姿勢としての倫理


鉄管ビール - 玄倉川の岸辺


玄倉川さん、こんにちは。


殊更には「読ませたくなかった」のはその通りです。批判的言及や悪口や誹謗中傷ならともかく、そうではないものを御本人には直接に読ませたくはないものです。いや、批判的言及の際もはてな外のblogに対して手動トラックバックを送らないことはあって、それは私の判断ですが。


「…誰のことだろうこれは、と思いました。」すみません。もっと普通に書きます。私は、玄倉川さんのことを、感情的な馴致を嫌い、他者に対する感情的な馴致やそれに阿った自己都合の言動を一貫して批判している人、と認識しています。感情的な馴致とは、物事を「なぁなぁ」にしてしまうことです。私は「なぁなぁ」にしてしまうことに対して、玄倉川さんのような批判的な視座を了解しつつも、肯定的なので、その点で「立場が違う」と書きました。


玄倉川さんが言われる「良心」とは「理性」とは、ひいては「人間」とは、無分別な感情的馴致を拒否するための概念として示されている、と私は認識しています。それは正しいです。玄倉川さんは正しく「良心」を信じる人だし、理性的な人と私は認識しています。付け加えると、その意味で普通に「リベラル」な人なのですが、なぜ誤解されるのかなとも思うし、しかしそのように誤解されるのも致し方ない、と思っていました。


たとえば、代理出産について、私は玄倉川さんがMr_Rancelotさんと交わしたガチな応酬を当時大変興味深く拝見しています。 buyobuyoさんがそのことを知らないはずがないのですが――そのような経緯を一切捨象して「寄生出産」という表現とそれに伴う玄倉川さんの激越な論調のみを指して現在の発言との相違としてネガティブに云々することには賛成できません。それは、私にとっては、buyobuyoさんの「インポ」とまったく同じことです。


そして、感情的な馴致は、つまり物事を「なぁなぁ」にする契機は、生命の誕生と人の死において覿面にもたらされます。ある人の死について追悼の言葉が並んだブックマークページを「グロテスク」と指した玄倉川さんを、同意不同意は別にして、「らしい」と私は思いました。吉本隆明が言った共同幻想とは、簡単に言えば、その延長に国家を設定する世界観のことです。つまり、ナショナリズムの問題です。


生命の誕生と人の死に基づく感情的な馴致を国民において国家へと動員する装置として戦前戦後を貫いて天皇家はある、というのは私の問題意識ですが、それはまた別の話。玄倉川さんは「公」の問題を一貫して問うている、と私は認識しています。そのとき、生命の誕生と人の死に基づく感情的な馴致を排除するものとして玄倉川さんにおいて「公」は議論されている。その議論の必要を、玄倉川さんは現在の日本社会について感じておられる、ということと思っています。そのことに私は同意です。


生命の誕生と人の死に基づく感情的な馴致において措定される「公」は、国家的な動員に直結し、ナショナリズムの問題を孕む。それを共同幻想と指して、「国家」と「公」を不可分として、アイロニカルに吉本隆明は論じました。その極端なアイロニーとそれに基づく政治的アクティヴィズムの否定と消費社会≒資本主義の肯定が吉本隆明の思想のひとつの要諦であり真骨頂ですが、これも私の問題関心による別の話です。


たとえば――それは忌野清志郎その人の問題意識でもありましたが――人類の倫理としての「死者への敬意」が容易に祖国愛として変奏される。そもそも、それは人類の倫理なのか。人間の倫理なのか。hagakurekakugoさんがそのようなことを言っていたとは私はまったく思いませんし、hagakurekakugoさんを批判するものではまったくありませんが、「同じ人類」という言葉を玄倉川さんが、あるいはinumashさんが看過できなかったことは、文脈としてわかります。


だから、私の認識では玄倉川さんは「リベラル」な人なので、なぜ誤解されるのか、とは思います。感情的な馴致を徹底して拒否する態度がなぜ「いつものいい子ちゃんぶりっこ」と呼ばれるのか私はさっぱりわからない。逆なのに。そして、これも批判ではまったくなく――というのは私も物事を「なぁなぁ」にしがちだからですが――hagakurekakugoさんは感情的な馴致を見込んで対話を志向する人なので、それは玄倉川さんとはすれ違うのだと思います――双方が真摯であればあるほど。


私が、玄倉川さんの態度に厳格な倫理を見るのは、その、感情的な馴致を徹底して拒否する姿勢からです――他者に対しても自己に対しても。感情的な馴致は、他者という概念を見失わせます。その「他者という概念」が、思想的な理念型であろうと。他者とは、感情的な馴致の及ばない、あるいはその外側にある存在のことだからです。感情的な馴致の及ばない存在をも「人間」と見なすことが、玄倉川さんにとっての「良心」であり「理性」であり、その価値であり、ひいては「倫理的な大原則」だと私は認識しています。


そして、そのような玄倉川さんにとっての「良心」「理性」が、忌野清志郎にとっての「愛し合う」ことでした。忌野清志郎にとって「愛し合う」こととは、感情的な馴致のことではなかった。「私」が「私」であることとは、「私」が誰かにとっての感情的な馴致の対象ではない、ということです。それが「私」の価値であるということです。率直に言うなら、私は玄倉川さんから、ネットにおいてそのような姿勢が可能であることを学びました。


「カッコ付け」とは、感情的な馴致を見込む姿勢のことです。「idiotape氏」が意図してそうしていたとは、私もまったく思っていません。そして、hashigotanの――それもまた意図してのことではなかったろう――感情的な馴致を徹底して拒否した、つまりちゃぶ台をひっくり返し続けたその姿勢は、まったくロックでした。


「私が「特定の左翼的な言説に対して批判的」と見られるのはよくわかりません。」「左右も上下も関係なく批判している」ことは存じ上げていますし「左翼だから」批判しているわけではないことも存じ上げています。玄倉川さんが批判しておられるのは感情的な馴致とそれに阿る言論的姿勢で、「特定の左翼的言説」が玄倉川さんにとってそれに該当するものだろう、と私は認識している、ということです。「同じ人類」であれ「同じ日本人」であれ、感情的な馴致とそれに阿る言論的姿勢を批判するとき、左右も上下も関係ない、その通りです。ただ、私にはそのことに対して異論があります。


久間知毅さんが、buyobuyoさんのことについて『お仲間にしか通じない』と私の発言を指していました。この「お仲間」がたとえば「左翼仲間」「はてサ仲間」を指しているわけではないことはわかります。ただ、私が思ったのは、私のことはさておき一般論としては「仲間に通じるならそれで僥倖ではないか」ということです。


そもそも、政治的な言葉とは、「通じる仲間」を求めるための言葉です。言葉が言葉のためにあるのが文学で、言葉が仲間という具体的な人間の顔のためにあるのが政治です。つまり、そのとき「通じる」言葉が求められる。「通じる」言葉が「私」の言葉であるか。いいえ。「通じる」ために「we」を表象する観念が「大きな物語」として持ち出されました。オバマの就任スピーチのように。天皇陛下のお言葉のように。


そして、「大きな物語」が崩壊したとき「we」は「私」において表象される。「私」という観念において、感情的な馴致の結果として。「私」はその外延において「同じ人類」に延長され、あるいは「同じ日本人」に延長され、そして同化と排除を駆動させる。


それが、共同幻想ということで、そのような共同幻想の横行に対して「私」の外延を共同幻想から切断して再帰的に規定し、他者性から「私」を定義する玄倉川さんにとって、「we」を表象する観念であることにおいて「大きな物語」も感情的な馴致の結果としてある「私」も、共同幻想に変わりはない。「私」がもっとも政治的であるとき、そしてその政治性が無自覚において担保されるとき、他者性から「私」を再帰的に定義することは、すぐれて倫理的です。


その意味で、私は玄倉川さんを「文学の言葉」を用いる人とも思います。そして、たとえば文芸評論家にして現代社会の批評家であるところの東浩紀の分裂も、この文学と政治という言葉の位相の相違に由来するとは思いますがそれも私の関心の話です。


政治の言葉は仲間を求めるための言葉です。だから友と敵を措定し、孤独な個人に対して連帯の契機を提示します。そのことに対して、孤独な個人として発言することが批評家の倫理、と述べているのが東浩紀で、批評云々以前に、孤独な個人として発言することが倫理、という姿勢を示しておられるのが玄倉川さん、と私は認識しています。


孤独な個人とは、つまり「私」が「私」であることで、誰かにとっての感情的な馴致の及ばない対象としてあり、だからこそ人間としての良心や理性を信頼する「私」のことです。それが、玄倉川さんの立場と私は思っています。


そして、そのような玄倉川さんの立場と政治の言葉は、それこそ上下左右にかかわりなく、相性が悪いだろう、と私は思います。玄倉川さんが「党派性」と指しておられるものが何か、私はわかっているつもりですが、しかしそれは「文学の言葉」が「政治の言葉」と遭遇したときに発生する齟齬であり、ディスコミュニケーションとも思います。


政治の言葉として政治の言葉を発している人に対して『お仲間にしか通じない』と述べるのは、なんらクリティカルな指摘でも有効な批判でもない。仲間を求めるとは、政治的アリーナを措定することです。それは近代市民社会の必要条件です。その契機を、たとえば自由主義者であるところのbuyobuyoさんは「俺」と「貴方」であるところにおいて友敵関係を措定するところに見出している。私はそう理解しています。あくまで議論の際の「措定」です。


政治的アリーナを措定し、その中に敵対性を措定することが「公」であることには玄倉川さんは同意されるだろうと私は思っています。ただ、そのときに感情的な馴致が入り込むことに対して、あくまで倫理的に厳格なのが玄倉川さんとも。たぶん、久間知毅さんは政治的アリーナを措定することそれ自体に対して懐疑的なのだと思います。その問題意識はわかります。が。


感情的な馴致が入り込んだとき、「同じ人類」「同じ日本人」であることにおいて「公」とそれをめぐる議論は脱臼します。丸山眞男が、山本七平が問題とし続けたことでした。「公」とは「同じ○○」ではなくて他者性の物理的な集合において問われて打ち立てられ、あるいは立ち上がります。ゆえに、玄倉川さんの倫理的な厳格が「公」を打ち立てることと接続する。だから、普通に西欧的にリベラルな人と、私は玄倉川さんのことを思っているのですが。


そして、そのような玄倉川さんに対して私が申し上げたいのは、政治の言葉と感情的な馴致は違う、ということです。高度に発達した政治の言葉は感情的な馴致と見分けがつかない。それはその通りです。そのことを利用したのがヒトラーであり、先帝の人間宣言でした。ヒトラーと先帝をいっしょくたにしているのではない。


高度に発達した政治の言葉が感情的な馴致と見分けがつかないことに対して、玄倉川さんは批判的な視座を示し続けている。その姿勢がたとえば「自称中立」扱いされるというのはどんだけ文盲なのか、と私も差別語を使ってしまいますが、しかし。


高度に発達した政治の言葉が感情的な馴致と見分けがつかない、そしてそれは扇動や動員や虐殺と容易に結びつく。仲間を求めるため友敵を措定する政治の言葉が感情的な馴致と結びついたとき、もっともおそるべき同化と排除を駆動させる。「行き着く先はヒロシマでありアウシュビッツです。」そのことは歴史的な事実です。だから、政治の言葉を発する際には感情的な馴致に対して最大限に禁欲的でなければならない。そう思います。ましてその政治の言葉を発する動機が、同化や排除に対する否であるなら。――その通りです。


同化や排除を何よりも否とする玄倉川さんが、政治の言葉に感情的な馴致が入り込むことを警戒し批判することは、私は了解しているつもりです。しかし、それでも政治の言葉を文学の言葉で代理することはできないし、人は仲間を求めて友敵を措定します。ハーバーマス的に言わずとも、政治的アリーナの措定が近代市民社会の必要条件であるのは、友敵の措定を言論に限定し、暴力の擬制として敵対的な議論をセッティングすることが、現実の政治的な暴力の掣肘に、欠くべからざることだからです。


私刑を嫌う玄倉川さんが、暴力の擬制としてセッティングされる敵対的な議論に私刑を見ることは了解します、が、それは政治的アリーナの出来事で、だから政治的アリーナの措定は近代市民社会の必要条件です。政治的な敵対性の暴力を、誰も死ぬことのない闘技場へと限定し、その領域へと縮減するために。政治的な敵対性の暴力が、闘技場の外にあふれ出て市民社会を破壊することを、抑止するべく。


最近、玄倉川さんが批判的なブックマークコメントを付した『ヘイトスピーチは犯罪である。犯罪者を見つけたら現行犯で逮捕しよう。』『リンチの現場を見物していていいのかね?』という同一の筆者によるエントリを拝見しました。後日、そのことに絡めてエントリを書く予定ですが、玄倉川さんの批判とその文脈はわかります。


しかし、当該のエントリが、政治的な敵対性の暴力がアリーナの外にあふれ出て市民社会を破壊しようとしていることに対する問題意識に基づいていることは、わかりました。アリーナの問題では済まなくなっていること、そして、そもそも最初からアリーナなど措定されていなかったことについて。


インターネットのアーキテクチャが、あるいはblogの市民的言論空間が、措定されたアリーナを代理している、と能天気に言う人はもうどこにもいません。念のために付け加えると、東浩紀は最初から能天気に言っていたわけではまったくなく、インターネットのアーキテクチャ市民社会の基盤を代理するなどとは昔も今もひとことも言っていません。


政治的な敵対性の暴力がアリーナの外にあふれ出て市民社会の基盤を破壊しようとしている。その事態は、多くの人が、闘技場の措定について、ひいてはその必要性について検討しなかったことに由来している――私を含めて。言い換えるなら「公」の何たるかについて考えてこなかったことに由来している。「公」のため政治的アリーナを措定することが必要、というのが私の見解で、しかしそもそもそれは液状化した地盤にビルを建てるようなものでこの日本社会にあっては無理、というのも私の見解です。


玄倉川さんにとって、感情的な馴致と政治的な敵対性の拒否が「倫理的な大原則」だと私は認識しています。しかし、アリーナの問題とアリーナの外の問題は、政治の言葉においては区別されます。アリーナの内と外を区別しないのが、あるいはそもそもアリーナの措定を前提しないのが、東浩紀もそうであったように、文学の言葉です。


レイヤーの相違は厳密には峻別できません。しかし、論じるにレイヤーは弁別すべき、というのが私の立場です。政治的ロマン主義は、文学の言葉において政治を記述するがゆえに、アリーナの内と外を溶解させる。その結果、時に市民社会に危機をもたらす。いずれにせよ、そもそもアリーナは措定されてさえいなかったのだから、内と外の弁別が「ごっこ」でありゲームでしかないことも、ゆえにそのような言論的姿勢が「はてなサヨク」と呼び習わされることも、致し方ないのですが。


政治の言葉は通じる仲間を求めるための言葉であるがゆえに、通じる仲間を求めることにおいて足切りが要請される言葉でもあります。それを指して『お仲間にしか通じない』とも時に言われるのでしょうが、その足切り足切りとして殊更に指摘するのは、玄倉川さんが文学の人だからだろうかとも私は思います。


つまり、真面目に申し上げますが、玄倉川さんの文章の達意は「足切り」を自分の言葉において認めない、言葉に対して倫理的な態度の結果と私は思っています。「足切り」とは感情的な馴致のことであり、共同幻想を恃むことであり、カッコを付けることです。つまり本質的に他者を想定しないことです。「たかがblog」と自分に言い訳して、私は平気で足切りします。しかし玄倉川さんは、「私」が「私」であることだけを読み手に伝えようとしている。私に対する今回の反応もそうです。


誹謗中傷云々はもちろん冗談としての修辞ですが、しかし、足切りを自分の言葉において認めない、そして他人の言葉に対しても認めずその足切りについて指摘する、玄倉川さんの姿勢と、その結果としての「私」が「私」であることだけを他人に伝えるべく意の尽くされた平明で丁寧な文章が、玄倉川さんという人の他者に対する倫理的な姿勢の「シンボル」として、私にとってはあるのです。そして、意を尽くすことに怠惰な冗長な悪文の私はそのことをサボッている、と玄倉川さんから指摘されているつもりでいるのです。勝手に。そして、hagakurekakugoさんとの対話が双方真摯でありながらすれ違うことも、私なりにわかるのです。おそらく、私との対話もすれ違うだろうことも。


感情的な馴致を拒否する玄倉川さんに対してそのような言辞を弄することは自粛します。感情的な馴致を拒否しそれに阿ることを批判し続ける玄倉川さんと、意見や立場や言葉に対する姿勢を異にすることは、それは当然のことです。私に限らず、誰であっても当然のことなのです。