表象は読み解かれなければならない


言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び


仰りたいことはわかりました。趣旨には同意です。「まとめ」の部分にはほぼ異論はありません。率直に言って、NaokiTakahashiさんのブログのコメント欄での応酬を拝見した限りは、もっと突っ込んだ議論を展開されるのかと思っていました。


「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」の表での流通が「人権侵害と認めるところからはじめ」るというのは、相当に強い議論です。DV等を見るまでもなく、児童虐待を見るまでもなく、そして人身売買を見るまでもなく、私的セクターにおいて、あるいは商行為の名のもとに、侵害されている人権の回復には強制力の執行を伴います。その強制力を市民は国家に付託しています。むろん数多の非営利団体が活動していますが、彼らは強制力もまた強制的な執行の権限も持ち合わせません。そうした社会を、私たちは選択しているし、私は「自力救済」を手放しに肯定しうるような認識をまったく持ち合わせていないので、そうした社会に賛成せざるをえません。


で、「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」の表での流通が♀の人権を侵害している、という議論が規制論へと行き着くことは当然のことです。tikani_nemuru_Mさんは「個別的な人権侵害」「構造的な人権侵害」と区別をしておられますが、その区別は俺定義と言わざるをえません。構造的な人権侵害は存在しますが、駄目なのは、そのことと社会意識のメッセージとしての表象を容易く紐付けする議論です。スターリンはその理屈を裏返しました。構造的な人権侵害の撤廃された社会の意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される、と。


この理屈はかつてソ連とその衛星国を席巻しました。構造的な人権侵害の有無と、社会意識のメッセージとしての表象を紐付けする教条的理論。その理論は、更に反転して、現在、消費社会のポルノに対して適用される。イリヤ・カバコフというロシアの現代美術家がいて、彼はソ連時代に絵本をものして生計を立てていましたが、過酷な検閲については苦々しく回想している。当局は絵本画家カバコフに対して「社会意識のメッセージとしての表象」を要求しました。もちろん、党公式見解において娼婦の存在しない、構造的な人権侵害の撤廃されたソ連社会の社会意識のメッセージとしての表象を、です。


イリヤ・カバコフ自伝

イリヤ・カバコフ自伝


議論の前提を述べますが、たとえば公安活動の問題とは、その強制力の執行が誰のため、何のために為されているか、ということです。国家や社会の風紀のためではないか、と。そして現実に業界に対して強制力が執行され続けてきた歴史がある。それは、♀の人権を侵害しているからではない。ヘイトスピーチで有罪判決を受けた人は日本にはいませんが、猥褻物頒布で有罪判決を受けた人はいます。法律があるから、というのが官憲と裁判所の言い分です。「立法の問題」です。


その前提を踏まえて、♀に対する人権侵害を主張するなら、その侵害されている人権を回復するための強制力の執行とその蓋然について論じることが筋と思いますが、たとえば摘発の歴史について知らない人が♀に対する人権侵害をヘイトスピーチ問題を引き合いにして規制の蓋然とセットで主張する。――tikani_nemuru_Mさんのことではありませんが。


「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」の表での流通が♀の具体的な権利を侵害しているなら、その侵害されている権利は救済されねばならない。しかしそうではない、というのが現在の議論で、そのことにはtikani_nemuru_Mさんも同意しておられる。人権とは個別具体的な権利に限定されうるものではない、ということがtikani_nemuru_Mさんの主張の趣旨と思いますが、また同意するのですが、個別具体的な議論の文脈においては、私としてはそのモチーフを支持するものでしかありません。というか、その主張と私への反論とどう繋がるのかわからない。差別が構造問題であることは当然です。私が散々書いてきたことです。


「構造的差別を前提にした人権侵害の娯楽的消費」を問題としている、と仰っていますが、その問題は「ある種のポルノ」に限定されうることではまったくありません。にもかかわらず「ある種のポルノ」を規制の蓋然までちらつかせて批判するのはなぜか、と私はそのことを問題としています。赤信号をみんなで渡ればいい、ということではなく、「ある種のポルノ」に限定して議論されることもまた構造的な差別とその反映であり、言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される社会的な意識の産物である、ということです。商業としてのポルノに対して精神論を説く人を初めて見ました。

よって差別とは

  • 具体的な権利侵害に対して、被害者が声をあげることが困難であり
  • 社会的な意識に左右され
  • その社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象されるもの、つまりは
  • 社会意識が大きな役割を演じる構造的な人権侵害


なのですにゃ。


というtikani_nemuru_Mさんが整理する事態は、「ある種のポルノ」の製作者やユーザーにも見事に当てはまっている、という話です。そのことについて、ヘイトスピーカーが不寛容にさらされることは当然、とtikani_nemuru_Mさんは言いますか。言わないと思います。そのように考えることは、私はまったく間違っていると思います。「ある種のポルノ」の製作者やユーザーを在特会と同列に扱うことと同じことだからです。それは、全然違います。


そもそもヘイトスピーチに対しても、私は山本弘とほぼ同じ意見です。トンデモ本には悪質なヘイトスピーチが書かれているものがゴマンとある。しかし、それを書店から駆逐すべきでは断じてない。たとえ宇野正美のユダヤ陰謀論八重洲ブックセンターに平積みされていたとしても――と。

felis_azuri  女性への暴力, 差別, コメントを参考にする 『「構造的差別を前提にした人権侵害の娯楽的消費」は当然、人権侵害ではありません』かぁ…。この人は『構造的差別』される側にいるのだろうか?

僕がどちらの立場にいるのかはこの議論にまったく関係がありません。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090527/p3


余計なことを書きますが、もちろん「エロゲ屋」は『構造的差別』される側です。「構造的差別」されているのは♀に限ったことではなく、「オメコの汁で飯食うちょる」♂も「構造的差別」されている。「オメコの汁」が二次元であろうが三次元であろうが。「二次元であろうが三次元であろうが」です。もちろん、人権侵害は救済されなければならず、市民社会の構成員である私たちは現実の差別を撤廃する責務を負っている。

人狩り」は問題にならんさ。問題になるのは「イエローモンキー狩り」「ニガー狩り」だよ。

もっとえぐい例示をしよう。
地震後に朝鮮人を見つけて虐殺するゲーム」「ユダヤ人・ロマ・同性愛者・障害者をかり集めてガス室に送るゲーム」なんてのはどうだ? 実際にあった虐殺、人権侵害の極限を肯定的に娯楽にするゲーム。
現実にあった人権侵害を娯楽的に消費するのは人権侵害には絶対にあたらない、というのが君の立場だということでいいかい?
人権侵害と道徳を切り分けられない典型的事例だと僕は思うのだが。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090527/p1#c1243406509


と、tikani_nemuru_MさんはNaokiTakahashiさんに対して問うているのですが、そのような「応用問題」を出して解かせるまでもない。『シンドラーのリスト』も『戦場のピアニスト』も『ライフ・イズ・ビューティフル』も「構造的差別を前提にした人権侵害の娯楽的消費」に決まっています。実際、そうした批判は『シンドラーのリスト』に対してありました。tikani_nemuru_Mさんはどう考えておられますか。


アカデミー賞を取っているから、監督がユダヤ人だから、ホロコーストを生き延びた人だから「娯楽的消費」ではない、という主張は「俺定義」の極みです。大当たりしている映画を観に行くとはそういうことなので、『グラン・トリノ』同様、少なくとも私は娯楽的に消費しました。娯楽的な消費が問題であり人権侵害なら、娯楽的に消費した観客がいたことは映画の問題でしょうか、製作者側の問題でしょうか、それとも観客の性根の問題でしょうか。


「反差別のメッセージを含んだ教育的な内容の映画なら娯楽的には消費されない」というのは、スターリン以外の何物でもありません。山田洋次の『学校』(初期のシリーズ)を「教育的な内容の映画」と思う人も世の中にはいるようですが「構造的差別を前提にした人権侵害の娯楽的消費」以外の何であるか私はさっぱりわからない。『GO』も『パッチギ!』も『月はどっちに出ている』も『ガキ帝国』も「構造的差別を前提にした人権侵害の娯楽的消費」そのものです。


私はそれらの映画を――『学校』はともかく――『ホテル・ルワンダ』同様に「娯楽的に消費」しましたが、『ホテル・ルワンダ』同様に素晴らしい映画と思います。流通から選択して、あるいは「選択させられて」消費することに変わりはないのに、つまり表現が商業的である際に孕む問題に対して、娯楽的な消費とそうでない消費を区別する理由が私にはわからない。商業を問題とすることは消費を問題とすることです。流通の問題に対してはゾーニングという暫定解が示されています。


tikani_nemuru_Mさんが主張する議論では、べつだん「ユダヤ人・ロマ・同性愛者・障害者をかり集めてガス室に送るゲーム」などという「えぐい例示」を挙げるまでもなく、『シンドラーのリスト』だって十二分に問題になりえます。「現実にあった人権侵害を娯楽的に消費」しているのだから。実際にそうした批判があった。「否定的に娯楽にする」のなら人権侵害ではない、とかいうスターリン理論を主張しておられるのでないなら。


ジャック・ケッチャムというのは私はエロ本と思っていましたが、人から文学と聞かされて驚きました。あれは私にとって普通に「ズリネタ」たりうるのですが、ああしたものがレーティングもされずに書店の扶桑社文庫の棚に並んでいることの青少年に対する悪影響を思うと夜も眠れません。もちろん、私はジャック・ケッチャムゾーニングに断固賛成しませんが、それは文学だからではありません。


もちろん、『シンドラーのリスト』が「ユダヤ人・ロマ・同性愛者・障害者をかり集めてガス室に送るゲーム」と同列に論じえないことは、『隣の家の少女』が「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」と同列に論じえないことは、自明です。それはリテラシーの問題であって、ポルノだ芸術だというカテゴリーとそれに基づく搾取の茶番ではない。リテラシーの涵養の問題を、構造的な差別の存在において「人権侵害」の結論を導き出すべく解こうとするから「娯楽的な消費」という話になる。カテゴリーで議論した挙句「ある種のポルノは人権侵害だが早見純には芸術的価値がある」とかいうのは、笑い話でしかありません。早見純は素晴らしい作家ですが、手前味噌な表現論においてポルノと芸術を対立させるための駒ではない。


ジャック・ケッチャムをエロ本と思う私のような読者もいれば、暴力と狂気について真摯に描いたアメリカ文学と思う読者もいる。広範な消費に伴う読解の多様性を前提に商業テキストは存在するので、「構造的差別を前提にした人権侵害」として表象批判を行うことは、読解の多様性を前提しないスターリン理論でしかない。端的に言うなら、環境の問題を表象の問題として批判することは時に筋違いです。そしてだからこそ、テキストの「広範な消費に伴う読解」が一定規定されるジャンルとしてのポルノはその規定性について問題視され表象批判の対象とされる。抜くために「女を痴漢したり強姦したり孕ませたり堕ろさせたりするゲーム」を消費しているのか、と。


ゾーニングがポルノに適用されてジャック・ケッチャムに適用されないのは、ポルノの実用性ゆえのことで、ケッチャムのように読解の多様性は前提されない。消費の文脈が用途において限定されるからこそ、ポルノはゾーニングされる。

【効果又は目的を有するもの】というところにスペシャル注目。

具体例としては、♀が結婚するときに限り退職金を優遇する措置は労働基準法4条の性差別禁止にひっかかるとかにゃ。この措置って、具体的な差別ではにゃーよな。退職金が多くもらえるんだから。しかし、この措置は「♀は専業主婦やっとけや」という「効果又は目的」を持つものと考えられるので、差別と解することは妥当だにゃ。

「男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする【効果又は目的を有するもの】」が性差別である以上、差別性・差別的、と差別、を切り分けることは不適当なのだにゃ。ここでは、差別的なものは差別であり、したがって人権侵害となるのだにゃ。



最初に僕は差別とは以下のようなものだといいましたにゃ。

具体的な権利侵害に対して、被害者が声をあげることが困難であり、社会的な意識に左右され、その社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象されるもの、つまりは「社会意識が大きな役割を演じる構造的な人権侵害」

この差別についての考え方と、女性差別撤廃条約の考え方とは同じものなのですにゃ。女性差別撤廃条約の前文からすべて読んでもらえるともっとはっきりするけれど。

言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び


女性差別撤廃条約には同意しますが、私が主張しているのは、「社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される」という前提に立脚して改良主義的に表象の是非を論じることがスターリン理論そのもの、ということです。「社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される」という前提に立脚してフィクションを論じることに、私はまったく賛成しません。


「社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される」からそのメッセージを市民レベルで操縦しよう、という発想をフィクションに対して適用することにも賛成しません。「社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される」という前提に立脚してポルノを論じることは容易いでしょう。その商業的堕落を指弾して表現者の心意気を叱咤激励することも。ところで触手ってご存知ですか。あれはどのような社会意識のメッセージでしょうか。表現論については了解しましたが、フィクション論についてtikani_nemuru_Mさんはどう考えておられるのか。


ハリー・キャラハンの振舞いと台詞に言論や表現とその流通のあり方をメッセージとして表象された社会意識を見た人は、当時のアメリカに大勢いました。馬上のナポレオンに時代精神を見た哲学者のように。それは間違っていません。そして、その表象された社会意識を批判した人も大勢いました。それは――ジョン・ミリアス的に考えても――あるいは当然のことです。しかしながら困ったことに、クリント・イーストウッド本人がその表象された社会意識において糞味噌に批判されたのでした。それも致し方のないことで、作中人物と本人が混同される程度にはイーストウッド演じるキャラハンは格好良く、一世一代の当たり役となったのですから。そしてイーストウッドは作中人物と本人を混同された挙句に自らに浴びせられた批判について「自分の頭で考えつづけ」て、『グラン・トリノ』へと至る。


「社会意識が大きな役割を演じる構造的な人権侵害」に対する問題意識から「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」を批判することは、警察の無法を批判するために『ダーティーハリー』とその観客を批判するようなもので、間違ってはいませんが、鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いんの部類です。というか、以前に村上春樹について述べたときも書きましたが、普通に警察の無法を批判したらいいのではないですか。あるいは表現論に基づく商業主義批判は一向構いませんが、しかしフィクションに対して人権侵害の四文字を主張するなら、論ずべき「応用問題」は山とある。「ユダヤ人・ロマ・同性愛者・障害者をかり集めてガス室に送るゲーム」などという表に存在しないだろう架空のフィクションの話ではなく、『悪魔の詩』の問題から始めましょう。佐藤亜紀はそこから始めています。


ハリー・キャラハンの振舞いと台詞に言論や表現とその流通のあり方をメッセージとして表象された社会意識を見る人は、強姦されてよがる女のゲームに言論や表現とその流通のあり方をメッセージとして表象された社会意識を見るのでしょう。『ダーティーハリー』は全世界的に大当たりしましたが、強姦されてよがる女のゲームはどうであるか知らない。ポルノであることを理由に読解の多様性を顧慮しないならそうなるでしょう。読解の多様性について、ユーザーの証言はブックマークコメントでも出揃っています。読解の多様性を捨象するなら、表象された社会意識において人権侵害と断定しうることでしょう。


私がtikani_nemuru_Mさんと意見を異にするのは「社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される」と考えず、社会意識は言論や表現とその流通のあり方をメッセージとした表象に対する読解の文脈として反映される、と考える点です。よって、読解の文脈は多様であればあるほどよい。


「男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする【効果又は目的を有するもの】」が性差別である以上、差別性・差別的、と差別、を切り分けることは不適当なのだにゃ。ここでは、差別的なものは差別であり、したがって人権侵害となるのだにゃ。」言い切っておられますが、川端康成は人権侵害という話ですか。永井荷風は人権侵害ですね。夏目漱石も人権侵害です。源氏物語千年紀などとんでもない話です。あのような人権侵害の極地のごとき物語を千年前ならともかくこの21世紀にもてはやすなど。――実際、橋本治はその問題意識から現代語訳と称して『窯変源氏物語』という長大な「リライト」を行いました。川端や荷風漱石や源氏は糞、そう考える人は幾らもいます。それを人権侵害と指すなら、新潮社は早急に対応を迫られることでしょう。


川端は荷風漱石は源氏は人権侵害、そんな話は通るはずもないのですが。なぜ通らないか。文学だから、ノーベル賞作家だから、千年前の作品だから、ではない。読解の歴史があるからです。読解の歴史に耐えるのが古典ということです。読解の歴史の結果として多様な読解が保証されているがゆえに、その差別性は差別たりえない。


よって、強姦されてよがる女のゲームが古典たりうるかは知りませんが、その差別性を差別たりえなくするためには、「対抗言論や自主規制などで、あるいは作品そのものの力と作品の読み解きなどを通じて、差別=構造的な人権侵害を容認しないというメッセージを出しつづける」ことよりも、第一に、読解の多様性を保証することです。私はそう考えます。そしてその読解の多様は、現にブコメ等で散々指摘されている。そしてそうした読解の多様こそが、社会意識の反映とその肯定性としてある。


最悪な社会意識とは、言論や表現とその流通のあり方をメッセージとした表象の読解の文脈が単一に限定されていることです。それは端的に言って甚だ不自由な社会で、構造的な人権侵害の撤廃を目指したスターリン理論の帰結として、ソ連とその衛星国では普通にあったことでした。構造的な人権侵害の撤廃を目指すことは素晴らしいことです。しかし、それを「社会意識は言論や表現とその流通のありかたをメッセージとして表象される」という理論と一致させて考えたとき、表象の読解の文脈が限定される社会が生じる。構造的な人権侵害に立脚した、表象の読解の文脈的な限定は、まったく社会意識の向上に役立ちません。スターリン的な国家主義者が増えるだけです。


なので、私は、ポルノがポルノであることを理由として、あるいはある種のポルノがある種のポルノであることを理由として、構造的な人権侵害に立脚して表象の読解の文脈を限定することに、まったく賛成しません。「差別的なものは差別であり、したがって人権侵害となるのだ」という主張には、同意できません。女性差別撤廃条約においては、性差別のスタンダードな定義においては、源氏物語千年紀は人権侵害である。tikani_nemuru_Mさんが主張しておられるのは、そういうことです。橋本治は、確かにそのように言いましたが。


社会意識は表象読解の文脈とその多様性において規定される。社会意識について議論する際、私たちは、文脈とその多様性について議論すべきであり、よって「女を痴漢して強姦して孕ませて堕ろさせるゲーム」だから問題、という話では第一義的にはない。にもかかわらず、こうした「ある種のポルノ」をめぐる報道とそれに体よく釣られた議論は必ずこうしたセンセーションが先行する。第二に、表象読解の文脈を「ポルノ」というカテゴリーにおいて限定してしまうべきでない。東浩紀の、伊藤剛の、本田透の議論はそのために展開されました。表象読解の文脈を「ポルノ」というカテゴリーにおいて限定しないためのタームが「萌え」であり「キャラ」でした。そしてその仏には魂が入っていた。抜くための表象がそもそも問題なら「ある種のポルノ」も糞もない。第三に、表象読解の文脈はフィクション論を含む。表現論はむしろ要らない。


たとえば、山田風太郎忍法帖は、そのベストセラーと再三のリバイバルと現在に及ぶロングセラーは、人権侵害か。あれで抜いた男は山といました。現在もいる。古典読解の歴史をナメてはいけない。風太忍法帖読解の多様な文脈において「性差別」の三文字はほぼ希薄化している。私に言わせれば、「差別的なものは差別であり、したがって人権侵害となるのだ」と表象に対して言明することは、あまりに杜撰な議論でしかない。


我が闘争』は日本で普通に発売されていますが、人権侵害ですね。角川書店は猛省すべきです。そうではなくて、『我が闘争』が日本で普通に発売されているのは、その読解の文脈がドイツならびに欧州のようには限定されていないからです。欧州はその不幸な歴史ゆえに『我が闘争』読解の文脈が限定されている。きわめて政治的な書物がその震源地において読解の文脈が限定されることは致し方ないことで、日本も例外ではない。


我が闘争』は言うまでもなく第一級の差別文書ですが、日本ではその読解の文脈が限定されず多様であるがゆえに、たとえばトンデモ本のようにも読みうるし、その読解の多様性が書物の無害化に貢献している。それは別に褒められた話でもなく、日本の暢気と能天気を証明しているだけかも知れませんが。


表象は読解とその文脈に左右される。ゆえに、表象の差別性を論じる際は当該表象の読解の文脈とその多様性とセットで論ずべき。表象に対して構造的な人権侵害を問題とするなら読解の文脈とその多様性を前提すべき。表象と読解は対としてあるのだから、そしてその対の多様性が、自由な社会ということの意味だから。以上が私の立場であり主張です。「それが差別であることと、差別的であることは、違う。前者は人権問題だが、後者は表象の問題だ。」という記述の意味です。読解の多様性に基づく表象批判は存分にされるべきですが、読解の文脈を限定する表象規制は断固されてはならない、構造的な人権侵害を問題とするならなおのこと、というのが私の見解です。


tikani_nemuru_Mさんのことではありませんが、「エロゲは差別的だから規制されて当然」とかいうすさまじい議論を見かけたので、それは違うよ、と。付け加えると、これもtikani_nemuru_Mさんのことではありませんが、規制の蓋然をちらつかせてエロゲの差別性を云々する人をやたらと見かけたので、強者の論理ですなぁ、と些か呆れて。規制の蓋然をちらつかせて表象の差別性を論じる。それは、駄目な議論どころか最低な議論です。表象の差別性は規制の理由にはならない。少なくとも私は認めない、と書きました。「差別的なものは差別であり、したがって人権侵害となるのだ」というtikani_nemuru_Mさんの主張には同意できません。


色々と書き落としていることがあるけど、たぶん続くのだろうし、それは次で。最後に。

リンク先のNaokiTakahashiのコメント欄の議論では、差別問題=道徳問題には配慮しなければならず、自主規制もその文脈*2で語られているにゃ。

ここも気にくわにゃー。

エロゲーを愛してるんだったら、道徳なんかで自主規制すんなよ。

道徳というコトバは多数派の恣意的な思いこみの正当化として使われることが多いのだにゃ。だから、道徳への配慮ってのは、要するに「長いものにはまかれろ」「表面的なとりつくろい」っていうことにもなるわけにゃんな。表現者はそんなもんに尻尾を巻いてはいけにゃー。



表現者は道徳なんかに尻尾を丸めてはならにゃーが、しかし、構造的な人権侵害には配慮する必要があるのだにゃ。表現内容ならびにその流通の形態は、差別意識の表象であり、社会へのメッセージともなるにゃ。構造的な人権侵害を避けようとするところに自主規制の必然性というものがでてくるのですにゃ。表現としての必然性と構造的な人権侵害への配慮からゾーニングなどの自主規制がでてくるのであって、単なる妥協の産物などではにゃーと考える。



すべてのポルノが差別的であり*3作品そのものは構造的な人権侵害となりえるとして、よく練られたゾーニングなどの自主規制は性差別を一般に流布しないというメッセージともなりえるのではにゃーだろうか? 

あるいは作品そのもののもつ力と差別性の比較考量という視点もあるよにゃ。具体的な被害者がいにゃー人権侵害というのは事実なのだから、比較考量するというのもありえるわけですにゃ。愛好者による批評空間をつくって、作品を多面的に評価していくのもよいでしょうにゃ。エロゲだって性差別だけで成りたっているわけにゃーからな。

言論・表現への法規制に抗するために - 地下生活者の手遊び


余計なお世話ですが、第一に、ポルノを愛しているから自主規制するんです。同人でなく商業なので。第二に、商業と表現の二元論は、本気で言っておられるのなら杜撰な議論です。「表現内容ならびにその流通の形態は、差別意識の表象であり、社会へのメッセージともなる」からそのメッセージ性に配慮せよ、というのは正論ですが、なぜ「ある種のポルノ」に限ってそれを言うのか。イーストウッドは「メッセージ性に配慮せよ」と散々言われてきました。確かに彼は配慮してきました。しかしそのことは「メッセージ性に配慮せよ」と言ってきた人たちの手柄でも「計画通り」でもない。第三に「表現としての必然性」を商業に対して問うことは微妙です。


構造的な人権侵害を問題とするなら、読解の文脈を限定するがゆえに駆逐さるべきポルノは山とあるだろう。「ある種のポルノ」に限定して駆逐されるのは、要は、一番ラディカルな奴を叩く打ち上げ花火でしょ? と言わざるをえません。社会反映論に基づいて、フィクションに対して反差別のメッセージを「期待」することは、話が逆であり、「教育的フィクション」を要求するスターリン理論と大差ない、と私としては言わざるをえません。「期待」する主体が市民であったとしても――むろん「期待」することは自由でありそのモチーフは支持するものですが――無理筋な要求と考えます。市民が反社会的なフィクションに対してすべきことは、読解の多様性への回路を開くことです。つまり、存分に批判することです。それが、自由な社会のセオリーです。