マッチポンプはどこまでも


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はてなブックマーク - 強姦するのが男の性なら去勢するのが自己責任でしょ - フランチェス子の日記

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なんどめだナウシカ」「曽野先生なので仕方ない」のコンボで個人的に処理(=スルー)するつもりだったが、hokusyuさんが言われる通り、一部のブコメがひどかったので書くことにする。


「強姦するのが男の性」であることは、物理的に去勢しようがしまいが同じこと。「男の性」という言説が、現実の犯罪をもってして説かれることが意味する暴力の問題なので。「男の性」という一般論を偽装する言説が、現実の犯罪をもってして説かれることが、どのような暴力であるか。


「強姦するのが男の性」とは、「男の性」という言説が、現実の犯罪をもってして説かれることが指し示す意味を、はっきり書き表したにすぎない。その批判を、物理的な去勢を主張する暴論と読み換えることは、「強姦するのが男の性」であることが生物学的な事実と認めるに等しい。そんなトンデモ俗説を信じる人はいないと私は考えていたが。


「強姦するのが男の性」であることが生物学的な事実とエントリは主張しているのではない。渡辺淳一の発言に対する批判がそうであるように、「強姦するのが男の性」であることが「言説的な事実」としてあることを批判している。「強姦するのが男の性」であることが「言説的な事実」として存在することが、現実の犯罪を裏書し、現実の犯罪を再生産し、現実の犯罪と結託する、セカンドレイプの温床であり、レイプの温床である、と。


「強姦するのが男の性」であることが「言説的な事実」として存在することにさえ気が付かないまま「自衛」「自己責任」とその言説を「事実」として裏書することが、繰り返される犯罪と、どのように照応し、どのように連関し、どのような構造的暴力を構成するか。早い話がマッチポンプだが、その、「強姦するのが男の性」であることを「事実」とする言説と犯罪のマッチポンプは、犯罪が繰り返され続けるために賄われる「永遠の嘘」でしかなく、決して性犯罪被害者を減らしはしない。


繰り返される犯罪をもってして、「強姦するのが男の性」であることを「事実」とする「自衛」「自己責任」の言説が横行し、斯様な言説が「事実」として裏付ける「強姦するのが男の性」という観念が、犯罪を再生産する。このマッチポンプと結託は、その指し示す意味が「強姦するのが男の性」である、ということを都合よく忘却して、この国の司法さえも支配している。いまなお。


そのことを指摘されれば、物理的な去勢を主張する暴論と読み換える。便利な発想と言うよりほかない。マッチポンプをやめろとFrancesco3さんは言っている。それが差別以外の何であるかと。そのような明確な話さえ、人は了解できないものだろうか。「永遠の嘘」を本気で信じる人があるということで、そのことに驚く私もまたシニシストでしかないが。


男性ジェンダーと加害性 - 地下生活者の手遊び


ところで私は、それが「男の性」の問題であるならば、「強姦するのが男の性」と考える。tikani_nemuru_Mさんが言われるところの「男性ジェンダーと加害性」の話だが。「男性ジェンダーと加害性」の問題は、物理的な去勢の問題ではない。「強姦するのが男の性」という認識は、その「言説的事実」の横行に対する批判なくしてありえない。なぜなら、「言説的事実」の横行に加担する人間に限って、その言説的事実が指し示す意味を知らない。「男の性」の問題としての「強姦するのが男の性」という認識がない。言説と犯罪のマッチポンプの回路を断ち切る営為に私は賛成するものであるが、それは表現規制ではないとも私は考える。


私のように曽野先生を観測し続けて20年になると「曽野綾子耐久レース」というトライアルの一貫でしかこういうことはないが、まあ修行だとは思う。同種の競技に「石原慎太郎耐久レース」がある。そして、私は曽野作品が嫌いではなかったりする。『哀歌』を彼女が書いたのは『ホテル・ルワンダ』の以前のことだった。


曽野先生におかれては、世界は神の子である人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇であり、過酷極まりない闘争に個人は自身の外と内において晒され、その果てに荒涼の地で見出される「愛」がある。そのために彼女はルワンダ虐殺を借り、大久保清事件を借りる。むろん、そのことに対する批判はある。問題は、文明とその偽善を論じる彼女は、人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇の果てに見出される「愛」に対して、殊に近年無頓着に過ぎるということにある。


だから、当該のコラムでも、もちろん曽野先生は性犯罪を減らすために書いているのではなく、世界が人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇であることを平和ボケした偽善的な日本人に説くために書いている。そこに、酷薄とも評される作家がよく知る荒涼の地での「愛」を見出そうとすることを、もはや彼女は、小説においてさえやめてしまった。いわんやその文明批判においてをや。そういうのは、原理主義と言う。他人の信心を云々する趣味も筋合も私は持ち合わせないが、保守主義者としては、文明とその偽善を相も変わらず論じる現在の彼女について、考えることがある。リベラリズムの価値についても。


私は『BLACK LAGOON』は大好きだが、「悪徳の街」での「死の舞踏」の話はキッチュなマンガの中だけにしておいてほしいと思う。文明の偽善に対する批判としてそれを説かれたところで、実際のところは、言説と犯罪の、テンプレートなマッチポンプの回路に加担することでしかなく、セカンドレイプの暴力でしかない。文明批判とは、悪徳の街での死の舞踏の話を説くことによって、世界が人間存在における善と悪の過酷極まりない闘争劇であることを指し示すことではない。なぜなら、文明とは、悪徳の街での死の舞踏を回収してキッチュなマンガに換える機械にほかならないから。というより、現実の暴力と犯罪を「悪徳の街」での「死の舞踏」とキザに修辞し消費し尽くすことによって回収するのが文明の機能であり、同時に現実の暴力と犯罪を「文学化」してみせる暴力性もまた文明の常套的な回収作業である。


『哀歌』が『天上の青』がそのような作品だったとは私は言わない。だからこそ思う。文明の恩恵を個人主義者として被りながら、文明の欺瞞を批判してやまない曽野先生が、文明の要諦としてあるそのことを忘れているはずもないのだが、と。耄碌という言葉は私は好きではない。