少年は荒野をめざす


はてなブックマーク - 何か女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲームが問題になってるらしいんだが。2009.5.14:大蟻喰の日記

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元増田です


人を値踏みしたくない、値踏みもされたくない。友人のその感情が、私には「頭でさえ」理解できなかった。先日ふと、そういうことだったのか、と気が付いた。私には、その人が何を言っているかさえわかっていなかったし、たぶんわかろうとしていなかった。


その人は美人の類で、そもそも私にとって女性は全員美人なのだが、十二分に値踏みに耐える人がなぜ値踏みを一切合財拒絶するのか、わかっていなかった私は自身の病膏肓について思う。私は、値踏みして値踏みされることこそ、その残酷をひっくるめて、人間が人間として生きることの醍醐味と思っていたし、今でも思っている。その発想は、資本主義と親和的だ――とても。


「値踏みに耐える」という発想がそもそも糞である。それが「非モテ」の問題意識の要諦であることを、私は知っていたはずだが、わかっていなかった。私にとって、値踏みして値踏みされることは、この日本で季節がめぐることと同じくらい、自明な自然としてあった。つまり、資本主義に骨の髄まで侵されている。


恋愛資本主義とは、資本主義と連動する愛の観念を、まさに愛の観念において告発した言葉だが、とはいえ資本主義と連動しない愛の観念がありうると言いうるか、と私は自分に問いかける。ジョン・カサヴェテスなら言うだろう。資本主義からの疎外として、現代の愛とその不可能はある、と。


資本主義からの疎外として、愛の観念は発動する。個人的にも、愛し合うふたりの間にも。現代とは、愛の観念の発動に際して、資本主義が、値踏みして値踏みされる私たちの存在の条件が、欠くべからざる時代のこと。私たちはその存在の条件において値踏みして値踏みされるから、愛の観念は、性的な――つまり恋愛資本主義的な――値踏みを超えてその「存在」の肯定として、発見される。


そのような、世紀の発見の神話は可能かと問うなら、私は悲観的で。『あなただけ今晩は(Irma la Douce)』ではないが、愛の観念は、流した汗で量られて、その汗が資本主義的でなかったためしはない。愛と汗と資本主義がそれぞれイコールでないことを、悪戦苦闘の果てにジャック・レモンシャーリー・マクレーンに証明するが、それはジャック・レモンが「模範的な」警官でシャーリー・マクレーンが「模範的な」娼婦だったからでもある。


その「模範」の相違を起点として、ビリー・ワイルダーはシニカルなコメディを書いた。愛の観念が、流した汗で量られることは致し方ないながら、その汗の意味は、任意の社会における職業的規範において、その規範によって存在を肯定される個人において、相違する。その相違が、歴史の産物でなかったためしもなく、そして歴史の産物が個人の存在を肯定し、ひいてはその尊厳を規定するとき、職業的規範の相違する者同士の継続的な愛は、時に難しい。


あなただけ今晩は - Wikipedia


「可愛いイルマ」にとって(レモン演じる)ネスターが立派なヒモであることが彼女に対する愛の証明であり彼女のプライドでもあるが、正義感ゆえに警官の職を追われたジャック・レモンにとって恋人が客を取ってその金を自分が受け取ることは耐え難い。かくてドタバタコメディが展開されるが、イルマの職業的なプライドに発する自分への愛を傷付けたくないとドタバタを繰り広げるネスターは涙ぐましい。


人は、「心ならずも」であろうがあるまいが、生計と生活のためにする自身の労働とその倫理性において、自身の存在を肯定される。愛することとは、相手の存在を肯定することで、よって、その人が自身の存在を肯定する拠り所を真っ先に否定することではない。


すれ違いについて、それをもたらす歴史的な性差別を悲観主義者のワイルダーが映画で告発するはずもなく、ただ映画作家はすれ違いの喜劇を、人間存在の必然としての、真摯な思いや切実な感情の不適合として描く。最後の最後に適合させれば『昼下りの情事』や『アパートの鍵貸します』になり、最後の最後まで不適合なら『サンセット大通り』になる。つまり喜劇にも悲劇にもなる。


『あなただけ今晩は』は前者で、適合の契機は、ネスターの献身にイルマが打たれたことだった。相違するふたりの愛を適合させようとした、そのコミカルで涙ぐましい献身に。愛し合うふたりにおいて愛の観念が相違するとき、万札をめぐる人間疎外の喜劇を引き起こすのが、資本主義――という教訓を残して。もちろん、それを「疎外」とワイルダーは考えなかったろう。人間存在の条件と考えていたろう。


あなただけ今晩は [DVD]

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男の子牧場』とかいうモバイルサイトについて、値踏みは男が普通にしてきたこと、という意見があって、私の男友達も同じことを言った。YES。しかし、値踏みを共有することは徳義的な問題で、値踏みを共有するために公然とデータ化することは人倫に悖るだろう。人倫という概念に意味があるのなら。人倫に悖ることは構わないが、「隠れてコソコソやれ」「アンダーグラウンドでやれ」「地下に潜れ」と。


資本主義はその本性において人倫という概念を顧慮しない。だから、人倫という概念に意味があると考えるなら、このグローバル経済の世界において、人倫を可能にするのは何か。「表現の自由」によって、法であってはならないこともある。だから、たとえばEquality NowのようなNGOとその活動には意味がある。法令遵守と官憲に与することは、一致しない。ネオリベネオリベと蔑称で呼ばれるのは、人倫という概念を顧慮しないからで、それはたとえばハイエクの議論からは外れるだろう。


現代の世界において人倫は可能か。人々のもっともプライベートな欲望をデータ化して反社会的な観念をヴァーチャルに共有させるエロは、そもそも人倫に悖る表現としてある。女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせる類のゲームに限ったことではまったくなく、そもそもエロは人倫に悖る表現としてあって、人々のもっともプライベートな欲望をデータ化している以上それは当然のこと。言うまでもなく、プライベートな欲望に貴賎なく、マスターベーションに貴賎なく、ジャンルとしてのエロに貴賎ない。


だから問題は、女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせることではなく――そのことでジャンルとしてのエロに内在する問題がバカにわかる程度に顕著になるのだが――「人倫に悖る表現をデータ化していること」として問われる。「人倫に悖る表現をデータ化していること」それ自体は問題ではない。


問題はその行為の理由であって「人倫に悖る表現をデータ化していること」のその理由が「販売するため」に尽きるのであれば。要するに、『男の子牧場』の開設がCAにおいてそうであったように、資本主義の波に乗ることでしかないなら。性差別の話はすべきだが、ジャンルとしてのエロに政治的な正しさを求めるならその発想が端から間違っている。


フランク・ルーカスを引くまでもなく、麻薬商売だって商売の仁義はある。自由主義的に考えて、商売の仁義は国家に対して切るものではない。ということで麻薬商売はamazon同様にグローバル化の一途をたどる。おそろしく雑に言うが、エロ、というかSEX絡みの業界は「外来種」でなければ基本的に国家に対して仁義を切っている、二次も三次も。


なぜなら、麻薬を国家は馴致できないが、SEXを国家は馴致できる。馴致とは管理の別名でもある。官憲様が馴致した結果が、現存の二次三次を問わない広義のSEX産業、ということ。もちろん、エロゲと大麻は同列に論じられない。しかし佐藤亜紀大麻を引き合いに出して非合法化を論じたのは、馴致を批判してのことだ。


馴致を承知で、ただ売るためにのみ人倫に悖る表現がデータ化され続けることは、それは地下どころか獄に繋がれてなおサドが目指したこととは違うだろう。「表現者の覚悟」の話をしているのではない。そんなもんはどうでも宜しい。


ただ売るためにのみ人倫に悖る表現がデータ化され続けることについて、その帰趨を含めて、どう考えるか、と。麻薬は、ただ売るためにのみ精製され続けている。肉体は、ただ売るためにのみ値踏みされ続ける。もちろん、データは生身の人間ではない。結局、山口貴士弁護士が、また東浩紀がそう言っているように、「データは生身の人間ではない」の一点において規制論を突破するしかない。


需要なら、麻薬にも銃器にも「非人道的」兵器にも児童の肉体や内臓にもある。一切は市場に、とそういうわけにはいかないから臓器移植法の改正が国会で審議されている。一切は、グローバル経済が規定する個々人の生活と連結される。その世界で――その概念に意味があると考えるなら――人倫は可能か。人倫の可能性が、国家の規制として論じられることには、私は賛成しない。


差別を再生産するがゆえに、値踏みはデータ化すべからず。個人情報の問題と別に『男の子牧場』の問題をそう考えるなら、ただ売るためにのみ人倫に悖る表現がデータ化され続けることとその結果としての反社会的な観念のヴァーチャルな共有について、差別の再生産と指摘せざるを得ない。私は日本におけるヘイトスピーチの法規制にも反対なので、「だから」規制すべきとはまったく思わないが。


ただ売るためにのみ人倫に悖る表現をデータ化し、しかもそれが国家に馴致された結果なら、それは覚悟とかいう個人的な観念の話にしかならんだろう。「要は、勇気がないんでしょ?」的な。佐藤亜紀が言った「地下に潜るべき」とはそういう話ではないし、わからない話でもない。アフガニスタンの農業従事者が麻薬を栽培しないと食い詰めることはわかるが、肉体を売らないと国の家族を食わせられない人のことも知っているが、ところで日本はいちおう先進国と思う。私もまた立場上こういうことを言う筋合があると思うので言っている。


「人は食い詰めたら人殺し以外何でもやっていい」と私は思うが、だから国家の管理下で痴漢や強姦で商売するのも結構だが、先進国の国民がグローバル経済の肯定と同時にそういうことを言うなら、なんだかなぁではある。法律の話は国家の規制の話で、ヘイトスピーチ規制をめぐる議論と同様、それはきっちり詰めるべきだが、しかしそれは人倫という概念とは関係がない。


自由主義は他者に対して人造人間キカイダーのごとき「良心回路」を当て込む発想で、その社会観においては良心回路の作動は結果論としてしか問われない。「人倫」という観念を予め措定する社会観とは、相性が悪い。


A2Z (講談社文庫)

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山田詠美の『A2Z』という小説で、主人公の恋人として登場する既婚者の男が、不倫という言葉を大嫌いと言う。「倫理に反するって、誰が決めたんだよそんなの」と。それは山田詠美ならそうなるだろうが、人倫に悖る行為だから不倫と呼ばれる。そのことに、主人公の恋人のように、というか山田詠美のように反撥する人は、当然多い。人倫とは時に古色蒼然な歴史の産物であるからして。


しかし、グレアム・グリーンイヴリン・ウォーの小説とそれに描かれる不倫ではないが、人間存在に対して良心回路を当て込まない世界観にあっては、人倫という道徳的概念は重い。人倫が暴落することは構わないし、歴史の必然ではあろうし、私も別に困らない。しかし人倫の暴落が資本主義の帰趨としてあるとき、良心回路という「無知のヴェール」に賭けることは時に現行のグローバル経済とその残酷を肯定することでしかない。


人倫の暴落の結果が、人間に値札を付けて相互に値踏みすることなら、そしてそれが性差別の構造の再生産でしかないなら、あまつさえ国家に馴致されるなら、サドたりうる気がない表現者に必要なのは覚悟よりもアイロニーだろう。ビリー・ワイルダーのような。つまり、良心回路に賭けないこと。ギルの笛の音に耳を澄ますこと。


良心回路に賭けるのはそういう商売だからで、そのとき愛と勇気の物語も、痴漢と強姦の物語も同じことでしかない。商売のため、強気で良心回路に賭けて、ギルの笛の音を黙殺する。その自由主義の信念が本物なら、スッてしまわないことを、皮肉でなく祈る。人倫が暴落して重くなったのは良心回路でなく、金とそれに規定される生活だ。自由経済が人倫という道徳的概念を暴落させることをハイエクは見通していたが、良心回路への賭けを自明と見なす循環的な言説の流通について、想定したろうか。


金とそれに規定される生活の前では、痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせることも、「犠牲者としての女性」にこそ萌えるクリント・イーストウッドのような趣味嗜好も、問題ではない。というか、そもそもそれらは秤にかけうることではない。秤にかけうることではないことを、秤にかけてしまうのが、良心回路への賭けを言説の領域へと縮減させるグローバル経済の帰趨であり、それでもなお良心回路への賭けを問う自由主義の信念である。現代の自由主義とは、楽天性に貫かれた思想と、まったく皮肉でなく改めて思う。その楽天性が取りこぼす視点が、どれほどあろうとも。


少年は荒野をめざす 1 (集英社文庫(コミック版))

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