差別的であることは銀の弾丸ではない


エロゲが差別的って、当然のことです。ポルノってのはそういうジャンルで、文学ではないし文学的価値もない。「文学ではないし文学的価値もない」というカテゴリーとしてポルノというジャンルは位置付けされている。「文学的価値」という概念が無批判に社会に流通して銀の弾丸と化していることを改めて確認した次第です。


男流文学論 (ちくま文庫)

男流文学論 (ちくま文庫)


『男流文学論』というのが昔あって、そのコンセプトは「文学的価値」なる概念とその無批判な社会的流通に対する批判だった。文学と見なされている三島や吉行や谷崎の小説はかくも差別的で、時にポルノでしかない、と指摘し批判した。その批判を指して、君たち小説が読めていないよ、と言ったのは蓮實重彦だけど。


たとえば川端康成のような、文学と見なされているフィクションに対してその性差別性を指摘することと、ポルノが性差別的と指摘することは、端から違う。ポルノが差別的なのは当たり前で、第一に抜くための実用的な記号なんだから。個人の性的嗜好が政治的に正しくないことは当然で、異性愛だって「的」の問題なら「差別的」ですよ。「政治的に正しい性的嗜好」なんてのは悪質な冗談でしかない、という話。アメリカだってそうなってはいない。


文学と社会的に見なされているフィクションが女性の主体性を無視していることは批判の対象たりうるし、そのような「文学と社会的に見なされているフィクション」はゴマンとある。性差別的かと問うならそれは性差別的です。そもそもカテゴリーに基づく搾取です。でも誰も川端康成を規制せよとは言わない。ゾーニングせよとさえ言わない。別に川端康成でなくとも「性差別的」な大衆小説や青年マンガは腐るほどある。でもレーティングがされているわけではない。お約束の世界が政治的に正しくないことは致し方ないことで、文学は「お約束」を解体するものとしてカテゴライズされているので、たとえばかつての筒井康隆断筆問題のように、「お約束」を解体する表現が最悪のお約束としての「差別」とどうフィクションにおいて向き合うか、そのことは問われる。


ポルノ規制の論理は現行法的には「公序良俗」の問題なので、だから猥褻物の出版頒布は最終的に公安マター。AV方面のことは私は詳しく知らないが、表でポルノを販売することは官憲の公安思想とうまくお付き合いすることで、表で商売している当事者にとってはそういう問題であって、そこに加えて表象とその流通の差別性について顧客以外の立場から指摘された結果として、現在がある。いちいち任意の表象を検分するまでもなく、ポルノは差別的です。検分しなければならないときもある。たとえば松文館裁判で被告側証人として出廷した藤本由香里は、摘発された出版物における表象の性差別性について証言していた。内容的には殊更に性差別的なものではない、と。


差別的な表象を一律規制すべき、などという話にも、ポルノは差別的なので全面的に規制すべき、などという話にも、たぶん誰も賛成しない。「痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせる」ことに限定して問われているのだろうし、「和姦しか描かない」と言いきったエロマンガ家もいて、それはポルノの差別性に対するその作家のアンサーだろう。


「痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせる」ことに限定してその差別性を問うているのなら、その差別は現実の差別でしょう、としか言えない。市民社会の構成員である私たちは、現実の差別を撤廃する責務を負っている。しかし、現実に差別が存在することを理由とする、差別的な表象の規制を認めることはできない。少なくとも、私はそれに賛成しない。


順序が逆で、現実に差別が存在するとき、差別的な表象を規制することは、少なくとも差別問題の本質的な解決には寄与しない。かつての大手メディアにおける自主規制の結果が、2chにおける差別表現の横行だったと私は思っている。そして2chはとっくに裏ではなく表だ。ヘイトスピーチ規制とは問題のレイヤーが違うし、「良識ある」ドイツ人は、法規制を緊急避難的な措置と考えているだろう。それは、良識が糞の役にも立たなかった過去を彼らが知っている、ということでもある。考えるべきことは、そのことなのだ。


それが差別であることと、差別的であることは、違う。前者は人権問題だが、後者は表象の問題だ。人権問題として特定の表象の法規制を論じることには私は到底賛成できない。人権問題として取り組むべきは、差別的な表象を社会の大通りから法的に駆逐することではなく、差別的な表象の差別性と差別の悪について社会的な文脈を構築することだからだ。文脈の構築が法的に為されることについて、この上意下達の国では私は賛成することができない。


差別は撤廃すべきだが、差別的表象は撤廃すべきでない。それが差別であることと、差別的であることは、決定的に違う。その相違を弁別せずに差別的な表象の法規制の理由に人権問題を持ち出すことは、私は認められないし、そしてそれは強力効果論として主張されるべきことで、「差別的な表象は差別的だから法規制されるべきである」は、単体として主張されるなら、まったく認められない。


「差別的な表象は差別的だから、差別的な表象の差別性と差別の悪について社会的な文脈を構築すべき」に私は賛成で、そしてそれは国家の法によって為されるべきことではないと私は思っている。本来的に、ヘイトスピーチに対しても。「思想犯」という概念を私は認められない。差別的な表象の差別性と差別の悪については、たとえばblogで、個々人が発信し議論するところから社会的な文脈を構築するしかないと私は思う。それが「匿名空間」としてのインターネットにおける綺麗事であるとしても。


女性の主体性を認めない、またそのことに対する批判の視点もまるでない表象は現在進行形で山とある。もちろんそのことは現実の性差別のまごうかたなき反映であって、批判され続けるべきことだ。だからと言って、私たちは渡辺淳一の、Yoshiの、著作出版を規制せよとは言わない。書店に平積みするべきではないなどと言えるはずがない。販売規制の可能性を認めるとは、そういうことだ。端的に言って、市場に対する掣肘でしかない。ポルノだから仕方がない、というのは、別に構わないが、公安の理屈である。


作家が公安思想の裁量下で商売しているという話は寡聞にして聞かないしそれは作家の恥だから自分では言わないだろうが、歴史的な経緯もあるといえ、ポルノで商売することは公安思想の裁量下で商売することで、そのことに対する皮肉であろうと、差別性を理由に官憲の公安活動を奨励することは、私は全然賛成できないし、反差別団体だって賛成しないだろう。


ポルノの特定ジャンルを差別の二文字を理由に駆逐することは、それが法的な行為であれ自主規制であれ、間違ったことであって、ポルノ特定ジャンルの愛好者に対する弾圧と言ってよいことなのだが。現実の差別の反映であることを理由に差別的な表象を規制することには私は全然賛成できない。もちろん自主規制はされている。「放送禁止映像」はなべて自主規制と商業的判断と当事者間の法的問題の産物である。法的規制と自主規制は全然違う。


差別的な表象が差別を再生産ないし強化することはあるだろう。そのことに対する方策は、差別的な表象が差別の再生産に与することのない社会的文脈の構築であって――その点で表現第一でなく商業第一の業界の自主規制やゾーニングはたとえば佐藤亜紀のような表現第一の立場から60年代以来ずっと批判されてきたのであって――断じて公権力による表象狩りではない。ポルノが公権力に狩られるジャンルであることは、カテゴリーに基づく搾取の結果であって、別に業界の自作自演ではない。


放送禁止映像大全

放送禁止映像大全