自由科学の価値について


自由科学と真正性の水準 - 地下生活者の手遊び


そもそも、スピーチコードとは何かと言うと、人間の考えることの7割は差別的で、それを表出すると殺し合いが発生するから、残りの3割で話しましょう、ということ。結果、PCにおいてタバコの裏書同様の「知識」に基づく自明性に対する不在証明が前提される。


ハーバーマスの公共圏論とは何かと言うと、相互の顔が見えるコーヒーショップで、互いに自分の考えることの10割の手札を相手の顔を見ながら徐々に切っていき、合意形成において私たちが殺し合うことのない「3割」に到達しましょう、ということ。なぜなら、ヨーロッパの歴史において、共同幻想を通じて「相手の顔」を「われわれ」「彼ら」に変換するビアホールの扇動家を退けるため、そう考えるよりほかなかった。


当然、前者はアメリカ的な発想であり、後者はヨーロッパ的な発想です。


しかし、陵辱表現愛好者の誰が性犯罪被害者に対して「自分の考えることの10割の手札を相手の顔を見ながら徐々に切って」いこうと考えるだろうか。その中から「3割」を「合意形成」してどのような甲斐があるか。id:furukatsuさんが『公共圏とかしんじられねぇ』で言っておられたのはこういうことです――陵辱表現とその愛好が性犯罪被害者という他者と合意形成しうる「3割」であることを証明せよ、と言われているに等しい、と。だから、証明は「知識」に基づく不在証明になる。これはフィクションです、と。


「相手の顔を見ながら徐々に切って」は事実上の「配慮」です。徹底した論争家であったところのハーバーマスはそのように考えていたわけではないでしょうが、理論上はそうなるよりほかない。「相手の顔を見てカードを切る必要はない」とローチは言いました。私はローチの主張に同意です。私自身が「配慮」しようがしまいが。


「陵辱表現愛好者の誰が性犯罪被害者に対して「自分の考えることの10割の手札を相手の顔を見ながら徐々に切って」いこうと考えるだろうか」の一節に「陵辱表現愛好者の意識の低さ」を読み取るなら――つまりtikani_nemuru_Mさんのfurukatsuさんに対する批判はそのようなものであったと私は考えているので――それは違う、というのが私の見解です。「タダ乗り」を措定し批判するtikani_nemuru_Mさんに対して、私はそのことをずっと言っているのですが。


改めて指摘させていただきますが。

あくまで【被害者にとって】「それはフィクションではない」と限定させていただきますにゃ。

僕は「あなた」に要求する - 地下生活者の手遊び


ホロコーストの生存者にとって『シンドラーのリスト』はフィクションではない」という話は通らない、ということです。だから、そもそもホロコーストを表象すべきか――そういう議論は映画の公開当時からありました。昔も今も、スピルバーグは超一流の娯楽作家であり現代の芸術家です。ホロコーストの表象は可能か――その議論は15年前に既にありました。表象の問題とはそういうことなので、tikani_nemuru_Mさんは御存知のことと思いますが。


当然、その議論は「表現の自由」をめぐる議論ではない。ホロコーストの表象をめぐる議論においてスピルバーグを批判していた誰にとっても、表現の自由は大前提だったからです。議論の大前提であり、ホロコーストの表象を批判することの、大前提であったからです。表現は、批判されるべきだが、絶対に封殺されるべきではない。まして「配慮」なる概念において。


ヘイトクライムであるところのレイプを娯楽のために表象してよいか――その問題意識において、tikani_nemuru_Mさんは今も変わらないのでしょう。その問題意識は構いません。それを「表現の自由」と紐付けして論じることはやめてください、というのが私がずっと言っていることです。


シンドラーのリスト』におけるスピルバーグ批判は「表現の自由」と紐付けして問われる問題ではない。表現が自由だからこそ、私たちはホロコーストの表象について批判的に検討することができる。そして『ミュンヘン』で彼はイスラエルから不快感を表明され、ユダヤ人の友人を多く失ったそうです。表現者ってのは、その意識ってのは、そういうものなんですよ。


表現は、他者との合意形成によって、合意形成を経た「3割」によって、為されるものではない。「残りの7割」において行われるものです。原理的に。村上春樹は模範的なまでにこの原理を貫徹しています。むろん、このことを裏返した商業表現は幾らでもあって、たとえば括弧付の「文学」というのがそれです。村上春樹は世界的に売れている作家です。つまるところこれらは、散々批判されてきた「表現」をめぐるロマン主義の現代的様相ではありますが、しかし。


表現が自由だからこそ、私たちはヘイトクライムであるところのレイプの表象について批判的に検討することができる。「表現が自由だからこそ」は、外してはならない前提で、それは確認するまでもないことと思っていたらそうでもなかったので、成程、ハーバーマスの言う通り、コーヒーショップで相手の顔を見て話して合意形成へと達することは必要とは思います。「表現が自由だからこそ、私たちはヘイトクライムであるところのレイプの表象について批判的に検討できる」は合意形成されて然るべき「3割」の範疇だと私は思っていますが。


NaokiTakahashiさんが、(私の整理では)社会の議論と道徳の議論を区別されたうえで、「二人称の要請」を退けておられるのもそういうことと私は理解しています。「表現が自由だからこそ、レイプの表象について批判的に検討できる」は社会の議論であり、レイプの表象について検討することそれ自体は道徳の議論です。道徳の議論は可です。その可において、表現は自由でなければならない。何度でも書きますが「表象は読み解かれなければならない」とは「あらゆる表象が読み解かれるために表現は自由でなければならない」ということです。レイプの表象について検討する限り、表現は自由でなければならない。この社会における、当然の前提と、私は思うのですが。

ローチにとっては、「誰が」「どこで」言ったかというのはシカトされるべき要因ですにゃ。もちろん、科学(特に自然科学)においては、「誰が」「どこで」というのはたいした問題ではなく、得られた結果とプロセスがオープンにされて、よってたかって検証されることが重要ですにゃ。

で、しつこく言うけど、こうして検証された知識は結局のところ差別を正当化するような知識を駆逐し淘汰していくであろうと、多分ローチは確信している。そしてまた、それがやはり結局は被害を最小化させるであろうとも、多分ローチは確信していますにゃ。



そして、知識からは属人的性格が徹底して排除されなければならにゃーわけだ。誰が言ったかは関係なく、その発言内容が検証されているか否かが問題になるのですからにゃ。

「誰が言ったか」「被害者にとって・被差別マイノリティにとって」といった属人的なるものは、オープンな検証が不可能であるがゆえに科学とはなりえず、それはいってみれば「オカルト」であり、そうした「オカルト」で表現の自由を制限することは断固として退けるべきことだというのがローチの議論だと考えますにゃ。



ここでは知識と知識を刷新するシステム(ローチの用語では自由科学)こそが社会的統合にとって一義的なもの、代替不可能なものであり、各個人は代替可能な存在となりますにゃ。これは、ローチが市場システムを代替不可能なものとして評価することとパラレルにゃんね。


takanorikidoさんが指摘されている通りですが、知識と実存を区別せよ、とローチは言っています。価値を個人の実存の問題へと括弧入することが、知識の確立に際して必要、と。個人の代替可能性、という話をローチはしているのではない。逆です。個人の実存がかけがえのないものであるからこそ、つまり個人の代替不可能性ゆえに、そのことと切り離して知識は刷新されなければならない。


個人の実存が、それがかけがえのないものであるがゆえに、知識の刷新を妨げてきた歴史について、私たちは知っています。個人の実存がかけがえのないものであることと、知識が刷新されることは、両立されなければならない。そのためにローチは「自由科学」を提唱しました。もちろん「個人の実存がかけがえのないものである」は、つまり個人の代替不可能は、「価値」の問題です。


だから。【被害者にとって】「それはフィクションではない」は通りませんが、性犯罪被害者個人の実存がかけがえのないものであることは当然のことです。性犯罪被害者だけでなく、陵辱表現愛好者も、誰も、個人の実存がかけがえのないものであるからこそ、知識の確立に際してそうした「個人の実存」が、いうなれば「心の問題」が、反映されるべきではない。


そのとき、個人の実存がかけがえのないものであることが価値であり、個人のかけがえのない実存において、価値は個人的な天稟を――新しいエントリからtikani_nemuru_Mさんの言葉を借りるなら――「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」を、形成する。


疑似科学について、私はかつて「社会資源の横領」と述べました。「表現の自由へのただのりの主張」を「社会資源の横領」とは、私はまったく考えないのです。「知識」が金を産むことと、価値にコミットすることは、違います。疑似科学批判は、価値にコミットすることでしょう。

デザインについての簡単な私見は「21世紀の花魁ってのはこんな感じだろうね。キッチュ・ジャパン」というところかにゃ。江戸時代の花魁というのは教養まで要求されたわけで、ある意味ミスコンというものの性格をあらわにしてしまったデザインといえるのではにゃーだろうか? だからこそ反発くらったんだろね。

さて、今回デザインの変更を余儀なくされたのは、呉服店や帯職人の反発というのがでかかったのではにゃーかと考えますにゃ。デザイナーも当初は強気だったようだけど、協力者の反発はシカトできなかったのではにゃーかと。そういう仮定で話を進めますにゃ。



このぶつかりを「ミスコン(=リアル美人投票)におけるケインズ的な美人投票原理(=「クイズ100人に聞きました」のように、何が人気を博すかの推定)によるイメージ演出のためのデザイン商業主義」と「呉服屋や帯職人の権威主義的世間様」のぶつかりと見ることも妥当でしょうにゃ。実際に、呉服屋や帯職人が権威主義的で気取っていて世間様に親和的という側面って否定できにゃーし。

しかし、別の見方もできますにゃ。



帯職人が

「そんなデザインだと聞いてない。わたしの帯を使うな。わたしは降りる」

と言うのを誰も止めることはできにゃーですね。「わたしの帯を使うな。わたしは降りる」を権威主義とか世間様への迎合と見ることもできるけれど、ひとりの職人として公共性を意識した行動と見ることもできるわけですにゃ。世間様と公共性ってのは、場合によっては区別がつかにゃーこともありますにゃ。



別の事例ね。

wikipedia:一澤帆布工業では、ブランドかばんのメーカーである一澤帆布工業でおこったお家騒動について書かれていますにゃ。これがけっこうオモチロイ。

京都の老舗ブランドかばんメーカーである一澤帆布工業では三代目の三男が後継者と目され、実際に切り盛りしていたのだけれど、三代目が死んでしまうと長男がどこからか怪しげな遺言状を持ち出して「自分が一澤帆布工業の正当な後継者だ」と言い出したのですにゃ。三男は裁判戦術でちょっと下手をうって負けてしまい、会社を追い出される。すると職人が全部三男についてきて、新しいかばん屋を興すのですにゃ。仕入れ先(特殊な帆布をおろしていた)も納入先も三男を支持し、長男の会社と取引をやめてしまうのですにゃ。どうやら「職人とか仕入れ先なんて、いくらでも替えがきく」などと長男が発言したことが致命的に職人や取引先を怒らせたという話もあるようですにゃ。



結果的にどうなったかに興味のある向きはリンク先を見てもらうとして、これはすんごく京都っぽい話ですよにゃー。

京都って、閉鎖的で気取っていて世間様がやけに強いところだってのも事実だろうけど、公共意識があって革新が強いというのもありますにゃ。共産党がずっと衆院議席もってるし。ここでは、どうみても横車をおして会社をのっとった長男が、ブランドを当て込んで職人や仕入れ先を軽視したことを公言すると、取引先がさーっとひいちゃったわけだにゃ。「わたしはおまえとはつきあわないよ」と。長男の「替えはいくらでもある」といういわば市場の論理に対して、取引先はだまって「降りて」しまったわけですにゃ。



この「わたしは降りる」が意味を持つのは、「わたし」が「あなた」にとって代替不能な存在であるときといえますにゃ。ミス・ユニバースのコスチュームデザインにおける帯職人・呉服屋、かばんメーカーにとっての職人や取引先は代替不能の存在であったからこそ、「わたしは降りる」が意味を持ちえましたにゃ。


このくだりには正直言って驚きました。


私企業の内部事情と表現の自由とどのような関係が? あるいは公共性とどのような関係が? 関係付けて論じるなら、表現の自由の危機、公共の危機、としか論じられません。『靖国 YASUKUNI』がかつて上映中止の憂き目に遭ったのは、私企業の内部事情でしたが、それこそが表現の自由の危機であり公共の危機である、というのは「意識の高い」人にとって大前提と私は思っていましたが。『靖国 YASUKUNI』が私にとって普通につまらない見世物映画であったこととそれはまったく別の問題です。私企業の内部事情が、日教組の集会を契約を翻してまで阻んではならないから、プリンスホテルは敗訴したのだと思いますが。「集会の自由を私企業が阻んだ」とまで言い切れるかどうかは議論があるとしても。


「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである」「人間的本質は、個々の個人に内在するいかなる抽象体でもない。人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である」という話を私は退けるものではありませんが、それを退けるから表現の自由です。「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない。人間に与えられた能力のなかで、一番すばらしいものは想像力である」と言ったのは寺山修司でした。それはそれで、あまりに68年的ではあるのでしょうが、表現論にコミットする私は、寺山に同意です。

この「わたしは降りる」が意味を持つのは、「わたし」が「あなた」にとって代替不能な存在であるときといえますにゃ。ミス・ユニバースのコスチュームデザインにおける帯職人・呉服屋、かばんメーカーにとっての職人や取引先は代替不能の存在であったからこそ、「わたしは降りる」が意味を持ちえましたにゃ。


「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会をちょっと想像してみましょうにゃ。こういう社会では「わたし」の判断は不可避的に他者へ影響を及ぼすことになりますにゃ。だから、「自由とは自分の自由を守ることである」「自分の好きに生きて何が悪い」はこういう社会ではそうそう成り立たにゃーといえる。というのも、好き勝手なことをすると、他者から縁を切られ、結果的に自分が生きづらくなってしまうからだにゃ。

だから、このような社会では「わたしはあなたに要求する」がでかい意味を持つといえますにゃ。互いに対等な存在として「わたしは〜するけど、あなたはどうするのか?」という一人称および二人称の要請が現実的に意味を持ちますにゃ*3。

逆にいえば

「自由とは自分の自由を守ることである」「自分の好きに生きて何が悪い」という言明の意味するところは

「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」

ということですにゃ。

フリーライドを公言するお歴々はそれでええんだろか? それがチミの自由意志か? とmojimojiならずとも尋ねたくもなりますにゃ。


「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」「このような社会では「私はあなたに要求する」がでかい意味を持つといえますにゃ」それをムラ社会と言うんです。そのようなムラ社会が都市社会に取って代わられたのはこの国にあっても100年前のことです。


私たちが論じてきた文化は、なべて都市社会の文化です。私たちが論じてきた自由は、なべて都市社会の自由です。「見たくないものを見ない自由」は都市社会の自由です。都市社会の自由とは「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」というルールとモラルに規定された自由です。


都市のグローバルな流動性と東京地元民との間に生じる軋轢を深刻なトラブルへと発展しないよう捌いている立場の者として、また東京の公団核家族育ちとして申し上げるなら、「それでええんだろか?」それでいいどころか「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」が都市のルールであり都市のモラルであり、都市生活の素晴らしさであり、都市社会の価値です。100年は前からの世界的状況です。「路地」とその消失といった問題意識は私は大好きだし身近でもありますが文学のそれです。それが近代文学の意味です。近代文学の問題意識もグローバル化再帰性の波に晒されて溶解している、という話もお馴染みです。


グローバル・ヴィレッジを論じたのはマクルーハンでした。手っ取り早くWikipediaから引用しますが。

グローバル・ヴィレッジ(Global village、地球村)という言葉自体はイギリス出身の芸術家ウィンダム・ルイスが1948年の著書『アメリカと宇宙的人間』が初出と見られる。しかし、用語が広まったのは、マーシャル・マクルーハンが1962年の著書『グーテンベルクの銀河系』でこの用語を使用したのがきっかけである。マクルーハンによれば、電子的なマスメディア(ラジオ、テレビ等にはじまる)によって、それまで人々がコミュニケーションをおこなう障壁になっていた時間と空間の限界が取り払われ、地球規模で対話し、生活できるようになった。この意味で、電子的マスメディアによって地球全土がひとつの村に変貌した。


(中略)


この結果マクルーハンは、テクノロジーとメディアの変化に対応した新たな主張を展開するようになった。すなわち、人類が、グーテンベルク銀河系が象徴する個人主義と孤立の世界から、「部族的基盤」をもった集合的アイデンティティへと移動する。この新しい社会構造を指してマクルーハンは「グローバル・ヴィレッジ」という新語を用いたのである。後年この語は普及につれて肯定的に用いられるようになったが、もともとマクルーハンはこの語を否定的なニュアンスで使っていた。


「厖大なアレクサンドリア図書館へ向かうのではなく、世界はコンピュータ、つまり、まさしく揺籃期のSF小説に描かれている電気的頭脳そっくりになってきた。私たちの感覚が外に出ていくにつれ、ビッグ・ブラザーは中に入ってくる。だから、この力学に気づかない限り、私たちはすぐに部族の太鼓と全体的相互依存と二重焼き付けになった共存の小さな社会にふさわしいパニック的恐怖の段階へと入っていくだろう。……恐怖は口承的な社会の常態だ。というのも、この社会ではつねにすべてのことがすべてのことに影響を与えるからだ。……西欧世界に感性の統一と、思想と感情の統一を回復しようという長い努力のなかで、私たちはこのような統一性の与える部族的帰結を受け入れるつもりはない。それは、私たちが印刷文化によって、人間精神の断片化を受け入れるつもりがないのと同じだ」(有馬哲夫訳)。


マクルーハンの主眼点は、メディアが認知に与える影響を意識化する重要性を強調することにあった。実際、テクノロジーが認知や社会に与える影響を意識化することなしには、グローバル・ヴィレッジは全体主義と恐怖政治が支配する場所になりかねない。しかしながら、グローバル・ヴィレッジは同時に、本来の可能性としては、諸問題の解決に貢献する世界規模のフォーラムの形成に寄与し、新しい意味の世界共同体の時代を切り開くこともできたはずなのである。

グローバル・ヴィレッジ - Wikipedia


20世紀初頭に成立した都市社会のルールとモラル、それによって涵養される個々人の生活に基づく自律が、電子メディアの発達と共にグローバル・ヴィレッジにおいて溶解する。「私たちの感覚が外に出ていくにつれ、ビッグ・ブラザーは中に入ってくる。だから、この力学に気づかない限り、私たちはすぐに部族の太鼓と全体的相互依存と二重焼き付けになった共存の小さな社会にふさわしいパニック的恐怖の段階へと入っていくだろう。……恐怖は口承的な社会の常態だ。というのも、この社会ではつねにすべてのことがすべてのことに影響を与えるからだ」そして、マクルーハンはその信仰からも「西欧世界に感性の統一と、思想と感情の統一を回復しようという長い努力のなかで、私たちはこのような統一性の与える部族的帰結を受け入れるつもりはない。それは、私たちが印刷文化によって、人間精神の断片化を受け入れるつもりがないのと同じだ」と表明する。


現在、インターネットがグローバル・ヴィレッジであるとき、マクルーハンのような態度表明は可能か。私は特定の信仰を持ちませんが、そして人間精神の断片化はとっくのとうに自明の状況と考えますが、可能だと思います。少なくとも、インターネットがグローバル・ヴィレッジであるときに、ムラ社会のルールとモラルを言祝ぐ態度は退けます。現代日本の「世間様」とは、現実のムラ社会とグローバル・ヴィレッジが結び付いた、そのことを自覚さえしない日本語文化圏のことです。「世間様」を批判するtikani_nemuru_Mさんがムラ社会のルールとモラルを、ひいては「部族的帰結」を、言祝いでいるとはまったく思いませんが。


繰り返しますが、「「私はあなたに要求する」がでかい意味を持つ」「「わたしたち」ひとりひとりが、みな互いに代替のきかにゃー存在である社会」をムラ社会と言います。私企業の内部事情が、あるいは「業界」が、ムラ社会であることと、またそのことの良し悪しと、「自由な社会」がムラであってはならないことは全然違います。スタジオジブリ宮崎駿の意に染まない映画が実子を監督にしない限り製作されないことと、そして『崖の上のポニョ』が傑出した作品であったことと、表現の自由は、全然違います。


というか、伝え聞く一澤帆布工業レベルのお家騒動など、現実でも昼ドラでも、幾らでも転がっている。そのことと表現の自由と、何の関係がありますか。「人間的本質は、個々の個人に内在するいかなる抽象体でもない。人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である」という話を私は退けるものではありませんが、それを退けるから表現の自由です、と申し上げました。プロの共同作業において民主主義は存在しない、などというのは当然の話です。だからそれと表現の自由といかなる関係が。

僕たちひとりひとりが代替のきく存在か代替不能の存在かということを、レヴィ=ストロースは「真正性の水準」と言っていますにゃ。


その本は以前に読んだはずですが――。tikani_nemuru_Mさんは、エクスキューズの有無へと縮減されるPCのような「自明性」に対置されるものとして「真正性」と言う概念を提示しておられるのだと思います。

これをハーバーマスとの関連でいうと、ハーバーマスのシステムと生活世界の区分や、理想的コミュニケーションが成り立つ種々の条件よりも、ストロースの「真正性の水準」は何よりも集団の規模にかかわるものであり、つまりは圧倒的にシンプルであるということですにゃ。もちろん、「真正」なる社会においては、「しがらみ」は避けることができにゃーものでしょう。代替不能なる「わたし」の判断が「あなた」へ影響を及ぼすことが必然である以上、それは受け入れなければならにゃー。

ローチはここをこそ避けたように思われますにゃ。ローチは「非真正」な社会における自由、つまり「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」「わたしもあなたも代替のきく存在です」という社会における自由と解放を語っているのだから、当然そうなるのでしょうにゃ。

つまり、ローチにとっては「真正性」というものは多分オカルトであり迷信にすぎにゃー。属人的で証明不能で「知識」になりえにゃーものだ。


私の理解では、とお断りしますが。レヴィ=ストロースが説いた構造主義とは、「価値」を括弧に入れて人類社会を検討することの謂でした。なぜなら、「価値」を括弧に入れない限り人類の文明と文化に対して私たちは相対主義的な観点を持ちえない。


つまり、人類の歴史が獲得した普遍的価値であるところの自由・平等・友愛、という認識を括弧に入れない限り、私たちは迷信にかぶれきった野蛮な土人を「他者」として見出すことはない、と。そして自らを「他者」として見出すことさえない、と。よく知られた彼のサルトル批判もこの伝にある。人類の歴史が獲得してきた近代の普遍的価値、そして人間の主体的な自由、という弁証法を、つまりはヨーロッパ人の傲慢を、レヴィ=ストロースは批判しました。で。

そうなのよ、レヴィ=ストロースも、真正性ってのは迷信でありオカルトであると思いっきり認めているのですにゃ。そして、その迷信において公権力の乱用を掣肘するといっているんですにゃ。

ここで重要なのは、ストロースのいう「迷信」というものは反知性主義や反科学とはまったく異なるものだということですにゃ。ここで言われている「迷信」とは、「人間に共通する欲求として、小規模な共同体で生活する要求(P426)」のことなのですにゃ。これは、先ほどのリンク先で稲葉振一郎氏が触れていた進化心理学との知見とも一致するところにゃんね。



さてさて、レヴィ=ストロース自身がこれを「迷信」と認めていることから、実はローチの議論とストロースの議論は本質的に矛盾するわけではにゃーようにも考えられるのですにゃ。

そもそもストロースは自らを科学者と規定していますにゃ。人類学は科学の一分野であり、構造主義は科学の方法論ですからにゃ。ソーカルによるおフランス哲学者批判のときも、ストロースは批判されてにゃーんだよね。一貫して科学に対して正確な理解をしている思想家といえますにゃ。この人が反科学とか反知性主義的なことをいうわけもにゃーのだ。



まず、ローチにおいても「多数の小規模な貴族集団や零細な連帯組織など」が否定されているわけではにゃー。そしてその組織が「真正性」をもち、組織内部で相互の代替不能性において決断し要求しあうことを否定しているわけではにゃー。

ストロースにおいても、特定の組織が「最終発言権」を持つことを要求しているわけではにゃーし、可謬主義を否定するわけにゃーし、科学の作法を全力で肯定するはずだにゃ。そして何より、知識が意見や価値に影響を及ぼすことは「真正」なる社会においても十分に可能なことなのだにゃ。かえってこっちのほうが効率がいいってこともあるかもにゃ。

つまり

それが迷信でありオカルトであることを認めたうえで、ローチの議論に「真正性の水準」を加味することは不可能ではにゃーと考える。ここを迂回して、共同体主義ハーバーマスの公共圏論とも接続できればいいのではにゃーだろうか?


レヴィ=ストロースが言う迷信とは、「価値」を括弧に入れることが指し示す結論です。「自らを科学者と規定」する人類学者の彼はその結論を怖れなかった。tikani_nemuru_Mさんが仰るところの「オカルト」とは、個人の実存の問題であり「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」の問題です。これは全然違います。


「価値」を括弧に入れるとは、普遍の概念を懐疑することです。普遍の概念を絶えず懐疑すること、それがレヴィ=ストロースというフランスの明晰な頭脳の生涯を貫いた知的態度でした。「あっさりと避けられてしまったけれど」と書いておられますが、私としては、率直に言って、この問題についてtikani_nemuru_Mさんがレヴィ=ストロースを引くことの脈絡がわかりかねています。


つまり、レヴィ=ストロースがそうであったように、また小林秀雄がそうであったように、普遍の概念を絶えず懐疑することは知的態度でしかないからです。PC的な「自明性」に対置されるものとして「オカルト」としての「真正性」を提示する――そのような脈絡なら了解します。


であるならば。第一に、小林秀雄が説いた「常識」とムラ社会の論理は違います。「世間の常識」とはムラ社会の論理です。ムラ社会の論理は合理的で、合理的であることは自由を抑圧することです。「差別は正当かつ合理的である」と仰ったのはtikani_nemuru_Mさんです。私も同意です。人は、自由において、水が高きから低きに流れるように、正当かつ合理的に自由を抑圧する。なぜなら、人間の考えることの7割は差別的だから。息を吐くように抑圧に加担するから。


それを掣肘するものとして、表現の自由はある。ローチはそう言いました。人間の考えることの7割は差別的で、それを表出すると殺し合いが発生するから、自分の考えることの10割の手札を切らなければならない、と。ローチも、3割に賭けていることは同じです。人間の考えることの「3割」に。ただし、3割に賭けるためには7割を一切の抑圧なく開放しなければならない、つまり、10割の手札を切らなければならない。そう彼は考えている。


普遍の概念を、自由と平等と友愛の普遍的価値を、絶えず懐疑したレヴィ=ストロースは、人類社会はどのような社会であってもムラ社会であることを免れない、と認識していました。それは、彼の絶えず懐疑する明晰な頭脳が叩き出した結論です。人類社会のファイナルアンサーと私も思います。


しかし、その認識は当為としての「二人称の要請」を導き出すか。彼は、「自由を守ることは他者の自由を守ること」という当為に対して、市民として、普遍的価値を掲げる社会の構成員として、コミットするでしょう。furukatsuさんがずっと言っておられたのも、そういう話です。


認識と当為が別なら、「二人称の要請」など成立しません。そしてそもそも、認識と当為は別なので、原理的に成立しません。認識によって当為を導き出すことはできない、ということです。「価値」とは個人において当為を導き出す概念です。コミットとはそのことです。だから「ひとりの市民として」「社会の一員として」という言明がエクスキューズとしてしか受け取られない。表現の自由を主張しながら、要は、自由の価値を信じていないんでしょ?――と。当然、私は、そのような疑義それ自体が、間違っていると考えます。


普遍的価値とは、万人がコミットして然るべき概念ということです。それをこそレヴィ=ストロースは懐疑しました。もちろん、彼は、普遍的価値を掲げる社会の構成員として、普遍的価値にコミットしている。シラク肝入りのケ・ブランリにも老身を押してコミットしました。ただしそれは、彼の明晰な頭脳が叩き出した結論から導き出されたコミットではない、ということです。当然、処世や渡世という話でもない。この種の乖離は、現代の知的世界にありふれている。処世や渡世として、また知的不誠実として、小谷野先生がよく指摘していますが。


万人がコミットして然るべき概念、そして個人において当為を導き出す概念を括弧に入れるとき、レヴィ=ストロース構造主義は成った。迷信にかぶれきった野蛮な土人に「他者」を見出す術を私たちは手に入れた、ということです。そして彼の明晰な頭脳と「科学的」な方法論の絶えざる研鑽は、普遍的価値を掲げる私たちの社会が迷信にかぶれきった野蛮なムラ社会であり私たちもまた私たちの掲げた普遍的価値に照らして土人でしかないことを認識し、指摘しました。


その認識は、現代の社会思想において前提の前提の前提くらいです。それを為したのは、当然、彼が絶えず研鑽した「科学的」な方法です。だから、彼は「科学的」な方法を研鑽し、「科学的」な方法にコミットし続けた。ローチが言っているのも、そのことです。「科学的」と括弧に入れているのは、むろん、彼らを貶めているのではない。ローチが提唱する「自由科学」もまた括弧入の「科学」概念であるということです。レヴィ=ストロース構造主義に際して説く「科学」同様に。

しかし、ローチとレヴィ=ストロースでは(多分ハーバーマスはストロースに近いと思われる)、自由に対する考え方がやはり大きく異なるということは認めにゃーとね。


――たとえば引用部において、レヴィ=ストロースが言っているのは、ルソー的な普遍的価値を私たちは懐疑せよ、という以上のことではありません。ムラ社会でない社会は過去にも未来にもこの世のどこにも存在せず、社会は自由と拘束のセットを必要としており、私たちが野蛮な迷信と規定してしまうそれは、時に正当で合理的であり、人類の社会資源である、と。言うまでもなく、彼はヘーゲル的な歴史段階論をこそ否定しました。


で、その、明晰な頭脳と絶えず研鑽される「科学的」な方法が叩き出した人類社会のFAとしての透徹した認識から、どのような当為が導き出されますか。繰り返しますが、当為において、彼は市民として、普遍的価値を掲げる社会の構成員として、普遍的価値にコミットして、ケ・ブランリの落成式にも出席している。私は彼を貶めているのではない。


構造主義サルトル批判と共に導き出した、人類社会のFAに対して、どのようにして、当為を導き出す概念を、つまり「価値」を、それも万人がコミットして然るべきものとして、形成するか。脂汗流しながらハーバーマスが提示したアンサーこそコーヒーショップの公共圏論でした。つまり「私は「あなた」に要求する」「二人称の要請」です。


それを推すtikani_nemuru_Mさんがレヴィ=ストロースの当該引用部を彼の「自由に対する考え方」として引く所以がわかりかねます。なぜなら、ローチの言う「自由科学」は、当為を導き出す概念だからです。むろん、レヴィ=ストロースハーバーマスの後で。「価値」を括弧に入れることが、私たちの社会を多様にしてきた、「価値」を括弧に入れることは、私たちの社会を多様にすることでなければならない、それは正当で合理的な迷信を信じる野蛮のことではない、と。


レヴィ・ストロースは、野蛮な迷信を人類の社会資源と考えていましたが、しかし彼自身は世界に対する認識において野蛮な迷信を――自由・平等・友愛のような野蛮な迷信を――絶えず退けてきました。それが、彼が信じてきた「科学的」方法です。しかし彼は、野蛮な迷信を人類の社会資源と考えた。それは、彼の「科学的」方法に基づく透徹した認識が叩き出した結論です。


然るにローチは、当為を導き出す概念として「自由科学」を提唱した。それが人類の社会資源であろうとも、世界に対する認識において野蛮な迷信を絶えず退けることが、自由と平等と友愛を実現させる、と。当然、アメリカ人であるところの彼は、自由と平等と友愛を野蛮な迷信とは考えない。ムラ社会は真っ平御免だからです。その点、私もローチに同意です。それは、当然、価値の問題です。


サルトルに対して、レヴィ=ストロースは「価値」の括弧入と普遍の懐疑を唱えた。価値の問題が、改めて問われているのだと思います。たとえば、ムラ社会は真っ平御免という価値が。「つまり、ローチにとっては「真正性」というものは多分オカルトであり迷信にすぎにゃー。属人的で証明不能で「知識」になりえにゃーものだ。」――つまり、そういうレベルの話ではありません。


「人類社会に迷信は不可欠である」とレヴィ=ストロースは言いました。それは「知識」の問題です。「人類社会に迷信が不可欠であってはならない」とローチは社会思想として言っている。「自由科学」とはそのことで、それは「価値」の問題です。そして、現在のリベラルで価値多元的な人類社会にあって迷信とは個人の実存であり傷つく心であり「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」である、その迷信は「知識」の確立に際して退けられなければならない、とローチは言っています。


たぶん、レヴィ=ストロースも同じことを言うでしょう。「科学者」レヴィ=ストロースは当然、野蛮なムラ社会は真っ平御免だろうから。ブレヒトナチスの脅威のもと『ガリレイの生涯』を書いたように、ガリレオ・ガリレイのことを私たちは忘れていないはずです。


約めれば、私たちの社会がムラ社会であることを免れないことと私たちがムラ社会を真っ平御免と考えることは両立しうるということです。レヴィ=ストロースが提出した人類学的知見において、そしておおよそ現在確立された「知識」において、いかなる社会もムラ社会であることは免れない。だからこそ、私たちはムラ社会を真っ平御免と考えるのだ、という話。そしてそれは、個人において当為を導き出す概念です。人が、立場と個別利害を超えて、何かにコミットする契機です。「価値」の問題とはそのことです。


そのような「自由科学」の価値について、ローチは主張している。個人の実存が、傷つく心が、「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が、現在、個人において当為を導き出す最大の概念であり何かにコミットする最大の契機であるからこそ、それに拮抗する概念として「自由科学」の価値を、彼は主張している。――私の理解では。


価値は迷信である、という議論に意味はありません。成立もしません。レヴィ=ストロースもローチも、そんなことは言っていません。だからレヴィ=ストロースは、「価値」を括弧に入れた人類社会の検討を提唱し、ローチは、たとえば構造主義という果実において、「価値」を括弧に入れる「自由科学」の価値を説きました。

帯職人が

「そんなデザインだと聞いてない。わたしの帯を使うな。わたしは降りる」

と言うのを誰も止めることはできにゃーですね。「わたしの帯を使うな。わたしは降りる」を権威主義とか世間様への迎合と見ることもできるけれど、ひとりの職人として公共性を意識した行動と見ることもできるわけですにゃ。世間様と公共性ってのは、場合によっては区別がつかにゃーこともありますにゃ。

この「わたしは降りる」が意味を持つのは、「わたし」が「あなた」にとって代替不能な存在であるときといえますにゃ。ミス・ユニバースのコスチュームデザインにおける帯職人・呉服屋、かばんメーカーにとっての職人や取引先は代替不能の存在であったからこそ、「わたしは降りる」が意味を持ちえましたにゃ。


個人の代替不能が個別利害の問題としてのみあるのがムラ社会の論理です。個人の実存や傷つく心や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が私企業の内部事情を通じて公共性に還元されると直線的に認識しうるのがムラ社会の論理です。個人の実存や傷つく心や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が教会の内部事情を通じてガリレオを審問した論理です。正当で合理的な。そして野蛮な。当然、現代の社会ははるかに複雑です。そして多様です。複雑性の縮減が多様性の縮減と直結することこそ私の憂慮することです。


それは、いかなる人類社会にあってもそれが社会である限り免れない、とレヴィ=ストロースが喝破した迷信です。インターネットがグローバル・ヴィレッジであろうと、この論理は通りません。「ポジショントーク乙」と言われる。だから、日本語圏のWebは今なおこの国にあってもっとも公共圏に近い場所でしょう。


公共圏論とは、ムラ社会の論理に対してダメ出すもののはずです。当然、ローチもダメ出しています。人間的本質がその現実性において社会的諸関係の総体であることと、個人の実存や傷つく心や「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」が公共性に横車を押すことは、全然違います。表現者に自重を求めることとも、違います。「表現者は社会的諸関係に対する意識を要請される」というのは当たり前の話であって確立された「知識」です。誰しも認識している。


にもかかわらず、「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない。人間に与えられた能力のなかで、一番すばらしいものは想像力である」からこそ、表現の自由がある。それは、価値の問題です。繰り返しますが、価値は迷信である、という議論に意味はありませんし成立もしません。レヴィ=ストロースもローチもそんなことは言っていない。価値とは、人の当為を導き出し、コミットへと駆り立てる概念です。自由も、人権も。


寺山修司のその言葉に、毎度のごとき香具師の口上に、しかし私たちは狂ったように駆り立てられる。昔も今も。「書を捨てよ町へ出よう」と言った彼の人に。隣の奴が何処の誰かも知らん何をやっているかもわからん訳わからん奴でもこちらに累が及ばない限り無問題と許容する、「私の存在はあなたにとって何の意味もありません。あなたの存在も私にとって何の意味もありません」を是とする、都市社会の可能性に、70年代の路上に賭けたその人に。故郷のムラ社会とその表象たる母親の桎梏に苦しんだその人の実存に。


「科学者」レヴィ=ストロースが当然そうであったように、「価値」を括弧に入れることは、「価値」を選択しないことでも、「価値」を迷信と見なすことでもありません。「価値」の選択に対する「二人称の要請」に甲斐はあるかとローチは言っている。つまり、それが個人の実存と傷つく心と「退っ引きならぬもの」「肝に銘じて知るもの」の問題である限りにおいて。


それが――「価値」を括弧に入れる「自由科学」という「価値」を選択し、その概念を提唱することです。「価値」とは、正当で合理的でない、よって野蛮でもない、「迷信」のことです。それをして、tikani_nemuru_Mさんは、「良いオカルト」と言っておられるのでしょう。そのことと、レヴィ=ストロースが言う「迷信」は、混ぜるな危険、です。


「死んだ子供」の「価値」という「迷信」がいかなる人類社会にも付いて回ることをレヴィ=ストロースは指摘しましたが、その「価値」について括弧入することを、ローチの「自由科学」は「知識」の確立に際して主張している。死んだ子の歳を数えることは「自由な社会」という価値的概念のオプションにない、というのが彼の主張だからです。


死んだ子の歳を数えることは結構です。そもそもそれは、いかなる人類社会にも付いて回る「迷信」でしょう。ただし、「自由な社会」のオプションにそれを追加しないでいただきたい。そのオプションは「自由な社会」それ自体の価値を毀損する。それこそが「表現の自由を脅すもの」だからです。光市母子殺害事件差戻審の際の顛末に、私は辟易しています。価値の毀損は、個人における当為とコミットの喚起を、脱臼させます。