」――「余分」とは「我慢するな」という意味だったのですね。やっとわかりました。その意味なら――「引け目を我慢するな」という話なら――全面的に同意します。「大きなお世話」を承知で書きますと、「余分」と言わず最初からそのように書いていれば、先方に伝わったと思います。


で、私の見解は「我慢」の問題なら「我慢せよ」とは言いませんよ。自発的な投企とは「我慢」の問題ではない。自発性の剥奪の問題なら、我慢するな、と即答します。ただ、我慢しなかった結果がジンバブエでありルワンダでありユーゴだったわけです。そして、mojimojiさんは発端のエントリを「我慢」と読んだのですか。私は自発的な投企と読みました。そのことの是非を云々するのは端的に「大きなお世話」と思います。本人の選択です。「回復」ではなく選択です。「誤りを含んだ言説は社会的に悪影響なので批判する」という話ですか――偽科学批判のような。


mojimojiさんはジンバブエルワンダをユーゴを我慢の結果と考えている。自発性の剥奪の結果と。そこまでは同意です。しかし、我慢することが同時に自発的な投企であり選択である、ということがあって、それが共同性とその功罪である、というのが私にとっての論点です。ジンバブエルワンダやユーゴが「我慢しなかった結果」とは、馴致のための共同性を退けた、ということです。食卓のことを忘れたということです。それが民族主義なのですが。


高度に発達した自発的な投企は我慢と見分けがつかない。ふざけて言っているのではありません。それが、共同性ということであり、そのグロテスクな光景です。母であることが父であることが、高度に発達した自発的な投企であることは周知です。典型的に、今上がそうであるように。そして皇太子妃の現在の苦痛があるように。高度に発達した自発性を涵養してきたものこそ、生命の連続性の集積としてある歴史です。バックラッシュや極右が強いのは、それは当然のことなのです。だからこそ、批判しなければならないのですが。


高度に発達した自発的な投企に対して「我慢するな」とは私は言えません。「大きなお世話」であることがあるからです。それが生きるということで、父であり母であるということで、日本人であるということでした。というのが共同性とその同化と排除のグロテスクな光景ですが。


だからこそ、私は出発点としての――食卓における――共同性が駆動させる同化と排除ではなく、政治的な条件をこそ問題視します。「過ちに学ぶ」とはそういうことです。述べてきたように、私の考えにおいては、原理主義としての民族主義は、政治的な条件の問題としてあります。そして、政治的な条件としてある現在形としての不正と暴力をこそ問題視します。もちろん、そのことに対してマイノリティは「我慢」するべきではまったくありません――「民族主義」としてであれ。大きかろうが小さかろうが、もちろん私は動員をこそ問題にしています。


mojimojiさんが提示しておられるような最低限綱領において抑圧の問題を、ひいては同化と排除の問題を、原理として出発点において問うなら、そもそも食卓こそ諸悪の根源と答えます。世界から食卓を撤廃する現実について構想する。最低限綱領を問うなら、それが私にとっての最低限綱領ですが、それが望ましい世界か保証のところではありません。ディストピアの極みという気もします。そのときこそ、宗教性の問題が問われるでしょう。


私にとって、最低限綱領まで差し戻して問いを問うなら、共同性それ自体が諸悪の根源です。mojimojiさんがそのように考えないなら、それは「私が在る」に依拠しておられるからでしょう。政治的な条件を過去の過ちから問うことを最低限綱領という原理的地平において退けて。何度でも書きますが、私の考えでは、民族性と民族主義は、区別に難いでしょう。


私はmojimojiさんのスタンスは理解しているつもりでいます、最低限綱領の確認は絶対に必要です。その場所に踏みとどまって、決してシニシズムへと後退しないことも。しかし「リアルで重層的で複雑」な問題そのものとしてある現在の世界を最低限綱領において倫理の問題として裁断することは、時に精神勝利法と見分けがつきません。これも繰り返しになりますが、実践としての倫理は、必ずしも綱領の問題ではないからです。


もの食う人びと (角川文庫)

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