「普通のこと」をめぐって


痴漢の問題と冤罪の問題は違う、と1年以上前に書いた。後者は第一に捜査機関ならびに司法制度の問題で――最高裁判決を受けて吟味抜かるなと警察庁の達しが出たそう――冤罪問題を男女問題として解いて魔女狩りに繋がらないはずがない。ただ、前者は男女問題かも知れない、と思う。一連のエントリを拝見して、そういえば、と思い出した。つまり忘れていたのだが。


http://d.hatena.ne.jp/more_white/20090420/1240154871

http://d.hatena.ne.jp/sgnfth/20090420/1240182421

http://anond.hatelabo.jp/20090420215113


以前、交際相手に痴漢についてどう思うか突然訊かれた。けしからんことですね、と棒読みで言ったら、真顔で睨まれた。少し困った。その人は当時――付き合い始める前のことだったと記憶する――高校生だったのだが「女学生が痴漢に遭うのは日本では普通のこと」とかわかりきったことを言うべくもない。選挙権も被選挙権も持つ大人として立つ瀬がない。


なお「女子未成年者が痴漢に遭うのは日本では普通のこと」はわかりきった自明の前提と思っていたので、どうやらわかりきった話でも前提でも共通了解でもなかったらしいことに素で驚いている。


棒読みはやめて言った。貴方はまったく悪くない。状況を聞くまでもなく、あらゆる点で、貴方に咎も落ち度もないし貴方の責ではない。犯罪と認められている暴力の被害について、貴方が自分を省みることも責めることも話が間違っている。そして貴方が自分を責めたとしても、苛んだとしても、貴方は間違っていない。そういう話をした。一般論でもあるし、その人に対して思ったこと。


「大きなお世話」と思いつつも、付け加えた。他人の暴力に恐怖を感じることは恥ずかしいことでも屈辱的なことでもない。そのことに屈辱を覚えることは、致し方ない。そしてそのことが冷たい怒りと憎悪に転化することも致し方ない。ただ、他人の暴力に恐怖を感じることを恥じる必要はない。筋合もない。それは普通のことで、殊に弱者に対して、その普通のことに付け込む奴がいるのも普通のこと。


「だから」強くならなければならないか。違う。強さとは、普通のことを認めることで、普通のことを普通のこととして分かち合える相手を持つことで、普通のことに付け込む輩の権力的な発想を軽蔑すること。暴力に恐怖することそれ自体は、何も恥ずかしいことじゃない。でも、人はそのことに屈辱を覚えて、屈辱は怒りと憎悪へと転化する。そのこともまた普通のこと。恥ずかしいことでも何でもない。


普通のことを「弱さ」と見なす思考回路の権力が諸悪の根源なので、そのことに付け込むのが性犯罪者で、それも子供のような弱者に対して付け込む地中海家父長制的価値観に鑑みても論外の手合であって、そして暴力に感じた恐怖と屈辱から発する怒りや憎悪までひっくるめて、くだらない一般論で裁かずに見ていてくれる人を持っていればよいので、だから人は友だちや恋人を欲するのではないか、と、理路整然と言ったわけではないが、大意、そのようなことを言った。「及第」だったのか、事情を聞いた。


私が忘れていたのはつまり忘れたかったからで、それは、ガキの頃の私自身が誰かに言ってほしかった言葉だったことに気が付いていたから。「何も恥ずかしいことじゃない」と「普通のこと」と、私に言う人はなかったので、それが恥ずかしいことでも何でもないと、普通のことと、20歳を過ぎるまで気が付かなかった。それを「弱さ」と、「強くなれ」と言われ続けてきた私は思っていた。10年は前の話だが。


「強くなれ」と言われ続けて殴られてきたからか、わかりやすくパブロフの犬というか、私はそういうことに対して微妙な距離感を持つようになった。私はきわめて加虐的な嗜好を持つので、フィジカルに傷付けたり傷付けられたりすることについてどこか麻痺してしまった。しかし一方で、私には暴力への恐怖が今も根強くある。だから私は危ういようで奈落には落ちない、保身に長けた臆病な人間なのだろう。こういうのを、父性の規律と言う。


暴力への恐怖を他人の眼に見るとき、刻み込まれて自分自身と区別が付かなくなった、自らに向けられた暴力に感じたかつての恐怖を思い出す。それを愛と認識して育った私は、思い出したときの嫌な感触がしんどいので、他人に暴力を行使するどころか触れることさえ意識して忌避する人間になった。思い出すのは、つまり私がそのことを、自分自身の中にある、ガキの頃に植え付けられただろう暴力への恐怖を、今なお認め難く思っているからだろう――それが私自身であることを含めて。


「強くなれ」。そして私は、自分が男であることに疑問を持たない男になった。時々そういう自分が嫌になる。それは、暴力への恐怖を他人の眼に見るときに常に思い起こされることで、だから私は他人の恐怖について詮索したがらない鈍感な人間になった。我が眼の恐怖を見たくないから。他人の眼に恐怖を見ることも、我が眼の恐怖を認めることも、何も恥ずかしいことではないのに。眼に恐怖を宿すことは、普通のことなのに。そのことを納得するために、私は一時スティーヴン・キングを貪り読んで、イーストウッドの映画を山と観た。


それが恥じる必要も筋合もないこと、普通のことであること、それを認めたいのは私だった。そのことに改めて気が付いたので、交際相手には勝手に感謝している。私はその人に伝えるつもりで、自分に言い聞かせていた。ダシにしたようなものだった。「女子未成年者が痴漢に遭うのは日本では普通のこと」と冒頭に書いた。そのわかりきった最悪の前提のうえで、暴力の恐怖が道標する個人史の再生産は避けたい、と私は思う。


「何も恥ずかしいことじゃない」と「普通のこと」と言ってくれる人は私にはいなかった。10代に、恐怖が屈辱に転化し憤怒と憎悪へと転化するお定まりのコースを私も辿った。そのことは致し方ないかも知れない。ただ、その憤怒と憎悪を人間同士として分かち合う相手も、緩和しようとする言葉も、私にはなかった。自ら求めて友を求め本を読んだ。異性には求めなかったのが心ないと言われた当時の私だった。今も心ないだろうけど。


分かち合うことが必要で、緩和する言葉が必要と私は思う。いちおう自分が責任を持たざるをえない異性から直で問われるとわかるものだが(そうでないとわからないとも言える)、その眼の恐怖は男性全体への不信へと容易に転化しうる、というか一直線に滑走している。


だから、もちろん分かち合うことも緩和することも無理なのだが、男性である限りにおいて、分かち合おうとする意思が必要で、緩和する言葉を探さなければならない、と思う――おためごかしでなく。分かち合おうとする意思について私が真正と思うのは、私が書いている私の話もまた「普通のこと」と私が思っているから。「強くなれ」という規範において男性の都合が女性の都合を裁断するのでなければ。


男性の都合とは「強くなれ」という規範において育つことで、そのことを苦痛な抑圧と思って、しかし我が眼の恐怖から目を切っている男性の存在は「普通のこと」と私は断言する。そしてヒゲサスペンダーのマッチョが牽引する現代社会の問題は「強くなれ」という男の規範が女性に対しても平然と適用されることで、それをもって男女平等とほざく勘違いも枚挙に暇がない。


そんなのは無理なんだよ。男性だって無理なんだから。みな知ってるだろう? 私も無理と知ってもう10年、メンヘルになったりしながらも、そして相も変わらず男社会で生きているが、生き方と価値観を自分なりに調整してきたつもり。


性差とはsexでなくgenderの問題とつくづく思う。男らしく生きることを、つまり暴力がもたらす恐怖に個人として打ち克つことを、躾けられて男性は育つ。そして、「うん、それ無理」と知る現在、公然と主張される女性の都合を手前勝手と見る。そして「強くなれ」と言う。「男性も」そう言われてきたのだから、と。


「男性も」ではなく「男性が」なのだが、しかし当事者たる男性はそのことに気が付かないのが現在の風景。そして、やれ「自衛」だの、触られたくらいのことで過剰に反応するようなことは自重せよ、とかいうすさまじい話になる。強さが個人の価値と、私も自分自身についてはそう信じて20年生きた。で、メンヘルになってカウンセリングへ。xevraさんの仰ることは半分だけ正しい。


性暴力被害について「矢鱈と告白されても困るのでカウンセリング逝け」と示唆するコメントがあった。そのようなxevraさん的な処理が、心と調和した個人であることを留保なく謳う男の規範の詐欺だろう。男女問題に対する男性側の責としてでなく、人間同士として分かち合うべく意思することが、そして対性的な不信を緩和する言葉を探すことが、男性において求められるのではないか。


なぜかといえば、男はなべて加害者だから、ではなく、暴力に恐怖することは、そしてそのことに覚えた屈辱と怒りと憎悪が加害当事者とその政治的な背景に対する不信へと帰結することは、「普通のこと」であって、何も恥じることではないし、弱いことでもないから。そして強さとは、普通のことを普通のこととして分かち合い、恥じる必要も筋合もないことを認め合うことによって、尊厳を取り戻し、その尊厳の場所に、恐怖に付け込む矮小な権力の発想を立ち入らせないことだから。


うん、それ無理」の理想論の部類だろう。しかし「強くなれ」の無理を知る現代の男性が、男の規範に対する不信を女性の都合と裁断して「強くなれ」とのたまうなら、その、男であることを要求される社会的動物の悲鳴は、悲鳴であるにもかかわらず、分かち合う回路をオシャカにすることにしか役立たない。つまり、誰得。「普通のこと」とみな知っていると私は見込んでいる。


当然「普通のこと」とは暴力に恐怖することで、痴漢のことではない。痴漢を普通のことと見なして暴力に恐怖することを普通でない弱さと見なす気違いが、男の規範として未だスタンダードなら、そのような詐欺の普通をこそ拒否するために、暴力に対して感じた自らの恐怖を外形的にせよ分かち合うことが、そのことを普通のことと相互に確認することが、形式であれ必要と思う。


そして、TB先のことではないと断るが、増田に書かざるをえないことの理由を顧慮せず増田での「告白」を留保なく慶賀する発想は、満員電車の匿名性に依拠して「我慢」を結論するその議論と、同じこととしてある。名前と顔を持った加害者と被害者がいる、そのことから始めるよりほかない。多くの加害者と、はるかに多くの被害者が。むろん、冤罪被害者についても。


わが目の悪魔 (角川文庫 赤 541-3)

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