灰とダイヤモンド


【赤木智弘の眼光紙背】タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!

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赤木氏や有村氏のエントリおよびそのブコメを読んで


今更の話題だけど、更新の時間が取れなかったので。


人目を引いて真意が伝わらない言説は端的に駄目だし失敗だと思う。そして赤木智弘氏はその轍を踏んでばかりのように私には見えるんだが。


「子育てと喫煙が同じことのはずがないだろうjk」その通り。そして赤木氏がそのことをわかっていないはずもないだろうjk。「自称ワープアの極端なポジショントーク」と赤木氏の議論を約してしまう人も多いが、私はそうは考えていない。私の理解では、赤木氏はその初めての著作以来、言うなれば、この社会は一体感を失っている、という話をしている。裏返せば、社会は私たちを分断している、という主張になる。そのような現在において、リベラルの美辞麗句は社会の一体感を偽装する言説の詐欺でしかなく、無能な味方に過ぎない、と。そして戦争こそ、社会の一体感を取り戻す契機――と。


私は、この指摘を概ね正しいと思う。ただ、私は戦争という国家的動員によってしか取り戻しえない社会の一体感など要らん、と考える。そして「戦争という国家的動員によってしか取り戻しえない」ことをわかっているから、赤木氏の言説は一目瞭然のアイロニーを帯びる。それを単に人目を引くための釣りと見なすことは、半分しか正しくないと私は思う。


若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か

若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か


産めよ増やせよと奨励された時代、男たちは兵士として殴り殴られシャブを打ってお国のために戦って特攻した。レーベンスボルンを設置した国策は障碍者を抹殺した。ところで、戦争もなく不正義の平和を貪るこの終わらない学園祭も同様の社会において、子育てはその特権性において社会の一体感に資するものだろうか。


「社会の一体感のために子を生み育てているのではない」その通り。だから、赤木氏は状況を正しく指摘している。国のために戦う男はタバコを吸おうがシャブを打とうがインドシナで女を買おうが大陸で女を●そうが、国のために戦っている限り無問題だった。その実情は戦後も暫し変わらないので、プロジェクトXの陰には無数の男女の悲喜と大陸浪漫があった。僕らはみんな生きている。僕らはみんな生きていることが、お国のための人柱であることを、やなせたかし先生のような戦中派は批判したし、現在において赤木氏はそのことを逆説として述べている。


ところで、赤木氏の議論には公共の利益という概念がない。そんなものは社会の一体感を言説において指し示すためのリベラルの詐欺としてしか存在しない、と赤木氏は言っているので、したがって税の使途をめぐる議論が頓珍漢なことになる。その点について、最大の批判を被っているのだろう。つまり、頭でっかちと。


「公共の利益」はリベラルな言説の問題として存在するのではない。私たちが、子を生み育てることを公共の利益と、言説の問題としてしか考えることができないなら、そのようなディストピアにおいては公共の利益という概念はありえないだろう。そして、その点で、赤木氏の一連の議論は百家争鳴の反響を呼んでいる。もちろん、実際は、たとえば子を産み育てることについて私たちがそのように考えるから「公共の利益」という概念が存在するので、言説が先立つのでも、リベラルの綺麗事が先立っているのでもない。先立っていることについて逆立と指摘する赤木氏の言説は、その点で失当している。つまり、公共の利益とは言説が先立つ概念ではない。育児も然り、喫煙も然り。


だから――JT発行の『談』という雑誌では「公共の利益」という概念についてかつて錚々たるリベラルの論者が論じていた。それは、言説批判でなく現実解の模索だった。「公共の利益」とは「お国のために」の現代的な変奏ではない。そのことを解さない議論が、社会における一体感の欠如について再三指摘する議論であることは、ゆえなきことではないだろう。一体感の欠如した社会において展開される「公共の利益」という主張はエゴイズムの垂れ流しと時に見分けがつかない。その指摘は、一定正しい。しかしそのことは、一体感の欠如した社会において「公共の利益」という概念を顧慮しないことの理由にはならない。さもなくば、衆寡は敵しないので、とっくに喫煙者は実力行使によって排除されている。いつかの筒井康隆の小説のように。


最後の喫煙者 自選ドタバタ傑作集1 (新潮文庫)

最後の喫煙者 自選ドタバタ傑作集1 (新潮文庫)


「公共の利益」に計って育児も喫煙も「同等」に問われているので「公共の利益」を端からちゃぶ台返しして喫煙者の利益が守られるはずもない。JTだってわかっていたから『談』を発行した。喫煙者でない赤木氏が判官仲間を贔屓したいなら――。公共の利益が存在しない社会は、野蛮なまでに政治的な社会でしかない。その野蛮から少数派を守るために、公共の利益という概念がある、と私は理解していたが。


無力な幼子や母子家庭や障碍児を持つ親だって少数派なら、喫煙者だって先進国社会の少数派だ。子育てと喫煙は同じことではないが、人の親であることと喫煙者であることは同じことだ。人の親であることとは、無力な幼子の庇護者であることで、そして、母子家庭であることや障碍者の親であることを含むのだから。


遺書

遺書


記憶で書くが、94年に刊行され250万部から売れた上の本に次のようなことが記してあった。俺は喫煙者である。喫煙者の煙が迷惑と人は言う。しかし言わせてもらえば、俺がタバコを吸いたいときにそれを我慢することは俺にとって迷惑である。人は迷惑をかけ合うことによって生きており、「非喫煙者にとってのタバコの煙のストレス」と「喫煙者がタバコを我慢することのストレス」とでは、後者のストレスの方がよほど大きいことを俺は知っているのである。


あまりのことに当時、私は感動した。松本さんまじぱねぇっす。いや、この松ちゃんらしい大真面目な超論理は一抹の真理を突いていたとは思う。要するに、問題の要点は公共の利益ではない、赤の他人同士が迷惑をかけ合って生きていることに対する社会的な不寛容である、と。


もちろん、松ちゃんは盛大にまぜっかえしているが、不寛容ではなく不公正の問題なのでそれは超論理でしかなく、不公正の是正において公益の概念が意味を持つ。ただ、不公正の手前にある不寛容に問いを差し戻す松ちゃんのその問いには、意味があると今も思う。つまり、赤の他人から迷惑をかけられることに対する寛容の根底には、社会の一体感に対する信頼が私たちにおいてあったろう――と。一体感を欠いた社会は、赤の他人に対して不寛容であるしかない社会だ。だから人は、言説において倫理綱領をかけようともする。そのことを知識人の欺瞞と、赤木氏は指摘してきた。


子は社会の宝であり国の宝と言うが、もちろん煙草の灰とダイヤモンドは等価だ。価値を付するのは共同体か社会か。アンジェイ・ワイダの著名な映画のラストシーン、明け方のホテルのロビーに翻る国旗は、ダイヤモンドを灰へと消尽する祖国の不毛を示している。むろん、誰しもが、祖国のために灰になる。そのことから自由であることが、育児を個人の趣味と言い切ることなら、それは論理的に誤っているとしか言えない。もちろんノルヴィトの詩はそういうことを言ったのではないし、それを引いた30代のワイダにおいて、アイロニーは未だ希薄だったろう。それが幸福なことかは知らない。


僕らはみんな生きている 上 (ビッグコミックススペシャル)

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