書評『下北沢の獣たち』(空中キャンプ)


http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090504#p1

これから私が話すことは、自由と反抗についての物語であり、同時に、剥奪と服従の物語である。これらの相反する概念について私がひとついえるのは、たいていの人びとは。その中間を生きているということだ。完全な逸脱や、百パーセントの服従が存在しないように、人はある場面ではそれなりに自由であり、別の場面では相応に不自由である。


3篇の短い物語を収めた小説集は、ドストエフスキーの『悪霊』から引いた巻頭言の後に、その宣言をもって開巻する。3篇の一切を貫くアフォリズムを示してみせるのは、宣言に続けて「しかし、私には中間がない。すべてが過剰に満たされているか、まるごと剥奪されているかのどちらかなのだ。」と述べる『アイコ六歳』だ。


「たとえば私の家は千代田区のまんなかにあって、東京でこんな広い家に住んでいる人はどこにもいない。同時に、私は自らの意思で家の外へでることがほとんどできない。満たされながら剥奪されている、これがそのひとつの例。」そして例を並べてみせる六歳の少女に、私たちはあの仏頂面の少女の面影を重ねてしまう――著者の企みに乗せられて。「私たち家族の住むゴージャスな牢獄を訪ねたたくさんの人たちが、すてきなお屋敷ですね、と口を揃える。」ことの意味を少女は知りながら、しかし六歳の少女は大人たちに皮肉を返すことしかできない。「お母さん」に甘えるために。


「あらためて――これは自由と反抗の物語だ。私を支配し、服従させようとするなにかに向かって、濡れた運動靴でぴしゃりとおみまいする物語だ。」『下北沢の獣たち』という短編小説集を貫く基調音として「アイコ六歳」の口を借りて述べられるこの前口上が、そして同時に、その前口上を述べてみせるのがほかならぬ「アイコ六歳」であることが、この知的な小説集の皮肉なコンセプトを私たちに伝える。


――自由と反抗と、その不可能の物語として。世界システムに対する個の無力の論証として。支配と服従によって調教される、私たちの幸福の皮相な真実について。だからこそ、私たちが夢見てしまうことについて。世界の政治的な現実を、私たちが暗喩においてフィクショナルに理解しようとする必然について。巻頭に引用されるドストエフスキーの言葉は『真実を真実らしく見せるためには、ぜひとも真実にすこしばかり嘘を混ぜなくてはならない』という。私たちは、真実について述べるためには、嘘をつかなければならない。

『アイコ六歳』


表徴の帝国の中心に位置する空虚の森には、選ばれて生れ落ちて、そして女であるがゆえに「選ばれなかった」仏頂面の子どもと、その「お母さん」と、海彦・山彦と少女が呼ぶ運転手兼ボディーガードの「友だち」と、米の王である少女の「おじいちゃん」と、傷つき怯えたきつねが、暮らしている。空虚の森に生れ落ちた、あるいは嫁いできた、もしくは職務としてそこにいる、その人たちはみな生身の人間で、しかし空虚の森に暮らす生身の人間には各々の役割があり、その生を捧げる対象がある。


「すてきなお屋敷ですね、と口を揃える」大人たちの帝国主義的思惑に反抗する選ばれて選ばれなかった少女は、しかし「おじいちゃん」の原因不明の体調不良を知って、愛してやまない春の千鳥ヶ淵の満開の桜のことを思い出す。彼女がそれを愛してやまないのは、そのめくるめく色の洪水が、帝国の思惑に翻弄される少女の早熟な実存的不安に眩しく映えたからにすぎなかったのだが。


「私がまだ経験したことがないことのうち、とても人にいえないとおもうのは、お金を使ったことがないということだ。これだけはみづきにもいえずにいる。」そう自らを述べる少女にとって「みづき」は、彼女が通う小学校の同級生で、ただひとり彼女が本音を打ち明けられる友だちだ。たとえ「とりたてて裕福というわけではなかった」「みづきの家」に友だちとして少女が遊びに行くことが「みづきのお母さん」にとって一大事であったとしても。


少女は、みづきに誘われて遊んだコックリさんに告げられて、帝国の中心の空虚の森に、自分たちと共に、傷つき怯えたきつねが「マダイル」ことを知る。そのきつねは、少女の「ひいひいひいおじいちゃん」がかつてその鳴き声に悩んだきつねだった。きつねは「イキテイル」。少女の「ひいひいひいおじいちゃん」はきつねの鳴き声に夜毎苛まれて「たくさんお祈りをしたそうだ」。

私たちの家族はいろんなことをお祈りする。日本中のねがいごとをあまねく引き受けて、たいていはそれなりに叶えてみせる。それが私たちの役割なのだ。いちばん重要なのは、ちゃんとお米が育つようにお祈りすること。稲の豊饒を祈ること。だから家族みんなで、気合を入れてやるわけね。私もたくさんのお祈りをしている。(略)


飛行機が運悪くどこかの山奥に墜落しませんように。


困っている人々がなんとかなりますように。


世界中のきりんが長生きしますように。


その他いろいろ。


米の王が、帝国の中心に位置する空虚の森に生れ落ちた者が、嫁いできた者が、祈るべき対象について、空虚の森に暮らす生身の人間がその生を捧げる対象について未だ詳しく知らない仏頂面の六歳の少女は、森の奥深くの闇で、その森で生まれ、その森に嫁ぎ、暮らす者たちとずっと共にあった、傷つき怯えたきつねと出会う。


少女に促されて少女と共にきつねを探すのは、海彦・山彦と、少女の「お母さん」と、みづきだ。「私とみづきのどちらが欠けても、それは見つからないような気がした。」そう、そして少女の「お母さん」も。森の奥で、きつねの居場所を指し示すのは、みづきと、「マサコ様」と海彦に呼ばれる少女の「お母さん」だ。少女が「お母さんなら説明すればわかってくれるような気がしていた」のは、大人たちの帝国主義的思惑に皮肉で反抗し「私を支配し、服従させようとするなにかに向かって、濡れた運動靴でぴしゃりとおみまいする」彼女が、そのことで「お母さん」に甘えていたからだ。「お母さん」は、そのことをわかっている。

うそだった。ただし、お母さんなら説明すればわかってくれるような気がしていた。私たちはきつねを探さなくてはいけない。びんに詰められ、海へと流されたメッセージを回収し、読み解かなければいけないのだ。そのようにして私たち家族は長らく、なにか見えない存在へ向かって祈り、実りと災いの行く末を導いてきた。お母さんはそのことをちゃんと知っている。


「どうしてきつねなの?」とみづきはいった。


「私のひいひいひいおじいちゃんのころから。ずっと続いていることなの」と私は答えた。「ずっとそこで暮らしてたんだよ」


きつねたちはきっと、林のどこかで怯えている。


「だいたい、どうして急にきつねなんですか? われわれは田んぼとか林のあたりを歩きませんから」と、海彦・山彦は言う。当然のことだ。彼らの役割は田んぼや林のあたりにはない。空虚の森に抱かれて生まれ、そこに暮らし、やがてそこに死んでいく者にしか、「ずっとそこで暮らしてた」きつねのことはわからない。さびしさと、孤独。

私はこの林で、よく目まわしをやって遊んでいた。アイススケート競技のように、平衡感覚がなくなるまでぐるぐる回転してから、ばたんと倒れるのだ。地面に横になってからも、まだ世界はまわっていた。私はずっと、ひとりで林をうろうろしていた。寂しいとはおもわなかった。どうしてそんなことが平気だったんだろう。


もっと誰かと一緒にいればよかった、と私はおもった。


そして少女は、傷つき怯えたきつねと邂逅する。「遅れてごめんなさい」と少女は言う。

私は、間に合わなかった人々のために語りたい。漆黒の闇に吸いこまれて消えてしまった人びとや、こちら側へ引き返す力をすでに失った人びとのために。彼らが再び、心臓をはげしく鼓動させて走り出すことを祈りながら。


帝国の思惑の中選ばれて生まれ、しかし選ばれなかった女の子は、選ばれて選ばれなかったことに、そして自分が何も選べないことに、お追従を装って支配と服従を強いる大人たちの言葉に、反抗する。空虚の森に嫁いだ母に甘え、とりたてて裕福というわけではない家に生まれた聡明な少女に「どこか別の世界でごく平凡に生きている」「もうひとりの私」を見る。その早熟な少女は、しかし生れ落ちたそのときから自らを抱く森の奥深くに今もきつねが生きていることを知り、その傷つき怯えたきつねと会う。帝国の中心に位置する空虚の森の、奥深き闇の中で。


その闇は、森の傍らにたたずむ千鳥ヶ淵の満艦飾の桜のように、そして宮城が江戸城であった昔から、日出国の「間に合わなかった人々」を飲み込んで、いっそう闇を濃くしていった。そして、とりたてて裕福というわけではない家の少女が選ばれて選ばれなかった特別な少女と始めたコックリさんが告げるように、21世紀を10年経てなお「キツネハ マダイル」。


空虚の森に抱かれて生まれ、そこに暮らし、やがてそこで死んでいく生身の人間には、役割がある。日出国が日出国である限り、森の奥深くに棲むきつねと共に暮らす役割が。きつねの存在に気付いてあげる役割が。少女は己の役割を自覚する。しかし女に生まれた子どもは「幸いにして」その森に抱かれて死ぬことはないだろう。米の王である彼女の祖父のようには。あるいは空虚の森に嫁いだ彼女の「お母さん」のようには。いや、女に生まれたからこそ、少女はきつねに会うことができたのだろう。紀元節に遡る共同幻想が、ひたすらに吐き出してきた「間に合わなかった人びと」と。


日出国の血まみれの歴史の、あらゆる痕がその森には刻まれていて、その森に抱かれて生まれる者、その森に嫁ぐ者、空虚の森に抱かれて暮らす生身の人間には、その刻まれた痕を背負う役割がある。その痕を背負うのが、選ばれて選ばれなかった子どもであるということ。この短い物語には、あの大鳥居が聳え立つ神社は登場しない。私は村上春樹という小説家の、暗喩に満ちた最大の問題作を思う。しかし村上春樹は、傷ついた少女の心をこのように丁寧な手つきですくいあげようとはしない。

とても気持ちのいい天気だった。この国の豊饒をまとめて一年分祈っておくのにはうってつけの日だと私は思った。これから稲の苗を植える。今日の儀式はもちろん、米の王である私のおじいちゃんによって取り仕切られる。彼は力づよく立ちあがって、みずからが米の王であるところをこの国中に見せつけるのだ。今日はできるだけたくさんのことを祈ろうとおもう。みづきと健太君がずっとずっとなかよくしていられることを。どこかのこわい人が、海彦や山彦を傷つけないことを。お母さんや、おじいちゃんのことを。


私は、間に合わなかった人びとのために祈りたい。


「間に合わなかった人びと」のために祈ることを知った少女は、空虚の森に抱かれて生まれ、森の奥深くの闇に棲むきつねと共に暮らすことの意味を知った。それを、文化人類学的には、あるいは神話的には、巫女と言う。頭脳明晰なフランス人が感嘆した表徴の帝国の21世紀には、日出国の千年を貫く闇が鬱蒼とした空虚の森として鎮座し、「マダイル」きつねを鎮めるべくその闇へと捧げられる巫女を必要とする。「アイコ六歳」は巫女の自覚に目覚め、米の王の娘としてあることの意味を知る。『こわれた腕環』のアルハとテナーを私は思い出す。巫女としての私と、人間としての私。巫女として生きる私が夢見る人間としての私。――しかし。


小説は、祭祀の日に、少女とみづきとそのボーイフレンドの健太君を乗せた「アイコ六歳」御用達の車がドライブスルーに入る場面で終わる。

「海彦、千円ちょうだい」と私はいった。私は、海彦の手からひったくるように千円札をもぎとった。ドライブスルー用のマイクが見える。このマイクに向かって、私は自由を宣言するのだ。私を服従させようとするなにかに向かって、大きな声でノーと叫ぶのだ。


ハンバーガーをひとつください」と私はいった。


少女が、女に生まれたがゆえに空虚の森に抱かれて死なないだろうことを私たちは知っている。自覚した巫女の役割をいずれ忘れ、会うことのできたきつねとも引き離されるだろうことを私たちは知っている。みづきのことを忘れるだろうことを私たちは知っている。そして支配と服従の中で、裕福で身分賤しからぬ誰かの家で幸福に死ぬだろうことを私たちは知っている。そう、それは掛け値なしに幸福なことだ。


ハンバーガーを買うことが反抗でもなんでもなく支配と服従と剥奪そのものであることを私たちは知っており、いずれ少女も知るだろう。自由とは想像上の存在であることを。UMAのようなものであることを。「だから」私たちが孤独に想像することを。寺山修司が言ったように、それが自由であることを。


日出国の千年を飲み込んだ森の奥の闇できつねと暮らすことは、巫女であることは、幸福だろうか。帝国の思惑に翻弄される何ひとつ自ら選ぶことのできない孤独な少女にとって、みづきや健太君や海彦や山彦や「お母さん」や「おじいちゃん」のために、「間に合わなかった人びと」のために森の奥の闇に棲む傷つき怯えたきつねを鎮めるべく祈ることが、唯一許された自由であったとしても。


だから、少女は、「私を服従させようとするなにかに向かって、大きな声でノーと叫ぶ」ために、ドライブスルーでハンバーガーを注文する。自由のために。その自由は、想像上の存在でしかなく、不可能だ。だから、小説は、特異な境遇にある少女の、何の変哲もない言葉で終わる。


彼女は、帝国の思惑から巫女に仕立て上げられたのではない。選ばれて選ばれなかった子どもであったがゆえに、自らそうなることを選んだ。きつねを探して、出会った。その自由は、ドライブスルーでハンバーガーを注文する自由と、同じこととしてある。それが想像上の存在であることも。


その自由の不可能について、特異な境遇にある少女の心象風景から描き出される『アイコ六歳』とは逆の方向から、表題作でもある『下北沢の獣たち』は徹底してハードボイルドに、状況と局面の記述として、世界の縮図を表す寓話として、描き出す。猫でさえ、この人間世界では自由は許されないと。

『下北沢の獣たち』

猫に対する人間の態度もまた多様だ。たいていの猫は人間に怯えているけれど、愛情をもって接してくれる人間は多い。俺は、おおむね人間は猫のことが好きなんじゃないかとおもう。ただし、彼らの庭を横切ったり、夜中に大きな鳴き声を出したりすれば、猫ははっきり排除される。


そう述べる語り手は、時に捕獲機によって「保健所に連れていかれることもあるし、その場で殺されてしまうこともある。」下北沢に住む「野良猫」だ――人間にとっては迷惑至極な。しかし捕獲機という手段は、外聞という社会的評価や人間性という共同幻想に即して行動するややこしい動物にあっては、いかに野良猫の非社会的な行動習性が迷惑であれ採用されることはまずない。「荒井が町内会長になるまでは。」


「資本主義社会がカール・マルクスを憎んだように、ローマ教会が地動説を憎んだように、荒井は猫を激しく憎んだ。」町内会長の荒井は、捕獲機の大量設置に執心で「下北沢のアイヒマン」の異名を語り手から授けられる。無駄に仕事熱心な男というのが世の中にはいて、そういう男は仕事熱心それ自体が自明の正義と思っている。盲鉄砲は弾丸の浪費でしかないのだが、野良猫の駆除に表立って反対する地域住民もあまりないだろう。捕獲機という、シャワー室と名乗ることさえしない文明の利器の外聞を除けば。再開発の渦中にある下北沢は、古きよき町ではないし、とくにそうであったためしもない。余談だが、私は世田谷区内の小田急線沿線で育ったので、作中で仔細に描かれる下北沢事情やその地理風景にニヤニヤさせられる。


捕獲機の大量設置は、猫の大量凍死を避けるための越冬プロジェクトとして発足した「評議会」という下北沢の猫たちの相互扶助団体を「比喩的にではなく震撼させ」て、意見の相違から分裂の危機へと至らしめた。「できるだけ人間の迷惑にならない生活の方向性を模索する穏健派と、これまでと変わらぬ暮らしや、人間との対決すらをも辞さない急進派である。」


急進派のリーダーであるゴロゴロを認めながらも意見を同じくしない、賢明な猫である語り手は、言う。「人間とまともにやりあって勝てるとはおもわないが、天気のいい日にのんびり寝転がるくらいは許してくれてもいいだろう。生きものなんだから糞だってする。それを否定されたら暮らしていけない。」「考えてみれば、あらゆる生きものの歴史、そこで不可避的に起こる衝突は、すべてこのひとことで説明がつくかも知れない。ここで糞をするな。」そして縄張り争いに大義名分が必要な人間は、外聞と体面を考量して行動する。それが文明ということになっており、共生ということになっている。ただ共生のオーダーに、野良猫や獣の席はない。鯨は除く。

俺たちが人間を負かす日など永遠に来ないだろう。人間の子どもが教育を受けるためだけに建てられたこの巨大な施設を眺めながら、俺はすっかり気持ちが沈んでいた。ランドセルを背負って歩いてくる子どもたちはみな、この場所で立方体の体積の求め方や、植物の葉が二酸化炭素から澱粉を作りだすしくみを学ぶのだ。そのあいだ俺たちはというと、日なたぼっこをしながらしっぽをぱたぱたさせたり、蝶を見つけてうれしそうに飛びあがったりしてすごしている。


日なたぼっこをしながらしっぽをぱたぱたさせたり、蝶を見つけてうれしそうに飛びあがったりしてすご」すことを、人間は自由と呼んでいる。いや、人間は自由について想像することしかできないので、そのように想像している。『アイコ六歳』のアイコがそのような自由を、不可能と未だ知らず、心から希求したように。


しかし、否応なく世界システムに組み込まれてちょうハードに生きる不自由な人間――それはアイコ六歳に限った話ではない――が手前勝手に想像する自由な猫は、非文明的で非社会的な野良猫は、その無知と愚かしさゆえに、冬の寒さに、そして人間の設置した捕獲機に、その生存を脅かされている。否応なく世界システムに組み込まれてちょうハードに生きる不自由な人間が想像する通りの自由な猫である語り手は、海を見ることがかなわない我が身について思う。

小田急線の踏切を抜ける途中で、誰もいない駅のホームが見えた。一度でいいから電車に乗ってみたい。いったいどれだけ早く、どんなに遠くまで移動できるんだろう。電車もいいが、自転車もおもしろいかも知れない。(略)人間があんなに利口になったのも、もとはといえば彼らが二本足で歩くせいではなかったかと俺はにらんでいる。人間はふたつの手を使っていろいろなものをつかんできた。


俺には前足はあるが手はない。


(略)いつだったか、この電車は海へ着くと聞いたことがある。ほんとうだろうか。海を見るのもすごくいい。俺は死ぬまでに海を見れるのだろうかといつも考える。


「この世界が、限定された資源と土地の奪い合いでしかないのならば、猫がその過酷な戦いに勝利することは決してないだろうと、俺はつくづくおもった。人間があの両手でつかんできたさまざまのもの。」人間がその両手でつかんできたさまざまのものには、海を見ることがあり、月世界に降り立つことがあり、原子爆弾を製造し使用することがあり、ガス室をシャワー室と偽ることがあった。


外聞と体面のために人道的兵器と非人道的兵器を弁別して国連総会で演説する人類の文明は「ここで糞をするな」をずいぶんと複雑にして煩雑にもした。だから歴史を前進させるためには町内会長の荒井のような外聞も体面もなく私怨を正義を信じ込める仕事熱心な男が要る。同時多発テロを仕掛けたラーちゃんのような。ジョシュ・ブローリン演じる米大統領のような。


斯様な人間の都合を、猫は関知しないし、その筋合もない。ただ、その「動物としての本性」であるところの習性に即して行動しているだけの猫を「野良」と呼ぶのも「自由」と呼ぶのも人間の勝手な都合だ。アイコ六歳のような、あまりに人間的な人間の。だから、所詮は無知で愚かな獣が生き延びるために群れを作ったところで、急進派のリーダーだったゴロゴロが語り手に対して言う通り「当初はしっかりとした理念でまとまっていたが、しだいにその結束はおかしな方向へ固まっていった、と彼はいった。自分には集団をまとめる力があるとおもっていたが、集団はいずれ外部に敵を求めるようになるし、排除の論理でしか動かなくなる。そうなったとき俺はほんとうに無力だ。エリア5には別のリーダーが必要になる。」。


「「ひとりひとりはいい猫ばかりなんだよ」とゴロゴロはいった。「ただしエリア5はもうだめかも知れない」」エリア5とは、ゴロゴロが率いる代田五丁目を拠点とする急進派の名称だ。代田五丁目には町内会長の荒井の家があり、猫たちとの衝突も多い。「一度、エリア5のメンバーが、荒井の妻から電話帳を投げつけられて大けがをしたとき、ゴロゴロはすぐさま、七歳になる荒井の息子を下校途中に襲い、そのやわらかい左腕にざっくりと鋭い爪を喰いこませた。」「エリア5のメンバーは対決姿勢を崩さない。荒井の捕獲機購入は、急進派と荒井家とのトラブルが発端ではないかという意見が評議会の一致した見解だったが、エリア5は、荒井との争いは今に始まったことではなく、荒井が暴力的な排除を進める以上、対決は避けられないものだと主張していた。」


これだから「ひとりひとりはいい猫ばかり」の無知で愚かで非文明的で非社会的な野良猫は駄目なので、人間の世界ではありえない話である。――え? もちろん、そうではないことを私たちは知っているし、「ひとりひとりはいい人ばかり」の殺し合いの話をよく知っている。それを「無知で愚かな土人のすること」と片付ける理屈があることも。


たとえ猫であろうと、その動物としての本性である習性に即して猫として生きることは、困難だ。その困難を、自由の困難と読み解いてしまうのは、否応なく世界システムに組み込まれてちょうハードに生きる人間の勝手な都合だ。「野良」猫の「自由」は、冬の寒さと捕獲機に生存を脅かされる自由で、外聞と体面という人間の都合次第で生殺与奪さえ左右される自由だ。もちろん、それは猫に限った話ではない。


代田五丁目の仔猫が捕獲機にかかって、ゴロゴロでさえもエリア5を制止できない状況に陥ったことを知らされた語り手は、そしてその「蜂起」がさらなる猫の殺戮をしか結果しないことを知る賢明なる語り手は「なるべく冷静に」と猫の同志を制止しながら、呟く。「他に伝えようがない。言ってもしかたのないことを口にしたときに感じる虚しさと無力さで恥ずかしくなった。こうした、かけ声みたいな実質のない言葉を俺はずっと嫌っていたはずなのに、いざというときになると、結局はくだらないことばかりを口にしてしまう。」「事態はより悪化する。無力感の表明はおおむね滑稽である。たんに自らの無力を証明するにとどまってしまう。


この短い物語を読む人が誰でも想起するように、私もまた小説家村上春樹が「否応なく世界システムに組み込まれてちょうハードに生きる」がゆえに巻き込まれた今年はじめの彼の地の殺戮のことを思い出す。しかしこの小説が読者に対して示すのは、告発でもなければ、市川箟の『プーサン』のような風刺でもない。そして、もちろん壁と卵の疎外論でさえない。ただ、私たちの生存の条件として存在する、すぐれて政治的な世界という真実のために、洗練された嘘が縦横に駆使されている。ドストエフスキーが嘯き実行したマニフェストの通りに。

俺たちはこの場所を離れて暮らすことはできない。それは、下北沢への愛着といったセンチメンタルな理由ではない。他の土地には、もちろんそこで生活する動物たちがいる。土地の奪い合いになることは避けられない。どんな場所でも、部外者はそうかんたんに受け入れてもらえないのだ。あらゆるリソースは有限だから、われわれはこの下北沢で生きていく方法を見つけていくしかない。


窮地に陥った語り手に示唆を与えるのは、マイクチェックという名の北沢二丁目の老パグ犬。

犬には、飢える心配や凍死の危険性がない。すべての犬は人間に飼われている。生活は保障されていることになる。ちいさかったころ、俺は犬の存在をうらやましくおもったものだった。服を着せられた犬。暖かい家で眠る犬。糖尿病の犬。運動不足でたるみきった犬。


しかし、そうした怠惰な生活をむさぼりながら犬たちは、つねにある恐怖から逃れられずにいた。彼らが怖れるのは、飼い主が犬に飽きてしまうことだ。(略)


犬はどんなことがあっても飼い主に飽きられてはいけない。そのための努力を怠ってはならない。汲めども尽きぬ泉のような愛情を提供しつづけるというハードな義務を、犬たちは背負って生きている。それはほとんど牢獄のように見えた。きっと俺は耐えきれずに逃げだしてしまうだろう。


それは、人類史上女性という種族が生きてきた――そして今なお生きている――牢獄のようだ。「アイコ六歳」が、その「お母さん」が住む「ゴージャスな牢獄」のことを私たちは思い出す。

いったい、犬と猫のどちらがしあわせなのか、俺にはわからない。犬は種として、人間と共生することを選択した。猫はまだどっちつかずだ。人間に依存している部分も多いが、自由はまだ残っている。俺は猫である方が合っているようにおもう。犬は、人と離れて暮らすことができないという点で、われわれよりもずっと孤独だ。


生き延びるために、ご主人様を持つということ。そして着飾り、暖かい家で不安に苛まれながら眠り、運動不足から糖尿病になる。「今、豚は太っていない。」と『動物農場』のアニメにコメントを寄せたのは、左翼的な理想主義を信じ続ける天才的なアニメーション作家だった。成程、帝国の中心に位置する空虚の森の住人に、太った者はもはやなく、彼らもまた犬でしかない。


そして、豚の顔をした犬でしかない私たちの悩みは――アイコ六歳が選ばれて選ばれなかった子どもとしてきつねに出会うまで苦しんできたことは――生き延びるためにご主人様に飼われているはずの私たちのご主人様が誰か、あるいは何か、わからない点にある。首輪に繋がれたリードを握っているのは誰か。私たちは誰のために尽くし、何のために己の身体を百鬼丸の父親のように捧げればよいのか。私たちは、百鬼丸であると同時に醍醐景光であるという二人羽織を演じている。


複雑化した現代社会という紋切型の修辞は、私たちの生存の条件それ自体の不透明というすぐれて政治的な世界を、陳腐に指し示している。アイコ六歳が、森の奥深くに棲む傷つき怯えたきつねのために、「間に合わなかった人びとのために」自身の身体を捧げることを、幼い心で決心してみせることは、幸福な、選ばれて選ばれなかった者の特権かも知れない。


そこに自由はありうるか。モリーの独白のように、YES、と言い続けるのが『下北沢の獣たち』という短編小説集だ。そこに自由がありうる、そのYESを宣言するために、私たちの生存の条件としてあるすぐれて政治的な世界を、引き返すことも間に合うこともできない闇以外には出口も逃げる場所もどこにもないその世界を、真実として描き出すべく、スマートな嘘によって設計された世界の縮図が一篇の寓話として現像される。


『アイコ六歳』において特異な境遇にある少女の心象から描き出された世界の縮図は、『下北沢の獣たち』では文明的で社会的な存在が行使する共生という権力の欺瞞について、その欺瞞に生存の一切を脅かされる犬猫という獣の視点から相対化して皮肉に描出される。同じことの表裏について、二篇の小説は描かれている。


その「同じこと」は、三篇の棹尾を飾る『ひとすじのひかり』というひときわセンチメンタルでアイロニカルな小説において、透過的に現像される。引退したアイドル「及川舞」をめぐる、相違する認識を持ち合わせた男女の美しからぬ邂逅の物語。一見叙述のトリックが使用されたこの小説の、その冒頭と結末で、サンデーマート志木店にアルバイトとして勤めるふたりは業務上の事務的な言葉を交わす。それは同じ場面のことで、時間は円環を描く。


その、傍目にもまた実際にもまったくドラマティックでない瞬間から遡る過去は、交互に展開される男女の一人称の叙述によってのみ記述される。そこには仕掛けがある。その仕掛けは、都筑道夫がかつてよく著した上等なミステリのように、鬼面人を驚かせるために使用されているのではない。アイドルという偶像をめぐる批評的な視座、とその仕掛けを読み解いてみせることは可能だが、それもまた外しているだろう。

『ひとすじのひかり』

アイドルだったころの私は、きわどい衣装での撮影や、裸の仕事はすべて断っていたから、他の女の子のようにたくさんの機会は与えてもらえなかったけれど、安売りはしたくなかった。仕事が続かなかった理由もきっとそのせいだ。もちろん、辞めてしまった今では、考えてもしかたのないことではある。

テレビに出たり、雑誌に載ったりするのもたのしかったけれど、こうしてスーパーで働くことにはまた別のたのしさがあった。あのままアイドルの仕事を続けていたら、私の苦手なこと、たとえば肌を露出するような仕事をさせられていたかも知れない。水着になる撮影はすべて断ってしまっていた。妥協だけはしたくなかった。


レジ係のいいところは、仕事中に水着になる必要がないことだ。

ありていに言えば彼女は、いまひとつぱっとしないグラビアアイドルだった。及川舞を知っているのは、アイドル事情に通じている僕のようなファンだけだったとおもう。ほとんどテレビにも出ていなかった。僕は彼女がテレビに出ているのを見たことがない。そのため、彼女の活動は、当初から男性週刊誌に限定された。


〇三年に発売された、及川舞の最初の写真集『ノックアウト』は、すべてサイパンで撮影されたクオリティの高い一冊だ。今まで、男性週刊誌の単発グラビアだけだった彼女の初写真集。彼女はデビュー当時から水着グラビアの仕事がほとんどだったけれど、この写真集ではいつもの水着姿だけではなく、ホテルの部屋でくつろぐ下着だけのショットなどもある。

(略)

当時まだ高校生だった僕は、及川舞の下着姿を、深海に暮らす未知の魚の想像図を見るような気持ちでじっと眺めていた。

〇四年に、及川舞は二冊目の写真集『モニュメント』を発表した。僕は発売後すぐに手に入れたが、結果からいえば、この写真集はほとんど話題にならなかった。理由はいくつか考えられる。やはり雑誌以外のメディアでの活動がなかったことは大きい。彼女の短いキャリアにおいて、テレビや映画などの仕事はほとんど機会がなかったから、世間の人たちは及川舞の存在など知らないままだった。

(略)

いまひとつぱっとしないグラビアアイドルに残された道は、廃業もしくは方向転換のいずれかで、及川舞にもその選択は迫っていた。


及川舞は後者を選んだ。

アイドルの仕事をしていたころは、都内の広い部屋に住ませてもらっていた。テレビ出演の仕事がたくさんあって、私はその部屋からテレビ局までの道のりを何度もいったりきたりしていた。

〇五年に及川舞は、日本発のスジドルとして再デビューした。三冊目の写真集『デンジャラス』は、水着に女性器を食い込ませるというアイデアで話題になった。局部のスジを見せるアイドル。スジドルという名称は所属事務所の社長が考案したものだった。

(略)

及川舞が、その五年のキャリアのなかで最も輝いた瞬間である。しかしその輝きは、大気圏を通過する流星が燃え尽きる寸前にほんの一瞬だけ見せるひとすじのひかりのように、短くはかないものだった。


われわれがこの世界で生きていくあいだには、と僕はおもった。笑いながらスジを出さなくてはいけない瞬間が必ずある。誰にでもだ。この世界はきっとそのようにできていて、しぶしぶではあるが、僕はそうした世界で生きていくことに決めた。及川舞は、僕やあなたや遠い国にいる誰かのかわりにスジを出している。そうおもった。僕がいつか覚悟を決めて越えなくてはならない壁を、彼女はお手本でも示すみたいにあっさりと越えてみせてくれていた。


そのとき僕には、確かにひとすじのひかりが見えた。及川舞が最後に見せたひかりが、僕にはとてもまぶしかった。そのひかりに向かってまっすぐに走っていけば、いろいろなことがどうにかなるような気がしていた。


僕はその輝きを胸にしまったままだ。


そして「僕」は、学校帰りに寄ったスーパーで「近くの大学に通っている十九歳のマコちゃんがアルバイトの面接にやってきた日をさかいに」「このスーパーで一番きれいな従業員」「の座からあっさりと陥落」したレジ係の「二十八歳の黒部さん」を見て、引退した及川舞と確信して「及川舞と同じ職場で働」こうとして面接を受け、サンデーマート志木店の従業員になる。


「及川舞と話す機会はあまりなかった。(略)何度か話す機会はあったが、会話はとてもぎこちないものだった。きっと、彼女にもいい印象は持たれていないようにおもう。」――「黒部さん」は「最初にコーくんがアルバイトで入ってきたとき、私は正直あまり近付きたくないタイプだとおもった。彼は完全に裏方タイプの男の子だった。(略)たまに、数秒じっと見られているような気がするのも、居心地がわるくなる原因だった。」と述べる。


しかし「コーくん」は言う。「及川舞の近くを通ると、いつもいい香りがした。」「僕はひとすじのひかりを辿って今ここにいる。」


「黒部さん」の述懐。

スーパーで働くようになってからは、海外に出かけるようなことはなくなってしまったけれど、アイドルの仕事をしていたころは、外国にもよく行った。いちばんたのしかったのは、映画の撮影でサイパンに行ったことだった。私にとっては最初の主演女優作品だった。とてもすてきなラブストーリーだったけれど、事情があって公開はされていない。レンタルビデオ店でも見つからないとおもう。もし、あの映画が予定通り公開されていたら、私の仕事ももうすこし続いたかも知れない。

(略)

アイドルだった数年間のあいだ、私は自分にとって恥ずかしいと感じる仕事などひとつもしていない。私はいつだって胸を張ってアイドルの仕事をしてきたし、後ろめたいことはいっさいなかった。


私はせいいっぱい輝こうとしてきた。その気持ちに嘘はない。


そして――「黒部さん」にとっての「コーくん」と、「僕」にとっての「及川舞」は、サンデーマート志木店の同僚として「牛乳きたから並べるのを手伝ってください」「うんわかった。並べる」という業務上の事務的な会話を交わす。短い物語は、そして『下北沢の獣たち』という「アイコ六歳」が開巻として宣言してみせたマニフェストに貫かれた小さな短編集は、幕を閉じる。


「自由と反抗についての物語であり、同時に、剥奪と服従の物語である。」巻を措いたとき立ち上がるのは、素敵な装丁装画や、隠喩と批評に満ちていながら平易でリズミカルな文が表す洒落た外見に似合わない、痛切でシリアスな主題だ。それは、たぶん『空中キャンプ』という一見軽妙でスマートなblogを貫いてきた主題だったろう。

「ときにわれわれは、自分がどのような役割を果たしているのかわからないまま、なにかをしていることがあります。自分のふるまいが、まったく別の文脈において、あたらしい意味を獲得するような場合です。たとえば、昨日のあなたたちがそうでした」


『下北沢の獣たち』で老犬マイクチェックはそう、語り手とゴロゴロに示唆する。「昨日のあなたたち」の「ふるまい」とは何であったか。


語り手とゴロゴロは、猫の生存に助力するような「ハートウォーミングな理由のために構築されているわけではない」――人間に飼われている同胞たちが生き延びるためにのみ構築されている――下北沢の犬たちのネットワークを司る老犬マイクチェックに指示されて、「下北沢のアイヒマン」荒井の息子が通う東大原小学校に向かう。そこで語り手とゴロゴロが目にしたのは、ゴロゴロがかつてその爪で切り裂いた傷が今でも左手に残る「とても背の小さい、おとなしそうな子ども」が、登下校の最中に、クラスメートに虐められている光景だった。

「猫殺し」と、野球帽をかぶった子どもがいった。「おまえの父ちゃん、猫のこと殺して食ってるってほんと?」

(略)

「おまえ、猫さんのことがかわいそうだとおもわないのかよ!」と、坊主頭の子供がいった。「いくら貧乏だからって猫を取って食っていいのか」

(略)

「だいたい、猫を殺すのって変態とか、殺人犯みたいなやつばっかりなんだぜ」と坊主頭の子どもがいった。「警察が見つけたら逮捕するよな、そういう頭のおかしいやつはさあ」

(略)

「僕は、お父さんは悪くないとおもう」と、荒井の息子はいった。「それに猫は食べていない」


荒井の息子を取り囲む少年たちは怒号で反応した。野球帽の子どもが彼のランドセルを取りあげて、地面に叩きつけた。残りの三人は、ありったけの憎悪を込めて、そのランドセルを何度も踏みつけながらふたたび声を上げた。それを見た荒井の息子は、それまでずっとこらえてきた嗚咽がどうしてもとまらなくなり、みっともない声を出して泣いた。

(略)

「もうだめだ」とゴロゴロがいった。となりを見ると、もうすでにゴロゴロは飛びだしていた。


差別が存在することを私たちは知っている。だから、ゴロゴロが荒井の息子を虐めていた子どもたちに飛びかかって鋭い爪をその顔面や太ももに幾度も突きたてて血まみれにした挙句語り手と共に走り去った後始末は、捕獲機の設置の無期限延期と、東大原小学校での当事者とその家族を交えた話し合いという名の形式的な手打ちの席として、このすぐれて政治的な、しかしプロトコルに規定された人間の世界において決済された。猫の都合を関知せず、勝手に。

荒井の息子をいじめた側の四人の子どもとその家族は、荒井の家族が猫を殺していることに対する非人道性を訴えたかったと主張していた。忠告がいくぶん乱暴になってしまった点は認めるものの、それは決して本意ではなく、荒井君に猫殺しの残酷さを伝え、そのような行為を止めるための善意が行きすぎた結果だ、と。


「たしかに、猫を殺すという行為には看過しがたい暴力性があります」と、仲裁役としてあいだに入っていた教師はいった。「周囲に与える悪影響も考えなくてはなりません」


そして立ち上がった教師はスピーチを始める。

「四人の側の意見の伝え方に問題はあったものの、猫を殺すという行為に動揺してしまった子どもたちの感情面についても察する必要があります。命の尊さを考えるいい機会でもあります。いかがでしょう、この一件を、クラスメートやおたがいの家族をよりよく理解するためのきっかけととらえてみては」


不服そうな荒井の家族をのぞく全員が、満足げにうなずいたそのとき、今までずっとうつむいていた荒井の息子がとつぜん立ち上がった。


「ミノルくんは犬をいじめている」と彼はいった。


ミノル君と呼ばれた坊主頭の子どもは、どう反応していいのかわからずに黙っていた。(略)


「(略)ミノル君は、何匹も何匹も、そうやって犬にケガをさせてる。猫をいじめるのがいけないなら、犬をいじめるのもやめろ」そういうと、荒井の息子はかばんをつかんで部屋からでていった。


かくして、下北沢の犬たちのネットワークを司る老犬マイクチェックは「昨日のあなたたち」の「ふるまい」に対して満足そうな顔を見せる。ゴロゴロは――「あいつけっこうがんばったな」と語り手に言う。「あいつ」とは「下北沢のアイヒマン」の息子のことだ。「ランドセルを背負って歩くだけでせいいっぱいという表情をしていた」「とても背の小さい、おとなしそうな子ども」だ。「それまでずっとこらえてきた嗚咽がどうしてもとまらなくなり、みっともない声を出して泣いた」子どものことだ。

(略)捕獲機の設置はなくなったけれど、駅前の開発が終わって、下北沢がどんなようすになるのかも見当がつかない。そこに俺たちの住む場所があるのかどうかも。


「俺たちあと何年くらい下北沢にいれるんだ」とゴロゴロがいった。


私たちは知っている。ゴロゴロの行動と荒井の息子の行動に、抑圧された者同士の連帯の契機を見ることが能わないことを。「黒部さん」にとっての「コーくん」と「僕」にとっての「及川舞」がサンデーマート志木店の同僚としての接触以外のいかなるコミュニケーションも持ちえないだろうことを。アイコ六歳の幼い願いと祈りが、帝国の人形から日出国の巫女へと「自発的な主体性」を獲得するテンプレートなプロセスでしかないことを。人道と残酷と善意と「周囲に与える悪影響」と命の尊さについてスピーチすることによって、人間の世界はプロトコルに則った権力闘争を繰り広げていることを。文明とは、共生とは、そのことであることを。


否応なく世界システムに組み込まれて、与件としての政治的な生をちょうハードに生きる存在において、猫も犬もやんごとなき少女もアイヒマンの息子も引退した「スジドル」も区別なく、自由とは夢見ることでしかないことを、私たちは知っている。そしてそれは、私たちのことだ。帝国の人形が人形であるがゆえに「間に合わなかった人びとのために祈りたい」と巫女の自覚を得ることも、人道と残酷と善意と命の尊さにおいて「下北沢のアイヒマン」の息子を差別し虐める子どもたちに対して立てたゴロゴロの爪が結果的に下北沢の猫たちを救ったことも、スーパーのレジ係として他人の生活を慈しみ過去の「せいいっぱい輝こうとしてきた」自分について追想する「黒部さん」が「及川舞」の見せた「ひとすじのひかりを辿って今ここにいる」青年と出会ってしまうことも、べつだん特異な存在の特異な話ではない。


「真実を真実らしく見せるためには、ぜひとも真実にすこしばかり嘘を混ぜなくてはならない」。特異な存在の特異な話が配合されたその真実は指す。否応なく世界システムに組み込まれて与件としての政治的な生をちょうハードに生きる私たちにとって、誰しも自由とは夢見ることでしかない。フロンティアは、宝島は、我が王国を建設する場所は、地上にはない。「この世界」は「限定された資源と土地の奪い合いでしかない」。


「黒部さん」が自覚する過去の自分の輝きと、「僕」にとっての及川舞の輝きは、違う。決定的に違う。それが偶像で、像には複製して大量に売る存在が介在する。ウォーホルが死んで20年経った今、私たちは、複製して消費するために大量に売られる像のことを、而してそれが生身の人間であることを、同時に知って、そのことに萌える。あるいは「ひとすじのひかり」をその印刷された笑顔に見る。


余談だが、先日電話してきた友人が「いいニュースがある」と言うので何かと思ったら、覚醒剤で猶予判決を受けた元グラビアアイドルがストリッパーになってゆくゆくはAVデビューするという話だった。好きだったそうで、観に行くかも知れないとのこと。「俺たちあと何年くらい下北沢にいれるんだ」。やんごとなき少女も犬猫も引退した「スジドル」も、生きている限りは、出口も逃げる場所もない。どこにも。その特異な存在の特異な話は、私たちの真実を真実らしく見せるために配合された嘘だった。


「ときにわれわれは、自分がどのような役割を果たしているのかわからないまま、なにかをしていることがあります。自分のふるまいが、まったく別の文脈において、あたらしい意味を獲得するような場合です。たとえば、昨日のあなたたちがそうでした」老獪な老犬の言葉は、アイコ六歳の開巻の宣言と対をなして、3篇の一切を基調音として貫く。その対の意味を知るとき、私たちは著者の透徹した認識へと至る。その認識から生じるアイロニーが、一見奇を衒ったエピソードの構築の基盤にあることを。透徹した認識が一見軽妙な文を用いて浮かび上がらせる、シリアスな主題についても。


文字通りの自由があらゆる意味で不可能な私たちにとって自由とは、夢見ることでしかない。そのことを論証するかのように巧妙に構成された3篇の小説は――特異な境遇にある少女の心象から、プロトコルに則って権力闘争を行う人間の文明的な行動習性に翻弄される犬と猫の生存から、消費されるべく複製して大量に売られる像が生身の人間であることによって放たれる屈折した光と、その屈折に規定された相違する現実を持ち合わせる男女の、出会うことのかなわない邂逅から――3度繰り返して同じ主題を描く。


その、企みに満ちた記述に裏打ちされた批評的な物語が、与件としての政治的な世界における個人の自由の不可能という真実の再三の論証の果てに最後に描き出すのは――「自分がどのような役割を果たしているのかわからないまま、なにかをしている」政治的で不自由な存在である私たちが、そのゆえにこそ「ひとすじのひかり」を夢見て、そしてその夢が意図せざる結果として時に私たちを繋ぎうること。私たちが知らないままに。だから、私たちはそのことを知らなければならない。「びんに詰められ、海へと流されたメッセージを回収し、読み解かなければいけないのだ。」


著者は、人間疎外にも、壁と卵にも、関心がない。その構図を退けるべく描き出される出口のない――嘘を配合された――縮図としての世界は、しかしそれゆえに私たちに「ひとすじのひかり」とその輝きを夢見させる。「日本初のスジドル」の、その生身の人間の笑顔に。帝国の中心の空虚の森の奥深くに棲む傷つき怯えたきつねたちとの邂逅に。そして――「もうだめだ」という、ゴロゴロの言葉に。かつて自分の腕に突き立てた爪を、猫殺しの子と自分を虐める者たちの腕へと突き立てて走り去る猫の姿を「ただ黙って」見ていた「荒井の息子」に。それはあたかも「びんに詰められ、海へと流されたメッセージを回収し、読み解」く作業のように。


びんに詰められ、海へと流されたメッセージは、誰かが回収し、読み解かなければならない。なぜならそれは「大気圏を通過する流星が燃え尽きる寸前にほんの一瞬だけ見せる」「短くはかない」ひとすじのひかりでしかないから。ひかりを見る網膜がなければ、ひかりは存在しない。そして、このひかりは、比喩であって、物理的に存在するものではない。そのようにして、私たち人間は長らく、なにか見えない存在へ向かって祈り続けてきた。比喩としてのひかりを見るために。つまり、夢を見るために。夜の夢は、個人的なものだ。


ひとすじのひかりは、はかなく無残で誰かが束の間見てしまう世界の裂け目に過ぎないから、否応なく世界システムに組み込まれてちょうハードに生きる不自由のゆえに自由を希求して常にひかりを目で探す私たちは「びんに詰められ、海へと流されたメッセージを回収し、読み解かなければいけないのだ」――たとえば映画に、小説に、言葉に、物語に。スジドルの笑顔に、千鳥ヶ淵の満開の桜の下に埋まっている日出国の運命に、人道と善意と命の尊さにおいて差別され虐められる少年の涙と、その姿に堪えきれなくなった殺される者としての猫の行動に。


すぐれて政治的な世界において、善とは、悪とは、コンテクストの問題でしかないなら、そして私たちが為す行いは「まったく別の文脈において、あたらしい意味を獲得する」以上、文脈を生成する機構としての娑婆世界を与件として観察することが私たちの善行には欠かせないなら、私たちにとって自由とは、個人的な夢を見ることでしかない。共同幻想は自由ではない。個人的な夢は、いつだってすれ違う。「大気圏を通過する流星が燃え尽きる寸前にほんの一瞬だけ見せる」「短くはかない」ひとすじのひかりは、分かち合うことさえできない。分かち合おうとして教師のスピーチになることを、而して大西巨人の『神聖喜劇』になることを、私たちは骨身に染みて知っている。


著者の透徹した認識があたかも黒沢清の映画のように指し示すコミュニケーションの不可能は、しかし分かち合えない夢を個々人が見て、夢に導かれた個人的な行動が結果的に交錯して物理的なアクションにおいて「出会う」ことによって、代替される。それもまた、黒沢清的ではある。影響関係を云々しているのではもちろんなく、透徹した認識が演算解をそのように弾き出すことを改めて確認した次第。


だから、自由であるために、私たちは夢を見ずにはいられない。あまりに個人的な、ひとすじのひかりを目と耳で探さずにはいられない。そして映画を見て、小説を読んで、音楽を聴いて、否応なく生れ落ちた、このすぐれて政治的な世界のシステムをちょうハードに生きる。アイコ六歳のように。下北沢の獣たちのように。そして、決して出会うことのない「僕」と「黒部さん」のように。


夢見ることに、生存の条件としての不自由から束の間世界の裂け目を錯覚し想像することのそのはかなさに、意味があることを、それが必ずしも無力でなく、空しいシニシズムでもないことを、描き出すためには、嘘を配合した真実らしい真実が、3篇の小説が、一冊の小さな本が、必要だった。『朗読者』を評してある人は言った。西ドイツの戦後世代の困難。その親の世代との亀裂。私的な記憶。伝え難い感情。たとえばそのような、単に言葉で述べて人に理解はされても了解され難いことをまるっと伝えるために、創作は、物語は、一篇の小説はある。むろん無数の誤解と、裂け目と、個人的な夢のすれ違いを包含して。個人的な夢はすれ違うから、「真実を真実らしく見せるためには、ぜひとも真実にすこしばかり嘘を混ぜなくてはならない」。


不都合な真実』という映画があった。真実を真実らしく見せるための嘘に自覚がない社会告発に私はあまり関心がない。マイケル・ムーアのような自覚過剰の政治主義も困るが――それでいてシニシズムがないのがあの人の、というかアメリカのリベラルの美点だけれど。

最終的には、5時間のイベントのあいだに、211冊売ることができた。やったー!

http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20090517#p1


211冊? 冗談ではない! 頒布価格300円だぞ。もっともっと多くの人に読まれるべき小説だ。せいぜいが211人しかあの3篇の物語の仔細を知る者はいないのか。そう思うと頭にきたので、書評を書いた。もちろん、私は『下北沢の獣たち』という小説を読んで、私の個人的な夢を見たに過ぎない。それが「過ぎない」のではないことを、zoot32さんに改めて示唆されたと、私は勝手に思っているから、この文章を書いた。多謝!