名前のない森はない


2009-04-22


goldheadさんに対する批判とか異論反論ではまったくないと断りますが、というか、いつも文章に感嘆していますが、拝見して思ったので。酔っ払った父親が出生届に『八五郎』と書こうとして『×五郎』と書いてそれが名前になったのは『もーれつア太郎』のユーレイ×五郎。


以前も『痛いニュース(ノ∀`)』の似たような記事に「俺が人事担当だったらこんな名前の奴は即落とすわ」「営業に来た奴がこんな名前だったら切れるわ」というレスがあった。それを、ニュー速+のニートの与太とは言い切れないから深刻で。当人でなく親とその縁戚関係を問う、端的に言ってそれは差別の温床たりうる。「止める縁戚がない」「止めうる関係に縁戚がない」ことまで見込みは及ぶ。20年前のことであっても関係ない。


現在「在日」の通名はこの種の就職や就業にまつわる差別問題の暫定解としてあるので、社会的不利益を社会的に是正するための措置の正統性を国家の条件から問うてethnicityの国家的非正統を強調することには私はまるで同意できない。通名問題とDQNネームの問題は、差別の背景において同じことで、その差別を「親の因果が子に報い」と説明しがちなことも同じこと。


「親の因果が子に報い」ではなくて、実際は「親の歴史的背景が子に報い」。報いるのは社会で、私たちが歴史的存在であることに社会が否応なく報いてくるから、歴史的存在であるところの私たちは報いなき社会を、つまり差別の是正を、市民合意として指向する。そして、否応なく報いてくる社会に対して、自身に否応なく存在する歴史的背景を隠さざるをえないこともある。


通名とはそのことなので、個人が歴史的存在としてあることに否応なく報いる社会に対して、参政権において市民合意の責務を負う私たちが、「在日」の通名使用を一般論として咎めるなら、それは幾重にも間違っている。


痛いニュース(ノ∀`) : 【論説】 読めない名前(暴走万葉仮名)の女子学生が多い大学は偏差値がね、ちょっとアレなのです…呉智英 - ライブドアブログ


呉智英先生述べるところの暴走万葉仮名DQNネームを囃す風潮に私が閉口するのは「親の因果が子に報い」のつもりで「歴史が個人に報い」を肯定してしまっている点。確信犯的ポストモダニスト(「封建主義者」ってのはそういうこと)であるところの呉先生にはマルクス主義的な意味での歴史は存在しないので致し方ないが、しかし現実に歴史は個人に報いている。


親と一族郎党が背負って命する名前とは歴史そのもので、そして歴史は子に報いる。個人が個人でなく歴史的存在であることを市民社会において刻印する。肌の色のように、一目瞭然にわかりやすくはなくとも。リテラシーとは、表層の背景に地層として存在する歴史を読み解くことで、それがすれっからしになると呉先生のようなシニシストになる。


固有名詞は表層において記号だけど、実際は歴史そのもので、歴史は地層として読み解かれなければ存在しないが、そのリテラシーはこの共同体社会では未だ広範に共有されている。そして、共有されるものとしてある歴史は個別性と親和的な概念ではない。つまり、個人の個人性を抑圧するものとして本来的にある。だから投企が実存主義が奨励されたが、少なくともサルトルのそれは弁証法だった。


名前が年代物とは、表層の背景に地層として存在する歴史の問題で、平々凡々な私の名前は30年物ではなく、もっともっと長い。百姓だった御先祖が名字を得るより、更に長い。文化伝統の話をしているのではもちろんない。


DQNネームにおいて、肌の色のように一目瞭然としてある表層としての「親の因果」は、歴史を「個人」において断ち切りながらその実自身の歴史を子に継いでいることの問題で、もちろんその点では「在日」の通名問題とは違う。しかし、歴史が個人に報いる社会の制度は、個人が個人として歴史を断ち切ることにおいては掣肘しえない。市民合意とは、歴史が個人に報いることに対する掣肘の合意のこと。


呉智英先生は当該のコラムでもちろん「家柄」の話をしている。私が思うに、暴走万葉仮名を子に命する親は、そう意識せずとも、歴史が個人に報いる共同体社会に対する抵抗としてそうしているのだろう。そこには、歴史が個人に報いることのババを引いた個人の認識があるだろう。個人であるとはそういうことで、それを有体に「家柄に恵まれなかった」と言い換えることは必ずしも正しくはない、が。


芸名にせよ筆名にせよハンドルネームにせよ、歴史が個人に報いる社会の制度に対する抵抗としてそうしているし、準匿名言論者の私たちもそうしているはず。「柴咲コウ」が「柴咲コウ」として生身の人間として共同体社会にあることは、大変なことであり、そこには強い意志があり、それが芸能人という存在とその意味でもある。


個人に報いる歴史とその現前としてある共同体社会に対する抵抗として、愛する我が子に暴走万葉仮名を命する親に「因果」を問うことの是非は措く。その因果が親個人に由来するのは、個人に報いる歴史とその現前としてある共同体社会に対する抵抗のささやかな成果だが、国家の正統と同義としてあるナショナリストの市民合意は「在日」の通名に報いるごとく、現在形の共同体社会の現前をもって歴史の報いと偽装するので、そのような非歴史的な視座において、親個人の因果の報いは、子に対する歴史の報いとして市民合意の名を借りて決済される。


それをして差別と意識されない差別と言うので、つまり暴走万葉仮名を「親の因果」として堂々囃すことは、個人に対する歴史の報いを肯定する差別の一貫でしかないので、それが駄目とは必ずしも言わないけど、歴史の負の螺旋の車輪としてあることくらいは自覚したほうがよい。少なくとも、余所の親の因果を子に同情して囃している限りは――その同情が本心であっても。


私が気になるのは、たとえば在特会もまた「親の因果が子に報い」のレベルで主張を展開していることで、それはカルデロン一家に対しては顕著だった。そこには歴史がない。その地層を読み解く意思も、リテラシーも。歴史が存在しなければその脱構築もありえない。存在しないものは批判することもできない。そして主観的に存在しない歴史こそ、暴走万葉仮名を子に命する親と等しく、歴史の負の螺旋の車輪を担っている。そのことを、弁証法の発案者は「理性の狡知」と読んだ。


地層を読み解く意思もリテラシーもない者が表層に依拠したとき、通名は国家の正統性の問題になる。ナショナリスト乙、と言って済ませるべきでないのは、地層としての歴史が存在しないとき表層としてしかし暴力装置の実体として現前する国家は容易にリヴァイアサンたりうるからで、そして歴史の地層は読み解かれなければ表層としてしか存在しない、つまり現在形の共同体社会に担保された制度的な国家の幻想としてしか存在しない。


そして歴史が存在しない国家の幻想は、ただ制度にのみその正統性を要求する。かくて法が国家の正統性としてあることと、国家の正統を法の問題として主張することが、同じことになる。で、なぜか「国家の正統性」において個人が攻撃されている。


中野翠だったか、自分は20代の頃、固有名詞としての人名の登場する小説が読めなくて、登場人物が男も女もPだのQだのLだのとアルファベットで表記されている安部公房倉橋由美子の小説を貪り読んでいた、と書いていた。中野氏は1946年生まれ。


中野氏より11歳年長の倉橋由美子は生前――たとえば高知の歯科医の長女という――共同体≒社会的背景を背負った歴史的存在としての「倉橋由美子」という自分自身から逃れるべく「倉橋由美子」としての生活と別個に(「非世界」でなく)「反世界」の小説を指向してきた、と述べている。そのような感覚を、否応なく持たざるをえない時代があり、世代があり、戦後60年、もはや共に還らず――幸か不幸か。


むろん、安部氏も倉橋氏も、カフカの圧倒的な影響を受けている。カフカの小説に登場する名前のない主人公は、名前を打ち捨てたのではなく、名前を奪われた存在だった。作家自身の切実な認識において、名前を剥奪された存在として主人公はあらねばならなかった――現在の村上春樹と同様に。


カフカという先人の作家的必然を方法論的に、抑圧として存在する、言い換えるなら重く鬱陶しくて仕方がない自身の社会的/歴史的/政治的身体の脱構築のために利用したのが安部氏であり、倉橋氏であり、その小説を愛読した中野氏であり、初期の村上春樹だった。


社会的/歴史的/政治的身体としてある「名前」の脱構築を当初企図して、やがて、その望むと望まざるとにかかわらない剥奪というカフカ的な認識へと至ったから、村上春樹は現代の世界的作家たりえたし、それはクラークからイーガンへと至る現代SFの歩みだった。


そして、フィクションならざる現実において、望むと望まざるとにかかわらず名前を剥奪されたはずの「私」はその背景において歴史の報いを受ける。報いが市民の合意なら、そりゃ壁と卵と春樹も言うだろう。否応なく剥奪された名前さえ政治的身体ある限りその背景において歴史の報いを受ける。その、奪われた個人の名前と報いを与える国家主義者の市民合意の徴として、DQNネームに対する諸反応は、暴走万葉仮名に対する嘲笑は、つまり歴史なき世界における命名の困難は、あるのだろう。ユダヤ系作家フィリップ・ロス浩瀚かつ圧倒的な小説に描き尽くしたような「人間の穢れ」The Human Stainとして。


ヒューマン・ステイン

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