ある図書館戦争


実際に性犯罪が増えるか減るかは(あまり)問題じゃないんだってば - Chambre Resonnante

http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20090510/1241885465

http://d.hatena.ne.jp/cmasak/20090510/1241967305


メビウス祭りと文学フリマに推参していたので遅くなったけど。昔、エロゲやらない私に勧めてくれた人がいて、その人が『絶望』というタイトルを挙げて(・∀・)イイ!! と言っていたのだが、後日内容を把握し、なぜ私に勧めようと思ったのか小一時間問い詰めた。cmasakさんのエントリのコメント欄で『絶望』への言及があって、それで思い出した。


この問題は、内心――つまり個室におけるマスターベーションの問題ではなく、流通の問題と1年以上前に書いた。任意の欲望が問題なのではなく、任意の欲望を喚起するための表象が資本主義において氾濫し、かつそれが性差別的であることの問題、と。


個室での個人的なマスターベーションを槍玉に挙げているのではなく(なぜならそれはポルノに限らず「読書」という行為の根源にかかわることで――『華氏451』や『図書館戦争』を引くまでもなく――ゆえに「内心の自由」が取沙汰される)、個人的なマスターベーションとしての欲望が個室を飛び出して、欲望を喚起するための表象が資本主義において公共圏に流通し消費され、かつその表象が性差別のコードを再生産しているとき、それは問題ではないか、という話。


ゾーニングという措置が実際的に対処するのは、公共圏での流通という問題と資本主義との衝突。そして、資本主義に対するアンチとして発したインターネットは、そのグローバル性からゾーニングを無効化する。欲望を喚起するための表象が資本主義において公共圏に流通し消費され、かつその表象が性差別のコードを再生産する。そのことが批判されるとき、個室での個人的なマスターベーションが断罪されている、と受け取られることは、多い。両者は弁別されるのだが、その程度には、センシティブな問題ではあるだろう。


サドをひとりで読むことと、サドを人前で表紙にカバーも付けずに読むことと、サドの朗読会を開催することと、サドの著作を翻訳出版することと、サド哲学を現実に実践することと、そしてサドその人の著述行為は、各々位相がまったく違う。私は当該の団体の主張は論外と思っているが、サドの思想が反道徳の文学でありうる社会とサド哲学が自明な性観念でありうる社会では、その取扱いは相違するだろう。澁澤龍彦は前者と信じてサドを翻訳し紹介した。言い換えるなら、道徳という名の性差別のコードを反転させる文学としてサド哲学を紹介した。澁澤自身の私的な振る舞いの話はここでは措く。


現在の日本社会では、道徳という名の性差別のコードが、攻撃的で幼児的な性観念の表象と結託して、「ナギは中古」ということにもなるのだろう。大塚英志が嘆いた、オタク文化の帰結ではある。攻撃的で幼児的な性観念の表象それ自体が問題ということではない。それが道徳という名の性差別のコードと整合する、ということが問題で、つまりそれが源氏物語以来の古色蒼然な、女性を貶める――その主体性を否定する――構造としてある。橋本治はそれをこそ批判して「現代語訳」の名を借りて「窯変」として源氏物語を読み換えた。このことを言い換えるなら、「俗情との結託」としての表現は表現の自由を主張するに値しない表現である、ということになる。


窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)

窯変 源氏物語〈1〉 (中公文庫)


俗情と結託した表現は資本主義において勝利する表現で、よってポルノが表現の自由にかかわりなく勝利するのは資本主義の御陰様なので、表現の自由ってのは本来そういうことではない。この世界においてサドが膨大に消費されるポルノなら、その翻訳出版が表現の自由において擁護される必要もない。もちろん、この世界はそのような上等な世界ではないし、私たちのやましき欲望はそのように上等にはできていないので、サドの小説は文学であったし、その「俗情との結託」を拒否した反道徳の思想は表現の自由において擁護された。


表現の自由と言うとき、問われているのは公権力としての国家に対するレイヤーだが、ことポルノにおいては社会と市場は容易に対立するので、反社会的な表現が市場に誠実であることの結果だったとき、「表現の自由」が擁護するのは市場か、市場におけるニーズが証明する、道徳という名の性差別のコードと、それに即した性観念の表象か。


公権力の指図よりもよほど絶対的に、市場のニーズが表現を規定するとき、「表現の自由」とは何に対する自由なのか、という問いとして、「俗情との結託」という問題設定はある。


本来、ポルノは市場とその需要にもっとも規定される表現としてある。それが反骨な反権力の表現としてありえたのは、まさに吉本隆明的な、あるいは宮武外骨的な、資本主義の発展において大衆の欲望を熱源として国家の解体を目指すアイロニカルな資本主義肯定の発想の産物であったし、それが様々な素晴らしい表現や出版物のマトリックスとしてあったことは違いないが、しかしゲリラが資本主義を肯定すると元の木阿弥、というのはたとえば塩山芳明が都度言っていること。


そして21世紀も10年経った現在、「ゲリラが資本主義を肯定すると元の木阿弥」のような話は一切合財忘却されて、資本主義に万歳し、表現の自由に万歳し、糞フェミニストを唾棄し、人権団体に鼻をつまみ、そして市場とその需要において性差別のコードを再生産する、攻撃的で幼児的な性観念の表象が流通し消費され続ける、と。


市場にライドして国家に対するゲリラを敢行する――表現者としてのその意識がアイロニーを失って市場の需要に全面的に依存するとき、資本主義の肯定と、それに基づく俗情と結託した差別的な表現の流通による社会的なコードの再生産をしかもたらさない。それが悪い、とは言わないし思わない。私の関わっている商売などもっとまずい。余談だが、これも再三書いているが、日本に対して人権問題を言うなら売買春を最初に問題とすべきだろうといつも思う。


もちろん検閲にも規制にも賛成しない。しかし、貴方が掲げる「表現の自由」とは何からの自由か、と。表現の自由が保障された社会において、表現を不自由にするのは、資本主義であり、市場のニーズなのだから。国家批判には賛成するが、それは「表現の自由」という理念の、半分でしかない。つまり、色々と言われているけれど、文学フリマはやはり素晴らしいと。


見本誌を眺めて「すべての女は肉便器である」とかいう文字列を認めたら、つかつかとそのブースまで歩いていって「この文章を書いたのは誰だぁっ!!」と海原雄山すればよいのだから(よいのか?)。批判ではまったくないが――そもそも出自の相違に由来するので――コミケではそういうわけにはいかない。市場の需要と供給において「貴方のための表現ではない」と主張することは、それは構わないが、それで表現の自由が守られると考えるなら間違っている。ゾーニングは、平和的な共存のための実際的な対処であって、表現の自由という万人の理念とは関係がない。


革命的非モテ同盟跡地


「周縁化」とは、中心の存在を前提するということです。中心の不在を主張して「平和的な共存のための実際的な対処」のみの可能を政治問題として説くのが東浩紀の議論で、しかしそれは「多数決」そのものとしてある資本主義の暴力をなんら掣肘しないのではないか、という問いに対しては自身のアイロニカルな認識とそれに基づく倫理を主張するのが、東浩紀の議論でした。


そもそもポルノは表現のコードにおいて市場に対して依存的で、そのことを自由主義において擁護してきたのがたとえば江川達也でした。むろんそれは反国家の主張でしたが、現在、ポルノの表現のコードは、国家よりもよほど絶対的に市場に依存します。そのことを擁護することは妥当です。個人の私的な欲望とその現前を掣肘するのが国家の本性だからです。


しかし、市場に依存するポルノの表現のコードが国家の性道徳を裏書するなら、そのようなマッチポンプの関係にあるなら、それを擁護することははたして表現の自由を擁護することでしょうか。国家と結託した資本主義の肯定でしかありません。


個人の私的な欲望とその表象としての現前が国家の性道徳と親和的なら、そしてそのことが市場の需要において資本主義と同時に肯定されるなら、表現の自由を守ることとは、国際的な人権団体の批判からその予定調和を守ることではありません。反道徳的な行為によって女性が「辱められる」、表象であれ、それがマッチポンプでないはずがない。そして、資本主義に基づく市場の需要において、このような国家の道徳としてある社会の性差別的なコードは肯定される。


表現の自由とは、国家の掣肘に対する自由です。あらゆる掣肘に対する自由という話でも、掣肘の無用という話でもない。そして、そのようなマッチポンプを、表象の暴力とは呼んでも、表現とは呼ばない。澁澤龍彦も呼ばなかっただろう。擁護は当然です。ただ、資本主義とも国家の道徳とも親和的な表象の流通について国際的な人権団体からその差別性を指摘されることが「表現の自由」において反駁しうることか、私はわからない。「俗情との結託」という大西巨人の問題設定は、そうしたことを指し示していました。



たとえば、『テヅカ・イズ・デッド』における「キャラクター」「キャラ」をめぐる議論は、こうした問題を織り込んでいる。つまり、欲望を喚起するための表象としてあるはずの記号は、資本主義において流通し消費される中で、性差別のコードを再生産するにとどまらない特異な同一性を、まさに公共圏において獲得する、と。伊藤剛の「ゆるキャラ」考察もこうした問題意識の延長にある。


そして冒頭に戻って、私に『絶望』を勧めたその人の考えたことはわかったが、むしろ私はその人に訊いた。貴方は現実に性的な意味で肉体を破壊したいと思うのか、と。違う、とその人は言った。それはそうだろうと私は思った。私はサディストなのだが、その目で見たとき、そのような人体破壊に特化したエロゲはあまりに観念的に見えた。


いうなれば「陵辱」「鬼畜」「調教」という言葉がそもそも観念的で、それをジャンル名にしてしまうエロゲは、観念をネタと言いくるめる発想と思った。私が私自身の経験と感覚において言えることは、あれはまさに絵で、観念的な想像力を具現化した絵やプロットで抜くことと、性的なサディズムは、違う。


サディストがエロゲユーザーであることはあろうが、「陵辱」「鬼畜」と冠されたエロゲのユーザーが性的嗜好においてサディストとして訓練されるものか私はわからない。犯罪発生率の話をしているのではない。暴力的な性表象を嗜好することと性的に暴力を嗜好することの相違について述べている。


サディスティックな、あるいはマゾヒスティックな性的嗜好の持ち主は、幼き日の三島由紀夫が絵本の中の竜に食べられてしまう王子に欲情を覚えたように、どんな些細な意図されざる描写にも性的なサディズムを発見して欲情する。私も物心付いたとき既に絵本や少年マンガや児童文学の中の些細な、暴力と意図されない暴力描写に欲情し、そして現実に暴力にさらされてもいたので、私にとって現実とはそういうものになった。もちろんそういうのはオブセッションという。


暴力的であることを意図された暴力的な描写を絵に対して性的に求める発想が、二次元者にはあるのか、とAVにも関心がない三次元者の私は思う。『ブラッドハーレーの馬車』を読んだときも思ったが、当たり前のことだけど、想像力において血みどろの表象や観念としての「残酷さ」の具現化を志向する作家性と、性的嗜好としてのサディズムは、違う。後者はもっと即物的で、繊細さに欠けていて、DQN的なのだ。スティーヴン・キングがよく描いたように。


ローズ・マダー

ローズ・マダー


観念的な想像力を具現化した絵やプロット、と書いた。その「観念的な想像力」とは何か。私の言葉で述べるなら、恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ、ということになる。フェミニズムや社会構築主義の文脈から「レイプ・妊娠・中絶というプロット」を批判することに対して私がもにょるのは、そのプロットは無自覚に組み立てられているのではなく、そのようなフェミニズムや社会構築主義の視座をも織り込んで「レイプ・妊娠・中絶というプロット」は成立しているから。つまり「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」として。もちろん「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」を消費するために織り込んでいる。


「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」をこそ欲望して自ら「陵辱」「鬼畜」と名乗っているし、「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」をこそ消費するために、フェミニズムや社会構築主義の視座を織り込んでそれは成立している。その程度に暴力的な性表象としてのエロゲは、流石オタクというべきか、屈折している。そのマッチポンプは、一切市場へと捧げられている。資本主義TUEEEE! という話。


私たちが「レイプ」に抱く恐怖や嫌悪のリアリティを「レイプ物」のポルノは資源として利用している。そのリサイクルにおけるリアリティの欠如を、つまり観念化の結果としての奇天烈を、私は『THE レイプマン』や陵辱物のエロゲに見る。むろん、リアリティを追求することに対する性的嗜好としての需要もあって、それで手が後ろに回るAV製作者もいる。『恋空』の「レイプ」は「汚れてしまった私を受け入れてくれる彼」という話なので、性的な配慮はないし、もちろんそれは「性」において女性を落としてから拾う差別的なプロットに決まっている。


「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」において対象を「辱めて」いるので、その侮辱のマッチポンプには社会構築主義の視座さえ消費するために利用される。恐怖や嫌悪の象徴として、私たちにおいて「レイプ」の三文字が観念的に流通していることを踏まえたのがたとえばDMCクラウザーさんとそのギャグで、私は作家の目の付け所に感心したものだった。


私たち――というのは多くの手前勝手な男性のことだが――において「レイプ」の三文字が恐怖や嫌悪の象徴としてリアリティを欠き観念化しているから、その観念は表象において極端化されて欲望される。「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」という観念を想像力においてどう転がすかにおいて陵辱物のエロゲは製作されている。そう、私がちらと窺った限りは見えた。そして手を変え品を変え転がし続けた挙句に雪玉がどんどん巨大化しているのが現在の状況、と。


「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」という観念を想像力において転がした結果としての巨大な雪玉、その起点には、たとえば綾瀬の女子高生殺人事件が鎮座している。buyobuyoさんだったか、以前、あの事件のコピペを片端から貼っては犯人を鬼畜と口を極めて罵る連中が気持ち悪い、と言っていた。それはまさに「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」を消費するマッチポンプの気持ち悪さで、現実の事件を参照して恐怖や嫌悪を最大限に煽って、犯人を許せないと罵る、それが欲望の発露でないとは私には思えない。


「恐怖や嫌悪の象徴としてのレイプ」の問題は、象徴としてしまうことの問題で、その、恐怖や嫌悪のリアリティを置き去りにした極端な観念に基づく性的な想像力と、その消費のための氾濫は、普通に侮辱的だろう。


個人の欲望において暴力のイメージを公然と消費する社会が暴力的だ、という議論に対して、そもそも社会とは暴力的で残酷なもの、というのは普通に失当した反論で、第一に、イメージを消費するのは資本主義とその暴力で社会のレイヤーにはなく、第二に、その個人の欲望と資本主義において任意の社会で消費される暴力のイメージが差別的でなかったためしはない。


性を消費する社会について、女性も男性の性を消費する現代を指して男女平等、と〆る人がいるが、それは社会における性の消費に女性もまた資本主義下の消費者として組み込まれた、というだけの話で、要するに何も言っていないし何も考えていない。自分を免罪したいことだけはわかる。


差別とは、私の言葉で約するなら、属性による存在の否定を指す。女性という属性において存在を否定する表象が差別的でない、という話はない。属性によろうがよるまいが、存在を否定することを、私は嫌う。それは「私」という存在の問題でもあるからで、私は殺し合いは好きではない。「それはただの絵」であることは、差別問題に対する解たりえない。「それはただの言葉」であることを、ヘイトスピーチは同時に主張し、そのネタであることを言外に含みながら、同時に「表現の自由」を主張してきたのだから。自ら「陵辱」と名乗るエロゲ同様に。言うまでもなく、「ただの言葉」では済まないし、流通において「ただの絵」では済まない。


私の知る限りで日本と限定するが、男の性というものは、欲望のレベルでは、そもそも和姦と強姦の区別がない。区別を付けるのは、理性ではなく、愛情の発生に伴って、区別を付ける。和姦と強姦の区別を付けることが、愛するということで、だから、金銭が介在するとき、意識において区別のない男は多い。金銭を区別の証文と考えるから。恋愛=友情+SEXと喝破したのは橋本治だった。


なので、愛情が発生しない観念の産物としての絵に対して、欲望のレベルで和姦と強姦の区別が付かない、区別する必要がないことは至極当然のことであって、にもかかわらず人は観念の産物としての絵に対してその「キャラクター」としての同一性において和姦と強姦を区別してしまう、つまり愛情が発生する――と指摘したのが伊藤剛の議論だった。


なぜ欲望のレベルで区別がないのかといえば、そもそも歴史的にそうであったから、としか言いようがない。ということで、フェミニズムの、社会構築主義の出番でもあるのだろう。私を含めて、個人の欲望が主観的には自明な自然であろうと、男の性が欲望のレベルにおいて和姦と強姦の区別がないことは、自明でも自然でもなんでもないのだから。そのことを私たちが知ったのが、20世紀だった。


リリー・フランキーが、20歳の頃にタイトルに惹かれて観た東陽一監督の『ザ・レイプ』という映画を40になってビデオで見直したところ、田中裕子演じる被害者の心情が切実に伝わってくる胸を打つ映画で、興味本位でエロ映画としてしか観ていなかった昔の自分と、現在の自分との落差について思った、淀川長治さんが、同じ映画を何度も見なさいと言っていた理由がわかった――と以前書いていた。つまり、そういうことなのだと思う。表現・送り手・受け手・市場・社会――その狭間に、要点は位置している。


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